二章 魔法使い (1)

「旦那様、やっと見つかりました」

「遅い! で、どこにいる」

「コートデュー行きの切符を買ったそうです」

 コートデューという街の名を聞き、ニゼア氏は「あんな田舎に!」と頭をのけぞらせた。夫人とは連日口論を続けていたが、離婚の話までニゼア氏が持ち出したため、夫人はついに大人しくなった。

 しかしニゼア氏が脅しでも何でもなく、本当に夫人と別れるつもりであるとは夫人はいまだ知らないのである。

「連れ戻してこい! こちらもそれまでに用意を整えなくては」

 執事のレイヴンはかしこまって返事をしたが、部屋を出るとへきえきしてため息をいた。

「悪いな。ルシル」

 ポツリとつぶやかれたレイヴンの言葉は、誰の耳に入ることなくバタバタとせわしなくしている使用人たちの足音でかき消された。


『お洗濯ものはこちら』

 次の週のある朝、貼り紙をした籠に白い塊が入っていた。先生の衣類は黒ばかりなので、服ではない。

「あ、お布団シーツですね」

 朝食が終わったら早速洗うことにする。毎日ぽかぽかなので、すぐ乾くだろう。洗濯物はこうして決まった籠に入れてもらう決まりになっている。いや、した。

 私が思い付きで貼り紙を作れば、次の日から先生はその通りにしてくれる。籠に枕カバーが入っていたのを見たときは思わず笑ってしまった。

 こちらの都合に合わせてくれるのはうれしいのだけれど、気になるのはここに持ってくるまでの過程を先生が自分でやっているということ。

 私としては許されるならば部屋の掃除も、シーツの交換も、換気だってしたいのだが、先生が嫌がるのだから仕方がない。

 先生の個人空間(二階)は暗黙の了解で私の不可侵領域となっている。

 ここに来てすぐのこと。掃除道具を持って二階に行こうと階段を上りかけたところで、何をどう察したのか先生が現れ、手を前に突き出して私の進行を制し、「不要」と告げてきた。

(線引きが難しい)

 基本的に偏屈だと思って接している位が丁度いいのかもしれない。とは思っても、私が貼り紙をしたらその通りにこうして洗濯物籠にシーツを入れていたりするのだから、決して完全にひねくれているのではないのだろう。

「こういうところがちょっと可愛かわいいんだよね」

 籠に入れられたシーツを見て、口元が緩む。先生という人のことが段々と分かり始めた気がして嬉しかった。


 そんなある日。家の掃除を済ませ、洗濯物を干し、庭仕事を終えて花瓶に生ける野花を摘んで戻ったリビングが、いつもと違っていた。

「……!!」

 普段は無人のはずのリビングのソファに先生が横たわっていた。

(え!? え!? 何がどうしたの!?)

 家主がどこで何をしていようと私には関係のないことなのだが、いつもきっちり同じ生活を繰り返す先生なので、心底慌てた。そもそも日中一階にいることがない。

 そろそろと横移動し、遠目に様子をうかがう。

 先生は目をつぶっており、ソファからは腕が力なくダラリと落ちている。私の全身から血の気が一斉に引いた。

『旦那様!!』

 頭の中に声が響く。よみがえった記憶は止めることができず、脳裏に映し出される。あれは私が最初に勤めたお屋敷だった。

『大変! 旦那様が!』

 自分でも驚く程高い声が出た。バリン、と手に持っていた水差しが床に落ちて割れた。

 長閑のどかな日だった。が差して柔らかな光に包まれた部屋の中、旦那様は一人静かに倒れていた。

『誰か来て!』

 悲鳴を上げる私と、苦しそうに床に伏す旦那様はまるで下手な芝居でもしているようだった。私の慌て様が滑稽に見える程──あの日は穏やかで。そう、今日の様に。

 私は嫌な光景を頭を振って払い、急いでソファに近寄った。

「先生っ……!」

 私が声をかけると、先生は僅かに目を開け、そしてものすごく不機嫌そうに顔をしかめた。

「……何だ、この手は」

「い、いえその……」

 呼吸があるかどうかを確認するために先生の口元に寄せた私の手を、先生は非常に邪魔そうに避けた。

 むくりと起き上がり、先生は私をジロリと見る。

「死んだと思ったか」

 低い声にギクリとする。気まずくて目をらした。呼吸確認までしたのだ。おっしゃる通りである。

 床に座り込んだままの私をに、先生はソファから降りて立ち上がる。何を馬鹿なことを、とあきれただろうか。階段の方へと向かう先生をそろりと振り返れば、先生はかがんで何かを拾っていた。

「あ……」

 先生が手に集めていたのは私が無意識に手放した野花だった。先生は無言で野花の束を私に差し出す。私は両手を出してそれを受け取った。

「君から見れば相当なジジイだからな」

「……」

 先生は淡々とした様子でそう言うと、階段をいつもの通りに上っていく。

 私はというと、その場から動くことができなかった。さっきの先生の言葉がチクチクと胸に刺さる。

(死んじゃったかもなんて……ちゃちゃ失礼を働いた)

 ぼうぜんとして先生の消えた階段の先を見つめる。そうしてどのくらいっただろうか。

 ハッと気が付けば、私は床に座り込んだままだった。握りしめていた手元を見ると、先程摘んできた花がシュンとしおれていた。

 その日の夕食に降りてきた先生は、いつもと何も変わらぬ様子だった。私がまず「すみませんでした」と頭を下げれば、先生は一言「いや」と答えておしまいだった。寝起きのあの疎ましそうな顔はひとかけらも残っておらず、内心私はホッとした。

 一方で、そのあっさり加減が嬉しいような、申し訳ないような。複雑な気分で私は次の日の朝を迎えたのだった。


「前の前のお屋敷の老齢の旦那様が倒れていたのを見つけてしまったことがあって」

「それは心配にもなりますね」

 言い訳を誰かに聞いてほしくて、私は逃げるように商工会にやってきた。コルテスさんは親身になって聞いてくれた。

「で、大丈夫だったんですか? そのときは」

 私はコルテスさんの質問に首を横に振る。すると彼の表情が引きつった。

「旦那様がいなくなってしまって、奥様が娘さんのお家に移ると言うから私も解雇に。あ、すみません身の上話なんかして」

「いえ、気にしないでください」

 この街でこんな話ができるのはコルテスさんかテオさんしかいない。私はお言葉に甘えて、もう少しだけ長居した。

「ルシルさんが先生を心配する理由が分かりましたよ」

「分かってくださいます? 本当に、だいたいこつを骨折すると大変なんですよ」

 コルテスさんは何と答えて良いやらと苦笑いを浮かべる。

「でも先生は魔法使いですからね」

「私が思う程お年じゃないと?」

 コルテスさんは困り顔で、うなずくような首を捻るような曖昧な仕草をした。

「でも魔法を使ったところ、見たことありませんけど」

「いやあ実は俺も」

「え!?」

 何と。コルテスさんも先生が魔法を使ったところを見たことがないらしい。私は驚きを通り越して呆れた。

「じゃあ何で魔法使いだって言い切れるんですか」

「むかーし使ったって」

「ええー」

 いつしか世間話に発展した私たちの話を聞いているように窓のそばで丸くなっていた猫が、退屈そうに大きなあくびをしていた。


 大分脱線もしたものの、心の内を話したら幾分かスッキリした。軽くなった心で家に戻るとリビングのガラス戸が開いていた。家を出るときは閉まっているのを確認したはずなので先生が開けたのだろう。

「戻りました」

 小さめの声で玄関を上がり、リビングに入ると案の定先生がソファに寝転がっている。そよそよとガラス戸から入る風が気持ちいい。

 こっそり先生の様子をのぞみ、私はすんでのところで噴き出すのをこらえた。

『睡眠中』

 ソファ横のローテーブルの上に、一枚のメモ。押し花を閉じ込めたガラスのペーパーウエイトが載せられている。

(先生ったら……)

 眠っているのか起きているのか分からなかったが、どう見ても気持ち良くくつろぎ中。私は足音を忍ばせて自室に向かった。先生のお茶目に思わず顔が緩んでしまった。

 次の日も、その次の日も先生は昼間に一時間程ソファで過ごした。『睡眠中』と書いたメモをテーブルに置いて。

 本当は私が生存確認をしたのを根に持っているんじゃ、という気もしたけれど、多分考え過ぎだろう。邪魔されたくないだけだ。おそらく。

 私は先生が寝ている間、裏の畑で作業をすることにした。

「風が気持ちいい日はあそこで過ごすのがお好きなんだね」

 今まで一応置いてあるくらいにしか思っていなかったソファは先生にとって憩いの場だったのだろう。また一つ詳しくなれたと喜ぶことにする。

 一日中研究室に籠るのも、ああしてソファで息抜きをするのも先生の自由だ。

(よしよし)

 家主がリラックスした姿を見ることができると、私もホッとする。遠慮なく、快適に生活してもらうことこそ、私の仕事の意義である。

「どうぞゆっくりなさってください~」

 届けるつもりのない声をこぼし、私はガサガサと畑に生い茂る作物の間へと身を隠した。

 しばらくしたら寝覚めのお茶でも届けに行こう。

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