第二章 ヨラナ夫人と気難しい老歴史学者 (2)


   ◇◇◇


 バーナード・フィッチャーは老齢の歴史学者で、たいへん気難しい男だった。

 自分では動かないが、決まった時間にお茶を飲みたかったしお茶のれ方にもこだわりがあった。書斎や居間に限らず家中どこでも自分のルールに従って置いた物の場所がわずかでもずれていると不機嫌になる。

 その上、研究に行き詰まると小さなことで不機嫌になる頻度が高くなった。そんな老人の助手を長く務められる者はおらず、自業自得ながら助手も使用人も続かなくて困っていた。

 そんなときに職業仲介所に出していた募集を見て面接を受けに来たのがビクトリア・セラーズである。彼女は四ヶ国語が堪能で掃除や料理などの家事もこなせるという。そんな都合のいい人間がいるものかと思ったが自己申告は本当だった。


「バーナード様、昨日お預かりした文献の翻訳を仕上げてまいりました」

「たったひと晩でか?」

「はい。間違いがないかどうかチェックをお願いいたします。その間に掃除を済ませますので」

 ビクトリアはそう言うと書類をズイとバーナードに差し出して机の上を片付け始めた。その片付け方が実に『わかって』いる。乱雑に重ねた書類は決して順序を崩さず、三つの山にして積み上げておいた文献は内容ごとにクリップでまとめて読みやすいように見出しをつけてひとつに重ねてくれている。

 気管が弱いのにほこりだらけにしていたバーナードは、めいに「緩慢な自殺行為」と言われていたが、彼女が来てからは家中が整然と片付きほこりは無くなっていた。

 (こんな有能な助手はもう手放せない)とバーナードは数日で思った。

 最初は血縁関係のない子供を連れての出勤と聞いたのでとんでもないと思ったが、これがまたわきまえた子供で台所の隅で飽きもせず静かに読書をしている。読み書きはビクトリアが教えているらしい。

 子供は嫌いだと思っていたバーナードだったが、(しつけの行き届いた子供は嫌いではない)と思うようになっていた。


 ある日、ビクトリアと一緒に掃除を手伝っているノンナに勇気を出して

「君は食べ物では何が好きかね」

 と思いついて尋ねた。そんな質問しか思いつかなかった。子供に話しかけるなどバーナードにしては大冒険である。すると少女は少し考えてから

「ビッキーが作る子羊のロースト」

 と答えた。

 偶然にも子羊のローストはバーナードの大好物だったので、思わずビクトリアに

「今夜予定がなければうちで子羊のローストを作ってくれないか。君たちも一緒に食べるといい」

 と柄にもない申し出をした。ビクトリアは

「まあ、うれしいです。喜んで作りますわ」

 と笑顔で返事をしてさっさと買い物に行き、材料を買ってきた。

 食材費の他に時間延長の料金も払おうとすると

「ノンナに私以外の人との食事の経験をさせていただくのでそれは受け取れません」

 と断られた。何度言っても上乗せ分を受け取らない。

「君はなかなか頑固だな」

「よく言われます」

 そんな人間らしい会話も久しぶりで楽しかった。

 ビクトリアは手際よく子羊の香草焼きのにんじん添えとグリーンピースのポタージュ、クリーミーなマッシュポテトを作って並べた。途中でノンナが食べたがったカリカリのバタートーストが追加された。

 自宅でこんな料理を食べるのは妻が亡くなって以来初めてである。つまり八年ぶりだ。

 前の料理人はこんな手間のかかるものは作らなかった。料理人が辞めてからは昼と夜を近所で外食して毎度似たようなメニューを選び、味気なく済ませていた。

 ビクトリアもノンナもよく食べて楽しく会話をしてくれた。ビクトリアはランダル王国から来たということだったが、この国のことについての知識も豊富だった。バーナードが歴史の話をしても興味津々という顔で聞いてくれた。

 二人が後片付けをして帰ったあと、バーナードは急に家の中が静まり返ったように感じた。人の気配など煩わしいとずっと思っていたバーナードは、自分の変化に戸惑った。

「私の相手などしたくないだろうと思っていたが、意地を張るのをやめて話しかけてみてよかったよ。こんな楽しい食事ができるとは。料理もうまかった」

 バーナードは静かになった部屋で妻の肖像画に向かって話しかけた。

 こんなこともあってビクトリアとノンナは時々老歴史学者と夕食を共にする仲になった。


 バーナードの家には週に一度ずつ姪のエバが様子見で訪問してくれている。エバはバーナードの妹の娘だ。世話好きな三十代で、赤みの強い茶髪の持ち主である。

 そのエバが今、玄関のドアを開けるなり目を丸くし、あちこち見て回って更に驚いている。

「家中きれいになってる! もうりょうすみだった書斎まで学者らしい書斎に生まれ変わっているじゃない。伯父おじ様! 一体どうなさったの? 新しいハウスメイドが見つかったの?」

「エバ。相変わらずけたたましいな。仲介所に助手の募集を出したら優秀な人が来てくれたんだよ」

「助手? ハウスメイドじゃなくて?」

「四ヶ国語に堪能で掃除も料理も得意な助手だ」

「伯父様、その方にいくらお給料を支払ってるんです? まさかと思いますけど、助手に払う分だけってことはありませんわよね?」

 バーナードは世間知らずだったし気が利く男でもなかったので、エバの言うとおり助手に払う給料しか支払っていなかった。

 なので(もしや非常識だったか?)と慌てた。妻にも『世間知らずの非常識な学者さんね』と注意されることがよくあったのだ。

 白髪の方が多い茶色の髪をでつけながらバーナードは黙り込む。

「伯父様、どう考えてもその優秀な助手は三人分は働いてますわよ。そんな安い賃金で働かせていたらすぐに他の人に引き抜かれてしまいます」

「それはだめだ。それは困る。彼女がいなくては本当に困る」

「彼女? 女性ですか。とにかく私に会わせてくださいな。お礼とおびをしなくては」


 翌日の朝ビクトリアがノンナを連れて出勤すると、エバが出迎えてくれた。そして「世間知らずの伯父がとんでもなく安い賃金で働かせてしまって申し訳ない」と頭を下げて賃金を三倍にすると申し出てくれた。

「三倍ですか? いえ、それはさすがに多すぎるのではありませんか?」

「いいえ。あなたが来る前は助手のほかにハウスメイド二人を雇っていたのです。それでもここまできれいにはなってませんでした。しかも彼らは全員三ヶ月と続かなかったんです。なのにあなたは伯父の話し相手まで。四倍でもいいくらいよ。どうせ伯父はほかにお金の使い道がないんだし。遠慮はいらないわ」

 身振り手振りが大きなエバは、そうしゃべりながらテーブルに置いてあった花瓶を手で倒しそうになった。

 しかし向かいに座っていたビクトリアが表情ひとつ変えずに素早く腕を伸ばし、花瓶を支えて倒れるのを防いだ。その間ビクトリアの視線はエバに向けられたままだった。

「あなたみたいな人ならうちでも雇いたい。でも伯父が手放さないわね」


 エバとビクトリアの顔合わせから数日後。

 ビクトリアはバーナードの六十五歳の誕生会が本人の家で開かれるとエバから知らされた。

「身内が集まるの。とはいっても来るのは私と夫のマイケル、従兄弟いとこ二人の合計四人よ。別料金をお支払いするからあなたに準備をお願いできるかしら。おおにしなくていいから」

「ええ。私でよろしければ」

 ビクトリアはそう言って笑顔で引き受けた。ビクトリアが全て済ませてくれるなら伯爵の妻として多方面に忙しいエバは大助かりだった。

 意外なところで縁はつながっているもので、誕生会に参加するエバの従兄弟の一人がジェフリー・アッシャー第二騎士団長であったが、ビクトリアは当日までそれを知らなかった。

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