第二章 ヨラナ夫人と気難しい老歴史学者 (1)

 ヨラナ夫人はヘインズ伯爵家の未亡人である。

 夫が病没後は息子夫婦に当主の座と屋敷を譲り、同じ東区で気楽な未亡人暮らしを送っている。

 ある日、友人のお茶会に参加した帰り、足を延ばして南区の刺繍ししゅう道具の店に向かった。

 買ったものは侍女に持たせ、自分はバッグだけを持った。数歩歩いたところで若い男にバッグをひったくられた。男はどんどん遠ざかっていく。「泥棒!」と叫ぶと近くにいた大柄な男性が猛然と追いかけてくれた。ミセス・ヨラナは気が強い貴婦人だったので止める侍女を無視して小走りで大柄な銀髪男性の後を追いかけた。

 前方で若い男は銀髪男性に追いつかれて縛り上げられ、無事バッグは手元に返ってきたが、帰宅後にきちんとお礼をしなかったことに気がついた。動転していてお礼の言葉を述べただけで帰ってきてしまった。ヨラナ夫人は失態を反省し、翌日に警備隊の詰め所へと向かった。


「ぜひお礼をしたいのです」

「団長はお礼は受け取りませんので、お気持ちだけお伝えします」

「では足を掛けたというその女性にだけでも」

 ヨラナ夫人は滞在先のホテルを聞き出してそこに向かい、ホテルのフロントの男性に呼び出してもらえないかと頼んだ。すると柔らかな笑みを浮かべた女性が少女の手を引いて階段から現れた。お礼をしたいと伝えたが、こちらも「お気持ちだけで」と断られた。

「それなら我が家でお茶とお菓子だけでも」とやや意地になったのは(ひったくられるような自分の老いへの情けなさか)と自省していると「お茶でしたら」と笑顔で了承してもらえた。

 数日後に子供の手を引いてやって来たビクトリア・セラーズという女性は、ランダルから来た平民だと自己紹介した。平民なのに貴族の家でもオドオドしなかったし、お茶を楽しむ所作は優雅だった。裕福な家の出なのかもしれないと思った。

「今後はどうなさるの? ずっとホテル住まいではないのでしょう?」

「近いうちにホテルを出て部屋を借りるつもりです」

「貸し部屋を借りるならうちに住まない? 平屋の離れがあるわ。台所も浴室もあるわ」

 気づいたらそう提案していた。

 ひったくり逮捕に協力してくれた彼女は、我が国の捨て子を保護して面倒を見てくれているという。アシュベリー王国民としてその行いに感謝を示したいという思いもあった。

 しばらく悩んだ末にビクトリアは「ちゃんと契約書を交わしてくれるなら」という条件で受けてくれた。契約書は自分で作るという。彼女は教養があるのだろうとヨラナ夫人は思った。


 翌日にビクトリアが持ってきた賃貸契約書は良識的な内容だった。賃料も相場だった。貴族が住む東区は家賃が高いのに、値切る気はないようだった。

「まあ! 隅々までちゃんと出来てるわ。完璧な契約書ね。あなたのことをとても気に入りました」

 そう言ってヨラナ夫人は提示された額の半額に訂正してから賃貸契約を交わした。大家の方が半分に値引きする珍しい契約である。

 結果から言うとビクトリアはとても良い賃借人だった。人を呼んで騒ぐこともなく、ノンナという少女も静かで家を汚すこともなさそうだ。家賃は二ヶ月分も前払いしてくれた。

 ビクトリアをお茶に誘うと時間があれば話し相手になってくれたし、「料理人さんがいらっしゃるのに失礼かとは思いますが」と言いながら手料理のおすそ分けもしてくれた。これが見栄えも良くて美味おいしい。おすそ分けしてくれたのは『野菜の鶏肉巻き』だった。

 野菜と香草を色良く組み合わせて、たたいて延ばした鶏肉で巻いて焼き目をつけてから煮込んだものだった。

 白ワインを加えて煮込んだそうで、輪切りにされたそれは断面も美しかった。ぱさつきがちな鶏肉なのにしっとりとしていて老人でも簡単にみ切れるほど柔らかい。蜂蜜で照りを出したという外側は焦げ目がついていて香ばしい。

「いい人とご縁が出来たわ。そういえば職場は近いの?」

 と遅ればせながら尋ねたら、有名な歴史学者の助手兼ハウスメイドをしているという。

「あなたはいったい、何をどれだけこなせるのか謎ね」

 そう感心したのには訳があった。風の強い日に夫人が二階のバルコニーから庭を見ていたら、かぶっていた帽子が風に飛ばされた。帽子はふわりと風に乗って庭のイチョウの木に引っかかり、クルクル回ってあごひもが枝に絡みついた。

「あれは夫が生前買ってくれた思い出の帽子だけど、仕方ないわね。自然に落ちてくる前に雨が降らないことを祈るわ」

 仕事から帰って夫人の言葉を聞いたビクトリアは、家に入ってズボンに着替え、スルスルと木をよじ登り帽子を取り外して下に放り投げてくれた。枝の位置は二階建ての屋根より高かったのに。

 ヨラナ夫人が驚きのあまり声も出せずにいると、滑るように下りてきた彼女は

「私はおてんでしたから」

 と笑った。

 貴族のような所作ができて歴史学者の助手もできて、料理上手で木登りが得意なお嬢さん。

 ヨラナ夫人はすっかりビクトリアが気に入ってしまった。


 ヨラナ夫人の侍女のスーザンもビクトリアとノンナを気に入った一人だ。

「あんなわいい子を捨てるなんて何を考えているんでしょうね、その母親」

 そう言って涙ぐんだり怒ったりした後に

「奥様、そのうちノンナがなついたら私の部屋に泊めてもいいでしょうか。そうしたらビクトリアさんも夜にお出かけができますし。あの方、まだ若いのに全く人付き合いをなさってる様子がありませんよ」

 と心配する。

 ノンナは無表情な子供だがスーザンが話しかけたりちょっとした菓子を与えたりするとわずかに柔らかい表情になる。

「あなた、ひとれしない子猫をなずけてるような気持ちになってるんじゃないの?」

「子猫だなんて! あの子が可愛いから母親の気分を味わってみたくなったんですわ」

「私たちはどうやったって祖母の気分でしょうよ」

「奥様は無粋ですわね」

 夫人はスーザンに呆れられてしまった。

 そのビクトリアが「明日はバーナード様の誕生会なので」とちゅうぼうから大鍋を借りて料理を作っている。いい匂いが朝からずっと漂ってきていた。

「その料理をうちの馬車で運びなさい」

 そう言ってやると彼女がとても喜んだ。

「運ぶ手段を忘れていて困っていたんです。貸し馬車を呼ぼうかと考えてました」

 ヨラナ夫人はそんなうっかりしているところもあるビクトリアが可愛くて大好きになった。

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