D.

 D.

 いったい慶一にとって最も大切なもの、緊要であったものは何か。すくなくとも慶一は自己の資質として芸術家肌でないことくらいは認識していたろう。又、えず修士課程への進学は前向きに考えていたけれど、結局のところこちこちの学究肌と云う訳でもないこともうすうす勘づいていた筈である。では、何を為して糊口ここうとするべき人間であったか。これは慶一本人でなければ答えられぬ問いだったが、一応ここに公案こうあんとして掲げておく。

 如上じょじょうの通り、慶一は戯作を好んだこともあったけれども、今お目に掛けた中篇にせよ、畢竟ひっきょう自身で結末にもって行くことあたわずして、倉橋由美子という物故ぶっこした閨秀けいしゅう作家さっかの物した「アポロンの首」という掌編小説を以て終章の代わりとしていたのだ。そういった結末のつけ方は、有り体に云って、外道である。上策ではない、下策である。だから曩者のうしゃ顔を出していた文芸部でも余りよい評点はもらえず、本人としては相当勉強や下準備もして書き出したものだけに口惜くやしい気持ちもひとしおであったようだが、幾ら小難しい漢語をまぶして上等そうに見せかけても、そんな安っぽいこけ脅かしは一発で露顕するものだ。

 斯かる無題の中篇原稿はもう一回分あるので、慶一が寝ている間にお目に掛ける。

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 栄は職員用出入り口から石井憲吉を送りに出た。栄は一言、

「済まないな」

 と云ったが、憲吉は一寸笑って、

「済まないと云うなら、おれの方が沢山いうべきだろうな。何せ、ここでこうして恒産こうさんがある、というのは、何よりお前さんのお蔭だからな」

 と云い、赤と黒の塗り分けという派手なミニ・クーパーに乗り込んだ。憲吉も相当な車好きで、このミニ・ジョン・クーパー・ペースマンは散々カスタマイズした結果、五百万以上したのだと云う。栄はある時、そんなに沢山稼ぎがあるのか、と半ば揶揄やゆ気味に云ったことがあったが、憲吉は答えて、なに、おれもお前さんみたいに結婚して子供でもいたらまず無理だったろうよ、といって笑ったのだった。

 栄は出入り口の庇の下に立って、旧友の車が出て行くのを見送った。

 4WDのミニ・クーパーは、勢いよく発進し、坂道を上がって市道に出、見えなくなった。

 栄はその足で臨床検査室に向かった。ドアをノックすると、

「はい。どちら様?」

 というくぐもった声が聞こえた。

「わたしだ」

 と栄が云うと、中でごそごそ音がして、ややあってから長野が顔を出した。

「院長、何か?」

 と問う口調には明らかに不安が混じっていた。

「うむ。先刻さっきの植物細胞に就いてだがな」

「ああ、あれですか。一応プレパラートは固定して、保存はしてありますが…」

「その細胞のDNAを検査することは不可能かね?」

「ううむ」長野は鼻の下をこすった。「難しいですな」

「遠心分離でも無理かね?」

「ええ、何せサンプルが極微量でしたし…。三上さんからも、あれの他にはサンプルはない、と伺っています。何でも、〝遺体の傷口を耳搔みみかきでこそげとった〟とかいう話でしたしね」

「そうか」栄は無念そうに首を振った。「あの植物は一体何だろうね。きみには見当は付かんかね?」

 長野は微かな笑みを口辺にうかべて、

「いいえ。わたしの専門外ですから、何もいえませんね」

「この病院で、一番詳しそうなのは?」

「鶴木さんが、趣味で植物採集をなさっておいでだとは耳にしたことがありますが、細胞も光学顕微でみただけで、これは何だ、と断言できるのは仙人の御技みわざだ、と仰有おっしゃっておいででしたっけ」

「わたしはそれ程痲薬類に詳しいとは云えんのだが、コカインはコカノキに、モルヒネやヘロインはケシに由来する薬物だったね?」

「ええ、そうです」

「コカインとヘロインに、未知の植物細胞か…」

 栄は考える眼つきになって、ふらりと臨床検査室を後にした。

 栄にも、これらの三者が〝別のもの〟であることは判っていた。併し、栄の中のどこかが、頻りと栄を別の方向へ引っ張って行くのだ。だが、それは推測の域に留まっており、それだけに栄の頭蓋骨を内側から引っ搔くのである。栄には、無論むろん論理だった推理は不可能だった。材料がまだすくな過ぎるということもあるし、栄には植物学の知識も殆どない。けれども、栄の中の何かが必死に〝非常ひじょうボタン〟を押し続けているのだ。栄は院長室に戻ると、いつも考え込む時の癖で顎に手を当てて、園舎の中の熊のようにぐるぐると歩き続けた。

 ――この、おれの中で今渦巻いている思いは一体何なのか。

 栄は少許すこしばかり戸惑いを覚えつつ考える。

 ――これは、やはり憲吉がもたらしたものだろうな。だが、おれには予覚よかくがあるだけで、判然はっきりと先を見ることはできん。

 栄は自分の席に着いた。年季の入った革張りのデスク・チェアが、栄の体重を受けてぎゅっ、と不平の声を上げた。栄はこめかみをゆっくりと揉みしだいた。訳の判らぬ予感は去ることがなく、反対に胃の腑まで降りてきた。

 栄はコーヒーを淹れようと思って立ち上がったのだが、その時になって漸っと、腕組みをしたり我れ知らず頭を搔き毟った所為で、自分の白衣がたになっていることに心付いた。

 ――そうだ。家に電話しておかねばなるまい。

 栄は受話器を取った。自宅に架けると、好都合なことに、電話口にはお手伝いの女性や娘ではなく、妻の富子が出た。

「もしもし。おれだが」

「あら、栄さん? こんな時間に珍しいわね」稍声を潜めて、「――ひょっとして、何かありましたの?」

 栄はこの時ほど富子の勘の良さに感謝したことはなかった。

「ああ、実はそうなんだ。今は話せないが、一寸面倒なことになってな」

「じゃあ――」

「うむ。憲吉の手を借りた。今日は遅くなるから、夕食は要らない」

「あら…。お夕食も外で?」

 栄が自宅で夕食を取らないのは、症例研究会や地域の医師会の定例会のある時程度で、念に十回ほどが精々である。

「そう。かなり厄介なことでな」

「そうですか…。判りました」

「お前たちは先に寝ていて構わん」

「はい」

 と返辞はするが、富子は夜の眼も睡らずに待っているであろうことは、栄にも判っている。

「じゃあ、また」

 栄が電話を切り、改めて珈琲を淹れようと――少しブランデーも入れるつもりで――カウンターの方へ向かった時、院長室のドアにノックがあった。

「はい。どうぞ」

 カップを珈琲で満たしながらそう返辞をすると、控え目にドアが開き、

「あの、院長…」

 雪村看護師長だった。栄は、

「ああ、きみかね。――珈琲だが、きみもやるかね?」

 とカップとソーサーをもう一と組棚から出しかけたが、師長は、

「あの、院長…、午後の回診をお願いしたいのですが…」

「なに?」栄が云われて顔を上げると、もう間もなく午後四時になるところだった。これはしたり。「おや、もうこんな時間か…」

「ええ。そろそろ夕方の薬の時間ですし、それから夕食になります」

「そうだった、そうだった」栄はブランデー入りの珈琲を一と息に呷った。「いや、知らせてくれて有難い。今日は一日、朝からばたばたし通しだったからな…。で、容態ようだいの変わったひとはいるかね?」

「山野さんが、抑鬱がひどいので抗鬱剤を増量してくれ、と云っています」

「山野さん? 確かデプロメール四錠だったね。薬事の方で通れば五錠出せるが…」

「それから、鈴本さんですが、その、ご家族の方が見えて、引き取りたいと仰有おっしゃってます」

 症状の進んだ認知症の患者だった。

「ああ…、そうだな、その方が良いかも知れないな」

 その時になって、栄は漸っと、自分が〝レッド・ダイヤモンド〟なるバーの場所を知らないことに心付いた。栄は雪村と共に歩きながら、ポケットから私用のiPhoneを取り出した。


 この病院の患者たちの食事は朝、昼、夕食とも病棟中央のホールで供される。ここは療養型の施設であり、食事も自前で用意されることもあって、味覚にうるさい者でも不平不満を口にする患者は殆どいなかった。朝食は午前七時、昼食は正午、夕食は午後六時が定時である。ここは多目的ホールも兼ね、午後十一時までならTVもここで見ることができるし、自動販売機もあり、電子ポットもあるので深夜空腹に堪え兼ねたひとはカップ・ヌードルを作ることもできる。ほか、認知症患者向けに体操をしたり歌を唄ったりするリクリエーションの集いもここで定期的に――毎週木曜の午後に――開催された。外のヴェランダを除けば、病棟内でいちばん明るいのは、このホールだった。

 その日、栄は普段より遅く回診を終えたので、病棟を去る時には、既に夕食のトレイを載せた台車がエレヴェーターから降ろされて、各患者の所定の席に配られるところだった。

 栄は解錠して階段室に入り、院長室に向かった。最前の電話で、憲吉には午後六時半過ぎに病院まで迎えに来てもらうことで話が付いている。栄も今日は自家用車のアウディではなく病院のワゴン車で出勤したので、帰宅の足がなく、その点は救いだった。もっとも、憲吉には飲酒運転をさせることになってしまうが、そこは眼をつむるほかない。今夜は飲酒運転の検問が行われていないことを祈るだけだった。

 栄はたカップに珈琲とブランデーを注ぐと、自席に着き、机上に肘を突いて、両手を組んでその上に顎を乗せ、眼を閉じた。

 今日は一日のうちに色々なことが起こり過ぎた。しかもその大部分は不可解なことだらけと来る。そしてその最終的な責任は自分が取らなくてはならない。栄は今日一日で自分の頭髪は悉皆すっかり白髪になってしまったのではないか、と思えるほどだった。栄をいちばんさいなんだのは、これが「終わり」ではなく、普通なら闇に葬っておくべき、何やら異様なことの「始まり」に過ぎないらしい、ということだった。

 併し、自分が正気を保てる間は、自分が陣頭指揮を執らねばならない、ということもまた、栄にはよく判っていた。だからこそ、胃の痛みを感じるにもかかわらず、こうして胃に悪い珈琲などを飲むのだ。

「よし」

 栄は口に出してそう云うと、掌で机上を一回叩き、気持ちを改めた。

 時刻を確かめると、午後六時二〇分だった。間違いがなければ、六時半頃には憲吉はここへ来る。もう出ていないとまずい。

 白衣を脱ぎ、背広の上着を着て栄がへやを出ると、雪村師長が立っていた。奈何どうやら今来たばかりで鉢合わせしたものらしい。

「院長、お疲れ様です」

「うむ。――これから、例の件でひとと会ってくる」

「313号室のお客さんは――」

えず、ドアに鍵をかけておいてくれ。屍臭ししゅうが強いようなら、地下室に移しても構わんから。かく人目ひとめに触れないように最大限気を配って欲しいのだ」

「判りました。身元は未だ――」

「そう、判らん。それを探す端緒たんしょを探る、その入り口に立ったばかりなのだよ」

「回診などは小倉先生にお任せしても――」

「うむ、仕方がないな」栄は溜め息を吐いた。「小倉くんは未だここへ来て日が浅いし、一寸ちょっとした変化であっても気付く患者は勘付くだろう。そういうものだ。が、この際詮方ないことだろうな」栄は腕時計を見た。「済まないが、もう時間がない。まだ何かあるなら、明日ゆっくり話を聞こう。じゃ」

 栄はそう云い置くと、階段を下って一階に降りた。

 石井憲吉の赤いミニ・クーパーは、時間の十分も前にやって来た。そして、栄が乗り込むと、くだくだしい挨拶など抜きに直ぐ発進した。

 憲吉はミニをまるで自分の手足ででもあるかの如くに操った。そして、甲府市でも裏通りにある〝レッド・ダイヤモンド〟には、時間の十五分前には着いた。丁度ちょうど近くにコイン・パーキングがあったので、車はそこに停めておいた。

 肝心かんじんの店は、あらかじめ憲吉から聞いていた通り、割と最近の建築らしい、コンクリート打ちっ放しの雑居ビル、三階だった。エレヴェーターの箱に入ると、煙草の脂の臭気の他に、別階にあるクラブのホステスのものらしい香水がかすかに匂った。

 時間が早いこともあって、〝レッド・ダイヤモンド〟には先客はおらず、憲吉は迷わず一番奥のボックス席を占めた。バーのマスターは、カウンターの奥から身を乗り出すようにして、そこは四人様用の席なんですが…、とずと云ったが、憲吉は、

「なに、これからまた客が来るのさ。ちょっと大事な話がしたくてね」

 と涼しい顔で軽くいなしてしまった。

 今埜こんのが姿を見せたのは、時刻の十五分ほど後のことだった。今埜こんのの姿を認めると、それまでグリッシーニとチーズでオン・ザ・ロックをめていた憲吉は右手を挙げて合図してみせた。

 灰色の上下とループタイ、という冴えない出で立ちの今埜こんのは、栄の存在が気に懸かるらしく、レッド・アイを註文してからちらちら栄の方に視線を送っていたが、それと見た憲吉が、

「こちら、精神科医の河原栄先生」

 と紹介すると、改めて頭を下げて、神妙しんみょう声色こわいろで、

「初めまして。今埜こんのと申します。宜しくお願いいたします」

 と云った。

 憲吉は、そこから急に声のトーンを落として、

「で、話なんだが」

 と切り出した。

「それ、どんな話です?」今埜こんのは恐る恐る問う。「ヤバい話ですか?」

「いやいや」と憲吉は今埜こんのなだめた。「きみに迷惑は掛からんようにやるから。話はごく簡単なんだ。乗ってくれたら大変助かる、有難いんだよな。――無論、幾らかお礼は差し上げますよ」

「どんな話です?」

 今埜こんのは段々好奇心をそそられて来たものらしかった。憲吉は、

「じゃあ、河岸を変えよう。〝砂場〟に席を取ってあるんだ。参りましょう」

 と云うと立ち上がり、三人分の会計を済ませると、確りした足取りで先に店を後にした。今埜こんのは半信半疑のていで、栄に、

「こいつは一体、奈何どういう話なんですかねえ?」

 と問うた。栄は、

「なに、そう面倒な話ではないんだよ。ちょっと手を貸して欲しいことがある。それだけです」

 と、優しく今埜の背を押した。

 今埜が〝レッド・ダイヤモンド〟までどういう足で来たのかは判然はっきりしなかったが、憲吉の後に付いてミニ・クーパーに乗り込んだ。三人が揃うと、憲吉は車を発進させた。料亭〝砂場〟は、市内の少し郊外へ入った閑静な場所にある。

 憲吉は仲居に、密談があるので、と断り、誂えた酒や料理が調うと、先ず今埜の盃に酒を注いだ。今埜は瞬息しゅんそく躊躇ちゅうちょしたが、結句盃を乾し、今度は憲吉に返盃する。こうして、差しつ差されつ、三人とも酒盃の応酬が済むと、憲吉は、

「今持ち上がっている事案は、簡単と云えばごく簡単なことなんだ」と今埜に向かって切り出した。「ぼくらは、ある人物の行方――否、精確せいかくにはかたを知りたい、と思っている。現れた場所は、大方目星が付いている、と云っていい。だが、第一発見者が、被害者と思われる男性と遭遇した場所も、時間も、情況も、ぼくらの理解を超えているのだ。それに、被害者――衰弱死を遂げたのだが――は、ろくに栄養も与えられないような環境で、長期間に亘り痲薬漬けになっていたものらしく、体内からは特定の薬物の代謝物質に対してその反応が特に強く出ている。どうも異常なことがこの近郷きんごうで起こっている様なのだが、それを嗅ぎ出す一歩として、警察犬を短期間でいいから一頭貸して欲しいのだ。特に鼻の利くものがいい。それが済めば、犬は無論返却する。それから、些少さしょうながらお礼もお渡しする。何とか、承諾して貰えないものだろうか?」

 栄と憲吉が固唾かたずを呑んで見守っていると、上座に着いた今埜は手酌でぐい、と一杯呷あおり、少し考えてから、

「そうだな、一週間程度なら、お貸しできないことはないと思う」と云った。「警察に対しては特に報告することもなかろう。だが、扱いには気を付けて下さいよ。話に就いては、諒解しました」

 憲吉は頰を緩め、

「そうか、協力して頂けますか。どれは有難い。――では早速だが、少しなのだけれども手付けを」

 と云って、どこから取り出したものやら、紙包みを今埜に手渡した。今埜は恐縮した表情で、両手で押し頂くようにそれを受け取り、

「犬を渡すのは、いつが都合いいかね?」

 憲吉は栄を見やり、

「明日は…どうだ? 夜の都合は」

「いきなりだな。…まあ、差し障りは何もないがね。ただ、富子は勘が利くから、何か変に思われるかも知れないが、まず懸念すべきはこの程度だな」

「いちばん変なのは、あの青年をあのような状態で死に至らしめた奴だよ。そうとは思わんか?」

「ああ、そうだな」

「一体どんな奴らなのか判らんが、相当用心して掛かった方が良さそうだぜ」

「うむ、そうだな…あ、おれは…」

 云い募る憲吉は大分発憤はっぷん興起こうきしているようだが、酔いを発した栄は受け答えもしどろもどろで、且つ疲労の所為せいで眠気をも催していた。

「おれは…済まんが…もう…」

 栄の様子を看取した憲吉は、

「帰るか」云うが早いか立ち上がった。「じゃ、お宅まで送ろう。今埜くんも乗っていくかね?」

 ミニ・クーパーの助手席に潜り込みながら栄は、

 ――この年で大層元気なものだなあ、憲吉は。

 とつくづく思い入った次第。

 栄の住まいの前に車を横付けすると、憲吉は、

「おい、明日は仕事、休めよ」

 と云った。

「仕事を? 是非にか?」

「当たり前だろう。本業より大事な仕事が、明日の夜控えているんだぜ。それまでたけ体力を使わぬように、風邪を引いた、とでも云って、病院は休め」

「成る程、話は判った。今はかく疲れて眠い。――併しまあ、今回の件はきみのお蔭だな。かたじけない」

「そんな言葉を云うのは未だ早いぜ」憲吉はしろい歯を出して笑みながら答えた。「かく、先ずは明日だな」

「うむ。又蔵にも声はかけておく」

「そうしてくれ。明日は晩の七時に此方こちらへ伺おう。今埜こんのくんは、訓練所で待っていてくれ給えよ。――おれの推測だと、ことは夜の明夜のうちにも明るみに出ると思うんだがな。それじゃ」

 まあそれは先のことだが、と云い残し、憲吉のミニ・クーパーは去って行った。

 栄が見ると、普段は消してある筈の門灯に玄関灯まで点っている。やれやれ、やっぱりか、と重い気持ちを抑えて玄関のドアを開けると、案の定富子は起きて待っていた。栄の顔を見るなり、

「今夜はこんなに遅くなって、一体どうしたんです? 患者さんにでも、…何か、あったんですか?」

 栄は富子には背中を見せて座り、下を向いて靴を脱ぎながら、

「――まあ、そんな所だ。云っても野暮な話だから、聞かない方がいい」

「そうですか。お夕食は?」

「外で済ませた」

「じゃあ、お風呂に入ります?」

 ちょっと考えて、

「ああ――、今日はかなり疲れているから」

「どうやらそのようね」

「明日の朝、シャワーを浴びて出る」

「じゃあ、もうお休みに?」

「うむ。…その前に、電話を架けなければならん」

 栄は先ず自分の寝室へ行って、ネクタイを解いて着替えをした。首を回すと、溜まった疲労のためにぼきぼきと音がする。

 着替えを済ませると、書斎の電話台へ向かった。番号を押すと、夕子が出た。相手が栄と判ると何やらもの問いたげだったが、栄は直ぐに又蔵を頼んだ。

「もしもし」

「ああ。又さん、わたしだが」

 又蔵はやや声を潜めて、

「あ、栄さんか。――あの後、一体どうしたい?」

「うん。一応処置はした。…所で、明日の晩は空いているかな? 晩の七時過ぎなんだけれど」

「――ああ、空いていることは空いているが…。何用だい?」

「いや、今回の案件は奈何どうしてもこのままにはして置けんので、ちょっと調べようと云うのさ。あんたがあの男と行き遭ったのは具体的にどの辺なのか、知りたい、と云うか知る必要性を感じてね」

「――――警察関係かい?」

「いやいや、違う。その辺は安心してくれていい」

「じゃ、興信所かね?」

「いや、ま、云ってみれば〝私設警察〟とでも云うべきものかな」

「白黒のは、出て来ないんだな?」

「ああ。その辺は堅く約束する。大船に乗ったつもりでいてくれていい」

「そうか」

 栄には、安堵あんどのあまり床に頽れそうになっている又蔵の姿が眼にうかぶようだった。

 又蔵は、

「判った。七時過ぎだな。必ず在宅しているから」

「うむ。そうしてくれると有難い。夜中まで掛かることはないと思うが」

「判った。委細承知した」

 栄は受話器を置いた。これで事前の準備が全て済んだ訳だ。栄は憲吉のスマートフォンに架電して、首尾を報告した。憲吉も満足そうに電話を切った。

 そして翌朝、平生なら午前六時にはうに起きているところを、愚図愚図ぐずぐずと午前七時過ぎまで床にいた。と、たせるかな跫音あしおと高く富子がやって来た。

「栄さん、もう起きる時をうに過ぎていますけれど。どうかされたんですか?」

「ああ」栄はわざしゃがれ声を出した。「…ちょっと、身体の方がおかしい。頭の芯が痛むのだ」

「ずきずきするんですか?」

「うむ。疼痛がする」

 と、富子はほら見なさい、と云わぬばかりに、

「いつも云ってるじゃありませんか。規則正しい生活をしなければ、それこそ〝医者の不養生〟もいいところですよ、って。それに昨日はお酒を呑んで来たのでしょう。呑めないのに無理して付き合うからこういう眼に遭うんです。――今日、急を要する患者さんはいるんですか?」

「いや、いないこともないが、藤堂くんが代わりにやってくれるだろうから」

「じゃあ、病院にはあたしが電話しておきますから、大人しくしておいでなさい」

「済まないな。――実は、晩にちょっと野暮用があるんだが」

「どんな用です?」

「酒は出ないが、医師会の集まりでちょっと…」

「そうですか。それはまあ、体調次第で決めましょう。今日はベッドでゆっくりすることね」

 富子はやれやれ、と云いながら出て行った。えず病人の芝居がうまくいったので、栄はふう、と吐息を漏らし、布団の中に身をうずめた。しかしまあ、医者が病人のマネをしなければならないとは。

 朝食と昼食は富子が部屋まで運んでくれた。朝は梅干しの粥に、実のない味噌汁。昼は焙じ茶と何も塗っていないトースト二枚。栄は一日ベッドにいて、近年の精神病に関する横文おうぶんと和文の文献に眼を通して午前と午後を過ごした。

 そして夕刻になった。

 ――やれやれ、っとおれの出番か。

 栄はベッドの上でう~むと一回伸びをすると、床に降り立ち、ワードローブから服を撰び出そうとした。

 そこではたと手が止まった。

 ――一体、今夜はどの服が相応しいものかね?

 今日は屋外へ出ての作業もあるだろうから、本当なら作業着でも着て行くところだ。実際、栄のロッカーの中には、休日の庭掃除の折に使う、グレーの作業着上下が揃っていた。併し、今夜はそんなものを着て出れば、妻の富子ばかりでなく、娘のアリサや孫の祥吾にまで奇異な印象を与えてしまうことだろう。それというのも、飽くまでも今夜の外出は、〝医師会の関係のちょっとした集まり〟で話があるのだ、と富子には伝えてしまっていたからである。

 どれがいいか散々心をろうしたあげく、栄は、余りに地味すぎて最も着る機会のすくない、ぶら下がりを買った安物の背広上下を着ていくことに決めた。ネクタイは締めず、午後六時五〇分前に栄は二階の自室を後にし、階下へ降りた。

 すると、丁度夕食を終えたらしい富子が、お手伝いの女の子と一緒に食器をダイニングからキッチンへ運んでいるところだった。富子は栄の出で立ちをみて、

「あら」と云った。「何だか見慣れない恰好をしますのね。そんな安っぽい背広でいいんですか?」

「ああ、今日は気の置けないひとばかりだから、構わないよ」

「車で出ます?」

「いや、迎えに来てくれる手筈になっているんだが」時計を見て、「あと十分もしたら来るよ。――帰りは、少し遅くなるかも知れない」

 栄がそういうと、富子は少し顔を曇らせて見せた。

「今日はお粥とトーストしか召し上がっていないじゃないの。夕食は取らないで平気なんですか? それから、何よりお身体は本当なんですか?」

「ああ、心配ない。空腹なら何か腹に入れるさ。――じゃあ、そろそろ時間だから外に出るとするか」

 栄は一番よれよれの靴を撰んで履き、外に出て、飛び石伝いに中庭を抜け、門扉の施錠を解除して敷地を後にした。

 この近辺は静かな住宅街で、夜も七時を過ぎると車の往来もぐっと少なくなる地区だった。

 問の前でまっていると、右手からヘッドライトが接近するのが見えた。石井のミニだろう。

 果然かぜん、車は河原邸の前に横付けされ、憲吉が助手席へ、と招いている。

 助手席側の窓を巻き下ろし、憲吉は栄の方に首を伸ばすと、

「まあ、乗ってくれや。今埜こんのさんはもう乗ってる。後は韮崎の…、工藤さん、と云ったかな? それだけだ。この車は定員が四人だから丁度良かった。――今日は仕事、きちんと休んだのだろうな?」

「ああ」乗り込みながら栄は云った。「おかげで女房に病人扱いされて大変だった。空腹で堪らないんだ。何か、食うものはないかね?」

「そんなことだと思って、菓子パンを買ってきておいた」と云って、助手席の足許あしもとにおいてあった袋をがさがさいわせて、その中から憲吉は幾つか無造作に撰び出し、栄に押し付けた。「まあ、食えや」

 栄が見ると、ランチパックやコッペパン、黒糖パンなどが入っている。ご丁寧に、紙パックのコーヒーまで買ってくれていた。

 車が発進する際、栄は早速茹で卵のランチパックを開けてぱくついていたのだが、ちらりと見ると、た門灯も玄関灯も共に点っていた。

 ――今夜も富子はおれの帰りを寝ずに待つつもりなのだろうか。

 栄は少々憂鬱な思いにとらわれるのであった。

 しかしそんな栄の思いをよそに、憲吉は車を出した。

「おい、河原」憲吉は云った。「あの…工藤さんの家、ってのは、どう行けばいいんだい?」

 栄は口をもぐもぐさせながら、

「ああ、それなら近道がある。二〇分くらいで着くよ」

 と答えた。

 憲吉は栄の指示通りにミニ・ジョン・クーパー・ワークス・ペースマンを駆った。

 二〇分もせずに憲吉は工藤家の門前に車を乗り付けた。

 又蔵は既に家の前で待っていた。

 憲吉は一度車から降り立ち、

「お初にお目にかかります。河原くんの友人の、石井と申します」

 と一揖した。又蔵はへどもどして、

「あ、はあ、此方こちらこそこの度はお世話になりまして…」

 と挨拶した。憲吉はきびきびした動作で運転席の背を倒し、又蔵に後部座席を「どうぞ」と勧めた。

 又蔵は逆らわずに乗り込んだが、間髪を容れず、

「うひゃあッ!」

 と叫び声をあげた。

 栄が振り向くと、椅子が二脚独立して据え付けられた恰好になっている後部座席の、栄の後ろには今埜こんのが大人しく座っていたのだけれど、両方の座席の中間に割と大型の犬が一頭いて、それが新来しんらい客人まろうどたる又蔵を繁々しげしげと見上げていたのである。

 今埜はそれと見て、

「ああ、これは警察犬の〝レジェ〟号ですよ。今夜必要なそうなので、県警には無届けで連れてきました。――怪しいものに出会さないかぎりはごく静かにしていますから、ご安心なさい」

 と云って又蔵に挨拶した。

 又蔵は怖々とミニ・クーパー・ペースマンに乗り込み、又蔵の道案内で現場へ向かった。県道二七号線を昇仙峡方面へ向かい、中央道のインターチェンジを過ぎ、人気のないレストランを過ぎた辺りで、又蔵老人は、

「ここだ、ここです」

 と叫んだ。

 憲吉はハザード・ランプを点け、路肩に車を寄せて停め、四人と一匹、皆を外に出した。

 と、早速〝レジェ〟号が、

 ――ワウン、ワン、ワン!

 と鳴いて路上を嗅ぎ回り出した。

 憲吉は今埜こんのに、

「〝レジェ〟くんには、何を嗅ぎ出すように仕付けてあるの?」

 と問うた。今埜こんのは淡々と、

「指定された痲薬のうち、臭いの強いもの。それから、昨夜頂いたジーンズの切れ端。それだけです」

 すると憲吉は、

「結構、結構」と云ったが、すぐ、「――じゃあ、どれに反応しているかは、判らない訳だ」

 今埜こんのは、ちょっと言葉に詰まったが、判然はっきりした口調で、

「――ええ、まあね。ただ、ここで現にこうして探り出している、何かを嗅ぎ出している、ということは、やはりこの辺に何か御法度な…禁制品がある、ということですので、こうやって調査を続ける意義は十分にあると思いますがね」

「そうだな。――じゃ、続けようか」

 憲吉は、又蔵に向かって、

「あの青年と遭遇なさったのは、ここなんですね?」

 と念を押すように問うた。又蔵は、

「はい、確かにこの辺、確かやぶのなかから飛び出してきたような…」

 と、今埜こんのが、

「ん、奴さん、やぶの方へ行きますぜ」

 と云う。

 〝レジェ〟号は、竹林と熊笹の茂みの間にあるちょっとした窪地へと今埜こんのを引っ張って行った。この近辺には街路灯もなく、咫尺しせきべんぜぬ夜闇のことで、憲吉はポケットから懐中電灯を取り出した。その光のなかで見ると、窪地は幅約三メートル、奥行きは十メートルほどであることが判った。

 〝レジェ〟号は主の今埜こんのを右に左に引っ張ってくんくん嗅いでいたが、最終的にある一点で停止し、ぱたぱた尻尾を振ってもの云いたげに今埜こんのを見上げた。

「うん? ああ、ここか。よしよし、よくやってくれた」

 今埜こんのはそう云うと、ウェスト・ポーチからビーフ・ジャーキーか何かを取り出し、〝レジェ〟号に食べさせた。

 今埜こんのは、地面の一点をどん、と踏み締め、憲吉に、

「石井さん、ここだそうですよ。――少なくともやっこさんはそう云ってます」

 と云った。

「そこ? 何もないじゃないか」

 憲吉は云った。栄も同じ思いだった。今埜こんのが踏んだのは、ただの草地で、他には何もないのだ。

「併し、ここから先には、何もありませんしね」

 四人はしばし腕組みをし、無益な思案にふけった。

 一番最初に、沈黙を破って行動を起こしたのは憲吉だった。栄は、大学時代から憲吉が一番最初に動く人間だったことを思い起こした。

 憲吉は、懐中電灯を点し、光の強さを最大(MAX)にして、〝レジェ〟号が止まった辺りを、しゃがみ込み、草の露でズボンが濡れるのも構わずに、夢中で詳しく調べていた。――と、ものの二、三分も調べ回っていた頃だろうか、

「おおっと、こりゃ…」と声を上げた。「ちょっと、これを見て」

 三人と一頭は憲吉の周りに集まった。憲吉は、

「そら、これを見て」

 と云って、イヌノフグリの群生する地面の一点を指した。そこへ憲吉が懐中電灯を差し付けると、金属性の銀色が光った。憲吉が懐中電灯でそれを辿たどっていくと、三人にもそれが円形を成していることが、火を見るより明らかに判った。

 憲吉は、珍しく亢奮こうふんしたのか、かすれた声音こわねで、

「こいつは、地下に通じる、何かの入り口じゃないかな」

 と云った。

 今埜こんのは〝レジェ〟号の世話をしている。又蔵は、もう関わりたくない・これ以上係かかずらいになるのは真っ平だ、という表情をあらわにしている。栄が、その輪の中を、下生えに手を突っ込んで探ってみると、た何か金属製の冷やっとするものが手に触れた。

「憲吉よ、こいつは何かな?」

 憲吉が左手で下草を抑え、右手の灯火で強い光を浴びせると、それは鍵穴と六桁の暗証番号を備えた錠前だった。

 憲吉と栄は思わず顔を見合わせた。

「こいつは…」

「ああ、明らかに人工物だ…。而も、何かよこしまなものを感じるのだがね」

「ああ。この中では…黒ミサでも行われているのかね」

 こうして、いつでも何かしらジョークを口にするのも憲吉のへきだった。

「マリファナ・パーティ、という訳ではなさそうだな」

 憲吉は栄にちらりと眼をやった。

「ああ。――しかし河原よ、ここは退くべき時なのか、はたまた大胆に進んでいい時なのか、一体孰方どちらだと思う?」

「うむ…」憲吉の逡巡する思いは栄にもよく判った。「相手として対するには危険すぎる連中かも知れないな」

「そうだ。――だが、おれは退いていられないんだよ、栄。おれの身体を巡る血潮がそう云ってる」

 栄は苦笑した。

「あれから四十ウン年経っても、お前の性分は変わらないなあ」

「ああ。三つ子百まで、ってやつさ。――それより、お前は一体どうする? 退くなら退いても良いのだぞ」

「いや、〝義を見てせざるは勇なきなり〟だ。お前に付いていくさ」

「本気だな?」

「ああ。――このままにしておくと、あの青年の魂も浮かばれないだろう、と思えてならないのさ」

「そうか。よし」

「ところで、具体的にこれからどういう行動を起こすのか、当てはあるのか?」

「うむ。えずそちらの方に目立たぬよう気を遣って監視カメラでも設置しようか、と思っている」

「大丈夫か? 気付かれたらどうしようもないぞ」

「ああ、その点は心魂しんこんてっしているさ。心配は無用だ。――それより、考えていることはもう一つあるんだ。おれの考えていることが判るか?」

「――いや、判らん」

「ここに出入りしている奴――或いは連中は、一体どういう交通手段を使ってここに来ていると思う?」

 栄ははたと膝を打った。そして、精一杯真顔を作って、

「――観光バスとか」

 栄がそう云うと、憲吉はクックッ、と笑いだし、やがて大笑になった。栄も笑った。

「全く、いい勘してるぜ、栄はさ」憲吉は笑いと共ににじんだ涙をぬぐって云った。「さて、車で来ている、というのはさ、おれもその通りだ、と思うね。だが、問題は、お前さんからの注意の通り、相手は何人いて、何を目的として、一体どのくらいの規模の車輌で来ているのか、ということだな」と、時計を見て、「お、いかん、もうこんな時間か。今夜はもうそろそろ引き揚げた方がよさそうな塩梅だな」

 そう云うが早いか、憲吉は、少し離れて様子を窺っていた今埜こんのと工藤又蔵に向かって手を振り、

撤収てっしゅう、今夜はご苦労さん。もう引き上げにするから」

 と叫んだ。四人と一頭が車に乗り込むと、憲吉は早速車を発進させた。奈何どうやら雨気あまけを含んだ雲が垂れ込めているらしく、時折ヘッドライトの投げ掛ける光の中を雨滴が過ぎる。憲吉はその中を、実に恐るべき記憶力を発揮して、最前の又蔵の指示通りに道をたどり、ものの十五分で車は工藤家に到着した。又蔵は、

「今夜は、お手数お掛けしまして申し訳ないです」と口ごもった挨拶をした。そして、にくそうに、「あのう、わたしがまた必要になるようなことは…ありますか?」

 と一番の気懸かりらしいことを問うた。

 憲吉は、

「ご心配なく。もうご厄介をお掛けすることはありませんよ。――もっとも、あの人間ゾンビに出会でくわすようなことがあれば、是非ご一報頂きたいものですけどね」

 と云って、無遠慮に笑った。

 又蔵は車が見えなくなるまで自宅の前で見送っているのが、栄にもバックミラーで見てとれた。

「併し、随分この車は速いじゃないか」栄はきょときょとと辺りを見廻しながら云った。「先刻さっきは半時間弱かかったところだが」

「ああ、結構飛ばしたからな。――それに、この車も四輪駆動だから、山道には強いんだよ」

 憲吉は次に栄を自宅前で降ろした。

「これから、どうするつもりだ?」

「うん、腹案はあるが、詳細は未だ検討中なんだ。――いずれにせよ、当面お前の病院には行かないよ。…それより、あの仏さん、どうするつもりだ?」

「うむ」栄は考えつつ答えた。「〝密葬〟にすることになるだろうな」

 河原メンタルホスピタルの敷地の一番北西の一郭には、これまでほんの数度しか使われたことはなかったが、無縁仏を〝密葬〟するための焼き場があった。

「そうだな」憲吉は頷いた。「それが宜しかろう」

「じゃあ、今夜はお疲れさま、だったな。まったく」

 憲吉は堪え切れなくなったと見えて爆笑した。

「ああ、まったく、お疲れさまだよ」そして後部座席の今埜こんのを振り返り、「じゃあ今埜こんのくん、これから一献参りますか」

 栄は苦笑して、

「ここの所ネズミ捕りが多いから、気を付けて行けよ」

 と云い、発進するミニ・クーパーを見送った。


 事態はその後旬日じゅんじつのうちに急展開することとなった。

 その間、誰よりも辛い日々を送ったのは、河原栄であった。と云うのも、件の調査行の後、石井憲吉からは一切連絡が入らなかったからである。

 それでも栄は、毎朝普段通りに起床し、アウディで出勤し、外来の診察と病棟の回診をつつがなくこなした。注意深い患者の眼には、栄の挙措きょそが平生より少々機械的・事務的であるように映じたかも知れないが、これは栄のとがではない。ただ、栄は院長室で独り過ごす時間が普段より長くなり、出て来ると、微醺びくんを帯びたように少しアルコールの匂いを漂わせていることを、師長の雪村は気付いていた。もっとも、ことの発端を知る雪村は、栄が院長室でVSOPのブランデーを混ぜた珈琲を飲んでいることを、表だって指摘することはなく、擦れ違っても雪村が見えているのかどうかも判らぬ様子で、雪村の会釈にも応えず、ただブランデーの香りだけを残して歩み去る栄の後ろ影を、気遣わしげに見送るだけだった。

 栄が待ち望んでいたのは、確たる情報だった。

 例の青年は屍臭ししゅうを放つようになり、鼻にくので詮方なしに〝密葬〟の措置を取り、遺骨は他の行路病者ゆきだおれなどと共に仮埋葬の処置が執られた。

 栄が何となく上の空でいることは、当然ながら妻の富子も気付いていた。が、富子は長年連れ添った夫がこのような情態じょうたいを示すのを見るのは初めてではなかったし、えず静観していた。ただ、朝、栄が出勤する時には、

「車の運転、気を付けて下さいよ。いいですか?」

 と必ず云い含めた。栄はそれに対して、うむ、とも、ああ、とも付かぬ返辞をするだけだったが。

 その栄の懸念が破られたのは、調査に出てから十数日目の金曜日のことだった。

 その時、身体が空いていた栄は、復た院長室でブランデー六割、珈琲四割ほどの飲み物を前にして、虚しい時を送っていた。このところ、病棟では容態が急変する患者が出ず、又幸いにして救急搬送されるような急患も出なかった。

 ――と、栄の胸ポケットのPHSがけたたましい音で鳴った。

 栄はその着信音を聞いた瞬間、心臓が喉元までがるような気分を味わった。

 がにもかくにもPHSを白衣のポケットから出し、ディスプレイを見ると、石井憲吉からだと判った。

 その時、栄の脳裡では好悪二つの感情が入り乱れた。つまり、これは一体よい知らせなのか、それとも悪い知らせなのか、ということだ。

 けれども、いつまでも電話機を見つめていてもらちが明かないので、栄は〝通話〟ボタンを押した。

 すると、耳に飛び込んできたのは、あの昔馴染みの石井憲吉の、明るくはあるがどことなく皮肉っぽくひねくれた声だった。栄がもだしていると、

「栄か」と憲吉の声は問うた。「河原栄、だな?」

「ああ」栄はかすれた声で答えた。「石井だな?」

「報せがあるんだ。誰かいるなら、人払いしてくれないか?」

「今、院長室で独りなんだ。盗聴器でも取り付けられていない限りは、ひとの耳は全くないがね」

 その言辞が気に入ったらしく、

「盗聴器か」石井は哄笑こうしょうした。「そりゃあ、気を付けないと」

 栄は憲吉の快活な笑い声を聞いて少し我を取り戻した。

「――それで、今日は何用だ?」

「無論、例の件に就いてのお報せさ」

「一体どんな報せだ?」

「当ててみろ」

「てんで判らんよ」

「実はな、あの件の詳細が、少しずつだが分かって来たんだ」

「そうか。――とすると、調査は進捗しんちょくしたんだな?」

「うむ。…実を云えば、もう相手の人数と名前まで判っている。後はタイミングの問題だな」

「なに、そりゃあ大したものじゃないか。一体どこの誰だ、相手は何人だ?」

 栄は思わず問い募った。

「それが相手は一人なんだ。単独犯なんだよ。日本国籍を取得しているが、生国しょうこくはアメリカ合衆国だ」

「――で、名前は?」

「アントニオ・マリャベッキ、という。どうやらイタリア系らしいな」

「ふむ。イタリア系アメリカ人のアントニオ・何たらか」

「マリャベッキ、だ」

「どうして調べた? ――ひょっとして、マフィアの…」

「違うちがう」憲吉は笑って、「簡単さ。――おれはあの翌日、昼間、車で現場に戻ったんだ。そうして、地面をよく見たのだ。すると、雑草の間の土の上に、車のタイヤのあとが残っていることに気付いたんだよ。そこで、更に念を入れて調べてみるとだな、車は一台だけで、しかもかなり大型のものだ、と推測できた。最初はワン・ボックス車を想定したんだが、違った。というのも、おれの知人でそういう筋に近いのがいてね、大学時代からの知人なんだが、そいつに写真を送って、調べて貰ったんだよ。そうしたら、意に反して、車はでかいスポーツ・タイプの輸入車、ときた」

「どこの車だ? 型式は?」

「テスラモーターズだよ。テスラ・モデルZX、というのが正式名称らしい」

 長野に訊けば詳細なスペックが判るかも知れないな――、と栄はにやにや独り笑いをうかべながら思った。

「ふうむ。余り聞かないな」

「そりゃあ、そうだ。アメリカの電気自動車メーカーで、ラインナップはどれも一台何千万とするからな。併し、正にそのお蔭で、敵の名前が判ったのさ」

「そこまでは判ったが、一体どうやって購入者を特定したんだ?」

「そこは訊かないでくれないか。おれには何とも云えない」

 憲吉には栄の知らぬ知人が――〝ウラの知人〟が複数いることは、栄が以前より憲吉との会話の端々から勘付いていることだったので、栄は触れないことにしていた。

「判った。続けてくれ」

「それで、おれはあの近辺に小型の監視カメラを取り付けて、マリャベッキが一体いつあそこに出張るのか、調べたんだ。お前に連絡するのが意想外いそうがいに遅くなってしまったのも、その所為せいだ。――見ていると、マリャベッキは、奈何どうやら火曜、木曜、土曜の夜十時頃にあそこへ来るらしいことが明らかになった」

「そうか。すると、明日の夜、ということになるな」

「そうなるな、実験上じっけんじょうの話では。おれの存在は、未だ勘付かれていないようだし、話は早いほうがいい。だが、おれたちご老体お二人さまで行っても頼りないな。もっと若手で、この一件に就いて知っている、そういう男はいないか?」

 栄は直ぐと思い付いた。

「いる。雪村くんだ」

「何をしている男だ?」

「お前も会っている筈だ。病棟付きの看護師長だよ。それ以外には、適材、って思い付かないね。これ、と云えるのは雪村くんをいては思い付かない。――いま一度念を押しておくが、雪村くんはあの青年の看護に当たり、この件をよく知っている。口も堅いし、膂力りょりょくもあるから頼りにしていい。――もう一度確かめるが、相手はそのマリャベッキとかいう男一人なんだな? 他にボディ・ガードなどはいないんだな?」

「ああ。いないようだ。――すくなくとも今の所は、ということだが」

「よし。じゃあ、早速雪村くんに話をするとして、明日の夜、此方こちらに来てくれるか。雪村くんの都合次第だが、今の所、わたしには幸いこれといって障碍しょがいは何もない」

「諒解だ。た車でお迎えに上がろう。土曜は午後十時頃来るのだが、火、木曜はいつも午後六時半頃来て、午後十時前には引き揚げるのがマリャベッキの通常の行動パターンらしい」

「それじゃあ、こちらへは午後九時過ぎに来て貰えればいいわけだ」

「そうだな。――午後九時十五分にそちらへ伺おう」

「宜しく頼む。雪村くんには一切を話して構わないな?」

勿論もちろんだ」

 電話は切れた。栄は、そのままPHSで雪村を呼んだ。


 翌午後八時半過ぎ、栄は雪村を伴って病院の職員用玄関に立ち、石井の赤いミニ・クーパーを待っていた。

 前日夕刻、栄が雪村に一切合切を話して助力を懇願すると、雪村看護師長は任務の重責性に就いて承引したらしく、やや蒼ざめた面色だったが、併ししっかりした口調で、

「判りました。お手伝いします」

 と約した。栄はそこでほっとした余り、思わず卒倒しそうになった。栄は、雪村師長からは断られるに相違ない、とてっきり思い込んでいたからだ。

 二人は病棟でその日の昼食として供された品を二人分冷蔵庫に取り置きしてもらい、午後七時過ぎに温め直して院長室に運ばせた。メニューは肉うどんで、特別に餅も入れさせた。二人はそれとブランデー抜きの珈琲を飲みながら食事を平らげた。世には〝病院ミシュラン〟という冗談のような書帙しょちつがあり、この河原メンタルホスピタルに対しては〝★★★〟即ち最高のランキングが付与されていたのだが、残念ながら二人はそれを玩味がんみするだけの気分的な余裕はなかった。

 雪村は、今夜の任務の詳細を知ってはいたけれども、敢えてそれ以上質問することはなかった。栄は、

 ――恐らく雪村にも色々疑問などあるのだろうが、詳細を聞くと士気ががれる、とでも考えているのだろうな。

 と師長の様子を見ながら考えていた。

 約束の時間の五分前に石井憲吉のミニは来た。

 雪村は、石井の顔を見るなり、

「ああ、あなたでしたか」

 と云った。憲吉は、

「石井です。元医師の卵、今は某病院の相談員をしています」

 とたけ場の空気を和らげようとするかの如く、まるで場数を踏んだバス・ガイドのように自己紹介した。

「じゃあ、そろそろ」

 栄は云い、車は発進した。憲吉は奈何どうやらあれから近道を発見していたものらしく、栄には見覚えのない風景の中を、快速力で車は走った。

 〝現場〟に到着したのは午後九時半過ぎのことである。

 栄が、

「おい、このお前さんの車はどうするんだい?」

 と問うと、

「なに、もう少し上流に行ったところに、また別の窪地があるのを見付けてあるんだ。ミニはそこに隠してくるから、お前さんたちは降りてくれていい」

 と石井は云う。栄と雪村が外に出ると、六月上旬のことでやや梅雨つゆざむの気があったけれども、上手く笹か竹藪のなかに身を潜めていられるのではないか、と栄は思った。

 それは栄の読んだ通りで、戻って来た憲吉は、

「さ、そこの竹林のなかで待とう。藪蚊がいるのはうるさいんだが、それを除けば案外過ごしやすいぜ」

 三人は、林の中で息を凝らして待った。

 そして、午後十時を数分過ぎた頃、果たして銀色の、この辺では滅多にお目に掛かる機会のない、いかにも高直こうじきそうな、外国車と思しき左ハンドルのスポーツ・クーペがやって来た。車は、せんだって今埜こんのたちと共に調査を行った窪地に入って行く。エンジン音はないが、その代わり磁励音じれいおんとでも云うのか、一種電磁的な音がする。

 ――ああ、そういえばこれは電気自動車なんだっけ。

 と栄が暢気なことを考えて悠長に構えていると、

「今だ」

 と叫ぶが早いか憲吉は年齢に不相応な俊敏さで竹を搔き分けて竹藪から飛び出て、今はクーペから降り立ち、車のドアは開け放ったまま、地面に蹲踞しゃがみこんで何かやっている男の背に向かい、

「そこまでだ、ドクター・マリャベッキ」

 と宣告し、同時につかつかと歩み寄って襟首をつかんだ。栄と雪村も遅れじと続き、雪村はスタン・ガンをアントニオ・マリャベッキの腹に押し当てた。

 マリャベッキなる人物は、三人を眼にして最初驚愕きょうがく畏怖いふの表情をうかべたが、すくなくとも表面上は直ぐに平静を取り戻して、返辞をした。

「アイ・アム・ソーリー、バット、アイ・キャント・スピーク・ジャパニーズ。アイ・フィール・ヴェリー…」

 そこで憲吉は、言葉を英語に切り替えた上で、

「わたしたちにはそのようなおとぼけは一切通用しない。現にわたしたちの許には、ここから解放されたか、あるいは必死で脱走した青年が来ている。青年は衰弱著しい情態だった。あなたには、この一件に就いての説明責任があると思うのだが、如何いかがか? し十分な説明がなされないのなら、われわれはあなたの身柄を所轄警察署へ引致いんちする用意があるのだが」

 とマリャベッキを難詰なんきつした。そして身振りで雪村師長の持つスタン・ガンを指し示し、これでどうだ、と勝ち誇った表情をうかべて見せた。

 アントニオ・マリャベッキは、雪村のスタン・ガンを見ると、途端に戦意を喪失したものらしく、肩を大袈裟に竦めて諦めの意志を示して、

「下に、行きましょう。その方が話は早いです」

 と日本語で云い、先日栄が見出した錠前に鍵を差し、暗証番号を入力しながら、マリャベッキ氏は、

「あの時脱走者が出たからロックを取り付けたのだが…、遅かったようだわい」

 とぶつぶつ云う。

 暗証番号を入力し終えると、金属で縁取られた円形の蓋が持ち上がり、マリャベッキ氏はそれをずらした。中には勾配の急なコンクリートの仄白ほのじろく見える階段があった。一行は、マリャベッキを先頭に、未だスタン・ガンを博士の背に突き付けている雪村、栄、そして殿しんがりは石井、という列を作って地下に降りた。マリャベッキは、どうしてなかなか流暢な日本語で、

「ここ、アメニティ…、居住性は余りよくありません」

 と云った。石井が列の最後尾から、叫ぶような声で、

「兎に角、ここで一体何をやっているのか、何が進行中なのか、我われはそれをゆっくり見せて貰う」

 と云った。

 ――憲吉のやつ、た昂奮しているな。

 と栄は思った。

 マリャベッキは、弱々しい声で、

「頼む、お願いですからわたしのこと、ポリスには云わないで欲しいのです。わたしはただの研究者です。一研究者にすぎません…。とても弱い存在です。ここでわたしが何をやっているか、お見せしますが、他言はしないで欲しいです。――いいですか、わたしは、人類の未来のための研究をしているのです」

「他言するなだと? そうは行くか。あなたは他人を自分の好き勝手にしようとしたではないか。その代償は払って貰わないとな」

 と雪村が罵声を浴びせた。雪村も、鍛二の件があるために、通報できないことはよく知っているのだが、敢えて口には出さなかったのだ。

 やがて一行は階段を降りきった。

 そこは、暗く、冷え冷えとした、何も見えるもののない空間だった。

 マリャベッキは初め、稍躊躇ためらう素振りを見せたが、闇にもの慣れた様子で壁をまさぐり、スイッチを押した。と、地下室の全体が浮かび上がった。

 それを見た瞬間、栄は、若しかすると自分は発狂してしまうのではないか、とくらくらする頭で思った。

 そこには、植物と複数の人間があった。が、その配置が異様だった。通常では考えられぬ状態だった。

 植物は、高さが一・五メートルほどあり、二枚だけある巨大な葉はほぼ楕円形の形を取っており、縁には鋸歯状、即ちぎざぎざの棘が生えていた。そして、その二枚の葉に一人ずつ抱かれるようにして、素裸の男女が挟み込まれていた。

「こりゃ…」石井憲吉が乾いた声で云った。「こいつぁ、なりは直立しているが、ハエジゴクじゃねえか。併し、此奴こいつは並の大きさじゃねえな」

 その後を引き取るように、マリャベッキ博士は、

「さよう」と云った。「ハエトリグサ、とも呼ばれておりますがな。学名はDionaea muscipula、北米原産の食虫植物です。――尤も、わたしはこの草本の遺伝子にはかなり手を加えておりまして、元の数百倍の大きさにまで巨大化させ、根毛の位置を変えて、ご覧の通り直立させたばかりではなく、葉からは消化液の代わりに、高濃度のコカインの溶液が分泌されています」

 アントニオ・マリャベッキは立て板に水の如く、得々とした口調で自身の研究成果を披瀝ひれきした。

 栄はそれを聞きながら、ずっと以前、未だ学生だった時分に、薬理学の講義で、コカインの溶液には痲酔作用がある、と習ったことを朧気おぼろげに思い出していた。

 ――そう、そしてコカインは同時に昂奮薬でもあり、そのために南米のインディオは休息もろくに取らず、何十時間もスペイン人のために銀山で働き続けることができたのだったな。

 栄はそう思い、アントニオ・マリャベッキ博士に、

「何も必要がないひとに痲酔をかけて、一体何をしようというんだ?」

 と問うた。

 栄の問いに、マリャベッキは一つ頷いて見せ、

「さよう、少々奇異に見えることは承知しております。――だが諸君、こちらへどうぞおいでなさい」

 と、博士は一行をその奇ッ怪な〝実験室〟に案内した。

 そのへやで巨大ハエジゴクの葉に包まれている男女は十数名だった。栄が見ると、揃いも揃って皆若く、また見目みめうるわしい容貌をしている。栄は憲吉の脇を突付いた。

「おい、見ろよ、なぜ美男美女ばかりなんだい?」

 憲吉は軽く首肯し、

「ああ、この男は、モデル事務所を装ってひと集めをしていたのさ。東京モデルオフィス――略してTMO。これほどダミー、ダミーした名前もないだろ?」

 と吐き捨てる如く云った。

「さて、ここをご覧なさい」

 アントニオ・マリャベッキ博士は、とりこになっている一人の足首を指した。そこには、巨大ハエジゴクから伸びた棘が刺さっていた。栄は、最初に遭遇した犠牲者の足首にも傷が付いていたことを直ぐ思い返し、こういうことだったのか、と心中で呟いた。

 アントニオ・マリャベッキは得々として説明を続ける。

「これ、この棘から、被験体の体内へはモルヒネが投与されるようになっています。コカインは、ご承知の通り、〝疲れ知らず〟の薬物です。モルヒネには陶酔作用があります。従って、この若者たち、わたしの審美眼に適ったとても麗しい若者たちは、疲れを知らず、陶酔の世界に遊んで、同時に計算しているのです。…ハエジゴクは、遺伝子を組み替えたり置き換えたりしたので、ご覧のような水耕栽培が可能となりました」

 栄は巨大ハエジゴクのにえとなっている青年の、水に浸かった素足をみた。ハエジゴクはそこに根を伸ばしている。

「栄養は…栄養はどうしているんだッ!?」

 我慢しきれなくなったらしい雪村が怒声を浴びせた。アントニオ・マリャベッキ博士は、各犠牲者の口に差し込まれたチューブを指した。

「あれで、経口的に、カロリーがきちんと行き届き、栄養バランスも取れた流動食を与えています」

「それは、どうかな」とは憲吉。「皆、ガリガリに痩せこけているじゃないか。カロリーは必要最小限度しか与えられていないんじゃないか? 我われが最初に接触した青年も、蹌踉そうろうとして歩いていた、と云うしね。――まあ、大体の仕組みは判ったが、一体これを使って何をしようとしていたんだ、ドクター・マリャベッキ?」

 マリャベッキ博士は、そう問われると如何にもアメリカ人らしく、胸を張り、倨傲きょごうとも尊大とも取れる態度で、

「わたしは、母国アメリカ合衆国で、医学博士号、工学博士号、理学博士号を取得しました。無論ディプロマ・ミルなどではない、アイヴィ・リーグの大学で学んだのです。そして、わたしはひとつの夢を抱きました。それは、当時普及しかけていたパーソナル・コンピュータ、PCですな、その機能を人間の身体に移植し、一種のバイオ・コンピュータというものを創ることも可能なのではないか、ということでした。わたしは、それを試験するために何百匹ものマウスやチンパンジーを使い、論文を読み、更に多くの論文を書き、十数年に亘る構想を経て、最終的な研究を行うためにここ日本に居を移しました。態々日本に本拠を移転したのは、この国は四季が判然はっきりしているために自然から受ける影響を予測しやすいためと、良質なチップや細かなパーツがアキハバラの近辺で容易に入手可能なためです。――そら、ご覧なさい。わたしの研究活動は、これらのヴォランティアがやってくれているのです」

 一同が見ると、犠牲者の頭部には電極が差し込まれ、そこから伸びるケーブルは最終的に一本に収束しているのだった。

「人間PC、即ちヒューマンPC。わたしはHPCという略称を用いていますが、これこそ次世代のパーソナル・コンピュータと呼ぶに相応しいものです。そして、それを創り出すためには、柔軟な思考活動の可能な人間の脳髄こそ最適なのです」

 アントニオ・マリャベッキ博士は――些か小児じみた仕種ではあったが――胸を張って見せた。

「その…犠牲者が皆美々たる容貌をしているのは、なぜだ?」

 アントニオ・マリャベッキは肩を竦めてみせて、

「わたくしの、審美眼に適した容貌の人物を集めたのです」

 と答える。

「じゃあ、知能指数などは、関係ないんだな?」

「はい。これは逆説的なことですが…、高い知能指数を示した人物よりも、寧ろ知能指数一〇〇前後の、いってみれば凡庸な個体の方が適していることが、実験的に明らかになったのです」

 すると、憲吉が、

「――その、あんたのいう、人間パーソナル・コンピュータという代物だが、悉皆さっぱりおれには見当が付かない。お願いだが、どうか、素人にも判るように、ひとつ詳しく説明してみてくれないか?」

 と問う。マリャベッキ博士は、再び嬉々とした様子で、

「ヒューマン・パーソナル・コンピュータ、略してHPCは、人体にPCの機能をそのまま詰め込んだもの、と考えて下さって、全く差し障りありません。脳には処理速度が実に十五ギガヘルツの、人体に適合した特殊なCPUを、バイオ・インストレーションという特別な方法で取り付け、これにより並の人体の通常の機能を遙かに凌駕する情報処理速度が得られます」

「つまり、頭脳が二つになる訳だな?」

 とは憲吉。話の腰を折られたマリャベッキは、

「いいえ。――このCPUは十七のコアを持っています。即ち人間の脳髄を加えると、十八のコアを持つことになります」

 と答えた。コンピュータには詳しくない憲吉は目を白黒させる――余計に混乱したのだ。が、それを尻目に、アントニオ・マリャベッキは咳一咳がいいちがいして、

「――また、胸部きょうかくにもバイオ・インストレーション法を用いて、容量一テラバイトのハード・ディスク・ドライヴ即ちHDD、或いはシリコン製の記憶装置を設置します。ここに、OSはじめ必要な情報やアプリケーション・ソフトウェアの全てを予めインストールしておくのです。ワード・プロセッサ・ソフトウェアからブラウザに至るまでの全てをね。

「…それから右腕の上膊部には、シリアル・ポートからUSBポート、IEEE1394ポート、SDカード他の記憶媒体向けポート、フロッピー・ディスク・ドライヴ、そしてディスプレイ・ポートはアナログ、DVIデジタル、HDMIに至るまで、全て搭載致します。そして無論、ブルートゥースや無線インターネット・コネクタも。

「――そればかりではありません。ヒューマン・パーソナル・コンピュータでは、人体の眼のレンズ体に特殊な加工を施して、眼そのものがディスプレイとなるようにしてあります。つまりですね、皆さんの視界に、インターネットのウェブ・サイトを表示して情報を検索したり、書類の作業を行うことも可能なのですよ。そして、それらの情報を他人と共有したいな、と思った時には、腕のディスプレイ・ポートに機器を接続して、他人に示すこともできるのです」

 アントニオ・マリャベッキ博士は滔々と語った。石井憲吉は、稍毒気どっきを抜かれた、といったていで、

「――まあ、一応判ったが、要するに、それについて必要な計算の全てを、ここで、このひとたちを集めて、意識が朦朧とした状態にして、脳に電極を取り付けた上で、その目的に必要不可欠な演算を不眠不休でさせていた、という訳だな?」

 と確かめた。マリャベッキ博士は、嬉々とした様子で、

「はい。全く仰せの通りです」

 と答えた。

 雪村は、怒りを抑えきれない、といった口調で、

「いいですか、あんたは何の罪もない、しかも前途ある若者たちを、どういった手段でかは知らないが、この場所へ連れ込み、そして非道な実験の被害者としたのだぞ。それに関し、自分の責任については、一体どう思っているんだ?」

 するとアントニオ・マリャベッキは、自信満々に、

「わたしは、ここで使っている――雇用している人びとは、犠牲だなどとんでもない、きちんと書面にサインも貰って、その上でここへ連れて来たのだ」

 と云った。雪村は、苛々する気持ちをこらえ兼ね、はっ、と嗤って、

「サイン? へえ、どうせ酒でもカッ喰らわせて人事不省の状態にして、その上で署名させたのではないかね? ――あんたにだって、ここにいるひとたちにも、親やきょうだいのいることくらい、想像がつくだろうに。それを薬物中毒者にして…。あんたは犯罪者なのだぞ!!」

 憲吉は、

「ドクター・アントニオ・マリャベッキ、あなたは非常に米国的なひとだ。つまり、いい意味でも悪い意味でも自信に満ち、そして多分に自己愛的だ。――併し、あなたにも、し自分がこんな形でこんな穴蔵のような場所に、自分の意志に反して連れ込まれたら一体どんな気分を味わうか、それが判らぬほどの心の持ち主でもないだろう。――あなたはそのヒューマン・パーソナル・コンピュータなる複雑な電子機械装置を考案し、設計するだけの高い知能があるのだから…。尤も、おれに云わせれば、あんたは単なる科学者というよりは、いわゆるマッド・サイエンティストを絵に描いたような存在…、そう、怪物的存在なのだけどね」

 栄は、そこで気に懸かっていたことを訊きたいと思い、

「それで、ドクター・アントニオ・マリャベッキ、件のヒューマン・パーソナル・コンピュータは、どの辺まで完成した――」

 と問い掛けたのだが、憲吉がそれを制し、小声で、

「アントニオ・マリャベッキには、研究のことに就いてはもう訊くな。ヤツをた得意にするだけのことで、おれたちには一利もない。今はマリャベッキの奴に、自分の責任を痛感させるべき時だ」

 と囁いてから、改めてマリャベッキ博士の方に向き直り、

「ドクター・アントニオ・マリャベッキ、今夜ここに揃っている我われは、別に〝法の番人〟を気取るわけではないのだが、それでも倫理的・道義的な観点からみた時、矢張りあんたの取った方法・やり口は非人間的なものである、というしかない。先刻さっきも雪村さんが指摘した通り、あんたが口車に乗せて、上手くだまくらかしておびき寄せたひとたちにも、どこかに家族がいるのに違いない。それを、こんな所で痲薬漬けにして…、これを前にして、あんたは何の痛痒つうようも感じないと云うのか?」

 と問うた。マリャベッキ博士は、それを聞いて稍意気消沈したと見え、下を向き、小声で、

たしかに、申し訳ない」

 と云った。

「被害者には、一体奈何どうやって罪を償うつもりだ?」

 雪村が問うた。アントニオ・マリャベッキ博士は、

「わたしに、できるだけの手は尽くさせて貰うつもりです」

 と小さな声でいう。それに対して雪村師長は、

「そんな、蚊の鳴くような声じゃ、何も聞こえないぞ!」

 と怒号を浴びせた。マリャベッキはすくみ上がって、

「わたしに、できることは、させて貰いたいと思う」

 と稍判然はっきりした、大きな声で云った。そこで栄は、

「では、具体的にどういうことをなさるつもりなのか、その辺が聞きたい。たけ具体的に願いますよ」

 と問うた。それに対してマリャベッキ博士は、

「――ず、わたしの雇用した社員をハエジゴクから解放して…」

 と云い掛けたが、そこをすかさず雪村師長が、

「解放したって、痲薬中毒の身じゃないか。そこはどうするんだ?」

 と問うた。マリャベッキ博士は、額に滲んだ汗をハンカチで拭い、二、三度深呼吸してから、

「薬物中毒者向け治療プログラムの整った病院などの施設が、日本にもあると思いますが、先ずそちらに入れたい。それから、社会復帰に向けた訓練をさせる。そういう段取りになると思う」

 と答えた。雪村師長は、畳み掛けるかのごとく、

「――それで、あんたの事業は? ヒューマン・パーソナル・コンピュータを創るとかいうプロジェクトは、一体どうするんだ? 続けるのか?」

 と問う。マリャベッキ氏は、荒い息を吐きながら、

「詮方ないので、HPCプロジェクトは…放棄しても構わない」

「あんたは先刻さっき、被害者は病院に入れる、と云ったが、今あんたの自由になる資産は、一体どの位あるのかね?」

「合衆国の銀行に…一〇〇万ドルほどの預金がある。それを使える」

 そこで栄は、

「ちょっと待った」と容喙ようかいした。「仮令たとい、ここにいる被害者たちを解放しても――医師としての見地から云わせて貰うのだが――、幾ら金を掛けて治療したとしても、だな、とてもじゃないが、元の健康体に復することは不可能じゃないか、とわたしは思うのだが…。つまりこれは、例の青年を診た時にも感じたことなのだけれど、内臓が総じてかなり弱っているようだ。それに、この実験のために重篤な精神病を発症することも考えられなくはない。要するに、ここから出したとしても、このひとたちは幸福になるとは思えないのだよ」

 栄の言葉に、雪村師長は、

「じゃあ、どうするのが一番だというのですか?」

 と問うた。栄は、マリャベッキ博士に向かって、

「ドクター・マリャベッキ、一つお訊きするが、ここの動力の源としては、一体何を使っているのかね?」

 アントニオ・マリャベッキは、しばし眼をパチパチさせていたが、軈て、

「無停電電源方式を採っておるのだが…、それが何か?」

 と答えた。栄は、それを聞くと、矢っ張りな、と腑に落ちるところがあり、

「それなら、ここの患者たちは、このままにしておくのが、一番良いのではないか。最初に逃げ出した青年は、恐らく何かのはずみで棘が抜けてモルヒネの供給が止まったがために脱走が可能だったのだろう。その辺を注意しておけば、案外この件は隠密に済ませることもできると思うのだが」

「闇から闇へ――、という訳ですか、院長?」

 雪村が稍不服そうなコメントを発した。――と、それまでもだしていた石井憲吉が口を開いて、

「河原の言葉にも一理あるな」と云う。「今ここにいる患者たちは、恐らく自分たちの置かれている情況も知らずに、幸福な夢の世界に遊んでいるのだろう。それなら、寿命が尽きるまでこの儘にしておくのが、いちばんヒューマニスティックな方法だとは思えないかな?」

 と云った。それを聞いたマリャベッキはパッと顔を輝かせて、

「それじゃあ、わたしのプロジェクトも…」

 と云い差したが、憲吉は、

いな」と答えた。「考え違いをするな。それとこれとは話が違う。我われは、あんたのために、不必要にひどく心を労さなければならなかった。――ご承知の通り、日本は法治国家なのだが、申し訳ないけれども今回はあんたを私刑に処することにする。――本来なら所轄しょかつの警察署に突き出すべきところだが、こちらにもちょいと事情があってね。悪く思わないでくれ」

 それを耳にして、河原と雪村は驚いて憲吉を見た。

「一体、何をするつもりなんだ?」

 河原栄は問うたが、憲吉は雪村に、

「スタン・ガンを出して、マリャベッキも連れてきてくれ。取り敢えず外に出よう」

 と云って、憲吉が先頭に立って歩き出した。栄と雪村、それにマリャベッキも続いて外に出た。雨は降っておらず、代わりに気持ちの悪い黄褐色の月が出ていた。

 憲吉は、マリャベッキに命じて自分のテスラに乗せた。その際、憲吉はマリャベッキから車のキィを取り上げて、マリャベッキが運転席に着くと、そちら側の窓を巻き下ろさせて、雪村に命じてスタン・ガンを当て、車の全てのロックを掛けた。

 一体何をするつもりなのか判らず、当惑している栄と雪村に向かって、憲吉は、

「ちょっと、おれのミニに戻ってくる。取ってくるものがあるからさ。いいかい、マリャベッキには注意していてくれよ」

 と云い、小走りに立ち去った。

 憲吉は、ものの三、四分で戻って来た。両手に抱えられたものを見て、栄は眼を剥いた。それは練炭と七輪だったからである。

「まさか、殺すのかっ!?」

 栄は問うたが、憲吉は悪戯児わるさごのように歯を剥き出して笑っただけだった。

 そして、テスラのキィを使って一旦ドア・ロックを解除すると、助手席側の床に七輪を置き、練炭を入れて火を点けた。それを見たマリャベッキは、

「おお、わたし、まだ死にたくない。何でもしますからそれだけは勘弁して下さい。殺されるのは厭です」

 などと恐慌を来して英語混じりに訴えたが、憲吉は、

「なに、殺しやしないさ」

 と云って、助手席側のドアを閉め、ロックし、時計を眺めた。

 栄は憲吉に、

一体奈何どうするつもりなんだ?」

 と問い掛けたが、憲吉はにやりと笑いを泛べ、

「この男を無能にしてしまうのさ」

 とだけ答えた。

 車の中には、次第に不完全燃焼した練炭の煙が充満してくる。マリャベッキは暫時車内でのたうち回っていたが、やがて動かなくなった。

 そして、十五分ほど経ったところで、憲吉は、

「そろそろ、宜しかろう」

 と云ってテスラのドア・ロックを解除した。けれども、マリャベッキは外に出てくる気配すら見せず、ただつくねんと運転席に座っているだけだ。

「どういうことなんだ?」

「どういうことなんです?」

 同時に問う栄と雪村に向かって、憲吉は、

「なに、ある空間内で一酸化炭素がある濃度を超えると、その空間内にいる人間は、中毒症状を起こして、二、三歳児なみの知能になるのさ。無論この儘放っておけば中毒死するのだが、流石にそこまで酷なことはできないからね。ま、おれ流の制裁を加えたわけだ」

 と涼しい顔である。栄は、

「――じゃあ、この後マリャベッキ博士は…」

「面倒だから、この際韮崎駅前にでもほっぽって置こうじゃないか」


 その後、この一件から三月ほど経って、栄は件の穴蔵を見に行った。丁度、中秋の名月の候である。

 すると、ここに囚われている犠牲者たちは、驚くべき変異を遂げていた。

 皆、頭から自分のそれと形状・大きさ共に同等の〝果実〟を稔らせていたのだ。どの果実も本物の頭とそっくりである。

 ――こりゃあ、丸で人間植物ではないか。

 栄は気味が悪くなって、その夜はその儘蒼惶とその場から立ち去ったのだが、それから更に三ヶ月ほどした頃再度見に行ってみると、〝果実〟は全て誰かが収穫したものらしく、後には元の頭しか残っていなかった。皆、モルヒネのもたらす陶酔に浸り、口に差し込まれた栄養チューブからエネルギーを受けていることは、頭部の電極が外されたこと以外、半年前と同様であった。

 マリャベッキ博士の行方に就いては、栄は何も知らぬし、又興味もない。

 こうして、少なくとも河原栄の中では、この一件は落着をみたのである。

 (以上、北海道大学文芸部誌「ぎよ」より許可を得て転載)


 繰り返して述べるが、慶一の持てる翰藻かんそうの才というものは精々この程度であった。自分の手になる稗史はいしに自身の力で結末をつけることも能わぬと云う非才の男であった。この時には慶一は既に文芸部との関係は過去のものとしていたが、どうやら肚の底では筆硯ひっけんの道には未練が残っていないと云う訳でもなかったものらしい。それには取りも直さず自身の罹患りかんせる精神病との関係もものを言っていたようだ。藝術と精神病との関係性に就いてはつとに論じ尽くされているところだが、藝術作品はいやしくも精神活動の反映した結果産物である以上、病みたる精神との関係がまったくないと云うことはあるまい。けれども、すべての精神病者はすべからく優れたる藝術家なり、とは言い切れないことも又真実である。慶一という一箇の人間にはこれから芽ぐむべき何らかの可能性はあるが、煎じ詰めて考えればどうやらそれは藝術という方面を向いてはいないらしい、という簡単な事実には本人はまだ得心してないようだ。ひとにも色々いるが、主に若い者に多いパターンとして、まず藝術家と云う職業にコムプレックス(憧憬ともいう)を抱くタイプ、あとこれは主に学生に多いようだが、医学部とか医者という職業にヘンなこだわりを持つものがある。とどのつまりを端的に言ってしまえば、孰方どちらも天の配剤によって決まるべき職業であって、それは要するに宿世の運命というものが大きくものを云うところで、たとい一個人が恋い焦がれたとしてもそれは単なる横恋慕よこれんぼというもので、いかに努力研鑽を積んだにしても右から左へ動くといった安易なる問題ではないのだ。それを、藝術家の志望者、或いはただ他人に比して自己愛だけがやたら強いだけのエセ・アーティストの中には非合法なクスリに手を出して清々としている不埒な輩がおり、そんなのを捉まえて言わせれば、「藝術家という人種は精神的に非常にタフにできているものだ。だから、クスリを使って〝向こう側〟に行っても成果品としての藝術作品を手にして無事に〝この世〟へと安着できる特殊な人種である」などという詭弁きべんを弄して得々としている始末。ホンモノは、クスリなど使う必要がなしにアチラとコチラとの無事な往還が自在なのである。

 さて、列車が遠軽まで進んだとき、慶一は四号車、つまり自由席座席車の床で、誰ぞ知らぬひとが敷いてくれた新聞紙の上に転がっていた。眠いことは眠いし、昼間の筋肉運動の成果として睡魔砂男は近くにいることはたしかなのだけれど、完全に睡魔に屈服するまえ、いやできうれば慶一本人としてもたけ無抵抗のうちになんの抵抗もせず素直に言うことを聞いて眠りたいとは思うのだけれども、そこであいにくこの延々二三四キロメートルに亘って展開する石北本線の線路事情というフィジカルな條件じょうけんが如実にものを言って、つまり平素交通する列車のすくない鉄道線路の常として頻りと無粋で無遠慮な激しい揺れが伝わって来るので、ある程度うとうとすることはできても睡眠をとるまでには至らなかったのである。これではB寝台車でも熟睡はムリかも知れないな、と思いつつうつらうつらしていると、その時列車は初めて五分以上停まっていたので、ここで一気に睡眠の壺のなかへ落ち込んでしまおうと思いぐっと眼をねむったところ、さほど経たぬ頃に右肩をかなり横柄な強さで執拗に突付かれ、詮方なしに不承して眼を開けたところ、車掌だった。検札に廻って来たのだ。慶一は寝ぼけ眼をこすりながらフリーきっぷを提示し、検印をして貰ったのだが、その際ふと思いついて、瑞生の人体に就いて簡単に説明してから、

「そういう学生風の男性をご覧になったことってあります?」

 と思わず問うてしまった。と、車掌は、此奴こいつは髄まで寝ぼけていやあがる、と判断したらしく、挨拶のつもりか帽子に手を伸ばしてちょっとずらすと、

「いや、残念ですが拝見した憶えは一切ありませんな」

 と簡単に答えただけで、軽く上体をかがめて礼をすると立ち去った。

 慶一が眼を上げると、遠軽えんがる駅だった。

 たしか、ここでは――。

 心事相違わず、慶一が見守っていると列車は最前と逆方向に走り出した。石北線の列車で遠軽を通過するものはみなこうして進行方向が逆になるのだが、この列車ではおおかた機関車を付け替えたのであろう。約二〇分に及ぶ停車時間を終えたのだが、駅弁を売っていればこの時間に買えたのだが、と思っても臍をかむ思いが残るだけだ。慶一は時計をみた。いま午前四時二〇分、終着網走にはたしか午前六時二〇分だ。あと、二時間。

 まえは茫漠として雲を摑むような問題だったが、いまの慶一には道内を移動する瑞生の表情が手に取るように分かった。ゲームセンターのストリート・ファイターでザンギエフを滅多打ちにしてやっつける時の顔、ウノのカードゲームで隣のものにドロー・フォー・ワイルドの手札をたたき込むときの顔、おおきいにやにや笑いをうかべて「さあ、来られるもんなら来てみねえ、オラ」と言っているのではあるまいか。瑞生の服装についてもピンときた。ル・コック・スポルティフの青いTシャツ、下は茶色いチノパンツ、スニーカーはコンバースの黒いのだ。うむ、間違いない。今ごろは一体どこで何をしているだろう? どこか旅館にでも泊まっているのだろうか。それともどこぞの駅舎待合室で硬い木製やプラスティック製のベンチの上で雑魚寝を極め込んでいるだろうか……。本州人の慶一には、〝島育ち〟を自認する瑞生の言動の全てが理解できていたという訳ではないが、分からなければ分からないなりに接することができた。言ってみれば、理解するのは二の次でよい。理解できなくとも好きになることはできるものである。瑞生はあのように豁如かつじょとした人となりなので自然ひとが集まったが、慶一は病の関係もあって人付き合いは得手ではなく、しぜん引き篭もりがちで孤独癖が強かった。それでも慶一がなかなか認めにくかったのは、瑞生が暗い音楽ばかりを偏愛することだった。キング・クリムゾンでも「ビート」辺りならまだ救われるのだが、「レッド」と「太陽と戦慄」が好きと来る。シャーデーよりもスザンヌ・ヴェガが好きだという。ザ・ブルー・ナイルを聞かせればスティーリー・ダンのがいいね、と来たもんだ。研究室にはCDラジオがあったが、いつしかトゥー・ライヴ・クルーのアルバムばかりが突っ込んであるような情態になってしまった。だが、あのように陰影を持ち合わせている瑞生だからこそ、こういう挙にも出るのだろうな、とは分かる。

 一体に瑞生は冗句もうまく基本的には明るい性質だったので友人関係も華やかで陽性の性質のものと看做されることが多かったが、明るい光のあるところ必ず濃い陰影が落ちるように、瑞生の性格にも暗い部分があった。この重要な点に気づいていたのは、瑞生の周囲、近い親族を除けば慶一ただ一人だったのではあるまいか。慶一には、まるでルービック・キューブのパズルを組み合わせて仕上げるようにして瑞生の性格を言い当てることができたが、その慶一だったからこそこうして取るものも取り敢えず、まったくの押っ取り刀で〝瑞生クエスト〟の旅に飛び出してしまったのだ。それはまことに向こう見ずなやり方だと断じ難じてよいものだったけれど、慶一にはもともと少しばかり放浪癖の強いところがあって、内地の親許で受験生生活を送っていた頃にも、突然出奔して大井川鐵道の井川線に乗りに行ったりしたこともあった。北大生になってからは余り経済的には余裕がなく囊中のうちゅうおのずから銭あり、と云う訳ではなかったのでその方はふっつりと止めていたけれども、今回の一儀では不意に復たスイッチがONになった、とみてもよろしかろう。だから、かくして瑞生探索の旅寝の空に身をおくのは決して痛苦ではなくて、実のところ非常な慶びであったのだ。このフリーきっぷは有効期間が僅々七日間だったが、慶一としては、しこの七日間のうちで瑞生の行方がようとしてつかめぬようならば、牧場でアルバイトさせてもらったりしてでも旅を続行したい、という若者らしくまことに単純かつ無謀なる望みと計画を腹中に蔵してさえいたのだ。ここで一つ疑問が油然ゆうぜんとわき出すのだが、慶一はひょっとして瑞生のことを恋していたのではなかろうか? この問いについては、その答えを知るのは慶一ただ一人なのだけれども、基本的に慶一は異性愛者であったが、特例がなかった訳でもなかったようだ、とするに留めておきたい。特殊な情愛もあったればこそ、瑞生の二面性も見通せたのであろう。だが、慶一がそれに自覚的であったかどうかは疑問である。

 急行「大雪」号普通車自由席車輛に乗った慶一は、午前五時、列車が北見を出る頃には華胥の国に遊ぶ身の上だった。この時間に、慶一の学生時代にものしたもう一篇の掌篇――、慶一のいかにも若者らしいナルシシズムのフィルターを通した眼では一応〝成功した〟作品であり、作者自身によりドーデーの尤物ゆうぶつからもじって「さいごの授業」と名づけられていたものをお目に掛ける。

--------

 鐘が鳴った。五時限目の授業は、三十五人の中学二年生にとっては本日最後の授業であり、また二年生の三学期の終了を告げるものでもあった。

 そして、音楽科担当のヤマダ先生にとっても特別な意味のあるものだった。

 教壇の先生は、静かに本を閉じてから云った。

「さて、みなさん」

 教室内にしじまが拡がる。

「みなさんは、今日を以て中学二年の課程を終えられるわけですが、ご存知の通り、私はこの授業を最後に学校を去ります。

「お別れは確かに辛いものですが、しかし一方では、丁度教育課程の大変革に当たるこの時期に停年を迎えるのも却って運が良いものなのかも知れません…」

 ヤマダ先生の別辞は寂然とした室内に静かに響き、平生はかまびすしいことこの上ない生徒らも、水を打ったように黙然として傾聴している。

「…最後に、来学期からみなさんがお世話になる先生がおいでになっていますから、ひと言ご挨拶をいただきましょう」

 すると、最前から教壇の脇に腰掛けていた若い男がすっくり立ち上がった。

「みなさん初めまして。ぼくはナカヤマと申します。現在、国分寺音楽大学の大学院に、博士前期課程の二年生として…」

 ナカヤマ先生の話を横で聞き乍ら、ヤマダ先生は内心で苦々しい思いであった。ナカヤマ先生は、短軀のヤマダ先生が教壇に立って漸く肩を並べられるほどスマートだったが、染めこそ入ってはいないけれども肩まで届く長髪は、横に並ぶと一層目障りなのだった。しかもその下からは、耳朶からぶら下げているらしい金色のピアスらしきものすら覗いている。今日はさすがにスーツを身に着けてはいるが、普段は革のジャンパーでも着付けていそうな雰囲気なのである。

(まったく、こんなやくざ者が音楽教師になるなど、世も末とはこの事だ。情けない)

 しかしナカヤマ先生は、気難しい老先生も拍子抜けする程の手堅さで挨拶を終えた。

 ヤマダ先生は咳一咳がいいちがいした。

「ナカヤマ先生、ありがとう。ご着席ください。

「みなさん。私から、最後に一つだけ述べさせて下さい。

「音楽というものは、私たちの体内を流れる、温かい血潮や息吹のようなものなのです。また、言葉を必要としない言語でもあるのです。私は、これまで二年間、それを伝えようと思って尽力してきたつもりです。どうか、この事は心の隅に留めておいて下さい。――では、新しい世代にバトン・タッチすべき時が来たようです」

 ヤマダ先生は稍汪然おうぜんとして教場を見廻して、

「元気で。どうもありがとう」

 生徒らは去った。

 ヤマダ先生は、ナカヤマ先生を連れて音楽科教員室へ引き揚げた。

「ナカヤマ君。私はね、もう三十五年も教師をしてきた」

 老教師は、二つのカップに珈琲を注ぎ乍ら云った。

「勿論色々な事があったよ。不良に殴られた事もあったし、若輩の同僚から老頭児ロートル呼ばわりされて、派手に掴み合いを演じた事もある。――だがね、きみ。一番得心が行かないのは、特にここ数年来なのだが、私は丸で雲をつかむようにしか、自分の受け持つ生徒を理解する事ができないことなのだよ。これこそ世代の違いという者かもしれないが…」

 ヤマダ先生は首を少し傾げ、珈琲を啜った。かれには一体何を云ってやったら良いのだろうな、と考えた。判らなかった。

 ナカヤマ先生は外見に相違して、品位ある落ち着いた青年であることが判り、ヤマダ先生は自らを少しじた。

「こんな時代に音楽教師の道を撰ぶのは感心だ。気を落とさずに、頑張ってくれ給えよ。きみたち若者に必要なのは、まず理想だ。現実を見るのも大切だが、まず理想を掲げなさいよ…」

 だが、そんな言葉も口から出ると、白々しく空に霧消するだけだった。

 ヤマダ先生が黙すと、俯き加減だったナカヤマ先生が代わって口を開いた。

「先生、今日のニュースは、ご覧になりましたか?」

「どのニュースだね?」

「近年、子供たちの脳の前頭葉が、年を追うごとに小さくなってきているという…」

「うむ」

 老教師は、暗然として頷いた。

「私などは解剖学には全くの門外だもので、詳しくは聞かなかったが、なんでも医学界だけでなく、教育界にも波紋が広がっているそうな…」

 ナカヤマ青年は一口珈琲を啜った。

「ぼくの指導教授に拠れば、ヒトの脳で最も大切なのが前頭葉の白質だと云います。高度な精神活動のほとんどを司るのだそうです。知的な活動のほか、感情や…」

「感情か。道理で生徒たちがクラッシックやジャズの醍醐味に洟も引っ掛けない筈だわい」

 と、先生は惻隠そくいんの深い溜め息を吐いた。

「一体どうして、こんな事になってしまったのかね?」

「さあ…。機械文明の発達に反比例して退化が始まったのだ、と云う学者もあれば、果ては、これは遺伝子プログラミングのためで、我われはこれからだんだん原始へと漸近ぜんきん回帰かいきして行くのだ、という学説まで出ていますが…」

 生徒たちの学業成績をみる限りでは、未だこの影響は顕著なものではなかったが、国語科を含め所謂いわゆる芸術科では、生徒たちの無気力及び無関心や、授業趣旨に対する無理解が軒並み問題になっていた。

「ナカヤマ君や、きみは今回の指導要領の改訂に就いては、どう思うね?」

 青年は無言で首を振った。

「ぼく、実は時どき、バンドでライヴ・ハウスに出るんです。でも、近頃は、年長者のお客は来て下さるんですけど、高校生より下の年恰好の子たちがぱったり姿を見せなくなって…」

 やがて青年は一揖いちゆうして去り、独りになった老教師は夕照のさす机に向かって暫し愀然とした色を見せていたが、お終いに一目音楽室を見ておこう、と重い腰を上げた。

 長年見慣れた教室に変わりはなかった。

 ただ一点を除いては…。

 巻き毛のバッハも、例の恐い顔のベートーヴェンも、古い肖像は既に貼り替えが済んでいた。

 最左翼にビートルズ。そしてミック・ジャガー。厚化粧のマーク・ボラン。

 視線を右へ転じると、キッスのジーン・シモンズが長い舌を露わにしている。アリス・クーパーは断頭台にいる。そして…オジー・オズボーンは蝙蝠の頭を噛みちぎっていた。

 連中は油絵になっても、元気いっぱいのようだ。

 ヤマダ先生は思わず眉を顰め、眼を逸らした。

 それから踵を返し、寂しい教室を後にした。

-------


 作者の慶一先生は大変お気に召していた(或いは、いる)らしく大得意であるようだが、実際慶一の才幹は、と云えばこのくらいが関の山なのである。非才のものは一切作品の制作をするな、止めろ、というのが本作の論旨ではない。ただ、見せられる側、読まされる側は実に悲劇そのものなのである。この点は忘れてはならない。それでも創作を、となおも仰有る向きには、「人は誰でも一冊は本が書ける(つまり自伝である)」との三木清の言葉を捧げる。

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