C.

 C.

 翌朝、眼を醒ますと午前七時過ぎだった。同室したのは〝鉄ちゃん〟らしいのが二人、ライダーがふたり、と云う構成だったが、いずれもすでにして室に姿はなかった。

 慶一はあてがわれていた二段ベッドの上段から床にとび降りると、洗面所で顔を洗ってだいたい身仕度を済ませ、食堂へと急いだ。一階の食堂は今が忙しさの盛りらしくて、ペアレントは捉まえられそうになかったので、のほほんとした表情をして入口でトレイを配っていたヘルパーの女の子を傍に呼んで、一.連泊は可能か、二.妙なことを聞くが、この辺りに沼や沼地はあるか、と二つ質問を出した。

 このユースホステルの食事は、朝は黒糖パンと珈琲に新鮮な牛乳、と決まっているそうで、慶一はいずれもおかわりして食べた。食べているうちに食堂のなかの人ごみは段々あつらえ向きに小さくなってゆき、三回目のお代わりをしている途中でペアレントさんが寄って来た。

「追加宿泊のご希望がおありだそうで?」

「済みません、スケジュールの都合でちょっと急なんですが……」

「いえ。――一泊であればお引き受けできますよ」

「あ、そうでしたか。それはどうもありがとうございます」

「それから」

「……は?」

「いや、この辺に沼地があるかどうか、とかそんなお問い合わせがあったようで」

「ああ、――そうなんです」黒パンの味のせいで悉皆すっかり忘れていた。「そうそう」

「それであれば」とペアレントさんは一枚の刷り物をとり出し、「これは、このホステルで作成しているこの辺の簡単な地図ですが、宜しければご参考になさって下さい」

「ああ、それは助かります。どうも恐縮です」

「レンタサイクルがありますので、よろしければどうぞご利用下さい」

「はい。ありがとうございます」

 慶一はぺこりと一揖いちゆうすると、早々に食事は切り上げて外出する準備をした。

 ――そうそう、こう悠長なことをしている訳には行かないんだっけ。

 慶一は早速ホステルのフロントに行き、ヘルパーを呼んで貸し自転車を一台見繕ってもらい、靴を履いた。幸い丁度よい大きさの自転車が見つかったので、チューブに空気を入れる手間もそこそこに、出かけることに決めた。

 クマは出たことがない、とはじょう、念のために〝クマよけの鈴〟は鞄にくくり付けて出発した。ヘルメットをかぶり、こぎ出す道はクマザサの茂みに挟まれた砂利道、三、四日前の雨のためにところどころ水溜まりができていた。

 慶一は和寒町内だと聞かされて来た、旨いと云う話のラーメン屋を目指すつもりでペダルをこいだ。

 山のなかである。夏休み中とは云え、特別に観光地という訳でもない土地でしかも平日のこと、周囲は人影もなく、聞こえるのはほぼ鳥のさえずりくらいである。慶一は道が進むにしたがってだんだん怖くなって来た。いっときなど前に進むのに困難を覚えて、自転車をこぐのも止して降りてしまったこともある。それでも自転車を押して歩き続けたのは、やはり瑞生の声がどこかで聞こえるような気がしたからだろう。瑞生の声はときに高くときに低く、ある時は烈々れつれつとまたべつの時は嫋々じょうじょうと、まるで慶一のことをたぶらかそうと試みる死者の霊魂のごとき夢幻、或いは廃棄せられし家屋のような脆い儚さ。山間に独りで分け入ってしまった慶一には、もうどこから何処までが鳥のさえずりで、どこからが人霊の呼ぶ声なのか、もうそんなことも分からなくなってしまって、また当人もどうでもよくなってしまい、たれもいない、恐らく今日と云う日はまったき無人のうちに暮れるであろうこの山道にて慶一はただひとり、それまで味わったことのない心情を胸中にうけ取って、自転車は停めてその傍らで如何にもほけほけしき様子でうつけたように気の抜けた表情で、まるで夜も昼もない、と云ったような顔つきをして佇立ちょりつするきりなのであった。瑞生のものと思しき声は、ある意味で聞き慣れた本物よりも何層倍も〝本物くさ〟く、またそれがために、それが決定的な要因となって真贋しんがんをみ破ることができたのである。日本国内では〝情死じょうし〟を遂げようと汲々きゅうきゅうしていない人間の方がまだ多かろうし、それなりに慶一のことを知っていなければ慶一のおかれている立ち位置の理解も驚きなくできなかったろうし、娘の入学が決まった時の慶一の様子を思いうかべればいい、と半ば高を括ってしまったのだった。

「それは……」

「ん? ああ鋤さて」いいなあ、懐かしいや、そうだな、そうだったな、と気を取り直して取り敢えず奈々湖さんだとえずとか、そういった不埒ふらちな考えは頭から搔き出して、しかも冷蔵庫からネコが這入はいったので強く説いてどこもけむに巻いてしまう、と云うようなことは精々ないことが橋元さんはどういう訳か考えもしなかったのであるが。

 さて、慶一は緑豊かな道を半ば茫然自失ぼうぜんじしつしてよろよろ歩いたり立ち止まったりを繰り返していたのだが、っと我に返ったのは小一時間も経過した頃だった。慶一が醒覚せいかくするには一定の刺戟しげきが、スティミュラスが必要になる訳であるが、今回その役目を担ったのは左手のクマザサの茂みが欠落していたことだったようだ。――慶一の弓手ゆんで、笹の茂みの切れ目から、傾斜の下の落ちくぼんだその底に、毒々しいヴィリジアンの沼が口を開いている。それはたしかに沼であった。鶏卵の腐ったような臭気もなければ、沼気しょうきの発生を示唆するものもない。ただの沼地らしかったが、それはまるで大地に開けるめしいた濁れる巨大な隻眼せきがんのようでもあり、またはぱっくりと口を開いた一辺が約六メートルの方形をした大地の巨大なる膿瘍のうようのようでもあった。慶一はしばらくの間心中しんちゅううつけたようにいっさいなにも考えずにその気持ちのわるい沼地を見下ろしていたが、やがて何やら人事不省ながらも知得ちとくするところでもあったものか、何ごとをも無意識裡むいしきりに行う人間に共通したあの手軽でいっさい力みのないなめらかなる一連の動作をもって自転車をスタンドで砂利地のうえに立てると(無意識に行ったと云うことは、しや軽トラックの一台でも来たらぶじな通行に困難をきたしたろうという一事を一切考慮しなかった点からも明らかであるが、これはこの際無視してもよい。何となれば、この辺にわざわざ入り込むような自動車はいっさい存在しなかったからである)、ワイヤー・ロープを用いてフールプルーフとして設けてあるところの防護柵をまたぎ、沼地のほとりへ向かってまるで一箇の夢遊病者のように半ばよろけるようにして行歩こうほしだした。それはまことにつたない、不器用な降下であったが、およそ五分もすると谷底すなわちすりばち形の窪地の下、沼地のすぐ傍にたどり着くと、そこでっと慶一は我に返ったようであった。

 慶一はそこで佇立ちょりつして眼をしばたたいていたが、そこで漸っと本来の我に返ったとみえ、周囲を見廻して手ごろな石ころをひとつ選んでから重さを量るように右手の平上でぽんぽんと二、三回弾ませると、ひょいと手を返し腕を後方へ伸ばすとその反動で以て石塊を沼地にたたき込んだ。意想外に派手な水音が立ち、我を取り戻したばかりの慶一は頭から冷水でも浴びせられたかのように首をすくめてっと湖面をまもったが、別段沼地の精みたいなものも現れず、たっぷり五分間待っても石を呑んだ水面は静かなままだったので、緊張の表情を崩し、改めて沼地に眼をやった――、どうやら慶一の立っている辺りは湿地帯のきわとでも云うべき地勢であるらしく、くだんの沼地の四囲には「立入禁止」を訴える黒と黄色だんだらの柵が、いかにもこの柵を打ち込んだひと自身途中で怖くなってきて仕事は多少ぞんざいだけどやっておきました、後はみんなして知るべしですよ、いいですかあ、とでも言いたげな調子、乱杭歯らんぐいばという表現を地で行く立て方で打ち込まれていて、慶一もこれは自分のここへ降りて来たのはあまり賢明なことではなかったのでは、と気づき、と思うと途端に背中がぞっとしてその場で回れ右して斜面を逆に登りだした――映画や漫画ではこんな時、沼地にんでいるマモノが現れて哀れなる犠牲者をひと息に水の中に引きずり込んでしまうところなのだが、さすがは文明国ということもあり、この時は幸いそんな化け物も現れず、また湿地に誤ってふみ込んで難儀をするといった仕儀しぎにもならずに済み、無事に自転車の立ててあるところへ帰り着いた。が、帰着するとそれはそれでストレスがあったらしく、自転車のハンドルに手が掛かったのと同時に慶一は眼の前にくろい点が何十も何百も出現してきて危うく卒倒するところだった。何か水分でもとりたい、スポーツドリンクでも飲めたらありがたいのだが、と思ったが、生憎あいにく過疎かそなるこの界隈かいわいでは日本じゅうどこへ行っても見つかりそうな例の自動販売機なる気の利いた設備も見当たらず、従って慶一は蒼い顔をして自転車のサドルに座りたっぷり十分間もかけて呼吸と意識が正常になるのを待たなくてはならなかった。そして、っと息が戻ると、もうここは去るべき時に来ていることを知った。ゆっくりとペダルをこぎ、後はユースホステルで貰った略地図の通りに走らせた。塩狩駅に立ち寄ってみたが、空は高く、地は静かで、あのような陰惨な事故が起きた場所だとはちょっと信じられなかった。慶一は自分が観光客の眼をしていないことに気づいていない。若し気づいていたならもう少し違った角度からものが見られただろうに。そろそろ昼の近いことを知って、慶一はも少し力を入れて自転車をこぎ、〝おいしい〟と云う評判のあるラーメン屋へと向かった。

 ラーメンはとんこつだったが、たしかに悪くなかった。

 食べ終えると代金八〇〇円也を支払い帰途につく。帰り道は行きと道を違え、前日バスでたどった幹線道路に沿って南下した。総じて云えることだが、北海道の人びとは自動車の乗り方が荒い。土地が広く、建築物もそんなに密集していないせいかも知れないが、制限速度四〇キロとされている平凡な地方道でも七〇、八〇は当たり前で出すのだ。慶一が〝車校〟に通って普通自動車免許を取得したのは二年ほど前の話で、この時ついてくれた教官は大型トラックの運転手上がりだという人だったがごく安詳あんしょうな態度の先生で、技術的なことも含めて幅広く車について教えてくれ、この先生によると「北海道人の運転は真似すると命がいくつあっても足りね」のだそうだった。――と、こんな追憶・感傷に浸りたくなるほど、この日の和寒町を走る国道四〇号線は車の姿がまばらだった。車がすくないということは、それだけ一台一台速度を上げてくるということで、一〇〇キロ、ことによると軽くそれ以上出していた車もあったかも知れぬ。塩狩駅にほど近い、ほとんど隣接していると云ってよいくらいの塩狩温泉ホテル並びに塩狩温泉ユースホステルに安着したのは午後三時前のことで、まだフロントが開いていなかったので、ユースホステルの方にレンタサイクルは返却したのち、ぶらぶらとその辺を歩きまわり、自販機でコーラを買い、塩狩駅に這入はいった。這入はいったとはじょう、二面二線のプラットフォームがのんべんだらりと拡がり、駅舎が添え物のようにくっついている無人駅だ。無人だが、列車の交換はできる。天塩国と石狩国の境にあるのでこういう名前がつけられたらしいが、付近には列車事故で名高い塩狩峠という悪路もある。塩狩駅はこの峠の頂付近に設置されている。慶一はコーラを片手に駅舎に這入はいった。時刻表をみると、下り方面(名寄・音威子府・稚内方面)は午前六時三六分、午前八時五二分、午後〇時二二分、午後二時三六分、午後四時五八分、午後五時五二分、午後六時二八分、午後九時二七分、終列車が午後十時三〇分。上り方面(旭川方面)は午前六時五六分、午前七時四二分、午後〇時四三分、午後五時五三分、午後七時七分、午後八時五三分、終列車が午後十時三〇分。残りの列車はすべて停車せず通過する。人里に近いため秘境駅、とまでは断言できないけれど、列車の本数だけあげつらえば立派に過疎地の無人駅としての條件じょうけんは備えているではないか。慶一は〝非番の戦士のくつろぎ〟とでも形容したい気分でコーラを飲み終えると、ゴミ箱に空き缶を棄てて一つ伸びをすると、もうチェックインを受け付けている塩狩温泉ユースホステルに向かって砂利の混じった土のうえをゆっくり歩いた。樹齢の高い広葉樹が何本か立っていて影を落としてくれるので、夏場でもこの辺は涼しい。ホステルの客室に戻り、早めに湯を使うと割り当てられた二段ベッドの下段に寝転がった(今日は温泉浴場では変事はなにも起きなかった)。少し眠ろうとしたのだけれども、疲れていたが、妙に神経が昂ぶっていてなかなか休めなかった。晩餐の時刻になったので、慶一もほかの宿泊客に混じって食堂におり、今夜はまともにジンギスカン料理を食べた。レンタサイクルなどの件で世話になったヘルパーの女性がいて、どうでした、とにこやかに問うので、いやああれは神秘でした、と適当に言い拵えて済ませた。

 やがて、就寝時刻が近づいて来た。ユースホステルの客室内は同宿の若いもので満ちていたが、うち二人が同行でバイクの旅行をしているらしくぼそぼそと話し合っているだけで、ほかの宿泊客は単独行であって互いに口を利きあうこともなく、静かだった。

 慶一はその静けさの中にふと窒息的な息苦しさ・胸苦しさを覚えて室を離れ、暗く静かに冷たい廊下に出た。

 その時だった。

「斜里へ急いで来てくれ」

 紛う方ない、瑞生の大音声が大声疾呼たいせいしっこした。

 それに雷で打たれたかの如く反応した慶一は、思わず腕時計を見た――、午後九時五〇分である。

 ――どうしよう。どうすべきか。

 だが、瑞生の声が言うことには間違いないのだし、ここはやはり出なければなかろう。

 終列車は午後十時三〇分だったのはうろ覚えで記憶にある。

 慶一は荷物をまとめて階下に降りると、食堂で片付けをしていた最前の女性ヘルパーに声を掛け、これこれでかくかくしかじか、とかいつまんで情実じょうじつを説明した。ヘルパーはペアレントに話をつないでくれ、結局今日一晩分の宿泊料金を払うなら、という形で了解された。

 慶一はフロントで慌ただしくカネを払うと、いそいそと真っ暗な北海道の闇のなかに姿を没した――。

 そして慶一は予定どおり午後十時三〇分発の「マイタウンかえで」なる快速列車、これが塩狩駅から旭川方面へ出る終列車なのであるが、それを無事捉まえて旭川へ向かった。列車は闇の中から一条の光となってすべり出てきた。

 キハ四〇系の車輛が使われており、慶一が腰を掛けると一体どこから出現したのか分からぬのだが、まるで夏の夜の蛾のように濃い印象を残す女性がつとやって来て、慶一が座ったのと同じボックスに腰を下ろした。窓際に席をとるので、しぜん慶一とは膝を突き合わせ向き合って座る恰好かっこうになる。何だこの女は、と慶一はもじもじしたが、女の方は別段気後きおくれしないらしく、しれっとして窓の外に眼をやりなにも気にしない様子。今夜は雨が降っているので、ピンクのポンチョを身に着けている。

 慶一は幾度か不審そうに女をちらちら見たが、女はじっと窓の外を見ている。

 ――その内列車は徐々に速度を落とし、隣の無人駅・蘭留らんるに到着した。

 女は立ち上がった。

 だが、そのまま立ち去るのではなかった。

 パンプスの靴底をかたかた言わせて通路に出ると、ついと慶一の方に身をかがめて、

「朝ご飯を食べる時、分かるわ。きっとね」

 と言って、慶一が返辞のへの字も言う前にささっと姿を没してしまった。

 慶一は呆気あっけにとられたが、言葉の方は心の中にぎゅっとしっかり刻まれた。

 旭川駅では二時間ほど待って、午前一時十五分発の石北本線夜行急行「大雪」号に乗れた。14系客車の四輛編成で、B寝台車が二輛に座席車が二輛という列車である。慶一はむろん座席車、それも自由席しか残っていなかったので、オンシーズンで客の多い車輛に乗り込んで、床の上にごろ寝をする他なかった。眠れ、という方がどだい無理な相談である。

 ここで、先に載せた慶一の手になる未完の中篇稗史はいしの続き、〝中〟として続きをお目に掛ける。いちばん尻尾の断章〝下〟に就いてはた機会を見てお目に掛ける。

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「いや」と院長は考えながら言葉を口にした。「もう望みはあるまい。我われにできる手は尽くした、といっていいだろう。このままにしておこう」

 二人は眼を瞑り、それから弛緩してベッドに横たわる青年の身体を見下ろした。放っておくと硬直が来るな、と栄は思った。だが、この青年の出自が判らぬ以上、これ以上手を触れるには及ばなかった。

「では、死亡診断書を…」

「要らん」栄は短く云った。「情実じょうじつは脇へいて、今回は不要だ」

「では…」

 席を立って外へ出ようとする三上を栄は引き留めた。

「いや、きみにはここにいて貰わなくては困る。誰も来ないよう、見ていて欲しいのだ。――当院の全職員には、313号室への立ち入りを禁じる旨、触れを出すが、患者が迷い込むかも判らん。そういった椿事ちんじの起こらないよう、きみには此所ここにいて貰いたい」

「判りました」

「それから、この件は無論だが他言無用だ」

「承知しております」

「宜しい。――では、宜しく頼みますよ。所用が済み次第、直ぐ戻ります」

 栄は313号室を後にして、院長室に戻った。

 室に入ると念の為ドアに施錠し、それから直ぐに電話に向かい、石井憲吉の携帯電話を呼び出した。何もなければ、憲吉は県立療養所の相談室にいる筈だった。

 相談室にひとがいるような場合は大概留守番電話に切り替わるのだが、その日は好運なことに、憲吉は三度目の呼び出し音で出た。

「はい」

 学生時代から変わらぬ、ぶっきらぼうな応対だった。我ながら妙だと思ったのだが、その声音に、栄は憲吉のタフさを感じ取り、奇妙な安心感を得、偸安とうあんした。

「朝話した、急患のことなんだが」

「うむ。どうだ?」

「今さっき、旅立った」

「そうか…。まあ、先刻さっき聞いた通りの痲薬中毒者ジャンキーなら、八方手を尽くしてもそういう結果になるのは仕方がなかろう。――で、ご遺族には話したんだろうな?」

「いや、それが…」

 栄は憲吉にことの次第をまんで説明した。話を聞き終えると、憲吉は惘然ぼうぜんとしたようだったが、一と呼吸措いてから、

「そいつぁ…ヤバいお客さんじゃねえか」

 と呟くように云った。栄は、っとまともに話のできる相手が見つかった、と半ば安堵する思いで、

「そうなんだよ」と云った。そこに至って、改めて栄は、自分の胸に暖かな血潮が流れ込むのを感じたのである。「他には誰にも話す訳には行かんのだ…。警察にも話せない、と云うのは、個人的なしがらみという側面もあるのだが…、併し、こんな症例ケースは、医者になってから、いや、学生の頃も含めて、初めて遭遇であうよ。一体奈何どうすればいいのか、悉皆さっぱり見当が付かないのだ」

 憲吉は、

「まあ、落ち着けよ。――今日はおれも幸い暇だ。厄介ごとは持ち込まれていない。だから、風邪を引いて熱っぽい、とでも云って、午後…そうだな、二時か三時にはここを出よう。で、お宅をお伺いする。お客さんは、それまで安置しておいてくれないか」

「判った。済まない。そうして貰えると大変有難い」

「なに、お互い様だ」

 そう云って、憲吉は笑った。

 電話が切れた後も、栄は暫く受話器を耳に当てた儘呆然としていた。

 けれども、入院許可の書類への署名や、障害者年金の受給申し込みに必要な診断書の作成など、院長としての事務仕事が待っていることをぐに思い出し、そういった繁縟はんじょくな作業に身を任せれば小半時でも鬱塞うっそくから逃れられるか、と思い、仕事を処理して行った。石井憲吉が来るのは午後半ばになる筈だったから、それまでに済ませればよかった。

 やが国手こくしゅ栄は昼食の時間が来ていることを思い出し休憩を取って妻富子手作りの弁当の包みを開こうか、とも考えたのだが、今日は食慾しょくよくが湧かなかった。

 ――さて、一体奈何どうするのが上策だろうかな。

 栄は考えながら、胃の痛みを覚えていた。の様なお客を拾ったのは、単なる運命か、はたまた悪運の為すところか…。考えても仕方のないこととは知りながら、栄は考えずにはいられなかった。

 その時、誰かが院長室のドアを控え目にノックした。ドアの硝子がらすには、白い姿がぼんやりと浮かび出ている。栄は、

「はい」

 と掠れ気味の声で返辞をし、立ち上がって解錠した。

「失礼します」と云って入って来たのは雪村師長だった。「院長――」

「うむ」

 雪村は後ろ手にドアを閉めると、低声で、

「あの急患、なくなられたそうで」

「ああ」

「それで、この後は…」

 云い差す雪村を、栄は手で制し、

「何とかする。心配は無用だ」

 とだけ云った。

「そうですか、何か…」

「もう、良い」河原は幾らか大きな声で口を挟み、再び「心配は無用だ」

 雪村は何か感ずる所があったらしく、最前よりは落ち着いた態度でうなずいて、

「判りました」

 と云った。それから、弁当箱の載ったままの栄院長の卓子を見て、

「お昼は、もう召し上がりました?」

 と問うた。栄は吐息を漏らして、

「いや、未だなのだ。どうしても食慾が湧かない」

 と云って渋面じゅうめんを作った。雪村は、

「院長、これから何があるか判りませんし、今のうち召し上がっておいた方が身の為ですよ」

 と忠告した。院長は、

「うむ。併し、一寸胃が痛んでね」

 雪村は、

「判ります」少し笑って、「わたしも、昼食を取るのに平生へいぜいの倍も時間がかかりましたから」

 栄が、

「用はそれだけかね?」

 問うと、

「――あ、浜田さんの障害者年金の件で…」

「ああ、それなら書類はもう出来ている」

 栄は卓上から診断書を取り上げて手渡した。栄は、たけ独りにして欲しかったのだが、察しのよい雪村にも判ったらしく、

「有難うございます。――では、わたくしは失礼致します。お邪魔しました」

 と云い残して院長室からまかて行った。

 っと独りになれた栄は、えず立ち上がって電子ポットから急須に熱湯を注ぎ、茶を煎れた。湯呑みに一杯、ゆっくり茶を呑むと、っと胃の中が落ち着いてきた様で、栄は弁当箱の包みを解く気になった。さいはと見ると、鶏肉の幽庵ゆうあん焼きに茄子の天麩羅、それから南瓜のサラダだった。幽庵焼きは栄の好物だった。

 ――憲吉は一体どうするつもりなのだろう? 何か当てがあるのだろうか?

 栄は食べながら考える。もっとも、当人に件の屍体したいを見せるまでは何とも云えない。

 ――し何も手立てがない、となると、結局表沙汰にせざるを得なくなる。

 併し、それは避けたかった。話の筋立て、配役、情況、どれを取っても汁気たっぷりのスキャンダルの種になるおそれがあった。話がどういう方面に飛び火するか判ったものではない。而も、通報者が第一当事者の又蔵だと云うのなら未だしも、事件の発生から半日以上おいて栄が通報する、というのは不自然で、明らかに上策ではない。

 考えながらではあったが、栄は何とか弁当を完食した。

 昼食後、自席に座った儘の姿勢でいた栄は、満腹感と神経の疲労からゆくりなくも微睡まどろみに落ち、半時間ほどうとうとした。

 それから覚醒して時計を見ると、午後一時半を回っていることに心付き、慌てて立ち上がった。革製のデスク・チェアが背後の灰色をした事務用ラックにぶつかった。

 ――しまった。うっかり寝入ってしまったか。

 栄は白衣に袖を通すと、院長室を後にした。

 ノックをし、三上の返辞を確かめてから313号室に入ると、青年は全裸に剥かれており、着ていたものは各病室備え付けの床頭台の上に畳んでおかれ、青年の身体には白いおいが掛けてある。

「何か、異常な点はなかったかね?」

 栄が問うと、三上は、

「ええ、先ず、今朝方も指摘した、刺突しとつしょうですね。――それから、着物を剥ぐ時に確認したのですが、下着は上下とも着けておりませんでした。後、これもその時に認められたのですが、肛門の周囲が大分糞便で汚れていました」

「ふむ」院長栄は気難しい返辞をした。「その他。何かなかったかね? パンツのポケットに何か入っていたとか…」

 三上看護師はかぶりを振った。

「いいえ。身元の特定に繋がるような物品はおろか、お金も一円さえ所持していませんでした」

「そうか…」

「先生、このままおいておきますと、やがて…」

「うむ。早急に地下に移した方が得策だな。――が、もう少し待って欲しい。わたしの知り合いが来て、見てくれることになっている」

「そうですか。…あの、それから、あの足首の刺突傷のことなんですが」

「うむ。どうかしたかね?」

「はい。傷周辺部の組織をごく部分的に採取して、長野さんに顕微鏡で見て頂いたんですが」

「ほう。どうしてそんなことを?」

 栄が問うと、三上看護師は多少赧然たんぜんとなって、

「あのう、余計なことかとも思ったのですが、余り気になったものですから、わたしが個人裁量でお願いいたしました」

 と答えた。

「ふむ。――それで、奈何どうだったのかね、結果は?」

「それが…、ヒトの組織細胞に混じって、繊維状の植物細胞と思われるものが確認されたそうなんです」

 栄国手こくしゅは白くなった右眉を上げた。

「なに? 植物細胞だって? たしかかね?」

「ええ。細胞壁に、葉緑体、それから中心液胞も見られるので、恐らく間違いないだろう、と仰有おっしゃっています」

「ふうむ」河原栄は思わず右手を顎下に当て、考える姿勢を取った。

 その時、へやのドアをノックする音が聞こえた。栄はへやの電灯を消してから、ドアにすっと近寄り、

「どなたかな?」

 と小声で問うた。すると、同様な囁きが、雪村師長の声で、

「お客さまです、院長」

 と返って来た。栄はドアを開けた。

 雪村師長の後から入って来た姿を見て、栄は幾分か救われた気がした。眼鏡を掛けた浅黒い顔はそろそろ還暦を迎える頃だったが、相変わらず精悍せいかんで、背は高く、痩せ形で、口辺には微笑をうかべている。石井憲吉だった。

「よう」栄は昔の学生言葉にならぬ様気を付けて話した。「元気そうだな。よく来てくれた」

 憲吉は微笑をうかべたまま点頭てんとうし、低声で、

「おい、ここにいるひとたちは大丈夫なのかい?」

 と問うた。栄は頷き返し、

「ああ、大丈夫だ。早速見てくれないか?」

 憲吉は雪村と共に313号室に這入はいった。三上看護師が電灯を点した。その直後、憲吉の、

「ちょっと、この掩布おいふ、取って貰って構わないかな?」

 との言葉を受けて、看護師は手早く布を剥がした。五月の湿っぽい天候という季節柄、青年の身体からはもはや屍臭ししゅうが漂ってくる。

 憲吉は、青年の屍体したいを、時間をかけて詳しく瞥見べっけんした。看護師は、遺体に関する具体的な情報や、その他要点に就いて簡潔に報告した。

 それを聞いた憲吉は、

「なに、植物細胞だって?」ととがめた。「勘違いじゃないんだろうね?」

「長野くんは、敏腕の薬剤師だ」栄は云った。「若し疑義があるのなら、下の臨床検査室を訪れて、顕微鏡を覗かせて貰ったら良い」

 憲吉は、

「そうだな。間違いがあると困るし、百間は何とやらと云うし、一寸行ってみるか。河原、案内を頼むよ」

 くして、石井憲吉と河原栄は、二人して鍵の付いたエレヴェーターに乗り込み、一階へ降りたのだった。

 長野は検査室の中で、退屈そうに新聞を読んでいた。二人がへやに入ると、ややかしこまった表情をうかべ、新聞のがらかたわらにおいて、立ち上がった。

「院長、何でしょう?」

 栄は隣の憲吉を指し、

此方こちらは、市内の病院で相談員をしている、石井くんという。――信頼してくれて構わない。唐突にここへ来たので多少驚かせたかも判らんが、先刻さっききみが気付いた、例の植物細胞を見せて貰おうと思うのだ。今、大丈夫かな?」

「ええ、その細胞でしたら、未だプレパラートが顕微に載っています。さ、こちらへ」

 と云って、二人を部屋の一隅へ連れて行った。憲吉は眼鏡をかけたままレンズをのぞいた。そして、

「…うむ、これは確かに葉緑体、それにこれは中心液胞、こいつはゴルジ体だな。――うむ、確かに植物細胞だ」

「だろ?」

 と栄。

「ああ。――併し、此奴こいつ奈何どうして傷口の中にあったんだろうな? まあ、ここまで来ると、植物学者ボタニストが必要になってくる訳だが」

「植物学者なんか呼んで、どうするんだ?」

 栄が問うと、憲吉は、

「勿論、この植物細胞のDNA解析をして貰うのさ。遺伝情報さえ判れば、この草本だか木本だかの正体も分かるからな。――もっとも、サンプルの細胞がこれっぱかりじゃあ、不足があるかもな」

 四階へ帰るエレヴェーターの中で、栄は、

「これ、単なる痲薬乱用以上の犯罪の臭いがするんだがね。お前はどう思う?」

「ああ。これには十中八九、犯罪が絡んでいるね。確実だと思う」

 憲吉は即答した。栄は、

「ううむ。この儘、無縁仏として闇の中に葬ってしまう、と云うこともできなくはないが…。仏さんには申し訳ないことになるな」

奈何どうしても、表沙汰には――、って云うのは警察沙汰という意味だが、しちゃならんのかい?」

「うむ。それが一番至当しとうな手続きだとは判っているさ。百も承知だよ。だけど、おれの類縁るいえんに、昔クスリ関係で捕まって懲役上がりの男がいてね、もちろん今は真っ当に暮らして恒産こうさんもあるんだが、その周辺の人間が神経質ナーヴァスになっていて、捜査の手が及ぶのをいやがっているんだ。――だから、今はその線は考えないで欲しいのさ」

「判った」憲吉は間をかずに返答した。「すると、一体奈何どうするね? あのまま葬ってしまうのも寝醒めが悪い、実に後味の宜しくない話だしなぁ…。――じゃあ、どこまでできるか判らんが、おれたちだけで調べられるか、一寸やってみるか」

 それを聞いた栄は「ええっ?」と云って片眉を上げた。

 その時、エレヴェーターは四階に着き、二人は籠から出た。院長室まで二人は無言で歩いた。室に入ってから、

「……何か、伝手つてでもあるのかい?」

 栄が問うと、憲吉は、

「うむ、ないでもないさ」

「どんな? ――それも、闇、かね?」

「まぁ、半分は闇だな。それがバレなきゃ、堂々と表に出せる」

「具体的に、どんな話なのだ。もっと具体的に聞かせてくれんか?」

「ああ。実はな、おれの一寸した知り合いに、警察犬訓練所の管理をしている、――つまりその地所の所有者なんだが、かくそういう男がいてね」

「ほう。そんな知己がいたとは、初耳だな。どこでどうして知り合ったんだね?」

「いやぁ。平たく云ってみりゃ、只の酒飲み仲間さ」

「ふうむ」

 栄が少しく怪訝かいがの色をうかべているので、石井憲吉は説明の労を取らねばならなかった。

 憲吉の話にると、その男は今埜こんのという名で、甲府市内の康衢こうくからは少し離れたところにある雑居ビル三階に店を構えるショット・バーの常連の一人であり、週に三日か四日、ことに拠ると毎晩でも来ており、カクテルやボトル・キープしたバランタインをオン・ザ・ロックでり、帰る足許が覚束なくなるほど呑むことも屡々しばしば、という為体ていたらくなのだそうだった。憲吉も自体左党で、酒には眼がない方だったが、その今埜こんのという男ほどではない。従って、マスターの作るカナッペやカルパッチョを肴に、ジンやコニャックをゆっくり味わいつつ、他の常連との会話を楽しんで過ごす、という程度で、店に顔を出すのも大抵は多くて週に三回か四回程度だったのだけれど、最初今埜こんのを見た時には、余り近くには寄りたくなかったのだ、という。

「ほう。それは一体奈何どうして?」

 憲吉は美男子ではないが愛嬌があり、医師を目指していただけあって、本人も元々ひとが好きなのだろう、それがそんなことを云うとは栄にはにわかに信じかねた。

「どうして、って…、形容するべき上手い表現が見当たらんが、随分剣呑な表情だったからね」

「へえ。じゃあひょっとしてこっちの…」

「いやいや。――まぁ、八九三も怖いには怖いが、そういう怖さとも違うな。云ってみれば、おれは見たことは一度もないが、亡霊に遭遇した時はああいう怖さなのかな、と思ったが」

「ふん。それでお前、一体奈何どうやってそんなのと近づきになったのさ?」

「いやぁ、元は喧嘩の仲裁さ」

「そうか」

「うん。――ある時、おれは止まり木に座ってジントニックか何かめていたんだ。左方に田部井さんという仁がいて、何かの話題で盛り上がっていたんだ。――そうそう、エマーソン・レイク・アンド・パーマーの、あの後楽園球場の来日公演に行ったとか行かないとか、そんな話だったかな。まあ、何でもいいや。兎も角、おれがそうやって呑んでいる所へ、奥から今埜こんのくんが蹌踉そうろうとやって来たんだ」

 石井の話に拠ると、今埜は田部井が足許に置いていた鞄に蹴躓けつまずいて顚倒てんとうし、床でしたたかに頭を打った。そして蹌踉よろめきながら立ち上がると、亡霊じみた平生の様相なぞどこへやら、田部井に向かって、

「おい手前てめえ、何てとこにものを置いてやがる」

 ともの凄い剣幕で喰って掛かった。石井はそこを、

「まぁ何だな、酒呑みの怒り上戸、ってやつだな」

 と評する。

 温順な性質の田部井は只管ひたすら謝ったのだが、今埜の方は怒り心頭、奈何どうにもゆるせぬ、と怒髪天を衝く、という表情で、今しも殴り掛からん、と鼻息を荒げている。

 そこへ、憲吉は割って入り、何とか仲裁を試みた。憲吉は、

「ま、幽霊氏はいつも隅っこの席で大人しく呑んでいたから、若しかしたら如何いかにも楽しそうにってるおれらをやっかむ気持ちもどこかにあったのかも知れんねえ」

 と後顧する。

 さて、憲吉は止まり木から降り立つと、田部井と共に雁首そろえて頭を下げ、

「これは連れ合いの不注意ですが、気付かなかったぼくも悪かった。どうぞ、田部井さんを殴ると仰有るなら、ぼくも一緒に殴って下さい」

 と云った。そこで今埜は漸っと怒りが幾分か和らいだようで、拳を解いた。憲吉は自分の右手の席に今埜を座らせ、

「さ、よかったら一献参りませんか?」

 と誘った。憲吉が、ビールでも、とすすめると、案外固辞せずに、

「一番搾り、いいね」

 とかすれた声で云った。そして、直ぐ様出されたジョッキを取り上げて、憲吉の持ち上げたそれと素直にかちりと合わせ、その儘口許へ運んで半ばまで空けると、気分も落ち着いたようで、最前自分が晒した醜態を愧じて極まりでも悪くなったものか、

「ああ、済まね」

 と云い置いて、後も振り返らず、孤影悄然こえいしょうぜんと店のドアをはいし出て行った。店内にはしばし沈黙が居座った。独り田部井は弱り切った様子で、

いやだなあ。おれ、石井さんに借りができちゃったよ」

 と掻頭そうとうすることしきりだったが、石井は、

「いやいや。こう見えて、ごと紛擾ふんじょうを収めるのは、昔から得意なんだ」

 と云って涼しい顔でショート・ホープに火を点けたものである。

 そこまで聞いて。

「ふうむ」と河原栄は云った。「それが、馴れ初めかい」

 今埜はそれから数週間して復た姿を見せるようになったのだと云う。

「ああ、そうなんだ。それからは今埜くんも田部井さんもおれに頭が上がらないみたいでさ、おまけに二人とも仲良くなっちゃってさ」

「おいおい、幽霊だの何だの、非道ひどくさしていたじゃないか」

「うん。あの仁は、元々孤独癖が強いんだね。職業を聞いてハハァ、と思ったよ」

「一体何をやって生業にしてるのさ」

「芸術家さ。地元では結構名の通った画家らしい」

「ふん。絵だけで喰って行けるのかい」

「そこさ。実家は土地持ちなんだね。地代が入るから、好きなことをして活計かっけいが立ち行くらしい」

「そうか。…で、その今埜こんのさんと田部井くんとは仲直りした、と云う訳か」

「ああ、こういうと何か作り話めいているけど、近頃は二人して近所のバーを飲み歩いてるよ」

「ははは」栄は一寸笑った。頬の筋肉を緩めるのは久し振りのことであるような気がした。「そういう訳か。で、その今埜さんという方が、その警察犬訓練所の地主だ、ということだな」

「ああ、そうなんだ。こういう関係だし、場合によってはちょいと金轡かなぐつわでもかければ、一頭くらい融通はして貰えるのではないか…、と思うんだが」

「ふうむ。成竹せいちくはあるのかい?」

 憲吉は微かに眉宇びうひそめ、

たしかに、とは云えん。併し、一寸持ち掛けて見ても良いのではないかな」

「口は堅いのかい?」

「うむ、それは請け合うよ」

「そうか」栄は拱手きょうしゅして思案に暮れた。「こうやって、話をしっている人間が増えると、必ずどこかで洩れるからな。最小限に留めたいのだが…」

「だが、この儘では二進にっち三進さっちも行かないのだろう?」

「ああ、そうだ」

 石井は人差し指を一本立て、

「放置しておくのが一番拙まずい。後々、話が露呈すると、あらぬ方面で問題になるかも知れん」

「判っている」

「特に怖いのはマスコミだよ。この病院で死んだことが露顕ろけんすると、〝死んだ〟が〝殺された〟に変わるかも知れないぞ」

「ああ、そうだな」

「いっその事、警察に申し出たら奈何どうなんだい?」

「――いや、それにはもう遅い。発生から時間が経ちすぎている。警察には話せない」

「じゃあ、やはり今埜に頼るしかないだろうが」

「警察犬なんか連れて来て、一体何をする積もりだ?」

「無論、調べるのさ」

「調べる? おれは警察犬の扱い方なんざ知らんぜ」

「その辺は今埜こんのに訊けばある程度判るだろう。基礎的なことさえ判れば、それで文句はないさ」

「…後でバレたら、問題になるぜ。そうなったら、その今埜さんも巻き添えにすることになる」

「大丈夫だ。一と晩、恐らく一、二時間借りるだけで事足りるだろう」

 栄は腕組みをして暫時黙もだして沈思していたが、やがて、

「うむ、じゃあそうするか」

 と吐息混じりに答えた。

「よし」憲吉はにやりと笑って云った。「じゃあ、早速呼んでみるか」

 栄は戸惑って、

「おいおい、ここは不味まずいよ」

「無論さ。今夜、〝レッド・ダイヤモンド〟へ来るようにいうだけさ」

 と云うと、憲吉は早速隠しからiPhoneを取り出し、電話を架けた。三〇秒ほど待ったところで、相手が出た様子だった。

「やあ、石井ですが。今、構わない? ――ああ、そう。…それで、今夜一寸話したいことがあるんだが、今日は来られる? あ、そう。じゃあ、午後七時でどう? OKね。はい判った。諒解」

 と口早に送話口に向かって言葉を吹き込むよ、電話を切り、

「奴さん、来る、って云ってるよ。今夜の呑み代は、お前持ちだな」

「ああ、それは構わんが…、おいそれとバーでできる様な話じゃあない」

「判ってる。一寸だけ小出しに持ち掛けて、相手が乗り地なら、二軒目に連れていく心算しんさんさ」

 と云って、また別の番号に架けた。

「ああ、〝砂場〟さん? 今日三名、座敷の個室で八時からお願いしたいんだけど…、あそうですか、じゃあ宜しく。――はい、石井です。じゃあ」

 と云って通話を終えた。余りにも話の展開が急劇きゅうげきなので、栄はやや不安を覚え、

「大丈夫かね、そんなに簡単に話を進めてしまって…」

 と云ったが、憲吉は涼しい顔で、

「なに、ことは急を要するのだろう? だったら、手早く彼是かれこれ手を配って置いた方が良いのさ。――今埜からは、シェパードでも一頭借りられたら上出来だと思っているんだけどね」

「で、犬を借りて、あの仏さんの臭いを辿たどらせる訳だな?」

「そうだ。その際、あの、…何つッたかね、あの第一遭遇者は?」

「又蔵だが」

「そうそう、その又蔵さんにもご同行願わなくてはなるまいね。一体どの辺でったものか知るために」

「うむ。伝えておく」

 石井は腕時計を見た。

「おう、もうこんな時間か。――おれ、今日は退院の可否に関する三者会議に出なければならなくてさ。…じゃ、七時に〝レッド・ダイヤモンド〟に来てくれよ」

「判った」

 石井はポケットから車のキィを取り出し、ちゃりちゃりと右手で弄びながら院長室を出た。栄も後を追った。憲吉は、

「おい、階段使わせて貰えねえかな。おれ、健康のために、たけ歩くようにしてるんだ」

「そうか。…おれも階下へ降りるから、序でに送ろう」

 院長室を出る際に、栄は階段室のキィを取った。

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