B.
B.
朝ぼらけ、その慶一は夢をみていた。ひどい厭夢であった。
慶一はその夢のなかで、南の国にいた――、アフリカや中南米の国家ではない。東南アジア、タイやカンボジア、シンガポール、そんなところだ。場所は海辺で、
慶一が
慶一が見ると、それは半冷凍の状態でクレーンに掛かっていて、慶一の方へしずしずと運搬されてくるところだった。なに、の「な」まで口にしたところで、慶一の口唇は凍り付いた。何よりも、巨大なそいつの全身から発する圧倒的な存在感が慶一のことをうちひしいだのである。慶一はぽかんと口を開けてそれを見つめた。クレーンはいま、それを最高点まで高々とつり上げたところで、これから現場の責任者たる慶一のほうへとそれを下ろすところだった。それはピンク色にずる
だが、そいつの
――
慶一が眼を醒ますと窓から朝日が射していた。うう、と小さく唸って慶一はベッドの上で起き直った。ひどく
慶一はボンヤリしているあたまを醒ますため、シャワーを浴びることにした。Tシャツを脱ぎ、ジーンズとボクサー・ショーツを脱ぎ捨て、バスルームに
それからバスを使った。慶一は全身に熱い湯をたっぷり浴びる。昨日、あの由美子とかいう
さて、今日はどうするか。慶一は思った。この分だと礼文島へ渡っても徒労に終わるだろう。そうすると、
あてのあるところ。
慶一は髪も丁寧にシャンプーすると、もう一度全身に湯を浴びてから外へ出た。
ドライヤーで髪を乾かし、衣服を身に着けると、朝食券をみた。午前六時三〇分から六階朝食会場で、となっている。朝食会場ね。
食事に行くと、直ぐにトレイを手渡され、料理も次々に運ばれてきた。お客はほかに一人ふたりいるくらいだ。メニューは和食で、お菜はほっけの干物と利尻昆布のみそ汁がついた。みそ汁はお代わり自由だと云うので三回お代わりを貰った。稚内市内産の新鮮な牛乳も楽しめた。空腹には一杯目の珈琲もしみる。
窓際の席をとって夢中で食べていると、
「お客さん、だれか捜し人かい?」
と問うた。
慶一は、何となく妙な世界、
すると女性は、慶一の席の向かいに座って、
「いやね、あたしの実家にいる大叔母ってひとが、結構勘が強いのよね、あたしの一族はそういう人が多くて、昨日お客さんと汽車でいっしょになったのは、あたしの従兄なのよ」
ああ、そういうことか。
「それで、あたしの実家はここから車で五分くらいなんだけど、
「あ、はあ……」
カネの話が出そうだな、桑原、くわばら。
「――あんた、学生さんだろ。特におカネ取ったりしない、ボランティアでみてあげられるから、一回来てみないかい?」
「……んん、そうですか」カネが掛からないと分かれば、好奇心の強いのは抑えられない。『好奇心はネコをも殺す』とはよく云ったものだ。「じゃあ、ちょっとだけみて頂こうかな」
「この先は汽車かい?」
北海道人とくると、札幌市の地下鉄を除いて、蒸機の牽引する列車だろうが、ディーゼル機関車だろうが、
「――ええ、そうですね。多分、午前十時四〇分発の上りに乗ります」
「あらそう。じゃ、急がないとね。汽車の時間のこともふくめて伝えておくから。あとどのくらいで出られそ?」
「そうですね」あらかた食べ終えた料理の皿が載ったトレイをみた。「あと――、三〇分もあれば」
「あらそう。じゃあ、下にクルマを待たせておくから。あんたが降りて来しだい、出られるようにしておくからね」
「済みません、なにからなにまで」
「いいのよ。袖振り合うも多生の縁、と云うからね」
慶一は部屋へ戻ると、ベッドに腰掛けてふうッとため息を吐いた。自分はこうしてここで動かずにいる――、積もりなのだが、自分の周りの方がぼくの方にあれやこれやと世話を焼いてくれて忙しくしているのか、それともぼく自身が自分でも気づかぬうちに大急ぎの存在になり
慶一は歯を磨くと外へ出た。
エレベーターで一階に下りると、ちんまりしたロビーの外には、約を違えずスプリンター・トレノが一台、ハザード・ランプをつけて横付けに停まっている。
慶一はフロントへ向かい、先ほどの女が受付係クラークを務めているカウンターに部屋のキィを返した。
「ええとご精算は……」
フロント係クラークはカウンター奥の機会端末のキィボードに向かい、かちゃかちゃと軽い樹脂製品のふれ合うささやかで心地よい音を立ててモニターを見ながら検索していた。慶一は昨夜の電話代が、と言い止した。言葉尻はのみ込んで
「――あら、ないわね、一切…。はい、じゃあお客さま、行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
と送り出された慶一は、昨日晩にくぐった戸口から
「さあ、じゃあ改めてはじめるとしましょうか」
「善く善くとじゃあ、答えは一つ、だろ?」
などと、若者らしい性的快感を発露する声、多少躁病的で無神経だけれども、その代わり一生に亘って精神科・神経科・心療内科には縁がなさそうな人びとが、先ほど渋谷駅頭で向日葵聖人活動をくり拡げる新興宗教勧誘者たちが、雑踏に態々出て来るよく理解のできない中年までの二、三人組みの女たち……。それらを引っくるめたような浅ましい人影を
「そうら、あんた、石塚の宅に行くんだろう」
女も、
「遠慮しないで車に乗りなったら。早くしないと汽車に遅れてしまうよ」
と
「車だと五分もかからないから」
「いろいろ済みません」
「いやいや、わたしらだってけっきょく誰かの世話になって暮らしてる訳だしさ。お互いさまだべさ」
トレノはエンジンが唸り、ぐんぐん速度を上げて田舎道をばく進する。窓外の景色も目まぐるしく変わり、ちらりと
「近道するから」
と言ってトレノのターボ・エンジンを思いきりふかせ、かなり急な勾配を一気に上る。
男の言葉に違わず、車はものの三分もすると大きな寺の山門の前に着いた。
「ここだよ」
と言い助手席を倒して慶一を車外に出してくれた。慶一が礼を口にすると、
「いらっしゃいませ」
と山門に立つ若い女が言った。
「よろしくお願いします」と型どおりの挨拶が済むと、あとはおどろきの連続だった。この辺の自然をとり入れた山水の庭園は時が時なら立原正秋の本に載っても然るべきものがあり、そこを巡る道をうっとりとして歩いて行くと、庭の端に
「こちらです」
おかみさんは
それから老女は慶一の方をふり向いて、
「いらしたかな、若いの」
と言った。慶一がみると、女は盲目かと思われるほどに眼が細かったが、その眼で慶一の方向を違わずにとらえていた。
「はい、お世話さまです」
これまでこのような場所に来たことのない慶一は
「んまあ、一つそこへ座りなさい」
慶一はそうした。老女はまた金色の神具のほうに向き直り、何やらぶつぶつと念仏のようなものを唱えていたが、
「ハッ」
とかけ声をかけて数珠を持った手を膝のうえに下ろし、上体を折り曲げてそのような苦しそうな姿勢でなおもぶつぶつ呟いていたのだけれども、その
ごくり、と慶一はつばを呑んだ。
老女はゆっくりと再び慶一の方を見やり、低い声で、
「あんた、急ぎなさい」
と言った。
「へ?」
「急ぐのじゃ。――神さまはそう
「急げって、どこへです?」
「何処へは、問題じゃあないな」老女は断言する。「何処に、よりも、いつ、どのように、の方がより重要だぞ」
「ははあ…」
慶一はすっかり気を呑まれて
「根っこは、一と口では言えぬが、大きな問題じゃのう。根は深いぞ。注意してかからぬと、いたい目をみることもあろうよ。だが、今しかない、今お主が探し出さなければ、永遠に失われるだろう。永遠に会えなくなるであろう」
「ぼっ、ぼくが探し出さないと?」
「そうじゃ。ここで探し出すのはお主しかおらぬ。お主でなければダメだ。そして向こうもお主が探しに出たことを知っておる。そして待っておる。だからお主は、全力でそれに応えねばならぬ。急ぎんさい」
慶一は鞄に手をやった。
「――あ、あのう、お礼はいくらさし上げれば……」
「お主は学生さんじゃのう。学生からは礼はうけ取らぬ、
何だかラテン語の講義で習った「Festina lente.」を地で行くような文句を聞かされたな、と思いつつ慶一は座敷を出た。と、そこの廊下におかみさんが待っていてくれて、
「お急ぎになられるのよね、
と廊下を
サニーを運転していたのは往路とはちがう男で、こちらは
「どうです、何か参考にはなりましたか、お兄さん?」
慶一はあい変わらず気を抜かれたような顔つきをしているのが自分でもよく分かったが、そこは一応納得したようにうんうん、と肯いてみせた。
「そうでしょうなあ」男は豪快に笑う。「あのお婆さんの
へえ、と慶一は思うのだが、同時にああいうのを禅問答と云うのじゃないかな、とも内心で小首をかしげる次第。しかし、慶一はなに宗の寺だか見そこなって
慶一は礼を言ってサニーを降り、車は運転手の男の
瑞生を捜すにはやはり余り時間がないのだな、と慶一は改札口を通りながら思った。それにしても、つかみ所のないものが問題だとは。慶一は時計をみたが、午前十時半を廻っていたのでそのままプラットフォームに出ることにした。
間もなく列車到着の案内があって、橙色に塗られた二輛編成の列車が入線してきた。各駅停車名寄行きである。車内は空いていて、慶一はだれも先客のいないボックス・シートで窓際の席を占めることがかなった。
昼間の宗谷本線に乗ってみると、窓の外は廃屋が多くみられた。いったい建築後なん年ほど経っているのか、真っ黒な木が朽ちている家屋が沿線に十も二〇もみられるのだ。
それをみて慶一が何か社会的に益のあることを思ったのかどうかと云うことはさておき、ここは暫く時間があるので、以前慶一が書きかけ、九割方完成にこぎ着けたのだが、最終的な落としどころを見失って
――
これより
その未明、工藤又蔵老人は、山梨県は韮崎市の南部を貫く、韮崎昇仙峡線という地方道を、自分の葡萄畑のある三ツ沢と呼ばれる地区から韮崎市街地へ向けて車を走らせていた。又蔵老人は三ツ沢に葡萄畑を十アールほど所有していたのだが、五月末という季節の午前三時に自家用車のタントを駆らねばならなかったのは、長く続いた
扠、老人は県道二七号線を中央自動車道のインターチェンジの方角へ向けて車を運転していた。変事が
と、一寸した
老人がやれやれと思った時、運転席の窓ガラスをこつこつと叩く音がする。その音に振り返った又蔵老人は、
窓を叩いた者は、固より
その姿を
「何だね? どうした?」
と
「た…助けて下さい」
と
「一体どうしたのかね? こんな夜中に」
問うたのだが、青年は
「
と繰り返すのみであった。又蔵老人は
――何か、
又蔵老人は、
さて、又蔵老人にとって、この
「おい、
と声を掛けた。すると青年は、半眼になったものの、何を見留めたのか、
「――最初に陶酔が来た。…それから甘美な覚醒が――…」
と虫の息で
――どうにかしないとな。而も早く手を打たないと。
又蔵老人は何とかこの災厄から逃れたいと思い、タントのエンジンを始動し、ハザード・ランプを消し、ブレーキを解除して走り出した。
取り敢えず老人は自宅に戻った。老人が車庫に車を入れた時には、既に
又蔵老人が臨席の招かれざる客の様子を見ようとしたとき、家の中から娘の涼子が飛び出してきた。老人のことを案じてまんじりともせず待っていたらしい。
「お父さん、どうもしなかった?」
心配性の涼子の
助手席側のドアを外から開けた涼子は、
「お父さん、どうしたの、この人?」と問うた。そして、青年に向かって、「もしもし、大丈夫ですか?」
と話し掛けて青年の身体を揺すった。併し、青年は
「お父さん、この人どうしたの? ――若しかして…
と
「まさか」と一笑に付した。「帰るさに…
「でも、気を失ってるわよ」
又蔵は眉を
「そうなんだよ。途中で救けを求めて来たんだが…、その――」
「救急車は呼ばなかったの? 警察に連絡はしたの?」
涼子の口調は打ち付けに
「うむ、それも考えたが…、
涼子は、父親と不時の
「じゃあ、河原さんの所に持っていったらどう?」
と発案した。
「ああ、栄さんの所かい。――併し、あそこは精神科だぞ」
涼子の云う河原栄とは、又蔵の亡妻である
「精神科でも、入院設備だって整っているんだし、血液検査くらいできるでしょう」
「うむ、それもそうだが…」老人は
「――仕方ないな。そうするか」
「じゃあ急いで連絡しないと。余り遅くなるとことよ」
「そうだな。――
又蔵老人は正体を失って助手席に
「大丈夫ですか? さあ、
と大声を出した。又蔵老人も肩を揺す振った。すると青年は、
「何!? 何だって!?」
又蔵老人は青年の耳に言辞を流し込もうとするが如く
「…欲しい」
と僅かに聞き取れる声で云った。
「何ッ!? 何だッ!?」
老人は更に大声を張り上げた。その老人の腕を、涼子はそっと叩いて注意を喚起し、人差し指を口に当てた。老人も直ぐにその意を
「…欲しい、欲しいよ。――くれよ」
青年は
「取り敢えず、家ン中に運び込もう」
「そうね。でも、あたし達だけで大丈夫かしら? 正人さんも呼んでくる?」
老人は前後不覚の青年の背中と尻の下に手を差し入れ、重さを量っていたが、直ぐに、
「うむ」と云った。「おれたちだけで間に合いそうだ。――涼子、お前は足の方を持ってくれ」
涼子は一旦引き返して縁側から日本間へ通じているガラス戸を一杯に開けてくると、車の助手席側に回り込み、又蔵老人の指図に従って美青年の膝の裏に腕を入れた。一方又蔵老人は左右の脇の下に手を入れて、
「行くぞ。せえの」
と合図を掛けた。二人の予想よりも、青年は遙かに軽量だった。青年の腰はたおやかに下垂した。が、臀部が地を擦ることはなかった。二人は黙然として、卒々とことを運んだ。ことは滞りなく済んだ。
「随分軽くて
「全くだ。骨皮筋右衛門とはよく云ったものだ」
日本間は客間を兼ねていたので、押し入れには布団の用意がある。老人と娘は
「可愛い。
などとの軽々しい
「こら。常ならぬ身体のひとなんだぞ。早く飯を食って学校へ行け」
と
「お父さん。早く連絡を」
と
「何だ、又さんか」何も知らぬ栄は
又蔵老人は委細を説明した。すると栄は、一と呼吸おいてから、
「なるほど、事情は判った。――して、未だ息はあるのかい?」
と問うた。又蔵老人はキッチンにいる娘に向かって、
「おい涼子、その人、未だ息があるかどうか確かめてくれ」
と大声で命じた。涼子には
「この
と
「ああ良かった。お父さん、未だ生きてるわ。息をしている」
との返辞を受けると、電話口に向かって、
「栄さん、未だ息があるようだ」
と告げた。すると栄は、
「そうか。じゃあ、これから直ぐに病院の車を向けるから、一寸待っていてくれ。おれも行くから」
と
「済まねえな。じゃあ待ってるから、よろしく頼むよ」
「なに、よくあることさ」
こうして、慌ただしく臨時のモーニング・コールは済んだのである。
河原栄は、言に違わず二〇分ほどしてやって来た。一人ではなく、部下が随伴して目立たない中型セダンとワゴン車の二台に分乗した人員は総計五名、白衣こそたれも身に着けてはいなかったが、皆その方面で
又蔵は一行の到着を知ると、直ぐ様サンダルを突っかけて外に出て、
「栄さん、朝早くから済まね」
と挨拶したが、
「否。――で、何処かね、その…お客さんは?」
と問うた。
「
又蔵老人が見ていると、医師なのか看護師なのか
「ヴァイタル・サインはあります」
「併し、かなり酷く衰弱している様ですな」
「点滴を打った方が良いのでは?」
などと栄に報告し、指示を仰いだ。
河原栄はそういった部下たちからの報告に、「うむ」などと返辞をしながら自分でも青年の脈を取ったり、
「エコーを見ると、心臓が弱ってるようだ。補水して、ジギタリスも投与してくれ」
と命じておいて、又蔵老人を脇へ呼んだ。そして、
「又さん、ありゃあ
と云った。又蔵老人は、
「ほー」と厄介そうに声を上げた。「どうして判ったんだい?」
栄は自分の眼を指差した。
「眼だよ、眼。オピエート――と云ってもあんたにゃ判らんだろうが、まァ平たく云えば
「いいや。車の中でもう朦朧としていたし、うちに着いた時は既に意識がなかったから、直ぐ寝かせた」
「そうかい。――尤も、ここまで
「何だい?」
「うむ。多分違法薬物の
「アイ・ヴィ?」
あの鍛二のことを思い出した又蔵は、稍落ち着かなげに問うた。
「ああ、静脈注射さ。併しね、この男の腕にはヘロイン・コーンって奴が一つもねえ。両腕ともまっさらだ。どういう形で摂取していたのか、それが判らないんだよ」
「ふうん」又蔵老人は溜め息のような声を発した。「で、
すると、栄は、
「そりゃあ勿論そうだろう。幸い、うちの病棟には空きがある。
又蔵老人は、
「ああ」と答えた。「本来なら、するべきなんだろうが…」
「判ってる、あんたの云いたいことは。鍛二くんのことだろ?」
そう
「…ああ、まあな」
「じゃ、後はおれに任せてくれ」
「――任せてくれ、って…、そりゃあ、栄さんに渡せられればおれの肩の荷は下りるが…、一体どうしようと云うのかね?」
又蔵が問うと、河原栄は
「ま、蛇の道はへび、だ。大船に乗った積もりでいてくれればいいさ」
とのみ答えると、くるりと背を向けて
「よし」と云った。
国手の
「どうだい、
と問うたが、栄は難しい顔をして、
「正直、判らんな」と答えた。「こういう
「そうか」と又蔵老人は力ない声で云った。「若し――万が一のことがあったら?」
「うむ。その時はその時で、打つ手はある」
「どんな――」老人は低声で、「闇、かい?」
すると、
「他聞の悪いことを云わんでくれ。合法的に片を付ける方法は幾らでもあるさ――最悪の場合はグレー・ゾーン扱いということになるが。兎に角、又さんには
そう
「そうかい。じゃ、済まねえが一つ頼むよ」
「じゃ、おれらはもう行くから。――ことは一刻を争う問題だからな」
「ああ、そうだな」
謎の美青年は既にしてワゴン車への搬入が済んでおり、残る部下たちは河原栄の指示を待っていた。栄医師は部下たちを前にしてぽんと一つ掌を打ち合わせると、
「さあ、出発だ」
と
「いや、全く困った客だったが、これで一と安心できるかな?」
又蔵は額に浮いた脂汗を拭いながら
「そうね。――それにしても、あの人大丈夫かしら?」
涼子はサンダルを脱ぎつつ述懐する。老人はそれを
「おい」と云った。「涼子、向後は
「――あ」と涼子。「そうね。正人さんは云えば直ぐ判ると思うけど、夕子には学校に行く前に釘を刺しておかないと」
涼子はそう云うと、二階の自室で着替えているらしい娘の許へ向かった。
河原国手たち一行が病院に着いたのは、午前九時前のことだった。幸いにも、この日は院長たる栄が診察に当たる予定がなかったので、
「この後、どうします?」
と上司に問うた。栄は
「そうだな」と云った。「取り敢えず、うちでできるのはSPEまでだったな」
「はい。長野さんに頼めば直ぐ手筈が整うと思います」
「今日出てるかい?」
「ええ。車があるのを見ましたから、いますよ」
栄と雪村師長とは寸時眼が合い、
「じゃあ、長野さんに至急SPEを頼んでみましょうか」
雪村は笑いの消えた顔で、白衣の胸ポケットからPHSを取り出しながら問うた。河原国手は
「うむ、そうしてくれ。――おれは、一寸電話をしなけりゃならんから」
と云い、院長室へ向かって歩き出した。雪村は美青年の病室の中に戻り、PHSで臨床検査室を呼び出した。
長野は直ぐに出た。
「済みません、喫緊の件なんですが、SPEお願いできますか?」
SPEとはsolid phase extractionの略で
「SPE? ――いや、わたしは今出勤して来たばかりだし、今朝は未だ仕事がないので構わんが」長野は一寸笑った。「それにしても唐突だな。目的化合物は何だい?」
「――それが、未だ不明確なんですが、院長によれば大麻やモルヒネなどに就いてやって欲しい、と云っていましたけど…」
それを聞いた長野は
「朝から大麻に阿片か。良い一日になりそうだな」
「済みません」
雪村は
「いいさ。どのみち、今朝は暇だから。――で、
「あ、血液です。笹井くんに渡して、直ぐ送らせます」
「朝からドラッグか。ヘヴィな朝だな」
長野は笑いながら電話を切った。雪村はナース・ステーションに向かって歩き出しながら装置をポケットに収めた。朝のナース・ステーションは、
「笹井さん」と低い声で呼び掛けた。「一寸お願いがあるんだが」
河原栄は院長室に入ると、背広も脱がずに
「はい」
「もしもし。朝早くから済まんな。おれだが」
すると、声のトーンが変わって、
「ああ、何だ、河原か」と憲吉は云うた。「今度は何用だ、
「いや、今回はそんな一筋縄では行かん。どうやらクスリ絡みだな」
「クスリか」石井は一瞬沈黙した。「おやおや、大麻?」
河原栄は以前薬物関係でも石井憲吉の手を借りたことがあった。
「いや、未だ詳細は判らん」
「暴れてるのか?」
「いいや、
「そうか。――栄養状態は?」
「最悪だ。
「ふうむ。…で、直ぐに伺った方が良いのかね?」
「いや、未だ脈は
「判った」石井憲吉は二つ返事で承諾した。石井が
「ああ、宜しく頼む」
受話器を戻し、栄は立ち上がると灰色のロッカーを開け、ワイシャツ姿になると白衣を着た。と、それを待っていたかのように胸ポケットのPHSが鳴った。第二病棟のナース・ステーションだった。
「河原先生、山中正恵さんの件で…」
認知症の患者だ。栄は直ぐに事情を察して、
「判った。直ぐ行きます」
と答えると、PHSをポケットにしまった。長い一日になりそうだった。
地階にある臨床検査室ではSPEの作業が着々と進められていた。
長野は違法薬物の検出にかけては決して他の検査士の
長野は装置に血液の入ったカラムをセットし、〝スタート〟スイッチを押した。
「レチキュリン、プラス…、ベンゾイルエクゴニン、プラス…、M6G、プラス…」
と独語しつつ記入して行った。書き込み終えると、手袋をはずし、旁らの電話から受話器を取り上げ、栄院長のPHSの番号をプッシュした。
河原栄は五回ほどの呼び出し音で出た。
「結果、出たかね?」
栄は性急な口調で問うた。長野は、
「出ました」
とだけ、
「で、どうでしたね?」
重ねて問う。
「院長の予想の通りでした。コカインとモルヒネに際立って高い反応がありましたよ。これは相当の
「他には? 大麻や覚醒剤、有機溶剤などは?」
「他は全てネガティヴ。只、コカインとモルヒネだけに異常なほど強い反応がありました」
「それだけかね?」
「それだけです」
「ふうむ。――あい、判った。朝っぱらから妙なものを依頼して済まなかった。有難う」
通話を終えた河原国手はふうっと溜め息を吐いた。死に瀕した認知症の老女に就いては既に家族へ連絡が取ってあった。あとは雪村師長が何とか対応するだろう。それはそれで良かった。
問題は、正体の判らぬあの美青年だった。
――厄介だな。全く厄介なお荷物を抱え込んだものだ。
最前、栄は院長室へ帰るさに、名も判らぬ〝眠れる森の美青年〟の病室を覗いた。今は三上という口の堅い中年の看護師に
「
院長が低声で問うと、三上看護師は、
「状態に変化はありませんね」と答えた。「それから、こちらが全身の所見です」
と云い、クリップでフォルダに留めた書類を手渡した。栄は受け取ると直ぐに
「身長一八五センチで、体重が六三キロか。衰弱もする筈だ。――外傷や注射針の痕に目立つものはなし、か…。なに、右足首に
三上看護師は直ぐにジーンズの
「比較的最近の傷のようだな」栄は先ず所感を述べた。――いや、
と河原栄が指摘すると、三上看護婦も、
「ええ、そうなんです」と同意した。「大分深い傷口ですわ。而も、上皮の辺りは
「一体どうしてこんな傷になったんだろうな?」
その言葉に、三上はうっそりと微笑んだだけだった。
「見当も付きませんわ」
院長室で、河原栄は窓辺に立ち、下唇を噛み締めつつ、
いや、思案を
栄は
憲吉は起訴と共に大学は退学処分となった。大学は丁度、解剖学や生理学といった基礎医学を修了し、これからBST、即ちベッド・サイド・ティーチングに入ろうか、という時期を迎えていた。栄は一と間多い風呂付きのアパートメントに引っ越し、憲吉をそこに住まわせて大学病院へ通った。憲吉の方は、金はあるが出来の悪い、国家試験に何度も落ちるような私立医大生を相手に、高時給を取って家庭教師のアルバイトをして生活費を作り、家事も受け持った。憲吉はその頃、
栄は無事大学を卒業すると、国家資格を携えて甲府に帰郷し、父の興した病院を継いだ。そして持ち前の経営手腕を生かして、
そして、この
本音を吐けばこの度は栄は乗り地ではなかった。
と云うのも、石井憲吉は自己の身辺に関し、よく云えばオープン、平たく云えば余りにも無防備だったからである。石井も謂わば
が、石井憲吉はそれを知ってか知らずか、自身の学生時代の失敗談――即ち〝若気の至り〟を、公然と誰にでも明け透けに話すのである。――
――そんな
「もしもし」
「313号室の三上ですが」
声は幾分上擦っていた。
「うむ。
「脈拍が弱くなっています」
「
栄はPHSをしまうと、足早に院長室をあとにした。院長室の他、職員用の仮眠室や会議室のある病院四階を去り、階段を使って三階即ち第三病棟の313号室へ辿り着くまで、栄は十数名の医師や看護師と擦れ違った――この病院には現在栄国手を含めて六名の医師が常勤していたが、
栄は健康のため
そして、幸いなことに、313号室に取り立てて注意を向ける者は誰もいなかった。
河原栄は控え目に313号室のドアをノックした。室の窓は暗く、どうやら照明を落としているらしい。
と、ドアの向こう側に、つ、と身を寄せる白い影が見え、
「どなたですか?」
と女声が低声で
「ああ、わたしだが」
と答えた。すると、ドアが内側から控え目に開けられ、栄国手はその隙間から身体を病室内へ滑り込ませた。
室内に
「
河原栄の指摘を受け、三上看護師は、
「先ほど、
「ふむ」
栄は美青年の肉体に取り付けられた脳波計などといった機器類の呈するデータを見た。
「芳しくないな」
ぽつりとコメントを述べた。三上看護師は、
「これでも、手は尽くしたんですよ。――だけど、
「なに、
「最初は切れ切れでよく判らなかったんですけど、〝もう帰りたいです、
「ふうむ。
栄はそう云って、美青年の穿いたジーンズの
――と、栄は、
「おや」と云って青年の皮膚を指で擦った。「これは何だろう?」
栄の指摘を受けて、三上看護師は国手の右食指の先端を見た。が、何も眼に映らなかったらしく、
「何ですか?」
と眼を丸くしている。栄は313号室の灯りを点けた。蛍光灯の光の下で、河原国手は改めて、
「ほら、よく見てご覧」と云って、指先を三上看護師の鼻面に突き付けた。「何か、あるだろう」
「ああ」
だが、河原栄はそのコメントには満足しなかった。
「これは塩なんかじゃないね。もっと粗く、ざらざらしている」指先でその感触を確かめ、「
河原栄は云いさま胸のPHSを取り出し、長野の番号にかけた。長野は直ぐに出た。
「お呼びですか?
「うむ。一寸気になるものがあるのだ。恐らくは何かの結晶だと思う」
「結晶ですか。臭いと味は?」
栄は先ず鼻で嗅ぎ、
「
「そうですか。判りました、
長野は言に違わず、五分後には313号室にやって来た。
「済まないな、忙しいところ」
栄が云うと、
「いや、今日はこれで時間のある方ですよ。定期尿検査と、あと血液検査が数件ですから」と笑い、「それで、ご用は?」
「ああ。この――患者の皮膚に付着しているのだが、どうやら全身に付いているようなのだ」
長野はプラスティックのサンプル・ケースと
「じゃあ、これで採取しましょう。顔と胸、背中と足、それでいいですか?」
「ああ、構わん」
長野は手慣れた仕種で刷毛を使い、青年の身体を動かさぬよう細心の注意を払い、サンプル・ケースに粉末を収めていった。その作業が済むと、栄は長野に、
「ああ、きみにはそれが何か、見当は付くかね?」
と問うた。すると、長野は口辺に薄く笑みを
「ええ、まあ大体はね」と答えた。「尤も、未だ推測の域を出ませんがね」
「で、何かね?」
栄は
「組成式とか分子量なら直ぐ判るので、先ずそれだけ調べます。それさえ判れば、具体的にお答えできます」と云った。「――けどねえ、
なることなら、推測が外れていることを祈りますよ、と不気味な言辞を云い残して、長野は去って行った。
栄は三上看護師と共に、うっそりとした不安を感じながら長野の背中を見送ったのだった。
――その時、栄のPHSが鳴った。
「院長、宜しければ回診をお願いしたいのですけれども」
下の診察室で患者に応対する要はなかったものの、その代わり今日は病棟内の入院患者の許を回って簡単に問診する予定があった。
「ああ、そうだった。諒解しました」
栄は三上の方を向いて、
「この…患者に何か変化があったら、わたしに
と云った。三上は、
「はい、判っております」
とだけ答えた。栄は三上に向かって
看護師を伴い、栄は全病棟の回診に一時間半を要した。その間、有難いことに313号室の〝お客〟のことは
河原国手は回診を終えると
「もしもし」
栄は
「結果が出ました。――いや、結果自体は一時間も前に出ていたんだが、院長が回診中だということを思い出しましてね。…それから、我が眼を疑った、ということもあったので、再度機械に掛けたんです。ところが、やはり一回目と同じ結果しか出ませんでね…。ところで院長、一つお訊きして宜しいですか?」
「うむ」
答える栄の声は
「あの患者、一体どういう
栄は
「それは、云えんな」と答えた。「申し訳ないが、我われもあの患者のことは、何も判らんのだ」
「そうですか」長野はすんなりと栄の言を受け入れた。「では、宜しいですか?」
「うむ」
「光学顕微鏡で一寸見ただけで大体目星は付きましたがね。あの患者の身体に付着していたのは、顔、胸、背中、右足とも、
「そうか。――モルヒネは…」
「モルヒネが検出されたのは体内のみです。体表からは一切検出されませんでした」
「そうか」
「はい」
二人の間に
「体内からも高濃度のコカイン代謝物質が検出され、そればかりか身体の表面にも付着している。これは、どう見ても
「いや、それはできないのだ」栄は
長野は五秒ほど沈黙を
「判りました」と答えた。「他言も無用、ということですね?」
「ああ。――理解して頂けて、助かりますよ」
「いやいや。こちらは院長の意の
「済まない。宜しく頼む」
そう云って、河原栄は通信を切った。
頭の中は
――ほぼ純物質の状態でコカインが全身の体表から? 一体誰が、何を目的として、どうしてあの青年をあの様な状態におくのだ?
栄は落ち着かず、
理解ができない。
その時、PHSが
「もしもし」
「三上です。あの、…患者さんの様子がおかしくなって来ました。脈拍が弱くなっています。呼吸も浅くなって…」
「判った。
栄は院長室を飛び出すと、階段を急いで降りて313号室に向かった。ノックもせずに暗い室内に這入る。
青年は
と、不意に青年の動作が止んだ。宙に突き出されていた四肢からはぐたりと力が抜けて、ベッドの上に
三上看護師は、職業的な冷静さで青年の周囲に所狭しと置かれた機器類のディスプレイを見て、
「心肺停止状態です」三上看護師は
――慶一の乗るキハ四〇系の鈍行列車は、宗谷本線をごとごと揺れながら南下し、音威子府駅には定刻午後一時一六分に到着した。と、記憶のどこかに引っかかっていたものとみえ、ここは〝駅のお蕎麦〟で
しかし何故?
その解答もどうやら瑞生をとり戻してからでないとただしく貰うことは不可能らしい。
それから慶一の思念は、今日の宿をどこにするか、と云うことに移った。どこと云えば慶一はまず第一に札幌を思い出すのだが、必ずしも道央やどこか特定の土地をぜひ訪れろ、と云うわけでもなかったようだし、ではさて、次に探すべき心当たりは…、と考え、今夜の夜行で札幌へ戻るか、と思ったが、時刻表をぱらぱらめくっていると、道内のユースホステルの一覧表が開いた。そうだ、廉価に宿泊すると云う時には、ユースホステルを利用するという手もある。但し
その後、慶一は自分と瑞生のことをじっと考えていた……、瑞生は自分にとってどういう存在だったのか、又自分は瑞生にとって大切な存在だったのかどうか。慶一と瑞生が知り合ったのは慶一が二年生になる時だ。それ以降、研究室への分属や必修科目の単位の取り直しなどなどのイベントを経て、そう言えば瑞生は慶一にとって欠かせない存在になっていた、と言える。瑞生にとってどうなのか、は分からないが…。
午後二時五六分、慶一は急行「宗谷4号」に乗って音威子府を離れた。和寒に午後四時十九分につき、ここで下車して十六時三三分発、道北バスの〝旭川-士別-名寄〟線に乗って、定時より八分遅れて午後四時四九分に塩狩温泉に安着した。
塩狩温泉、塩狩峠は小説「塩狩峠」で少しく知られた土地で、後年記念館も建てられる土地柄なのだけれど、概して観光地としてはマイナーで知名度も低く、のちに塩狩温泉ホテルも塩狩温泉ユースホステルも閉鎖の
この塩狩温泉ユースホステルは鉄筋コンクリート造りの温泉ホテルに併設される恰好になっており、大浴場はホテルとユースホステルで共用している形である。
慶一はユースホステルにチェックインして、序でに(勧められたのが半分と、向後使うかも知れぬので必要があと半分で)日本ユースホステル協会への加入手続きをとった。それが済むと部屋番号を教えて貰い、早速温泉に浸かりにゆく。
こうして大浴場で温泉に浸かるのはいったい何年ぶりになるだろうか。
そう言えば自分は折角北海道に暮らしていると云うのに、温泉旅行などとしゃれ込むことはこれまでほとんどなかった。
「うん、
と身体を洗いながら心の中で呟いた積もりの言葉は思わず知らず大きな
その後で慶一はゆったりと浴槽に浸かったのだが、二、三分も経った頃だろうか、湯殿と脱衣所とを隔てるガラス戸を乱暴に閉てる音が聞こえ、あれえ、っと思うと明らかに女湯の方角から、野太い男の声で、
「沼知を探せ、沼地を。――あとは必要ねえよ」
と言うのが聞こえた。
慶一は俄にぞーっとなった、何となればあの声が聞こえたのは自分一人であったろうこと、つまりあの声は自分へあつらえ向きなものであったこと、そしてあの声の意味するところはじっさいに見てみなければ分からぬ、行ってみなければ分明にならぬことを悟ったからだった。
慶一はもう気が気でなくなって了い、名物のジンギスカン鍋も余り喉を通らない始末だった。それに、慶一は大学構内の芝地で夏期に開かれるジンギスカン・パーティ(ジンパ)にはかなり頻繁に出席していたから、ここでまたタレに漬け込んだラム肉を焼いて食べてもそう目新しいというものでもなかったのである。
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