B.

B.

 朝ぼらけ、その慶一は夢をみていた。ひどい厭夢であった。

 慶一はその夢のなかで、南の国にいた――、アフリカや中南米の国家ではない。東南アジア、タイやカンボジア、シンガポール、そんなところだ。場所は海辺で、波止場はとばに立ってよく晴れた空を眺めているうちにだんだん沖の方に大きな貨物船が集まり、そこへ、何だか土左衛門にむらがるうみほたるのように(なぜこんな妙な比喩が浮かんだのかは不分明だが、同時に奇妙にシックリくる表現であった)、艀が集まってゆき、少しずつ荷物を積んで埠頭へと戻ってくる。艀舟に載っている荷物はどれも似たり寄ったり、言われなくとも慶一には自ずと知れたものばかりで、それは冷凍された海産物、イカやタコがメインだったが、パレットに搭載された冷凍食品を水揚げするのがいまこの時間にこの港湾に課せられたプロジェクト、事業であって、それをおかから監視すると云うのが慶一がこの仕事での活計かっけいであった。時おりクレーンや冷凍車がかたわらのアスファルト道をよぎって影を落とし、そのたびに何となく癖になってしまったかのように空を振り仰ぎ、そのたびに今日が牢晴ろうせいであることを意識にたしかなものとして捉えるのだが、なんど空を見て(ああ、今日は快晴だな)と気に留めても、たみる度にああ、今日はやっぱりいい天気だったな、と考え直す。その馬鹿げたくり返しを経験しつつ、慶一の心はどこか鈍磨どんましてしまったものか、昼前のいっ時、具体的な感触で云えば午前十時半ごろでも当たるものだろうか、その頃になると新たに眠気を覚えて来ていたのだったが、退屈つれづれを覚えても居眠りはご法度である。即刻馘首かくしゅされるのがおちだ。ことが起こったのはその時のことだけれども、その代わりにお蔭で慶一は華胥かしょにあそんでおまんまを喰いっぱぐれずに済んだというものだ。

 慶一が佇立ちょりつしてヘルメットを直していると、ボス! と声が飛んできた。声のしたほうをふり返ると、そいつがっと視界にとび込んで来た。それは初め、慶一の眼にはわるい冗談に見えた。そして、そいつが発する耐えがたい腐臭によってジョークでも何でもないことが分かると、次には慶一にはいつぞや話題になった、太平洋上で釣り上げられ〝ニュー・ネッシー〟の肉塊を思い起こさせた――、しかしながらニュー・ネッシーふぜいとは決定的にちがう点が一つあった。こいつはまだ生きているのだ。生きている。

 慶一が見ると、それは半冷凍の状態でクレーンに掛かっていて、慶一の方へしずしずと運搬されてくるところだった。なに、の「な」まで口にしたところで、慶一の口唇は凍り付いた。何よりも、巨大なそいつの全身から発する圧倒的な存在感が慶一のことをうちひしいだのである。慶一はぽかんと口を開けてそれを見つめた。クレーンはいま、それを最高点まで高々とつり上げたところで、これから現場の責任者たる慶一のほうへとそれを下ろすところだった。それはピンク色にずるけた肉の塊だった。慶一との距離はどれくらいあったろうか、かく慶一はそれの放つ強烈な腐臭、腐敗したタンパク質の正に鼻の根も曲がりそうな臭気に堪えかねて、こみ上げる吐き気に負けそうになっていた時、いきなりそいつが動いた。いや、手を挙げたり尻尾を振ったりしたのではない。そいつの頭部には巨大な口がついていた――、身体と同様皮もむけてしまい、口唇もくちびるが溶けており、それは精確せいかくには口と云うよりは口の残骸としたほうが正しいのだが、兎も角そいつはその器官を使って必死に何ごとかを慶一へ伝えようとしていた。

 だが、そいつの醜怪しゅうかいさ、そいつの放つ臭気にあてられて、慶一はこいつを棄てろ、早くおれの眼のとどかないところへ持っていけ、と命ずる。――と、そいつにも慶一の指図が伝わったのだろうか、必死で口唇と全身の筋肉を使ってアピールし、どうにかじぶんの意志を遂げようとしている。すべて無駄な努力だが……。慶一は強固に命令し頑固に指示をだしつづけたので、その〝躍る肉塊〟は徐々にその眼の前から持ち去られた。必死で抵抗を続けるのであるが、慶一にもふいとその真意のようなもの、ひょっとすると此奴こいつはじぶんに何か非常に大切なものをもたらそうとしているのではないか、だからこんな姿になるまであてどもなく長期間に亘って浮浪漂流を続けたのではあるまいか、と云うようなことはうかぶのだが、慶一がもう一度ふり向くと、それは沖へ向かう艀舟に載せられて廃棄される道をたどっていた……。

 ――

 慶一が眼を醒ますと窓から朝日が射していた。うう、と小さく唸って慶一はベッドの上で起き直った。ひどく盗汗ねあせを搔いていた。とすると昨夜は……、いやホテルにはチェックインしたのだ。けれども……、そう、こうしてまだ受話器を握りしめているので、昨日電話を架けたことはよく覚えている(もう一度往生際悪く受話器を耳に持って行ったが、何も音はせず、完全に〝死んで〟いた)。とすると、電話をしながら眠ってしまったのだろうか。浴衣ものりが利いた情態じょうたいでベッドの上にたたまれてある。時計をみると午前六時だった。

 慶一はボンヤリしているあたまを醒ますため、シャワーを浴びることにした。Tシャツを脱ぎ、ジーンズとボクサー・ショーツを脱ぎ捨て、バスルームに這入はいりカランの湯をだしてまず顔を洗い、ひげを当たった。鏡で顔をみると、昨夜深酒でもしたかのように眼はどろんと精気がなく白目は血走っている。

 それからバスを使った。慶一は全身に熱い湯をたっぷり浴びる。昨日、あの由美子とかいう不埒ふらちなる女性にしゃぶられた陰部はことに丁寧に洗った。睾丸はまるで腹部にもどってしまったかのように皺だらけでかたく丸まっていた。

 さて、今日はどうするか。慶一は思った。この分だと礼文島へ渡っても徒労に終わるだろう。そうすると、た南下してどこか少しでも可能性のありそうなところをみて廻るしかないか。

 あてのあるところ。

 慶一は髪も丁寧にシャンプーすると、もう一度全身に湯を浴びてから外へ出た。

 ドライヤーで髪を乾かし、衣服を身に着けると、朝食券をみた。午前六時三〇分から六階朝食会場で、となっている。朝食会場ね。いささか皮肉な笑みをうかべると、慶一はTVをつけて十分ほど朝のニュース番組をみたが、残念ながら手がかりになりそうなことは取り扱われていなかった。

 食事に行くと、直ぐにトレイを手渡され、料理も次々に運ばれてきた。お客はほかに一人ふたりいるくらいだ。メニューは和食で、お菜はほっけの干物と利尻昆布のみそ汁がついた。みそ汁はお代わり自由だと云うので三回お代わりを貰った。稚内市内産の新鮮な牛乳も楽しめた。空腹には一杯目の珈琲もしみる。

 窓際の席をとって夢中で食べていると、昨夜慥たしかフロントに立っていた女性がふと近寄って来て、

「お客さん、だれか捜し人かい?」

 と問うた。

 慶一は、何となく妙な世界、這入はいることは常識人には基本的にあまり推奨されない世界、うさん臭い世界に足を踏み入れて行くような気もするが、まあ仕方がない、昨日からそんなのにはもうこれで結構遭遇しているのだ。慶一は大丈夫かな、と思いながら点頭した。

 すると女性は、慶一の席の向かいに座って、

「いやね、あたしの実家にいる大叔母ってひとが、結構勘が強いのよね、あたしの一族はそういう人が多くて、昨日お客さんと汽車でいっしょになったのは、あたしの従兄なのよ」

 ああ、そういうことか。

「それで、あたしの実家はここから車で五分くらいなんだけど、もの捜しははんぶんウチの肩書きみたいなもんでね」

「あ、はあ……」

 カネの話が出そうだな、桑原、くわばら。

「――あんた、学生さんだろ。特におカネ取ったりしない、ボランティアでみてあげられるから、一回来てみないかい?」

「……んん、そうですか」カネが掛からないと分かれば、好奇心の強いのは抑えられない。『好奇心はネコをも殺す』とはよく云ったものだ。「じゃあ、ちょっとだけみて頂こうかな」

「この先は汽車かい?」

 北海道人とくると、札幌市の地下鉄を除いて、蒸機の牽引する列車だろうが、ディーゼル機関車だろうが、将又はたまた電車だろうが内燃動車つまりディーゼル・カーだろうが、全て十把じっぱ一絡ひとからげにして〝汽車〟と称する。

「――ええ、そうですね。多分、午前十時四〇分発の上りに乗ります」

「あらそう。じゃ、急がないとね。汽車の時間のこともふくめて伝えておくから。あとどのくらいで出られそ?」

「そうですね」あらかた食べ終えた料理の皿が載ったトレイをみた。「あと――、三〇分もあれば」

「あらそう。じゃあ、下にクルマを待たせておくから。あんたが降りて来しだい、出られるようにしておくからね」

「済みません、なにからなにまで」

「いいのよ。袖振り合うも多生の縁、と云うからね」

 慶一は部屋へ戻ると、ベッドに腰掛けてふうッとため息を吐いた。自分はこうしてここで動かずにいる――、積もりなのだが、自分の周りの方がぼくの方にあれやこれやと世話を焼いてくれて忙しくしているのか、それともぼく自身が自分でも気づかぬうちに大急ぎの存在になりおおせてしまったのだろうか。自分ではよく分からぬ。が、このまま波に乗ってゆけば、うまく瑞生の許へ向かい、たどり着き、(窮地に陥っているのなら)救い出せるのではないか、と云うことは信じたい。

 慶一は歯を磨くと外へ出た。まとめるべき荷物もないから、いつも通学で使っているカバンに身の回りの手回り品だけ忘れぬようにつめ込んで、部屋のドアを閉めた。

 エレベーターで一階に下りると、ちんまりしたロビーの外には、約を違えずスプリンター・トレノが一台、ハザード・ランプをつけて横付けに停まっている。

 慶一はフロントへ向かい、先ほどの女が受付係クラークを務めているカウンターに部屋のキィを返した。

「ええとご精算は……」

 フロント係クラークはカウンター奥の機会端末のキィボードに向かい、かちゃかちゃと軽い樹脂製品のふれ合うささやかで心地よい音を立ててモニターを見ながら検索していた。慶一は昨夜の電話代が、と言い止した。言葉尻はのみ込んでしまった。と、女は、二、三分して、

「――あら、ないわね、一切…。はい、じゃあお客さま、行ってらっしゃいませ。お気をつけて」

 と送り出された慶一は、昨日晩にくぐった戸口からた外に出た。――と、すぐさま横にひとが二人、左に男が一体、右に女が一体、貼り付いてきて、

「さあ、じゃあ改めてはじめるとしましょうか」

「善く善くとじゃあ、答えは一つ、だろ?」

などと、若者らしい性的快感を発露する声、多少躁病的で無神経だけれども、その代わり一生に亘って精神科・神経科・心療内科には縁がなさそうな人びとが、先ほど渋谷駅頭で向日葵聖人活動をくり拡げる新興宗教勧誘者たちが、雑踏に態々出て来るよく理解のできない中年までの二、三人組みの女たち……。それらを引っくるめたような浅ましい人影をきらい慶一はちょっと身を寄せてそらしたが、左にきた男が、

「そうら、あんた、石塚の宅に行くんだろう」

 女も、

「遠慮しないで車に乗りなったら。早くしないと汽車に遅れてしまうよ」

 と懇々こんこんと言うので、っと慶一が押されてトレノに乗り込むと、運転席ではこれ又見知らぬ男性がひとりハンドルを握っていて、慶一を待つと同時に車をゆっくりと発進させた。頭をそり、法体ほったいをしている。

「車だと五分もかからないから」

「いろいろ済みません」

「いやいや、わたしらだってけっきょく誰かの世話になって暮らしてる訳だしさ。お互いさまだべさ」

 トレノはエンジンが唸り、ぐんぐん速度を上げて田舎道をばく進する。窓外の景色も目まぐるしく変わり、ちらりとのぞいた海はた見えなくなった。法体ほったいの男は、

「近道するから」

 と言ってトレノのターボ・エンジンを思いきりふかせ、かなり急な勾配を一気に上る。

 男の言葉に違わず、車はものの三分もすると大きな寺の山門の前に着いた。

「ここだよ」

 と言い助手席を倒して慶一を車外に出してくれた。慶一が礼を口にすると、たいいからさ、と言い、車に戻るとまたせっかちな運転で裏の方へ車を運んで行った。

「いらっしゃいませ」

 と山門に立つ若い女が言った。

「よろしくお願いします」と型どおりの挨拶が済むと、あとはおどろきの連続だった。この辺の自然をとり入れた山水の庭園は時が時なら立原正秋の本に載っても然るべきものがあり、そこを巡る道をうっとりとして歩いて行くと、庭の端に峻宇しゅんうがみえた。脇の庫裡くりに慶一を連れて行く。そこでおかみさんに引き合わされた。

「こちらです」

 おかみさんは庫裡くりの長い廊下を慶一の先に立ちずんずん歩いてゆく。二回、三回と角を曲がった末、それまでは人気のないものばかりだった座敷に、ここだけ煌々と灯りがともされている大きな室にさしかかり、そこへ慶一を招じ入れた。その座敷はまばゆいばかりの金色――、真金だか真鍮かはわからぬが、金一色だった。その黄金色の途絶えたところに座布団が二枚敷かれ、その一枚は空、もう一枚には着物を着た女性が座っていた。ずい分立派なお座敷だと感心して四方を見廻していると、不意にその老女が「パン、パン」と柏手を打った。

 それから老女は慶一の方をふり向いて、

「いらしたかな、若いの」

 と言った。慶一がみると、女は盲目かと思われるほどに眼が細かったが、その眼で慶一の方向を違わずにとらえていた。

「はい、お世話さまです」

 これまでこのような場所に来たことのない慶一はすくなからずどぎまぎして言った。

「んまあ、一つそこへ座りなさい」 

慶一はそうした。老女はまた金色の神具のほうに向き直り、何やらぶつぶつと念仏のようなものを唱えていたが、やがて、

「ハッ」

 とかけ声をかけて数珠を持った手を膝のうえに下ろし、上体を折り曲げてそのような苦しそうな姿勢でなおもぶつぶつ呟いていたのだけれども、その内復た背をしゃきっとして数珠をとり落とし、黙り込んだ。

 ごくり、と慶一はつばを呑んだ。

 老女はゆっくりと再び慶一の方を見やり、低い声で、

「あんた、急ぎなさい」

 と言った。

「へ?」

「急ぐのじゃ。――神さまはそう仰有おっしゃっておる」

「急げって、どこへです?」

「何処へは、問題じゃあないな」老女は断言する。「何処に、よりも、いつ、どのように、の方がより重要だぞ」

「ははあ…」

 慶一はすっかり気を呑まれてしまった。

「根っこは、一と口では言えぬが、大きな問題じゃのう。根は深いぞ。注意してかからぬと、いたい目をみることもあろうよ。だが、今しかない、今お主が探し出さなければ、永遠に失われるだろう。永遠に会えなくなるであろう」

「ぼっ、ぼくが探し出さないと?」

「そうじゃ。ここで探し出すのはお主しかおらぬ。お主でなければダメだ。そして向こうもお主が探しに出たことを知っておる。そして待っておる。だからお主は、全力でそれに応えねばならぬ。急ぎんさい」

 慶一は鞄に手をやった。

「――あ、あのう、お礼はいくらさし上げれば……」

「お主は学生さんじゃのう。学生からは礼はうけ取らぬ、すくなくともワシらはな。行きんさい、あんたにはもうあんまり時間はない筈じゃろ。急ぎなさい。ゆっくり、急ぐのじゃ」

 何だかラテン語の講義で習った「Festina lente.」を地で行くような文句を聞かされたな、と思いつつ慶一は座敷を出た。と、そこの廊下におかみさんが待っていてくれて、

「お急ぎになられるのよね、たしか」

 と廊下をた導いてくれた。おかみさんがいなければ慶一は迷宮の中でのたれ死にしていたことだろう。庫裡くりの前に着いて靴をはくと、今度は白い日産サニーが待っていて、おかみさんが後部座席に押し込んでくれたので、慶一はぽかんと口を開けて弛緩しかんして不様ぶざまな顔つきをしていたのを認められずに済んだのである。

 サニーを運転していたのは往路とはちがう男で、こちらは法体ほったいではなく、袈裟けさもつけておらず、上はTシャツを着ている。

「どうです、何か参考にはなりましたか、お兄さん?」

 慶一はあい変わらず気を抜かれたような顔つきをしているのが自分でもよく分かったが、そこは一応納得したようにうんうん、と肯いてみせた。

「そうでしょうなあ」男は豪快に笑う。「あのお婆さんのもの捜しは、国宝級ですからなあ」

 へえ、と慶一は思うのだが、同時にああいうのを禅問答と云うのじゃないかな、とも内心で小首をかしげる次第。しかし、慶一はなに宗の寺だか見そこなってしまったのだった。そんな慶一の思惑をよそにサニーは道をひた走り、それが往路と同じ道だったかそれとも別なものだったかも分からぬまま、慶一は駅前に連れて行かれ、そこで下ろされたのだった。

 慶一は礼を言ってサニーを降り、車は運転手の男の快闊かいかつな笑い声とともに発進し去って行った。

 瑞生を捜すにはやはり余り時間がないのだな、と慶一は改札口を通りながら思った。それにしても、つかみ所のないものが問題だとは。慶一は時計をみたが、午前十時半を廻っていたのでそのままプラットフォームに出ることにした。

 間もなく列車到着の案内があって、橙色に塗られた二輛編成の列車が入線してきた。各駅停車名寄行きである。車内は空いていて、慶一はだれも先客のいないボックス・シートで窓際の席を占めることがかなった。

 昼間の宗谷本線に乗ってみると、窓の外は廃屋が多くみられた。いったい建築後なん年ほど経っているのか、真っ黒な木が朽ちている家屋が沿線に十も二〇もみられるのだ。

 それをみて慶一が何か社会的に益のあることを思ったのかどうかと云うことはさておき、ここは暫く時間があるので、以前慶一が書きかけ、九割方完成にこぎ着けたのだが、最終的な落としどころを見失って遺憾いかんながら未完みかんままになっている、無題の中篇小説をお目に掛けたい。小説は何部かに分かたれているので、えず一部分を掲載する。


――

 これより以下縷述るじゅつする一連の異常な事件は、そもそも一老人が遭遇したものであった。し、かる老人がこの件を通報していたならば全国を瞠目どうもくさせ、耳目じもく聳動しょうどうする事件として露顕ろけんしたであろうが、老人は後述する事由によりこれを怠った。その為、事件は内密なものとして闇から闇へ葬り去られたのである。

 その未明、工藤又蔵老人は、山梨県は韮崎市の南部を貫く、韮崎昇仙峡線という地方道を、自分の葡萄畑のある三ツ沢と呼ばれる地区から韮崎市街地へ向けて車を走らせていた。又蔵老人は三ツ沢に葡萄畑を十アールほど所有していたのだが、五月末という季節の午前三時に自家用車のタントを駆らねばならなかったのは、長く続いた五月雨さみだれに、作物のことが心配になった為である。

 扠、老人は県道二七号線を中央自動車道のインターチェンジの方角へ向けて車を運転していた。変事が出来しゅったいしたのは、馬手めてには権現沢川が流れ、弓手ゆんでに和こうというレストランが見えて来たところである。時刻が時刻であるから、老人は一台の大型トラックとすれ違ったきりで、自分の前にも後にも車の影はなく、早く帰宅して就寝したかった老人は、時速六十キロほどでほぼ直線に近い県道をヘッドライトの光芒こうぼうに導かれて只管ひたすらに車を飛ばしていた。

 と、一寸した茂林もりんに差し掛かった時のことである。又蔵老人は左手の竹林の方に何とはなしに意識を向けていた。この辺は野良猫や時には狸が飛び出してくることが往々にしてあったためである。だから、右手の叢林そうりんからそれの姿が躍出やくしゅつして来た時には肝胆かんたん寒い思いを味わい、危うくブレーキとアクセルを踏み間違えるところだった。しアクセルを踏んでいたら、命をあやめるところであったが、運転免許を取得して五十三年、未だ耄衰ぼうすいを知らぬ又蔵老人七十五歳の右足はしっかりとブレーキを踏み込んでいた。車は無事停まった。又蔵老人は笱安こうあんぬすんだ。

 老人がやれやれと思った時、運転席の窓ガラスをこつこつと叩く音がする。その音に振り返った又蔵老人は、た肝がひしぐ思いを味わった。

 窓を叩いた者は、固より妖獣怪禽ようじゅうかいきんの類ではなかった。人間である。若い男――しか凄然せいぜんたる美青年であった。だが、その取成とりなりが異様であった。上はたけらずで手首まで露わになった青いトレーナー一枚、下はジーンズを穿いている。それだけならば未だ異常だとは云えないが、豊頬ほうきょうならばさぞ美々びびしいものだろうと思われるかんばせは、眼窩がんかは落ち窪み、頭髪はざんばら、皮膚は紙の如く白く、頬は骨立こつりつして、血走った眼には何かの変事が起こったことを訴えかける表情がありありと窺われた。

 その姿を一瞥いちべつした又蔵老人は瞬息しゅんそく鼻白はなじろんだが、ぐに自身を取り戻し、パワー・ウインドウを巻き下ろして、

「何だね? どうした?」

 とふるえのない太い声で問うた。すると、世籠よごもり媚嫵びぶたる青年は、耳語するような戦慄声わななきごえで、

「た…助けて下さい」

 と哀訴あいそする。老人はそこに至って初めて、自分が目の当たりにしているものは何か妖魅ようみの様なものではないか、と思い、再三胃の腑が冷たくなる思いを味わったのだが、好運にもこの世に産まれてこの方、幽鬼ゆうきの類には遭遇した経験を持たない又蔵老人は、うるわしい青年の怯えきった眼を真っ直ぐに見据え、

「一体どうしたのかね? こんな夜中に」

 問うたのだが、青年は悚懼しょうくの表情で後ろを振り返り、

かく乗せて貰えませんか? ――訳は後で話します」

 と繰り返すのみであった。又蔵老人は少時しょうじ首鼠しゅそしていたが、ややあってからドア・ロックを解除し、猿臂えんぴを伸ばして助手台側のドアを開けてやった。青年は蹌踉そうろうたる足取りで車の前を横断した。ヘッドライトに照らし出された青年の肢体したいには肉がほとんど付いていないことが判った。青年は半開きになったドアを開けて身体をタントの車内に滑り込ませ、助手席に四肢を預けたが、そこで体力を蕩尽とうじんしたものと見え、ドアを閉める所作すらいちじるしく困難を極めたようだったので、又蔵老人は態々わざわざ一旦車を降り、助手席側のドアを閉めてやらねばならなかった。もっとも、狂言きょうげんということも考えられたので、老人は車のキィをポケットに収めてから運転台を離れたのである。しかし、そのような心遣いは無用だった。青年は助手席の背に身体をもたせ掛けると、そのまま眼を閉じてしまったからである。小雨のそぼ降る中、運転席に戻った又蔵老人は、ハザード・ランプをけて室内灯をともし、あえかに余喘よぜんを保つ美青年の姿を、改めて繁々しげしげと観察した。体力が衰耗すいこうしていることは一と目で判った。併し、こんな夜半の山中を彷徨うような仕儀しぎに至ったのは、一体どのような事情によるのだろうか? 又蔵老人は、既にこの美青年を恐れたり魂胆こんたんを疑うような気持ちにはならなかったものの、その代わり、怪訝かいがの念と、かすかではあるが、何か異体いたいの知れない猟奇りょうき趣味しゅみ通底つうていするような、後ろ暗くいかがわしい、人目がはばかられるような傾向とを体臭として感じ取ったのである。

 ――何か、きんようの類でも行ったのではなかろうか。

 又蔵老人は、串戯かんぎのような稀男まれおとこの寝顔を見ながら考えた。そして、次に、自分の取るべき方途ほうとに就いて思議しぎした。が、思いは蜘蛛手くもでに乱れ、良策は浮かばなかった。――無論、本来ならば救急車を呼ぶか警察に通報すべき所なのだが、老人は踟蹰ちちゅしたのである。と云うのは、如上じょじょうの通り老人にもこの美青年の発する雰囲気が伝わっていたのだが、どことなく乱倫らんりん、とまでは云い切れないまでも、そこはかとなく正気を外れた、或いは法に違背いはいした傾向を帯びた〝何か〟の存在が感じられたのである。そして、又蔵老人には鍛二と云う弟がいたのであるが、この弟は過去に痲薬まやくをやって長く囹圄れいぎょに入っていた、刑余けいよの仁であった。又蔵老人は、恐らくかかる青年は何か魑魅ちみの類に精を吸われたのかも知れぬ、と云う臆断おくだんを下したのだが、濃密に漂う妖氛ようふんのため、後難こうなんが案じられ、無用の煩累はんるいがおよぶのを危懼きくして、遂に通報を断念したのである。

 さて、又蔵老人にとって、この椿事ちんじもこの青年も、態々わざわざ云うまでもなく荷厄介なものでしかなかった。老人は暗い車中、拱手きょうしゅして善後策ぜんごさくに思案を巡らせた。そして考えながら、前後不覚のていで助手席に身を預けている美青年の、右の二の腕を軽く叩き、

「おい、しっかりしろよ。一体お前さん、どんな眼に遭ったんだね?」

 と声を掛けた。すると青年は、半眼になったものの、何を見留めたのか、

「――最初に陶酔が来た。…それから甘美な覚醒が――…」

 と虫の息でつぶやくと、た眼を閉じてしまった。これではらちかない。だが、〝陶酔〟と〝覚醒〟という二語は又蔵老人の脳裡にしっかりと焼き付いた。即ち、この情況下におけるかかる二語が又蔵老人に示唆したものはただ一つ――薬物犯罪であった。老人は愈々警察当局に通報する気を失くしてしまった。

 ――どうにかしないとな。而も早く手を打たないと。

 又蔵老人は何とかこの災厄から逃れたいと思い、タントのエンジンを始動し、ハザード・ランプを消し、ブレーキを解除して走り出した。

 取り敢えず老人は自宅に戻った。老人が車庫に車を入れた時には、既に東雲しののめであった。雨は上がっていた。

 又蔵老人が臨席の招かれざる客の様子を見ようとしたとき、家の中から娘の涼子が飛び出してきた。老人のことを案じてまんじりともせず待っていたらしい。

「お父さん、どうもしなかった?」

 心配性の涼子の喚声かんせいに、又蔵はもだしたまま、助手台を指し示した。眠れる美青年を眼にした涼子は何か悟了ごりょうする所でもあったのか、怪訝そうな表情をうかべて助手席側に回り込んだ。又蔵はドア・ロックを解いた。

 助手席側のドアを外から開けた涼子は、眉宇びうに不審の色を漂わせ、

「お父さん、どうしたの、この人?」と問うた。そして、青年に向かって、「もしもし、大丈夫ですか?」

 と話し掛けて青年の身体を揺すった。併し、青年は昏々こんこんとしており、意識はない。涼子は又蔵に向き直り、

「お父さん、この人どうしたの? ――若しかして…いたの?」

 と怕々こわごわと訊ねた。又蔵は、その言辞は、

「まさか」と一笑に付した。「帰るさに…ったんだよ」

「でも、気を失ってるわよ」

 又蔵は眉をひそめた。

「そうなんだよ。途中で救けを求めて来たんだが…、その――」

「救急車は呼ばなかったの? 警察に連絡はしたの?」

 涼子の口調は打ち付けに譴責けんせきの気味を帯びていた。

「うむ、それも考えたが…、鍛二たんじのことがあるからなァ。どうもこの人を見ていると、尋常ではない所が見受けられるような気がして…」

 涼子は、父親と不時の賓客ひんきゃくとを交々こもごもにみては沈思するていだったが、

「じゃあ、河原さんの所に持っていったらどう?」

 と発案した。

「ああ、栄さんの所かい。――併し、あそこは精神科だぞ」

 涼子の云う河原栄とは、又蔵の亡妻であるひでの兄に当たり、韮崎市に隣接するけん甲府市で精神科病院を開業している人物であった。又蔵老人も、もっと早くこの人物の存在に思い当たっても良さそうな筈だったが、薬物絡みで三度牢屋に入った鍛二も長期に亘る精神科での治療を必要とした、という経緯いきさつがあったため、無意識裡に撰択肢から除外していたものらしい。いざ涼子の話を勘案かんあんしてみると、又蔵老人も義兄の栄に先ず診て貰うのが穏当であるように思えて来た。栄が経営している病院には病床数六〇某なにがしの入院設備もあり、うまくするとこの青年を収容して貰うことも可能かも知れなかった。これはいささか虫のいい話になるが、実際又蔵老人は、栄とは頃日けいじつ狎昵こうじつしており、年賀状の取り遣りばかりでなく、中々頻繁に徂徠そらいもあったのだ。

「精神科でも、入院設備だって整っているんだし、血液検査くらいできるでしょう」

「うむ、それもそうだが…」老人はた少し考え込んだが、良案は思い浮かばなかった。

「――仕方ないな。そうするか」

「じゃあ急いで連絡しないと。余り遅くなるとことよ」

「そうだな。――ず、この男を何とかしないと…」

 又蔵老人は正体を失って助手席にもたかっている青年に眼を向けた。涼子は青年の左腿を強く叩き、

「大丈夫ですか? さあ、しっかりして」

 と大声を出した。又蔵老人も肩を揺す振った。すると青年は、した儘の姿勢で、口中何かを呟いた。

「何!? 何だって!?」

 又蔵老人は青年の耳に言辞を流し込もうとするが如く大声たいせい疾呼しっこした。青年は、それに応じる如く、

「…欲しい」

 と僅かに聞き取れる声で云った。

「何ッ!? 何だッ!?」

 老人は更に大声を張り上げた。その老人の腕を、涼子はそっと叩いて注意を喚起し、人差し指を口に当てた。老人も直ぐにその意を諒解りょうかいした。車庫は隣家との廂合ひあわいにあるのだ。

「…欲しい、欲しいよ。――くれよ」

 青年は繊弱せんじゃくな声で訴求そきゅうするように云う。未だ息のあることを確認できただけでも良しとするか、と老人は思い、娘に、おいと声を掛けた。

「取り敢えず、家ン中に運び込もう」

「そうね。でも、あたし達だけで大丈夫かしら? 正人さんも呼んでくる?」

 老人は前後不覚の青年の背中と尻の下に手を差し入れ、重さを量っていたが、直ぐに、

「うむ」と云った。「おれたちだけで間に合いそうだ。――涼子、お前は足の方を持ってくれ」

 涼子は一旦引き返して縁側から日本間へ通じているガラス戸を一杯に開けてくると、車の助手席側に回り込み、又蔵老人の指図に従って美青年の膝の裏に腕を入れた。一方又蔵老人は左右の脇の下に手を入れて、

「行くぞ。せえの」

 と合図を掛けた。二人の予想よりも、青年は遙かに軽量だった。青年の腰はたおやかに下垂した。が、臀部が地を擦ることはなかった。二人は黙然として、卒々とことを運んだ。ことは滞りなく済んだ。

「随分軽くて華奢きゃしゃなのね」

「全くだ。骨皮筋右衛門とはよく云ったものだ」

 日本間は客間を兼ねていたので、押し入れには布団の用意がある。老人と娘は分掌ぶんしょうして布団を敷き、青年はそこに寝かせた。こうして、未知の客人まろうどは工藤家に迎え入れられたのである。

 やがて、涼子の夫で会社勤めをしている正人や、又蔵の孫で高校生の夕子も起き出して来た。又蔵はまんで委曲いきょくを説明した。二人とも勿怪顔もっけがおをしていたが、人形にんぎょういの夕子は興を惹かれたらしく、客間に横臥おうがする美青年の顔を見やって、

「可愛い。しかして梨園りえんのひとかな」

 などとの軽々しい口吻こうふんをもらしたので、又蔵は、

「こら。常ならぬ身体のひとなんだぞ。早く飯を食って学校へ行け」

 と叱呵しっかしたのである。涼子は落ち着かぬ様子で、

「お父さん。早く連絡を」

 と督促とくそくした。又蔵はっとそのことに心付いて、電話台に飛び付いた。電話の上の掛け時計は未だ七時前であるが、もう起き出しているだろうことは見当が付いているので、牢記ろうきしている番号を入力した。すると、直ぐに相手が出た。幸便こうびんにも、家族ではなく河原栄本人だった。

「何だ、又さんか」何も知らぬ栄は晏如あんじょたる応答をした。「一体どうしたい? こんな朝っぱらに」

 又蔵老人は委細を説明した。すると栄は、一と呼吸おいてから、

「なるほど、事情は判った。――して、未だ息はあるのかい?」

 と問うた。又蔵老人はキッチンにいる娘に向かって、

「おい涼子、その人、未だ息があるかどうか確かめてくれ」

 と大声で命じた。涼子にはもとより異存はなく、味見していた味噌汁の杓子しゃくしを鍋に戻すと二階に上がり、寝室から手鏡を取ると階下にとって返し、昏臥こんがしている青年の鼻先にその鏡を当てた。その始終を隔靴掻痒かっかそうよう、苛立って見ていた又蔵老人は、

「この莫迦ばか正直しょうじきが。脈に触れば直ぐ判るものを」

 と毒突どくづいたが、娘の、

「ああ良かった。お父さん、未だ生きてるわ。息をしている」

 との返辞を受けると、電話口に向かって、

「栄さん、未だ息があるようだ」

 と告げた。すると栄は、

「そうか。じゃあ、これから直ぐに病院の車を向けるから、一寸待っていてくれ。おれも行くから」

 と疾言しつげんで伝えた。又蔵はそれを聞いてほっと安堵あんどの胸を撫で下ろした。

「済まねえな。じゃあ待ってるから、よろしく頼むよ」

「なに、よくあることさ」

 こうして、慌ただしく臨時のモーニング・コールは済んだのである。


 河原栄は、言に違わず二〇分ほどしてやって来た。一人ではなく、部下が随伴して目立たない中型セダンとワゴン車の二台に分乗した人員は総計五名、白衣こそたれも身に着けてはいなかったが、皆その方面で達識たっしきの持ち主であることは、そのてきぱきした作業の分担ぶりから、素人目にも直ぐに看取かんしゅされた。

 又蔵は一行の到着を知ると、直ぐ様サンダルを突っかけて外に出て、

「栄さん、朝早くから済まね」

 と挨拶したが、老巧ろうこう上医じょういである栄は既に職業的な表情をしており、

「否。――で、何処かね、その…お客さんは?」

 と問うた。

此方こっちなんだ。上がってくれい」

 又蔵老人が見ていると、医師なのか看護師なのか判然はっきりせぬが、いずれもワイシャツにネクタイ、スラックス姿の随行者たちは、何かの機械類でも入っていそうな大きな鞄やら点滴セットやらを車から出し、素早く家の中に運び込んだ。そして、日本間で昏睡こんすいしている青年の枕許へ向かい、何に使うのか老人には悉皆さっぱり見当も付かぬ電子機器を出したり、青年の身体に手捷てばしこく端子を取り付けたりした。そして、

「ヴァイタル・サインはあります」

「併し、かなり酷く衰弱している様ですな」

「点滴を打った方が良いのでは?」

 などと栄に報告し、指示を仰いだ。

 河原栄はそういった部下たちからの報告に、「うむ」などと返辞をしながら自分でも青年の脈を取ったり、昏々こんこんとしている青年の眼瞼がんけんを開いてペン・ライトを当てたりしていたが、やがて立ち上がり、部下には、

「エコーを見ると、心臓が弱ってるようだ。補水して、ジギタリスも投与してくれ」

 と命じておいて、又蔵老人を脇へ呼んだ。そして、劈頭へきとう

「又さん、ありゃあヤバいお客さんだぜ。血液検査をしてみないと確定的なことは云えないが、クスリをやってる――しかも、何年もクスリ漬けになるような生活を送って来ていた、と云うのがおれの推測だ」

 と云った。又蔵老人は、

「ほー」と厄介そうに声を上げた。「どうして判ったんだい?」

 栄は自分の眼を指差した。

「眼だよ、眼。オピエート――と云ってもあんたにゃ判らんだろうが、まァ平たく云えば阿片アヘンやヘロインの類だな。こういう、芥子けしから抽出されたり、誘導された薬物は、脳幹――延髄の辺りなんだが、そこの視蓋しがい前核ぜんかくなどの組織に多在する、オピエート受容体と結合して、瞳孔を縮小させるんだ。これは即ち縮瞳反応と呼ばれている。――併し、この男、よく生きていたもんだよ。がりがりに痩せこけちまってるじゃないの。何か食物はあげたりしてみたかい?」

「いいや。車の中でもう朦朧としていたし、うちに着いた時は既に意識がなかったから、直ぐ寝かせた」

「そうかい。――尤も、ここまで沈湎ちんめんしているとなると、何を喰わせても直ぐ吐き出しちまったろうがな。…併し、一点解せない点があるんだよ」

「何だい?」

「うむ。多分違法薬物の過剰オーヴァー摂取ドーズとおれの踏んだ通りだと思うんだが、普通このテの痲薬中毒者は、i.v.を使う筈なんだよ」

「アイ・ヴィ?」

 あの鍛二のことを思い出した又蔵は、稍落ち着かなげに問うた。

「ああ、静脈注射さ。併しね、この男の腕にはヘロイン・コーンって奴が一つもねえ。両腕ともまっさらだ。どういう形で摂取していたのか、それが判らないんだよ」

「ふうん」又蔵老人は溜め息のような声を発した。「で、やっこさんはどうするつもりなのかい? 無論、ウチでは預かれないよ」

 すると、栄は、

「そりゃあ勿論そうだろう。幸い、うちの病棟には空きがある。たしか個室が一つ空いている筈だから、ずそこへ収容して容態を観察しよう。――この件は、通報しない方が良いのかな?」

 又蔵老人は、

「ああ」と答えた。「本来なら、するべきなんだろうが…」

 口籠くごもる又蔵老人を栄は手で制した。

「判ってる、あんたの云いたいことは。鍛二くんのことだろ?」

 そう直截ちょくせつに云って貰った方が、又蔵老人は気楽だった。こういう点も、老人がこの義兄に腹心ふくしんく理由の一つだった。

「…ああ、まあな」

「じゃ、後はおれに任せてくれ」

「――任せてくれ、って…、そりゃあ、栄さんに渡せられればおれの肩の荷は下りるが…、一体どうしようと云うのかね?」

 又蔵が問うと、河原栄は曖昧あいまいな微笑を口辺にうかべて、

「ま、蛇の道はへび、だ。大船に乗った積もりでいてくれればいいさ」

 とのみ答えると、くるりと背を向けてた部下たちの方へ行ってしまった。そして、須臾しゅゆ点滴セットの塩梅あんばいを見たり、装置のディスプレイを見たりしていたが、やがて、

「よし」と云った。河岸かしを変えるぞ。担架を用意してくれ」

 国手の吩咐ふんぷを受けて、部下たちは一旦外に出てワゴン車の方へ向かったが、直ぐにキャスターの付いた簡易ベッドを運んで戻って来た。そして、四人がかりで人事不省の美青年を慎重にベッドへ移した。正人や夕子は息を呑み、その様子を興味津々のていで見守った。又蔵老人は河原栄国手こくしゅに、

「どうだい、容態ようだいは。恢復かいふくしそうかい」

 と問うたが、栄は難しい顔をして、

「正直、判らんな」と答えた。「こういう症例ケースは、本来なら包括的な対応の可能な綜合病院に収容するのが適当なんだ。うちは精神科専門だが、孰方どちらかと云えば長期療養型の病院なので、内科、外科、循環器科、とある程度の対応はできる。併し、十全ではないよ。一応だ」栄は自分の言辞に圏点を付けた。「これから精検してみないと判らないが、ありゃあ屹度きっと内臓をやられてるぞ。正直、うちで手を尽くしても、どうだか判らん」

「そうか」と又蔵老人は力ない声で云った。「若し――万が一のことがあったら?」

「うむ。その時はその時で、打つ手はある」

「どんな――」老人は低声で、「闇、かい?」

 すると、国手こくしゅ河原栄は、豈図あにはからんや、一寸笑ったのだった。

「他聞の悪いことを云わんでくれ。合法的に片を付ける方法は幾らでもあるさ――最悪の場合はグレー・ゾーン扱いということになるが。兎に角、又さんにはるいおよばんようにするから、安心してくれていい」

 そう醇々じゅんじゅんと云い含められて、又蔵老人もっと安堵したようだった。

「そうかい。じゃ、済まねえが一つ頼むよ」

「じゃ、おれらはもう行くから。――ことは一刻を争う問題だからな」

「ああ、そうだな」

 謎の美青年は既にしてワゴン車への搬入が済んでおり、残る部下たちは河原栄の指示を待っていた。栄医師は部下たちを前にしてぽんと一つ掌を打ち合わせると、

「さあ、出発だ」

 と励声れいせいした。部下たちは工藤の家の者には挨拶もせず、皆慌ただしく車に戻った。国手こくしゅ栄はセダンの後部座席に収まった。又蔵と涼子は家の前に出てそれを見送った。又蔵は栄に向かって軽く頷き掛け、涼子は深々とお辞儀した。栄はそれに対して二、三度点頭てんとうして答えた。二台の車は走り出した。

「いや、全く困った客だったが、これで一と安心できるかな?」

 又蔵は額に浮いた脂汗を拭いながらきびすを返して家内に戻った。

「そうね。――それにしても、あの人大丈夫かしら?」

 涼子はサンダルを脱ぎつつ述懐する。老人はそれをとがめて、

「おい」と云った。「涼子、向後は彼奴あいつのことは他言無用だぜ」

「――あ」と涼子。「そうね。正人さんは云えば直ぐ判ると思うけど、夕子には学校に行く前に釘を刺しておかないと」

 涼子はそう云うと、二階の自室で着替えているらしい娘の許へ向かった。


 河原国手たち一行が病院に着いたのは、午前九時前のことだった。幸いにも、この日は院長たる栄が診察に当たる予定がなかったので、国手こくしゅの按配で、〝急患〟と称して裏口から運び込まれた〝患者〟は、滞りなく河原メンタルホスピタル三階の閉鎖病棟に収容された。折よく個室に空きがあったのだ。看護師らは手捷く白衣を着た。昏冥こんめいのなかにある青年に対しては補水ほすいを続け、口腔こうこうない崩壊ほうかいじょうによる栄養補給を行った。一応そこまでの処置が終わった段階で、栄に同道どうどうした雪村看護師長は、

「この後、どうします?」

 と上司に問うた。栄は拱手きょうしゅして、

「そうだな」と云った。「取り敢えず、うちでできるのはSPEまでだったな」

「はい。長野さんに頼めば直ぐ手筈が整うと思います」

「今日出てるかい?」

「ええ。車があるのを見ましたから、いますよ」

 栄と雪村師長とは寸時眼が合い、須臾しゅゆ二人とももだしていたが、やがて二人は申し合わせたかのようにくすくす笑った。カー・マニアとして知られる長野はこれまでバスで通勤していたのだが、最近は自家用車で病院に出ていた。その自家用車というのはリンカーンのタウン・カーで、職員用駐車場ではまるで鰯の大群のなかに紛れ込んだ白長須鯨のよう、厭でも目立つのだった。

「じゃあ、長野さんに至急SPEを頼んでみましょうか」

 雪村は笑いの消えた顔で、白衣の胸ポケットからPHSを取り出しながら問うた。河原国手は首肯しゅこうして、

「うむ、そうしてくれ。――おれは、一寸電話をしなけりゃならんから」

 と云い、院長室へ向かって歩き出した。雪村は美青年の病室の中に戻り、PHSで臨床検査室を呼び出した。

 長野は直ぐに出た。

「済みません、喫緊の件なんですが、SPEお願いできますか?」

 SPEとはsolid phase extractionの略で固相抽出こそうちゅうしゅつとも呼ばれ、分析化学で液体中に溶解した分子の検出に用いられる手法である。

「SPE? ――いや、わたしは今出勤して来たばかりだし、今朝は未だ仕事がないので構わんが」長野は一寸笑った。「それにしても唐突だな。目的化合物は何だい?」

「――それが、未だ不明確なんですが、院長によれば大麻やモルヒネなどに就いてやって欲しい、と云っていましたけど…」

 それを聞いた長野はた一寸笑った。

「朝から大麻に阿片か。良い一日になりそうだな」

「済みません」

 雪村は局促きょくそくした。が、これは決して皮肉なのではなく、長野流のジョークであることは雪村も承知していた。

「いいさ。どのみち、今朝は暇だから。――で、検体サンプルは尿? 血液?」

「あ、血液です。笹井くんに渡して、直ぐ送らせます」

「朝からドラッグか。ヘヴィな朝だな」

 長野は笑いながら電話を切った。雪村はナース・ステーションに向かって歩き出しながら装置をポケットに収めた。朝のナース・ステーションは、ほとんどの看護師が入院患者の体温・血圧測定のために出払っていたが、夜勤明けの笹井洋子は眠そうな顔で日誌に何やら書き込んでいた。雪村はその背後から、

「笹井さん」と低い声で呼び掛けた。「一寸お願いがあるんだが」

 河原栄は院長室に入ると、背広も脱がずに卓子テーブルに着き、受話器を取り上げた。石井憲吉の短縮番号は――しばらく使っていないのでうろ覚えだが――確か三番だった。

 心事しんじたがわず、石井は数度の呼び出し音で出た。

「はい」

 如何いかにも眠たげな、半ば不機嫌そうな声色である。

「もしもし。朝早くから済まんな。おれだが」

 すると、声のトーンが変わって、

「ああ、何だ、河原か」と憲吉は云うた。「今度は何用だ、たアルコールか?」

「いや、今回はそんな一筋縄では行かん。どうやらクスリ絡みだな」

「クスリか」石井は一瞬沈黙した。「おやおや、大麻?」

 河原栄は以前薬物関係でも石井憲吉の手を借りたことがあった。

「いや、未だ詳細は判らん」

「暴れてるのか?」

「いいや、昏睡こんすいしている。相当長期間クスリ漬けだったようだ」

「そうか。――栄養状態は?」

「最悪だ。ろくにものを食べていなかったようだ。衰耗すいもうが激しい」

「ふうむ。…で、直ぐに伺った方が良いのかね?」

「いや、未だ脈はたしかだし、判然はっきりしない点も幾つかあるから、た連絡する。ただ、準備はしておいて欲しいのだ」

「判った」石井憲吉は二つ返事で承諾した。石井が然諾ぜんだくおもんずる男であることは栄も知っている。「用意して待っているから、必要になったら呼んでくれ」

「ああ、宜しく頼む」

 受話器を戻し、栄は立ち上がると灰色のロッカーを開け、ワイシャツ姿になると白衣を着た。と、それを待っていたかのように胸ポケットのPHSが鳴った。第二病棟のナース・ステーションだった。

「河原先生、山中正恵さんの件で…」

 認知症の患者だ。栄は直ぐに事情を察して、

「判った。直ぐ行きます」

 と答えると、PHSをポケットにしまった。長い一日になりそうだった。


 地階にある臨床検査室ではSPEの作業が着々と進められていた。へやでは室長たる長野剛が単独で作業に従事していた。この病院の規模を考えると相応ということで平生から助手はいなかった。それはこの作業にも好都合だった。第三病棟の夜勤明けの看護師が携えて来た検体のラベルには、赤字で「㊙」と大書されていたからである。

 長野は違法薬物の検出にかけては決して他の検査士の人後じんごちなかった。いや、ある点においては傑出けっしゅつしていると云っても良かった。長野は北大薬学部に於いて修士まで学修したが、修士論文は「ナトリウム溶液中においてオピエート拮抗剤が示す薬物動態」と題するもので、大学院時代には既に一寸したエキスパートだったのである。

 長野は装置に血液の入ったカラムをセットし、〝スタート〟スイッチを押した。やがて、隣に設置されているPCのディスプレイに、標的物質の名称と濃度が表示され、ビープ音が鳴る。長野はディスプレイを見、手元のチェック・シートに、

「レチキュリン、プラス…、ベンゾイルエクゴニン、プラス…、M6G、プラス…」

 と独語しつつ記入して行った。書き込み終えると、手袋をはずし、旁らの電話から受話器を取り上げ、栄院長のPHSの番号をプッシュした。

 河原栄は五回ほどの呼び出し音で出た。

「結果、出たかね?」

 栄は性急な口調で問うた。長野は、

「出ました」

 とだけ、短簡たんかんに答える。栄は、

「で、どうでしたね?」

 重ねて問う。

「院長の予想の通りでした。コカインとモルヒネに際立って高い反応がありましたよ。これは相当の中毒者ジャンキーですな。それから血糖値と中性脂肪値が異様に低い」

「他には? 大麻や覚醒剤、有機溶剤などは?」

「他は全てネガティヴ。只、コカインとモルヒネだけに異常なほど強い反応がありました」

「それだけかね?」

「それだけです」

「ふうむ。――あい、判った。朝っぱらから妙なものを依頼して済まなかった。有難う」

 通話を終えた河原国手はふうっと溜め息を吐いた。死に瀕した認知症の老女に就いては既に家族へ連絡が取ってあった。あとは雪村師長が何とか対応するだろう。それはそれで良かった。

 問題は、正体の判らぬあの美青年だった。国手こくしゅ診立みたて、と云うよりか職業上の勘では、どのように手を打とうとも、どうやらあの青年も長くは持ちそうになかった。ここ数時間が峠だろうな、と院長室の窓から甲府市郊外の街並みを俯瞰ふかんしながら考える。

 ――厄介だな。全く厄介なお荷物を抱え込んだものだ。

 最前、栄は院長室へ帰るさに、名も判らぬ〝眠れる森の美青年〟の病室を覗いた。今は三上という口の堅い中年の看護師にえずの世話を頼んであった。

如何どうですかね?」

 院長が低声で問うと、三上看護師は、

「状態に変化はありませんね」と答えた。「それから、こちらが全身の所見です」

 と云い、クリップでフォルダに留めた書類を手渡した。栄は受け取ると直ぐに瞥見べっけんした。

「身長一八五センチで、体重が六三キロか。衰弱もする筈だ。――外傷や注射針の痕に目立つものはなし、か…。なに、右足首に刺突しとつしょう? どれどれ」

 三上看護師は直ぐにジーンズのすそめくって見せた。骨と皮ばかりのすねが露わになった。栄が見ると、くるぶしぐ上に未だ生々しい、赤黒い楕円形の傷口が開いていた。

「比較的最近の傷のようだな」栄は先ず所感を述べた。――いや、加之しかのみならず周囲の肉が盛り上がっている所を見ると、大分以前にできた傷なのだが、何らかの原因で治癒せず、そのままになったもののようだった。「これは――」

 と河原栄が指摘すると、三上看護婦も、

「ええ、そうなんです」と同意した。「大分深い傷口ですわ。而も、上皮の辺りは壊疽えそに近い状態になってます」

「一体どうしてこんな傷になったんだろうな?」

 その言葉に、三上はうっそりと微笑んだだけだった。

「見当も付きませんわ」


 院長室で、河原栄は窓辺に立ち、下唇を噛み締めつつ、只管ひたすら思案に暮れていた。

 いや、思案を態々わざわざ待つまでもなく、今回も石井憲吉の手を借りねばならないことは明々白々だった。

 しかし、石井に対し何をどの様に話せばいいのか。一体何処どこまで話していいのか。ことは少々微妙だった。

 さかえ国手こくしゅは別段、石井の人品を疑っている訳ではなかった。必要事は知悉ちしつしており、仕事は確かだし、機密事項の扱いも慎重だ。が、飽くまで石井は外部の人間だった。河原栄はこれまでにも十数回、石井憲吉の手を借りてきた。が、これまでの症例は、いずれも症状が明確で、身元も明らかなものばかりだった。しかるに今回の症例は、診断が下せず、加之しかのみならず身元すら判らないのだ。そのような患者を他者に委ねる段になると、流石の河原国手も二の足を踏んでしまうのである。

 そもそも、河原栄と石井憲吉とは、東大の医学部の同窓生だった。河原栄は甲府の生え抜きだったが、石井憲吉は都内の名門、日比谷高校の出身であった。二人は同い年で、学年も同じ一九六六年入学組だった。入学後じきに狎昵こうじつする仲になった二人の命運を分けたものは、時勢じせいしからしむる所であったろう。東大紛争、羽田沖事件、佐世保エンタープライズ闘争、と大学を中心にして、日本という国を一陣の嵐が吹き荒れた時代だったのである。

 栄ははしこく時局を読んでいた――すなわち革命などありえない、とめたものの見方をしていたので、半ばノンセクト・ラディカル、半ばノンポリ学生、という、コチコチの全共闘学生からは、日和見的だ、と糾弾きゅうだんされてしかるべき態度を取っていたのに対し、石井憲吉は運動にのめり込み、初手しょてに踏み込んでいた全共闘組織に手緩てぬるさを感じて早めに足を洗うと、黒ヘル組、即ち無政府主義活動に身を入れるようになっていた。そして、ある日街頭で〝デモって〟いた所、公務執行妨害ならびに兇器準備集合罪のかどで逮捕されてしまったのである。憲吉は起訴され、執行猶予が付いて釈放されることになった。が、父親からはうに勘当されていたため、度々たびたび接見に訪れるなど昵懇じっこんの仲にあった河原栄が勢い当座の身元引受人となった。

 憲吉は起訴と共に大学は退学処分となった。大学は丁度、解剖学や生理学といった基礎医学を修了し、これからBST、即ちベッド・サイド・ティーチングに入ろうか、という時期を迎えていた。栄は一と間多い風呂付きのアパートメントに引っ越し、憲吉をそこに住まわせて大学病院へ通った。憲吉の方は、金はあるが出来の悪い、国家試験に何度も落ちるような私立医大生を相手に、高時給を取って家庭教師のアルバイトをして生活費を作り、家事も受け持った。憲吉はその頃、轗軻かんか不遇ふぐうの身の上を嘆じてか、ひどく無口になっていたが、栄にだけはたまさか笑顔を見せた――もっともそれは、「彼奴あいつ、心の臓には心房と心室が二つずつある、ってこと、知らねえでやんの」とか、「此奴こいつは今度落ちたら三回目の六年生だぜ」などといった嗤笑ししょう混じりのコメントと共に酒の席で語られる、皮肉なものであったが。

 栄は無事大学を卒業すると、国家資格を携えて甲府に帰郷し、父の興した病院を継いだ。そして持ち前の経営手腕を生かして、りすぐりの医師に声をかけて病院の規模を大きくし、病床数も二・五倍に増やした。わば栄はこの病院の中興ちゅうこうの祖であった。

 加之しかのみならず、栄は石井憲吉の身の振り方にも気を配ってやった。憲吉が今、県立の長期療養型施設で相談員という職に就いていられるのは、ひとえに河原栄の奔走のたまものである。

 そして、このかどある際に、栄はた石井憲吉の手を借りねばならなかった。

 本音を吐けばこの度は栄は乗り地ではなかった。

 国手こくしゅさかえ踟蹰ちちゅ因循いんじゅんさせていたものは、青春時代への甘な感傷などといったものではなく、ず憲吉の保身のことであった。

 と云うのも、石井憲吉は自己の身辺に関し、よく云えばオープン、平たく云えば余りにも無防備だったからである。石井も謂わば刑余けいよじんとして見做みなして良かったが、その点当の本人は余りにも気楽で気軽で、今様にいえば天然ボケ、とでもいうのであろうか、かく脳天気でルーズだった。栄も、憲吉の身辺には未だ公安関係の眼があることは判っていた。不即不離ふそくふりの距離を取りながら、憲吉の行動にごくゆる掣肘せいちゅうを加えていた。

 が、石井憲吉はそれを知ってか知らずか、自身の学生時代の失敗談――即ち〝若気の至り〟を、公然と誰にでも明け透けに話すのである。――めしい、蛇に怖じず、とは云うが、と河原栄は思う。少なくとも石井が愚昧ぐまいな人間ではないことは皓然こうぜんたる事実だ。では、何が石井を駆り立てるのだろう? その点が栄には不可解なのだった。栄はその点に関し、幾度か憲吉に忠言していたのだが、憲吉は口先で「判った、わかった」と云うだけで、肚の底は読めなかった。だが、その点を除けば、石井は自分の職掌しょくしょうに関し有能で、しか孜々ししとして働く方だったため、今回のように栄にとっての〝不測の事態〟が生じた時にも、欠かせない股肱ここうとなっていた。そのため、石井は、すくなくとも表向きは周囲から信頼されていたのだった。当人も、現在の境涯きょうがいに至極満足しているようだった。

 ――そんなよしなしごと胸裡きょうりで繰り言のように噛み締めていると、白衣の胸ポケットに入れてあるPHSがけたたましく鳴った。三上看護婦からだった。栄は直ぐ「通話」ボタンを押した。

「もしもし」

「313号室の三上ですが」

 声は幾分上擦っていた。

「うむ。奈何どうですか?」

「脈拍が弱くなっています」

ぐ、行く」

 栄はPHSをしまうと、足早に院長室をあとにした。院長室の他、職員用の仮眠室や会議室のある病院四階を去り、階段を使って三階即ち第三病棟の313号室へ辿り着くまで、栄は十数名の医師や看護師と擦れ違った――この病院には現在栄国手を含めて六名の医師が常勤していたが、いずれも駿台甲府人脈を手蔓てづるに栄自身が引っ張ってきた者ばかりで、皆「鉄門倶楽部」の名簿に名が載っている――即ち、皆東大医学部の出身者ばかりである。どの医師も有能で、しか卒々そつそつ恪勤かっきんする者ばかりだった。皆栄の助言を素直に聞き入れた。河原栄が院長である限り、河原メンタルホスピタルは安泰だった。

 すくなくとも、表面上は。

 栄は健康のためたけエレヴェーターを敬遠していたので、一応箱が何階にあるか確かめた上で、階段で三階に降りた。病棟は大別して東ウイングと西ウイングに別たれていて、その中央にナース・ステーションと患者用食堂があり、313号室は西棟の奥にあった。病棟内はクリップ・ボードを手にしてせわしく歩を刻む看護師や、回復期の患者のリハビリテーションに取り組むケア・ワーカー、煙草を手に喫煙所へ向かう患者や、同じく喫煙所で一服やって小憩しょうけいをとろうとする看護師などで満ちていた。

 そして、幸いなことに、313号室に取り立てて注意を向ける者は誰もいなかった。

 河原栄は控え目に313号室のドアをノックした。室の窓は暗く、どうやら照明を落としているらしい。

 と、ドアの向こう側に、つ、と身を寄せる白い影が見え、

「どなたですか?」

 と女声が低声で誰何すいかした。栄医師は、咳一咳がいいちがいして、

「ああ、わたしだが」

 と答えた。すると、ドアが内側から控え目に開けられ、栄国手はその隙間から身体を病室内へ滑り込ませた。

 室内に這入はいり、患者の様態を一瞥いちべつしただけで、老巧ろうこうの栄医師は、長年の経験にちょうして、青年の死期が迫っていることを直覚した。

先刻さっきここに搬入はんにゅうして寝かせた時とは体位が違っているようだが。動かしたのかね?」

 河原栄の指摘を受け、三上看護師は、

「先ほど、身悶みもだえしたんです。――こう、痙攣けいれんするように、ぶるぶる、ッと」

「ふむ」

 栄は美青年の肉体に取り付けられた脳波計などといった機器類の呈するデータを見た。

「芳しくないな」

 ぽつりとコメントを述べた。三上看護師は、

「これでも、手は尽くしたんですよ。――だけど、先刻さっき譫語せんごを漏らしたりしまして…」

「なに、譫語せんごを? ――どんなことを口走っていた?」

「最初は切れ切れでよく判らなかったんですけど、〝もう帰りたいです、先生ドクター〟とか、〝ぼくが悪かった、堪忍して下さい〟とか、〝お腹が減った、このままでは死んでしまう〟とか、そういった…、悲痛な叫び、とでも云うような内容で…」

「ふうむ。矢張やはり、只の薬物中毒とは違うケースらしいな」

 栄はそう云って、美青年の穿いたジーンズのすそまくり、くだんの傷痕を確かめた。

 ――と、栄は、

「おや」と云って青年の皮膚を指で擦った。「これは何だろう?」

 栄の指摘を受けて、三上看護師は国手の右食指の先端を見た。が、何も眼に映らなかったらしく、

「何ですか?」

 と眼を丸くしている。栄は313号室の灯りを点けた。蛍光灯の光の下で、河原国手は改めて、

「ほら、よく見てご覧」と云って、指先を三上看護師の鼻面に突き付けた。「何か、あるだろう」

「ああ」っと、三上看護師にも見えたらしい。細目になって、「何かのえんかしら。結構走ったみたいだし、汗かも知れませんね」

 だが、河原栄はそのコメントには満足しなかった。

「これは塩なんかじゃないね。もっと粗く、ざらざらしている」指先でその感触を確かめ、「此奴こいつは、屹度きっと何かの結晶体だ」

 河原栄は云いさま胸のPHSを取り出し、長野の番号にかけた。長野は直ぐに出た。

「お呼びですか? た何か問題でも?」

「うむ。一寸気になるものがあるのだ。恐らくは何かの結晶だと思う」

「結晶ですか。臭いと味は?」

 栄は先ず鼻で嗅ぎ、ついで舌で舐めた。

孰方どちらもないな。――いていえばかすかにしょっぱいが、これは多分汗だと思う」

「そうですか。判りました、ぐ参上します」

 長野は言に違わず、五分後には313号室にやって来た。

「済まないな、忙しいところ」

 栄が云うと、

「いや、今日はこれで時間のある方ですよ。定期尿検査と、あと血液検査が数件ですから」と笑い、「それで、ご用は?」

「ああ。この――患者の皮膚に付着しているのだが、どうやら全身に付いているようなのだ」

 長野はプラスティックのサンプル・ケースと刷毛はけを取り出した。ケースは内部が四分割されている。

「じゃあ、これで採取しましょう。顔と胸、背中と足、それでいいですか?」

「ああ、構わん」

 長野は手慣れた仕種で刷毛を使い、青年の身体を動かさぬよう細心の注意を払い、サンプル・ケースに粉末を収めていった。その作業が済むと、栄は長野に、

「ああ、きみにはそれが何か、見当は付くかね?」

 と問うた。すると、長野は口辺に薄く笑みをうかべて、

「ええ、まあ大体はね」と答えた。「尤も、未だ推測の域を出ませんがね」

「で、何かね?」

 栄はたたけた。が、長野はそれには答えず、ケースの蓋をパチンと閉めると、

「組成式とか分子量なら直ぐ判るので、先ずそれだけ調べます。それさえ判れば、具体的にお答えできます」と云った。「――けどねえ、しわたしの推測が当たっていた、とすると…、奴さんはかなり異常な環境におかれていた、ということになりますがね」

 なることなら、推測が外れていることを祈りますよ、と不気味な言辞を云い残して、長野は去って行った。

 栄は三上看護師と共に、うっそりとした不安を感じながら長野の背中を見送ったのだった。

 ――その時、栄のPHSが鳴った。

「院長、宜しければ回診をお願いしたいのですけれども」

 下の診察室で患者に応対する要はなかったものの、その代わり今日は病棟内の入院患者の許を回って簡単に問診する予定があった。

「ああ、そうだった。諒解しました」

 栄は三上の方を向いて、

「この…患者に何か変化があったら、わたしに逐一ちくいち知らせて欲しい」

 と云った。三上は、

「はい、判っております」

 とだけ答えた。栄は三上に向かってうなずけると、電灯を消して313号室を後にした。

 看護師を伴い、栄は全病棟の回診に一時間半を要した。その間、有難いことに313号室の〝お客〟のことは脳裡のうりうかばなかった。

 河原国手は回診を終えるとやや疲労を覚え、それと共に朝から忙しかったことも思い出し、えず院長室に戻った。そろそろ昼食の時間だな、と思った時、胸のPHSが鳴った。長野だった。

「もしもし」

 栄はいやな予感を覚えていた。長野はせかせかした口振くちぶりで、

「結果が出ました。――いや、結果自体は一時間も前に出ていたんだが、院長が回診中だということを思い出しましてね。…それから、我が眼を疑った、ということもあったので、再度機械に掛けたんです。ところが、やはり一回目と同じ結果しか出ませんでね…。ところで院長、一つお訊きして宜しいですか?」

「うむ」

 答える栄の声はかすれていた。

「あの患者、一体どういう情況じょうきょうで…、その、言葉は悪いが、拾われたんです?」

 栄は言下ごんかに、

「それは、云えんな」と答えた。「申し訳ないが、我われもあの患者のことは、何も判らんのだ」

「そうですか」長野はすんなりと栄の言を受け入れた。「では、宜しいですか?」

「うむ」

「光学顕微鏡で一寸見ただけで大体目星は付きましたがね。あの患者の身体に付着していたのは、顔、胸、背中、右足とも、いずれも同じ物質でした。――混合物はほとんどなし。組成式はC17H2NO4、分子量303・35、純度99・9%以上のコカインです」

「そうか。――モルヒネは…」

「モルヒネが検出されたのは体内のみです。体表からは一切検出されませんでした」

「そうか」

「はい」

 二人の間にしばし沈黙が流れた。それを破ったのは長野の方だった。

「体内からも高濃度のコカイン代謝物質が検出され、そればかりか身体の表面にも付着している。これは、どう見ても常態じょうたいではありませんぜ、院長。早めに警察に届けた方が――」

「いや、それはできないのだ」栄はた又蔵のことを考えていた。「今回の件は、残念ながら奈何どうしてもできん。忘れてくれ」

 長野は五秒ほど沈黙をいて、

「判りました」と答えた。「他言も無用、ということですね?」

「ああ。――理解して頂けて、助かりますよ」

「いやいや。こちらは院長の意のままにさせて頂くだけですから」

「済まない。宜しく頼む」

 そう云って、河原栄は通信を切った。

 頭の中は錯雑さくざつしていた。これまで栄は、あの青年はコカインやモルヒネを乱用するパーティ――要するにマリファナ・パーティのようなものに長期間にわたって参加していたのではないか、と考えていたのだった。併し、その国手の予想はものの見事に裏切られた。

 ――ほぼ純物質の状態でコカインが全身の体表から? 一体誰が、何を目的として、どうしてあの青年をあの様な状態におくのだ?

 栄は落ち着かず、拱手きょうしゅして院長室の床の上を歩き回った。

 理解ができない。奈何どうしても理解不能だ。

 その時、PHSがた鳴った。三上看護師だった。

「もしもし」

「三上です。あの、…患者さんの様子がおかしくなって来ました。脈拍が弱くなっています。呼吸も浅くなって…」

「判った。ぐ行きます」

 栄は院長室を飛び出すと、階段を急いで降りて313号室に向かった。ノックもせずに暗い室内に這入る。

 青年は藻掻もがいていた。右手、左手、右足、左足、全身全てを使って、丸で空中でロック・クライミングを試みている者のように蠢いていた。マラソン撰手のようなせわしない呼吸音が聞こえた。

 と、不意に青年の動作が止んだ。宙に突き出されていた四肢からはぐたりと力が抜けて、ベッドの上にくずおれた。

 三上看護師は、職業的な冷静さで青年の周囲に所狭しと置かれた機器類のディスプレイを見て、ついでに右手首の脈を取った。

「心肺停止状態です」三上看護師は冷徹れいてつに宣言した。「応急蘇生措置を取りますか?」


 ――慶一の乗るキハ四〇系の鈍行列車は、宗谷本線をごとごと揺れながら南下し、音威子府駅には定刻午後一時一六分に到着した。と、記憶のどこかに引っかかっていたものとみえ、ここは〝駅のお蕎麦〟で名代なだいなことを思い出して、ついでに空腹も体感覚として身体に戻ってきた。慌てて時刻表を見ると、この列車「344D」は四分停車、ここでどんぶりごと持ち帰ることもできるのだけれど、ここは午後三時前に出る次発の急行「宗谷4号」に乗ることにし、列車を降りてしまった。蕎麦屋はプラットフォーム上にある。慶一は温かい天ぷら蕎麦を食べ、それから待合室に行ったり一旦駅舎を出てその辺をぶらついたりしたが、駅前は妙にだだっ広い感じがしてそれがどことなくこちらの不安感を誘うようなところがあって不吉に思えたので早々に駅に戻り、残りの一時間半は待合室で過ごした。――慶一のあたまの中はただ一事、瑞生が待っているのは自分で、ぼくが追っているのはたしかに瑞生だということが分かった。

 しかし何故?

 その解答もどうやら瑞生をとり戻してからでないとただしく貰うことは不可能らしい。

 それから慶一の思念は、今日の宿をどこにするか、と云うことに移った。どこと云えば慶一はまず第一に札幌を思い出すのだが、必ずしも道央やどこか特定の土地をぜひ訪れろ、と云うわけでもなかったようだし、ではさて、次に探すべき心当たりは…、と考え、今夜の夜行で札幌へ戻るか、と思ったが、時刻表をぱらぱらめくっていると、道内のユースホステルの一覧表が開いた。そうだ、廉価に宿泊すると云う時には、ユースホステルを利用するという手もある。但し豫約よやくさえできれば、と云う條件じょうけんつきだけれども。この近くなら、塩狩温泉に一軒ある。取り敢えず駅舎の外にあった公衆電話から架電してみると、ああ、ちょうどキャンセルが一件出たところなので今夜いらしても構いませんよ、とのことで、あっさり決まった。

 その後、慶一は自分と瑞生のことをじっと考えていた……、瑞生は自分にとってどういう存在だったのか、又自分は瑞生にとって大切な存在だったのかどうか。慶一と瑞生が知り合ったのは慶一が二年生になる時だ。それ以降、研究室への分属や必修科目の単位の取り直しなどなどのイベントを経て、そう言えば瑞生は慶一にとって欠かせない存在になっていた、と言える。瑞生にとってどうなのか、は分からないが…。

 午後二時五六分、慶一は急行「宗谷4号」に乗って音威子府を離れた。和寒に午後四時十九分につき、ここで下車して十六時三三分発、道北バスの〝旭川-士別-名寄〟線に乗って、定時より八分遅れて午後四時四九分に塩狩温泉に安着した。

 塩狩温泉、塩狩峠は小説「塩狩峠」で少しく知られた土地で、後年記念館も建てられる土地柄なのだけれど、概して観光地としてはマイナーで知名度も低く、のちに塩狩温泉ホテルも塩狩温泉ユースホステルも閉鎖のをみることになる。

 この塩狩温泉ユースホステルは鉄筋コンクリート造りの温泉ホテルに併設される恰好になっており、大浴場はホテルとユースホステルで共用している形である。

 慶一はユースホステルにチェックインして、序でに(勧められたのが半分と、向後使うかも知れぬので必要があと半分で)日本ユースホステル協会への加入手続きをとった。それが済むと部屋番号を教えて貰い、早速温泉に浸かりにゆく。

 こうして大浴場で温泉に浸かるのはいったい何年ぶりになるだろうか。

 そう言えば自分は折角北海道に暮らしていると云うのに、温泉旅行などとしゃれ込むことはこれまでほとんどなかった。

「うん、た改めてこういう機会は作ることにしよう」

 と身体を洗いながら心の中で呟いた積もりの言葉は思わず知らず大きな独白どくはくとなってしまい、どぎまぎして椅子の上で慶一は半ば飛び上がったが、辺りに人はいない。

 その後で慶一はゆったりと浴槽に浸かったのだが、二、三分も経った頃だろうか、湯殿と脱衣所とを隔てるガラス戸を乱暴に閉てる音が聞こえ、あれえ、っと思うと明らかに女湯の方角から、野太い男の声で、

「沼知を探せ、沼地を。――あとは必要ねえよ」

 と言うのが聞こえた。

 慶一は俄にぞーっとなった、何となればあの声が聞こえたのは自分一人であったろうこと、つまりあの声は自分へあつらえ向きなものであったこと、そしてあの声の意味するところはじっさいに見てみなければ分からぬ、行ってみなければ分明にならぬことを悟ったからだった。

 慶一はもう気が気でなくなって了い、名物のジンギスカン鍋も余り喉を通らない始末だった。それに、慶一は大学構内の芝地で夏期に開かれるジンギスカン・パーティ(ジンパ)にはかなり頻繁に出席していたから、ここでまたタレに漬け込んだラム肉を焼いて食べてもそう目新しいというものでもなかったのである。

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