Poisoned Youth ――毒されし青春―― ~或いは一九八九夏、北海道~

深町桂介

Prologue / A.

     ヤコブは天使と格闘し、天使を負かしてしまった

                          ――U2                 

     蝋燭ろうそくの炎が風のなかで消え

       カーテンが翻ってそれが現れた  ――ブルー・オイスター・カルト


 Prologue

 瑞生みずきが呼んでいる。ああ、そうだ、どうにかして瑞生を助けねばならない。自分にとってかけがえのない存在なのだから……、いや、そのことをたった今、あらためて深く感じ入ったところなのだが、その瑞生がじぶんを呼んでいる。あの声は助けを求めているのだ。しかも必死で…。ああ、折角このじぶんを呼んでくれたところで、こんな非力な自分に一体なにをせばよかったろう? 普段の日常茶飯事ならば、喜んで一臂いっぴそう、との気分にもなるのだが、生死がかかっているらしいこの問題では、どうすればよかったろうか。

 しかし、慶一けいいちは天空の果てに向かって思いきり力をこめて叫んだ。

「いま行くよォーッ!!」

 と。

 その言葉もどうやら虚しくなって了いそうな雲行きではある。

 そんな瑞生との、今のところさいごのものとなった会話は二、三日ほど遡る礼のガレージでのことで、バンドマスターにしてドラム奏者の瑞生は冒頭の二小節めでスネアを叩いて〝死神〟をイントロで停止すると、

「おおい、この曲のイントロはAマイナー、G,F,Gだぜ。分かってんの? もう一回」と言ってスティックを拾ったが、そこで時計を見て、「ああ、もうこんな時間か。じゃ、あとは次にしよ。辰ちゃん、ギターのリフは頼むから覚えてきて」

 瑞生がそう言うとその場にいた一同六人は乾いた笑い声をたて、ひとり、ふたりと櫛の歯が欠けるように帰って行くなかで、最後に残ったのは美春と慶一、それに瑞生だった。

「結局のところ、いまこのバンドにはなん人在籍してるワケ?」

 慶一が得物えものの大切なMS-10シンセサイザーをケースにしまいながら問うと、

「七人」

 瑞生はドラム・スローンに座ったまま、儼然げんぜんとして言ったので、それが却って笑いを誘った。序でに昌靖まさのぶが、

「アブラハムには七人の子…」

 と歌い出すと一同は笑い転げた。慶一は、

「この後何かあるの?」

 問うと瑞生は、

「カテキョー」と透かさず返答する。「今年受験が迫ってるのよね。いまいちエンジンのかからない嬢チャンなんだけど…。だから、今日は悪いけど」

 家庭教師なら仕方がない。慶一にも憶えがあるが、実入りはそこそこだけれど、その家の親御さんからの圧力もあるし、なかなか責任重大である。

「じゃあ、行こうや」昌靖まさのぶが言うとガレージの鍵をとった。「これ、オヤジさんに返してくる」

 瑞生は愛車の十年前の年式、一九七九年型トヨタ・カリーナのキィをとった。

「さき、乗ってるから」

「済まんねえいつも」

「なあに、この貸しは試験対策で返してくれればいいさ。どうせおいらは一留のオトコよ」

 瑞生はことあるごとにそう言って切ながるのだが、その実胸のうちでは何も気にしていないのは百も明白なのだ――、慶一も驚いたのだが、この北海道大学には「○年目△年」という言い方があり、つまり自己紹介などで「四年目三年です」と言えば四年間在籍しているのだが学年はまだ三年生、一年留年している、と云うことになるのだ。北大という学校は主となる札幌駅前のキャンパスがかくだだっ広いことで名代なだいだが、そこに暮らし学ぶ学生たちの生き方も実に大らかだった。大学は八年間で単位を取れば卒業でき、休学中はいっさい学費がかからないため、一年通学し、一年休学し、というのを四回繰り返して(こういうのを〝表裏八年〟と言ったりした)、休学期間中は好きなことに存分に打ち込んで在籍年限の八年間を目一杯使って卒業してゆく剛の者もいた。

 カリーナで一路北へ向かいながら、三人はいま練習しているバンドの将来についての話題に花が咲く。

「来年の楡陵祭ゆりょうさいでステージに立てるかな」

「いや、今のレパートリーだけじゃ貧弱だから、せめてもう三、四曲ふやして」

「しっかし、ビートルズでこんなに苦労するとは思わなかったわ」

「……」

 慶一たち、北海道大学理学部化学科生化学教室の面々は、音楽好きが集まってレコードやCDやカセットテープを貸し借りしているうちに、いつぞや〝七〇年代ロックのコピー・バンド〟を組もう、という話になり、それぞれ楽器を分担した上、別の研究室に所属しており、地下ガレージつきの豪壮な屋敷に住んでいる礼という学生、これは慶一が理科Ⅱ類で入学した時に同級になった男なのだが、その両親の快諾かいだくをうけて該ガレージを練習室として拝借し、週に二回から三回の割合で合同練習を行っていた。ことしの楡陵祭ゆりょうさい(学園祭)には間に合わなかったが、来年即ち一九九〇年度のステージには間に合うようにしようや――、というのが合い言葉のようになっていた。そもそも言い出したのが瑞生だったのでしぜん年嵩の瑞生がバンドマスターに推挙され、バンマスは引き受けるが好きな楽器を選ばせろ、と言うのでドラムス担当が瑞生ということに一決し、ほかの学生は語らって楽器店に向かい、中古や新品やとり混ぜて必要な得物えものを準備した。慶一の担当はキィボードとなったが、新しいデジタル式のシンセサイザーは高直で買えず、捨て売りの価格で売られていた旧式のアナログ・シンセサイザーを買って我が物としている。常識なら瑞生のドラムスがいちばん高価な筈だが、これは礼のガレージに偶然にも今は使われていないドラムがワン・セット揃っていたので、こうして即席のロック・バンドが仕上がったという訳だ。

 今は八月、夏休みの真っ只中なのだが、八月末、つまりあと二週間もすると前期試験が行われる。試験をなぜ夏期休暇のまっ最中に行うのかということは永遠の謎だが、気をゆるめるいとまがなかった――、もっとも慶一は〝健康優良児〟であって(つまり、学修簿に優と良ばかり並ぶ優等生のこと)、日ごろから予習・温習には気をつけて取り組んでいるし、今の研究室では幸甚こうじんにも伸び伸びと勉学に励めるため、余り神経質にはなっていない。

 その日、慶一は東区の自宅アパート前までカリーナで送って貰い、礼を言って明日あたりトマト・ソースを拵えるから晩飯でも食べに来ないか、と誘ったのだが、明晩はデートなんだ、と返されておやおやそいつはおおきにご馳走さま、と会話を交わし、そしてそれが最後になった。

 慶一が、瑞生が消息を絶ったことを知ったのは三日後、学内の保健管理センターでのことだった。

 あまり他言はしないが、慶一は精神分裂病(のちの統合失調症に同じ)を患っていて、定期的に医師の診察を受けて薬剤を服用せねばならなかった。それだけが理由というのではないが、慶一は長い休暇のあいだも余り実家に帰らず、札幌にとどまって二週に一遍の割合で該センターに通って伊藤先生と面談した。だんだん分かって来たことだがこの北大の先輩にあたるドクターも学生時代ロック音楽に夢中だったそうで、実はバンドのレパートリーとしてザ・ビートルズやザ・ムーディ・ブルースを加えた背景はこの先生の口添えが大きかった。

 その日、慶一がセンター二階のグレーの長いすに座って順番を待っていたところ、同じ二階にある歯科の戸が開いて、佐々木という界面化学研究室の学生が出てきた。研究室こそ別だが、佐々木も慶一や瑞生ととても仲がよく、やはりレコードの貸し借りをする仲だった。挨拶がてら雑談をしているうち、佐々木はふと真顔になり、

「そう言えば、最近瑞生はみた?」

「ああ、こないだバンドの練習にきて」

「その後は」

「いや、ないね。でも明日また練習があるし、来るんでないの」

「それがさ、こないだあいつの借りてる部屋に電話したんだよ」瑞生は大学院生のお兄さんといっしょに暮らしている。「ここんとこ帰ってないんだって」

「んー」慶一は少しく考え、「彼女ンとこでないの?」

 二人とも瑞生のGFの家は大体知っているが、細かい住所や電話番号まで知ってる訳ではない。

 その話はそれで沙汰止みになった。

 けれども、次の日、つまり練習会が行われる当日の午前十一時ごろ、慶一はまだ寝床にいたのだが、いきなり電話が鳴って起こされた。

 電話の主は辰ちゃんだった。瑞生がいない、いなくなった、と佐々木と異口同音に言うのだ。

「どうする?」

 訊ねたが、二人とも名探偵ではなく一介の大学生に過ぎぬ。名案が出るわけでもないし、又二人とも例の正常性バイアスというものの及ぼす影響で、たぶん大丈夫だ、何ともないだろう、きっと現れるさ、との思い込みに支配され、その時は腰を上げなかった。

 慶一は前夜、遅くまで研究室から借りてきた日本生化学会刊行の「生化学」誌を読んでいたので、まだ眠く、もう少し眠ろうと思って寝床にもぐり込んだ。

 それで冒頭に述べた夢をみて跳ね起きた、と云うことだ。

 漸っと慶一はエンジンが掛かった。

 試験まえだと云うのに、「おれ、〝可不可(北大の学生俗語で、学修簿に可と不可しかない劣等生のこと)〟だ」と豪語する低空飛行の瑞生が行方知れずになるとは。

 これは、若しかするとただ事ではないかも知れない。

 慶一は急いで着替えると、チキンラーメンを啜って腹ごしらえをし、Tシャツとジーンズの姿で鞄をひっつかみ、慌ててアパートの階段を駆け下りた。瑞生のGFの住まいには一度だけ訪れたことがある。新札幌のほう、百年記念塔の近辺だ。あすこにいるだろうか、と思ったが、最後に会った時あそこへ行くと言っていたのだから、取り敢えずそちらから探すのが筋道だろう、と考え、まず地下鉄南北線で北二四条駅から札幌駅へ出て、札幌からはJR線に乗り換えて新札幌へ向かった。タクシーは使いたくなかったので、必死で歩いた。

 北海道の夏は気分がよい。特に抜けるように晴れている日は、紫外線やそんなものの憂慮も忘れて帽子もなにも脱ぎ捨てて日射しの下へ踊り出したくなってしまう。慶一が緩やかな丘陵地帯を辿ったのもそんな日のことで、余り汗はかなかったが日焼けするのが自分でも分かるくらいだった。瑞生の交際相手という女性の住むフラットには、新札幌から徒歩で二〇分ほどだった。建物の脇に白樺の木が一本植わっている。そう、たしかここだ、と慶一は目星をつけ、物慣れた狩猟者が獲物との距離を測り、縮めるようにちょっとそこで立ち止まり、右手の甲で口を拭った。それから建物をまわり込んだ時、決定的な証拠が眼についた。

 瑞生のカリーナだ。みると、〝二〇二〟と白で書かれた区劃くかくに停まっている。

 どうしようか。

 取り敢えずここは引き上げて、佐々木やバンド・メンバーにこれこれしかじか、と首尾を報告するか。それともこのままこの調子で乗り込んで〝スクープ〟を一手に引き受けるか。若い慶一の考えられる選択肢は一つだった。

 黒い手すりのついた内階段を上がると中の薄暗さに眼が慣れるまでやや時間を要し、また自分の荒い息づかいやコンバースのスニーカーの靴底が想像以上のもの音を立てて、目指す二〇二号室の前にたどり着いたとき、気分は既にして敗残者のものだった。

 吉田真由子、と表札が出ている。

 いるだろうか、いないだろうか。出て来るだろうか、来ないだろうか。

 ベルに手を伸ばし、おそるおそる押した。

 鳴った。

 心臓はのど元のすぐ下だ。

 と、中で跫音あしおとがして、戸が開いた。

 そこに立っていたのは、瑞生ではなく、若い女だった。見覚えは、ある。昨年の楡陵祭ゆりょうさいのときに瑞生と連れ立って歩いていたから。

「いらっしゃい」莞爾かんじとして言う。「はいる?」

 無言で慶一は上がり込んだ。あがってから気がついたが、慶一はもう帰りたくなっていたのだ。だがそれには少々遅きに失した。室内は狭かったが、その代わり居心地よく片付けがゆき届いていた。そして、微かな衣擦れの音を聞いて慶一はふり返り、瞠目どうもくした。慥かに慶一は以前この真由子という女性をみた時、「二十歳の原点」の高野悦子に似て美麗びれいなひとだ、と思ったことはある。しかし、肉の関係をもつことなど夢想だにしたことはない。それが……、この豊艶ほうえんなる真由子という女は、いきなり慶一のうえにのしかかって来た。抵抗はできなかった。慶一は未体験であったから、真由子がいったい何のために慶一を襲ったのかは後日訳合いが知れるまで、まったき謎のなかにあった。その中で慶一は初めて体感するところのはだめる激しい快感の焔に粘膜を灼かれ、その炎のさなかに一点の突出口をみつけそちらへ向かって駆け出せんとすれば苛烈かれつにかつ執拗しつように絡み付く異性の体幹にとり込まれ懐柔かいじゅうされて強い搔痒感そうようかんを伴う炎症性疾患のような両面性を以て迫り、畢竟ひっきょう行為じたいはごくはつかな時間のうちに済んだのだけれども、行為の終わりには慶一の眼にはこの女性は悪鬼のごとき迫力を伴うかのようにみゆるのであった。全てが終わってから慶一は自分が姦淫を犯したことを知った――、先年読んだ翻訳ものの稗史はいしによれば、自分も〝A〟の字を紅く染め抜いた服を着せられて然るべき存在となり果せたのだ。終わりのない懺悔と薄ら寒い後悔の気配が琴線に触れる。

 ところが、フランク・ザッパによれば「拷問は果てしなく」とでも云うところなのか、この区劃くかく入口の戸が開いて、口辺に薄笑いをうかべた美女がもう一人姿を見せた。真由子はふり向いた――、ワンレンにした髪の裾がさやさやと慶一の生白い下腹部に触れる。

「終わったの、真由子」

 新たに出現した女はそう冷たく言い放った。そして、真由子の返辞も聞かぬうちに突っかけていたサンダルか何かを脱ぎ捨てて上がり込んできた。

「あたしはもういいわ、お姉さま」真由子は言うと慶一をふり返り、「こちらあたくしの姉の由美子」

「由美子と申します。これからよろしくねン、慶一クン」

 どこやらに悪意のほの見える、表情と見合った冷徹そうで同時に冷酷そうな皮肉をふんだんに含んだ口調で言うと、由美子はディオール565番で固めた悪魔的に女らしい口唇を笑みの形に歪めた――、けれども慶一にはそれが示しているものが果たして親愛の情なのか分明ぶんめいに言うことがあたわず、却って一〇〇パーセント・プルーフの悪意がむき出しになっているかのような印象を受けてどこかに逃げ道はないものかと居廻いまわりを必死になって探した。なかった。それで慶一は諦めて、この女虎めどらの犠牲となることで諦念ていねんに達して静かに承知し、静かに眼を閉じた。

 由美子と名乗る女は服を着たままで近づいて来て(アマリージュのオーデコロンの香りが芬々ふんぷんと漂った)、慶一の下半身をまさぐると、いきなり慶一の男根をくわえた。と同時に真由子もまたのしかかって来て、慶一の両の耳朶じだに噛み痕をつけた。慶一は堪らず呻き声を上げたが、その声とは裏腹に勝手に身体は反応した。由美子は口唇と軟口蓋なんこうがいと舌と唾液で裸の慶一を散々こねくり回した。そしてそうしながら口の中で、

「あなたあたしのこと愛してる」

 と解答が酷薄にも強制的に一択となっている質問を音波の震動として慶一の下半身に伝えた。慶一は〝愛〟という言葉の意味するところすら知らぬ身の上だったが、このいつまでも明け方の来ない夜闇から逃れたくて、思わずうなずいてしまった。それは、若しこのまま何とも返答をしないのならば、また同じバイブレーションによる拷問が与えられるのだろう、と云うことが明白だったので、それから必死でたいかわす、懦弱だじゃくにして臆病な被食者ひしょくしゃとしての本能に基づく行動でもあった。

 と、意外にも由美子と真由子の悪魔的姉妹はふいと身体を離してくれた。慶一の知覚範囲内からこのふたりが体臭として発する派手で人工的で原色で彩られたそれまでの慶一には無縁だった世界の産物であるところの香りが潮が引くように消えてゆき、慶一はまた自由に呼吸ができるようになった。思いきり息をしても、いやなにおいが嗅覚神経にもう入って来ず、慶一は息苦しさから解放された。と同時にまたまぶたを開いた。

 その慶一の眼の前には、やはり皮肉っぽく意地悪げな笑みをたたえたふたりの若い女が相変わらずおり、慶一はあれは悪夢ではなかったのだ、と思った。そう言えば耳朶じだもじんじんする。真由子が、

「あなたね、なにを探しているか知っているけど、ここに来ても無駄よ」

 すると由美子も、

「でも、これから急げばまだ見つかるかも知れないネ。まあ急げばね」

「そう。相当急がないといけないけど」

「それに、今日のあたしたちがしてあげたような――、〝洗礼〟、でいいのかな、こういう目にもまた遭うかも知れないし」

「善は急げ、だよ」

「それ、そこのカリーナ、使うなら貸してあげる」由美子がそう言い、真由子はヒラメの形のレザー・タブつきキィを投げて寄越した。部屋の中でそこだけが、今は間遠くなってしまった瑞生の思い出の形に切り取られていて、それを認めた瞬間、思わず慶一は泣き出しそうになってしまった。キィをぱしっと右手の平で受け止めて、慶一は最前裸にひんむかれた時に部屋のあちこちに飛ばされたTシャツや下着やジーンズのもとを巡回訪問して一つずつ拾い集め、一応外に出てもヘンタイ扱いされなくても済むようなりを整えることができた。もっとも、顔色はまだ蒼白いことだろうが。

「瑞生はぼくが見つけ出す」慶一は歯を食いしばるようにして悪寒をかくし、歯の根の合わぬ上下の前歯の間から必死で言葉をひねり出す。「きっと、無事な姿で。何ヶ月かかろうとも」

「あらあ」由美子が笑う。「英雄気取りだよ、この子」

「まあいいんじゃない」ちょっと息をついて、「好きにさせとけば」

 慶一はつかつかと窓辺により、眼下に瑞生のカリーナが停まっているのを確認すると一つ頭し、ベッドのふちに並んで腰を掛けている雌虎姉妹に軽蔑のこもった視線を投げかけて、そそくさと靴を履くと腰のポケットの財布を確かめ、ドアをはいして外に出た。

 中では残された姉妹が、顔を見合わせて、仕方なさそうにほほえみながら、

「教えてやってもよかったかな、あれ」

「バンドの名前のアイディアね。ま、またの機会に」

 と静かに語らっていたが、むろんその言葉が血気けっきにまかせたいまの慶一に届くわけがない。

 慶一はキィをさしてドアを解錠すると、むっとするほこり臭い空気に顔をしかめながら運転席に乗り込んだ。この車の運転席に乗るのは初めてでちょっとどきどきする――、自動車の運転免許証なら昨年の夏に取得していたので、資格は問題ない。このフラットには一、二度来たことがあるので、道も分かっている。取り敢えず道央道に乗ってからどこへ向かうかあらためて具体的に考える積もりだった。だが、そうはうまく運ばなかった。

 札幌市街へ向かう幹線道路に入ったとき、ベルが鳴った。なにを示すのか、はじめは今ひとつぴんと来ずにそのまま時速五〇キロの制限速度で走らせていたのだが、しばらくするともう一回執拗しつように鳴り響いた――、そこでダッシュボードをみてっとその意味するところが分かった。ガソリン・タンクがもう〝E〟のところまで降りきっている。これはいつ路上で停まりこむか分からぬ。ガス欠で尻がすぼんじまうなんてずいぶん情けないはなしだが、ここは一つ対応しなければならぬ。慶一の車は交差点の左折レーンを走っていたが、弓手ゆんでをみると、うまい具合にどこかの駐車場がある。月極駐車場かも知れないしこの辺に多い高層集合住宅で借り上げの駐車場かも知れぬが、背に腹は代えられない。ええい、南無三、と左に方向指示器を出してハンドルを切り、手近に空いていた駐車ちゅうしゃ区劃くかくに車を停めてギアをパーキングに入れた。と同時にガソリンが本当に切れたらしく美事みごとにエンストを起こした。まったくもう、あの〝吉田姉妹〟の仕業だな、ガソリンを抜いておいてくれるなんざ、ずいぶん味な真似をしてくれるものだ。と悪態を吐きたくなる気分で、窓を巻きおろして苦々しい味のつばきをそこの路上にペッと出してやろうか、と右手が窓のハンドルに伸びかけたとき、不意に窓の外がくらくなって、運転席側の窓をコツコツコツ、と拳の背面でたたく音がする。若しや、警官かッ、とあおくなりかけてみると、そこにいたのはこの夏日にギンガムチェックの上等な背広をきちんと着こなした五〇年配の紳士だった。上等な絹のネクタイをしているが、眉が濃く彫りの深い顔立ちはどことなく日本人離れしていて、ほとんど意識しない頭の片隅で漠然と、ハーフかな、とつかぬ事を考えながら、非礼を為していることは百も承知なのでミテクレは済まながっているように見えるよう、頭をきながらロックボタンを起こしてドアを開けた。

「いや、どうも済みません。うっかりガソリンが…」

 ぶつぶつ弁疏べんその言葉を口にすると、紳士はにこやかに、

「これはきみの車?」

「あ、いえ、友人のを借りていまして」

「そうか。――まあいいが、このスロットはぼくが借りていてね」

「あっそうでしたか。済みません。ホントに」ぺこぺこする。「ちょっと今ガス欠でして。すぐスタンドに言って新しいガソリンを運ばせますから。ちょいとお待ちを」

「いいや、そう急ぐものじゃないから構わん」紳士は鷹揚おうようだ。「それより、ちょっと気になったんだが」

「…は?」

「きみはずいぶん忙しそうだ……、或いはとっても急いでいる。違うかい?」

「え、ええ」声のトーンを落として、「そうです」

「どんな事情かね?」

 紳士の物腰があまりにも柔らかで丁重だったので、ついつい慶一は人捜しをしていることを喋ってしまった。すると紳士は背広の隠しから銀の名刺入れをとり出して一枚渡してくれ、

「この駐車ちゅうしゃ区劃くかくは週に一度、会議で新札幌のホテルに来るときに使う程度だから、七日くらいならここに置いていて構わんよ」と言ってくれ、さらに、「それから、何か退きならぬようなことにぶち当たって困るようなら、そこに電話しなさい。ヒガシジマを呼んでくれればいい。若しかしたら力になれるかも知れん」

 慶一は時どきつくづく思うのだけど、北海道のひとってホントに大らかなんだなあ。

 丁寧ていねいに礼を言ったが、東島さんは、そんなこといいから急ぎなさい、と言い置いて、じゃぼくはこれから急ぐから、と大股で行ってしまった。

 慶一は貰った名刺は特に目を通さずに財布にしまった。

 そう、これからぼくは瑞生さんを探しに出ねばならないのだ。なにを使うか? レンタカーより鉄路の方がリーズナブルだろう。それに孰方にせよカネが要る。慶一は素封家そほうかの出身ではなかったから大抵家庭教師などのアルバイトをしていたが、もっかのところは生憎あいにく特に長期間就くようなパートタイムの仕事は持っておらず、生活費も学費もすべてひっくるめて実家に負担して貰っていた。預金通帳の残高は……、判然はっきり記憶に残っていないが、最後に確認したときは十二万なにがしあった筈だ。この辺りはあまり来つけていないので、どこにあるのかはちょいと不分明だけれど、こう熱鬧ねつとうであることもあるし、拓殖たくしょく銀行の支店かATM出張所はその辺でみつかるだろう。それより昼にカップ麵を食べたきりなので腹が減った。

 あらためて特記するほど北海道の夏はきもちがよい。梅雨を経ないので空気に湿気が少なく、太陽に照りつけられても汗でべたべたになることはまずない。その代わり夏は短い。九月の末つ方になると曇り空が増えてきて、内地から颱風たいふうの余波がおよぶのもこの時期である。慶一がそんなことをぶつぶつ考えながらうろついていると銀行の支店はそう歩かずとも見つかった。空腹の方も喫茶店に這入はいって珈琲とサンドイッチを食べてどうにかごまかした。

 さて、どこに行こうか?

 喫茶の席で慶一は財布の中身を確かめた。七四五〇三円也。


 A.

 冷めかけた珈琲の残りを啜りながらつらつら考える。試験のために準備する時間を最短で三日としても(ふだんの素行の点で後ろ暗くない慶一はあまり不安がなく、寧ろ余裕綽々である)、道内を探し回れるのはあと七日間が限度だ。道外に出ていた場合は、もう手の打ちようがない。それに、夏の北海道というのがどれほど魅力的な観光地であるのか慶一はよく知っているから、そこらでちょっと宿を取ろうにも労苦があるだろうというのも計算尽くだった。特急や急行などの優等列車も高いグリーン車ならどうにか空席があるかも知れぬが、普通車の指定席は絶望的だ。時計を見ると午後三時になるところ。慶一は学生の身分だから、前もって学部の事務所で手続きをしておけば学割が利いたのだが、もう遅いからこれから行っても事務は閉まっているだろう。北大の事務員は特にどこの学部が、と云う訳ではなく、意地が悪くかつケツの穴が狭いので有名であって、卒業論文を提出するのでさえ、時間の間際の午後四時五九分に駆け込んでも受け付けてくれず、「まああなたももう二〇歳を越えているんだし、ここは泥をかぶって明日またおいでなさい」などと言うらしい。それはいいが、仮に学割証が明日発行して貰えるにしても、もうこんなところでぼやぼや時間を過ごしている余裕はない。

 それにしても、瑞生はほんとうにどこへ行っちまったんだろ?

 スモークの入った通りに面する一枚ガラス越しに空を見上げ、慶一は軽くため息をつくと、札幌駅へ出ることにして立ち上がり、伝票をとった。サンドイッチと珈琲のセットは七〇〇円だった。全財産を投じて探索に出るのなら、もう一銭も余分な金は使えない。

 午後三時二五分。慶一は着替え、それと休暇への期待感からだろう、大きく膨らんだバッグを抱えたり引き摺ったりしている観光客でいっぱいな札幌駅の受付にいた。手にはキオスクで買った道内時刻表、一九八九年九月号を持っている。〝みどりの窓口〟が混むのは承知の助だったが、こうまでひとがたち並んでいて、こんなに順番を待たされるものだとは思わなかった。これまで夏と言っても、慶一は貧乏学生だったから旅行なぞおいそれとできる身分ではなかったし、実家からよぶんに送ってきてくれたら「お言葉に甘えて」前期試験の終わる九月の初旬に一週間から十日ほどの日程で帰省するのが、旅行と言っておもうかぶ程度だった。密かに戯作者げさくしゃを志す気持ちを持っている慶一は少年時代からすこぶる付きの読書好きで、翻訳者を追いかけて本を読む癖があったのだけれど(尤もそれは特に上等の技術・技巧を持った一部の翻訳家に限られ、たとえば英語ではもっぱら深町眞理子や竹生淑子、井上健や延原謙を好んでいた)、シュトルム「みずうみ」で味を知った高橋義孝を追って、すでに絶版されている随筆は古書肆こしょし廉価れんかに探すなどして読み、かなり深追いしたのだけれど、その中で読んだエーリヒ・ケストナーの一連の少年文学シリーズももちろん「エーミールと探偵たち」から「点子ちゃんとアントン」に至るまで隈無く読みつくしていたのだが(まだ存命だったので、ファン・レターを出そうかと思うほど入れ込んだこともあるのだが、それを読んでいる時に内田うちだ百閒ひゃっけんとの一儀いちぎを知った)、そのうちの一冊「飛ぶ教室」に出てくる〝正義先生〟ヨハン・ベクと、教え子のマルティン・ターラーのエピソードを読んだときには、いまマルティンの心情を書き出せと言われて一番よくできる日本人はぼくだろうな、と半ば冷笑を込めて考えたものである。――余計な脱線をしている内、実際にはあまり待たずして慶一の番になった。

「これから道内を数日間かけて鉄道で巡りたいと思うんですけど、なんか適当なきっぷってありませんか?」

 とえず問うてみると、質問は正鵠せいこくていたらしく、駅員は端末機に向かってキィボードにかたかたと何か入力しながら、

「そうだねえ」とのんきに答えた。「〝北海道フリーきっぷ〟っていうのがあるけど、こんなのオススメだよ」

「はあ」

「普通席用は特急・急行の指定席が乗り放題。グリーン車用は同じくグリーン車とB寝台、ただし〝北斗星〟はダメだけど、夜行急行のB寝台が乗り放題。普通席は二二五〇〇円、グリーン車は三三四〇〇円で、孰方どちらも七日間有効」

 慶一は頭のなかで引き算を演算した。宿泊費、食費に雑費を加えたらとてもじゃないがグリーン車用は使えない。

「――じゃ、普通席用のを」

「はい。今日から使います?」

「はい」慶一はトレイの上に金銭を並べた。これからどこへ行こう? そうだ、瑞生は稚内の方の出身だと言っていたから、そちらを試してみるか。「このあと道北方面へ向かう列車はあります?」

「えーっとね」駅員は壁の電光パネルに眼をやって、「四時三六分に発つ〝宗谷3号〟があるけど」

「あ、そうですか、どうも」

「何か指定席押さえておきたい列車はある?」

「――いや、予定自体まだ組んでないんで」

 頭を搔くと、

しかして、あんた北大生かい?」

「そうですけど」

 と答えると駅員は口の端に笑みを残してトレイの上にきっぷを置いた。

「どうして分かりました?」

「いやいや、こっちの話」

 きっぷを受け取りながら、慶一はお肚の中で、またしかに北大生は無鉄砲で無計画なのが多いみたいだけどサ、どうせ気にしないからいいですけどね、などと呟いて〝みどりの窓口〟を後にした次第。

 曩者のうしゃの時刻表をひもとき、北海道内の鉄道事情をかんがみると、この時期はじつに豊かな、花ざかりのときであったことが分かる。まず本州方面から渡ってくる道としてはビジネスライクはいいものの、傲岸ごうがんでひたすらに無粋ぶすいな新幹線のようなものはまだ遙か南西の盛岡までしか達しておらず、蝦夷ヶ島へ渡航するには青森から快速〝海峡〟を使うか、夜行急行〝はまなす〟(この頃は寝台車はまだ連結していなかった)に乗るしかなかった。或いは少々大仰だが、貴重なものとなってしまった食堂車連結列車として上野-札幌間を結んだ寝台特急〝北斗星〟も健在だった。函館からは特急〝北斗〟を利用するか、高い特急料金はバカらしくて払えぬ、という向きにはカーペットカー、ドリームカー(183系特急型気動車のグリーン車で使用されたリクライニング・シートを装備したもの)を連結した、どの車輛も運賃に加えて指定席料金五〇〇円をプラスするだけでお安く乗れる快速〝ミッドナイト〟があった。

 ほかに、道内を俯瞰すると、キハ56系、キハ40系を初めとする旧来からの残留組車輛も多く在籍しており、札幌近郊などの都市圏でも朝の普通列車としてオハ50系客車を利用した列車をみることもできた。

 それから、こうした旧式の気動車に大幅な改造工事を施して生まれたところの、いわゆるジョイフルトレインも長期休暇の時期の活躍ぶりが多く認められた。まず夏期に札幌―北見間をむすんだ〝ペパーミントエクスプレス〟や、新規開業した石勝線沿線のリゾート・トマムへ向かう〝アルファコンチネンタルエクスプレス〟、そして従前通り高い人気を誇るリゾート地富良野との連絡役を嘱目しょくもくされた〝フラノエクスプレス〟も全日本を見廻してもほかに類例のないジョイフルトレインの急先鋒として北海道を駆けていたのである。なにが目新しかったのかと云えば、従来のジョイフルトレインの代表格である〝サロンエクスプレス東京〟などはグリーン車として新改造され、グリーン料金を徴収する形で運用されていたが、これら北の新しいジョイフルトレインは種車こそキハ56やキロ26といった旧型車輛であったが、これらにじつに一億円以上の費用を投じて、運転台付近をハイデッカー構造にしたり、全車リクライニング・シート仕様としたり、さらにリゾート・ホテルとのタイアップで実現したフード・サービスのカウンターを設けたり、冷房化改造を施したうえでシックで小洒落た塗色へと大胆な塗り替えも図り、ちょっと見では旧車の改造で造られた車輛だとは分からぬほどのグレード・アップが行われているにもかかわらず、全車普通車指定席として扱われており、凡そ二~五時間に及ぶ鉄路の旅を、懐具合を気にすることなくリゾートへと向かうことが可能だったのである。

 列車番号305D、札幌駅仕立じたての宗谷本線方面下り急行列車〝宗谷3号〟は、午後四時十五分、札幌駅八番線プラットフォームに入線した。この列車は一部指定席で、慶一はむろん指定券をとることがあたわず、自由席車輛の乗車口を示すフラグの下に並んでいた。慶一が漸っとこのプラットフォームにやって来たとき、既にして前には十人から二〇人ほども旅行客が蝟集いしゅうしていたため、慶一は座席を確保するのをなかばあきらめてしまっていたのだが、いざドアが開いてみると車輛の奥の方ならば通路側にまだ空席の残っていることを確かめ、ほっと安堵の息をついて、

「済みません、ここ空いてます?」

 と隣に座っている男性客に確かめたうえで、進行方向を向いた席に腰掛けたのだった。

 列車は一時静かにしていたが、やがてごうごうと音を立てて機器の顫動しんどうが尻の下と背中から伝わって来て、慶一は落ち着かなげに尻をもじもじした。これは慶一特有の情実じょうじつであるが、抗鬱剤を服むと、血中濃度に応じてアカシジア(静坐不能せいざふのう)と呼ばれる現象が現れる。これのつらさは誠に経験した者でなければ推し量るべからず、と云うほどのげにしんどいもので、例えば椅子に着席すれば尻の下、だいたい会陰部の辺りが何ともこそばゆくむずむずして来て、落ち着いて座れなくなってしまう。又ではと言って寝床に入って横になると、体側の床と触れている面がどうにもうずき出してちっとも休まることがない。結句、家の中を、昼となく夜となく、まるで冬山で巣穴を見失ったクマよろしく、果てしなくうろうろと徘徊はいかいし、その頃になると抗鬱剤を服んだことを後悔さえするのであるが、これはベタマックTのような古いタイプの薬剤でも、又デプロメールやサインバルタといった後年新規開発されたSSRIなどの薬剤でも起こることがある。ベタマックやデプロメールでは血中濃度が高くなった時に出現するのだが、サインバルタでは少し異なり、離脱症状(服用を中止して血中濃度が徐々に低くなって来たときにみられる症状)として現れる。ベタマックTなどはしばらくクスリを服まぬように心がけて血中濃度が充分低くなるまで待たねばならないのだが、夜中になってそろそろ眠りたいや、と思ってもそううまく運ばない。イライラ・ピリピリして、疲労が極限状態にまで高まったところでっとヒュプノスがあの木の枝を持って降臨し、眠りに導いてくれるのだ。全く因果な薬剤である。慶一はいま、列車の立てるビビり音を感じてアカシジアを想起したが、まったくこれを知っている向き、ご存知のかたがすくなければすくないほど幸福、と云うものである。

 慶一の乗り込んだキハ56系の列車は四輛編成、油くさいにおいがして、おまけに非冷房車で天井には送風ダクトの代わりに小型の扇風機がのんびりと廻っていて、一と目見るなり汗ばんで来そうな印象を与える。自由席車は二号車と三号車、慶一の後にも乗り込んできたひとは少数ながらやはりおり、何人かはボックス・シートの手すりにつかまって通路に立っているような感じ。それを見ると慶一は落ち着かなくなってしまった。鉄道車輛に乗ったとき、立っているひとがいると(特に年配の女客など)、譲らねばならないか、譲らぬのは人非人ひとでなしの行いになるのではないか、という気がして、その心中の葛藤に囚われて行楽気分など軽く吹っ飛ばされて了う。

 こんなに混み合っていると、悪くすれば〝発作〟が起きてしまうかも知れない。屋敷に出るのは来週火曜のことだが、それまでによくなれるのだろうか? 本当に所属する部活の適切な責任者のもとへ、一報知らせておいたがよくはなかったか。あまり観念ばかりが浮いて来てしんどくなってしまった。それにしても瑞生というのは、昨日音合わせの練習をしたブルー・オイスター・カルトの〝死神〟だとか、ユニヴェル・ゼロの〝ヘレシー〟とか……、ヘレシーはフランス語で〝地獄〟を意味するらしいが、或いはロバート・フリップの奥さんのトーヤ・ウィルコックスとかみたいな、〝根暗な〟音楽が好きなのだけれど、一体どうしてだろうか。そう言やユニヴェル・ゼロのコピーをするのが夢だ、なんて言ってたっけ。他には…、奇妙なスラッシュ・バンドのセルティック・フロストやうつ病音楽と呼んだら本気で怒られたのだが、イギリスのプログレッシヴ・ロックのバンド、ヴァン・ダー・グラーフ・ジェネレーター。並びにその首魁しゅかいのピーター・ハミルによる大量のアルバム群(何せヴァン・ダー・グラーフ解散後からは年に一作のペースでアルバムをこしらえているのだ)。レミー・キルミスターのモーターヘッドなんかはまだまだ健康的に見えてくる。ジャズ・ピアニストのセロニアス・モンクが好きだと云うのはまず例外的なことであり、慶一もモンクは好きだったのでイイよな、と言ったらそれが仲良くなるきっかけになったのだから、ひとの仲なんて案外知れたものじゃない。だから、瑞生としてはどうやらザ・ビートルズの〝デイ・トリッパー〟やザ・ムーディ・ブルースの〝イッツ・アップ・トゥ・ユー〟なんて曲をのんきに演奏するのではなく、もっとタイトでアグレッシヴでワイルドで激しいナンバーをステージから客席に叩き出し、バシッとキメたいらしい。それには、女性メンバーがいないという点は満足だけれども、合唱隊(?)専門の二人も含めて七人もいる現在のラインナップにも不満があり、せめて五人編成にしぼりたいらしい。まあ、枯れ木も山のにぎわいと云うじゃないの、と慶一はある時瑞生に言ったのだが、その際には、

「オレもさ、ホントはツー・バス・ドラムにあこがれがあるワケよ。コージー・パウエルとかさ、サイモン・フィリップスとかさ、トミー・アルドリッジとかさ、テリー・ボジオとか…。あんなの床に置いてさ、一気にドコドコ打ち鳴らすワケだよ。いいよなァ……。ま、ダブル・ベードラはムリでもさ、せめてツイン・ペダルくらい使えるようにしたいや。アルバート・ブーチャードみたく」

 と、もうヨダレでも垂らしそうな顔つきで言うのだ。

 そして、よほどこだわりがあったものらしく、後刻ごこく、現に瑞生はツイン・ペダルを買って来てしまった。これはビーター(ベース・ドラムの皮を打って音を出す部分)は一つだけなのだが、右足用、左足用とペダルはふたつ、ワイヤーで結ばれており、両足で独立して演奏できるようになっている。が、むろんザ・ビートルズの曲のなかでダブル・ベース・ドラムを用いている作品なぞありはしないし(但しツイン・ペダルは例外的にある。アルバム「アビィ・ロード」の中で珍しくリンゴがドラム・ソロをとっている部分だ)、ザ・ムーディ・ブルースにしても然り、である。

 慶一は、瑞生に、まぁそんなに焦るなよ、まだぼくたちは楽器を手にしてほんの数カ月にしかならないんだぜ、それも一九八〇〇円のフェルナンデスのギターと、一三〇〇〇円のコルグのシンセサイザーだ、それに来年になったら進学とか就職とかで忙しくなるし、ロック・バンドだなんて悠長なこと言ってられないぜ、と軽くいさめたのだが、瑞生としてはやはりこだわっているようで、学校にもペダルだけカリーナに積んで持ってきては、理学部のはす向かいにある百年記念会館に持ち込んで、いちばん上のフロアの片隅に四人分が座れるソファが設えてあって、ヘタをすると〝しけ込んでいる〟カップルと鉢合わせしかねぬのだけれどそこが一番音響的には按配あんばいがいいので、目を離すとそんな隅にこもってはひとりでブラストビートの足だけを練習していた。

 慶一は午後の講義が休講になった時など、偶々たまたま季節が冬でジンギスカン・パーティ(ジンパ)が催されなかった場合、しばしば瑞生を伴って狸小路たぬきこうじ近在きんざいのレコード屋へまかり出ることが時おりあった(ジンギスカン・パーティに就いては後述する)。そうすればお互いの趣味もはっきりと見えてくるというものだが、店を出るとき慶一は「アクアラング」、「ザ・ミンストレル・イン・ザ・ギャラリー(天井桟敷の吟遊詩人)」、「ヘヴィ・ホーセズ(逞しい馬)」といった傑作アルバムを物したイアン・アンダーソンのジェスロ・タルや、「トレスパス(侵入)」、「ナーサリー・クライム(怪奇骨董音楽箱)」、「フォックストロット」といった作品を発表しているジェネシスといったプログレッシヴ・ロック・アクト、ほかフェアポート・コンヴェンションやフォザリンゲイなどのフォークに夢中になっていて、千円前後の捨て値で売られているリイシュー盤やリプロダクション盤のアナログ・レコードを大事に抱えていたのに対して、瑞生は、テロライザーのファースト・アルバム「ワールド・ダウンフォール」や、グラインド・コアの領袖りょうしゅうナパーム・デスの「スカム」や「フラム・エンスレイヴメント・トゥ・オブリタレイション」、ダーク・エンジェル「ウィー・ハヴ・アライヴド」、ヴェノン「ウェルカム・トゥ・ヘル」、「ブラック・メタル」、ヘラシー「ネヴァー・ヒールド・フレクシィ」、クリプティック・スローター「コンヴィクティトゥ」などなどの出所の知れぬ・怪しげな・正規盤とも海賊盤ともつかぬごたまぜ的なヴィニール盤群を丹念に拾い集めては嬉々としてもとめていたものである。この時期、まだCDすなわちコンパクト・ディスクは普及浸透の途上にあると云った感じで、国内アーティストの例えばTMネットワークなどはアナログと同時にCDでもリリースが行われていたが、転じて瑞生が好んで求めるような音楽はなかなかCD化はされず、長くアナログ・レコードのフォーマットで愛聴されていた。

 ……このように、慶一の聴くものと瑞生の指向するものとは大分方向がズレて来ており、まだ名前のないバンドのその後の活動展開が興味深いところだったが、その他の辰ちゃんや良一といったメンバーは、まだ〝右も左も分かたない〟存在であり、ヴェノンだろうがジェスロ・タルであろうがちょっとでも面白そうなら喜んで聴く、と云った手合いであり、その分自分の嗜好しこうの何たるかを知っている慶一や瑞生からは二、三歩後れをとっていた。

 岩見沢を午後五時一分に発った後、間もなくして車掌が検札に訪れた。慶一は、買ったばかりの「北海道フリーきっぷ」にハサミを入れて貰いながら、ふと心づいたことがあって、ガタガタと今にも走りながら分解してしまいそうな音を立てて石狩平野を駆ける急行列車の車内で、開けた窓から入ってくる騒音にも負けじと声を張り上げねばならなかったが、かく慶一は〝しかしたら〟と気になる一儀いちぎを問うてみた。

 と、車掌は、とんでもない、と言うふうに首を振って、

「いやあ、ぼくなんか〝まりも〟に乗務して釧路まで往復してきた身体でね、まだ眠いんだ。だから、キミの言うような風体のお客が乗っていたとしても、気づいたどうか」

 と頼りなげに答えると、揺れる車輛の中で不安定にバランスをとりながら去って行った。

 そうか、と落胆して慶一は身体を濃い青色をした四角い座面に力なく腰を落とした。

 そんな慶一の思いとは別にして、気動車は軽油の力で力強く走り続けるのであった。

 これから七日間、ぼくはこのだだっ広い日本第二の面積を誇る島をさまよわねばならない。慶一はほぞをかむ思いがしたが、乗りかかった船だし、後悔先に立たず、だ。

 一か八か、るかるか、喰うか喰われるか、やるしかないのだ。

 慶一の周囲ではだんだん夕照が影を伸ばし、薄暗くなって来て、車室灯の蛍光灯が変にまぶしく感じられるようになって来たが、急行「宗谷3号」は相変わらず元気だ。慶一は時刻表を出した。この先、深川、旭川という順番で停車し、稚内の終着は午後十時十六分の予定である。

 これはしたり。今夜の宿を未だきめていない。

 上りの夜行急行「利尻号」はその十分前に稚内を発つダイヤが組まれているから、この列車の自由席車輛に乗って札幌へ引き返すことは不可能だ。

 ま、いざとなれば稚内駅の待合室で雑魚寝ざこねしたっていいんだし。

 この列車「宗谷号」は約四〇〇キロに及ぶ行程を走破するが、この距離の長さは気動車急行列車としては全国で一、二を争うものである(のちにこの列車は特急に格上げされて「スーパー宗谷」と改称しているが、これもやはり気動車特急列車としては全国第一位の運行距離である)。札幌を発つときはまだ日が高いが、稚内に着くのは深夜のことだ。

 と、深川を過ぎたとき、窓際の席に座っていた初老の男性が話しかけてきた。

「お兄さん、今日はどこへ行くの?」

「――一応、稚内ということで考えていますけど」

「急用かい?」

「――はい」

しかして、人捜しかなにか?」

 どうして分かるんだろう。

「ええ。よくお分かりですね」

「札幌駅での様子みててもあんた目立ったしね。じゃあ当たりなのかい?」

「はい。図星です」慶一は復た眼を丸くして、「それにしてもよくお分かりで…」

 男は人の好さそうな笑みをみせて、

「なに、勘は昔からよくってねえ」と、その時、窓外が明るくなった。旭川だ。「したっけ、ここは逃せねえんだ」

「え?」

「そりゃ、夕めし、喰いっぱぐれるな」そう言うと男は馬手めての窓を押し上げておおきく開けた。そして窓から上体を乗り出すと、大きな声を張り上げて弁当屋を呼んだ。すぐに一人つかまったらしく、身体を列車内に戻すと、「旭川は五分停車だ、ここを逃すとつぎにメシ喰えるのは稚内になっちまうぞ」

 言われて慶一も慌ててリュックサックから財布を出した。

「さあなににする、兄さん?」男は弁当屋をまえに、八八〇円の〝えぞわっぱ〟と六二〇円の〝えぞかもめし〟を註文し、慶一は節約するため、四一〇円の〝助六すし〟とお茶をあつらえた。

 弁当の購入が済むと、男は復た列車の窓をピタリと閉めた。この列車、冷房化されているのはグリーン車のキロ26形だけだが、蒸機(蒸気機関車)の場合ほどではないけれども、やはり煤煙やすすが車内に入って来るためだ。

「兄さん、学生さんかい?」

 急行列車が宗谷本線に這入はいると、男はさっそく弁当を使いながら気軽な調子で問うた。

「――あ、はい」

「ふん。その様子じゃあ内地の出らしいね?」

「ええ」

「あんまり道内も見て廻ってないんだろう?」

 慶一は苦笑した。

「ええ、ちっとも」

「それじゃあこれをせめて奇貨きかとして、せいぜいあちこち見て歩くこった――、あ、弁当はさっさと食べた方がいいよ」

「あ、はい」

「これから線路がひどくなって、走っているあいだにしのお茶もパタッと倒れてしまうから」

 慌てて慶一も駅弁の包みを開けた。

 男はあと余計なことだけどサ――、とつけ加えて、

「兄さん、今夜泊まるところ、もう決めてあるのかい?」

 慶一はかぶりを振って、

「実はまだなんです。いざとなれば稚内の駅の待合室で夜明かしする積もりでいますけど……」

 すると男ははげしく首を振って、

「あかん」と言下に言った。「今どき、そんなのできないよ。第一、待合室もシャッターを下ろすから、追い出されちまうべさ」

「そうですかあ」

 慶一は落胆する。その様子をみて取った男は、

「この時節じゃ、稚内のビジネス・ホテルもどこだって軒並み満室だろうにねえ。――おれの方で一件、心当たりはないワケでもないんだが。南稚内駅の近くの、ホテル宗谷に行きなさい。あすこは朝食つきだと四八〇〇円だが、おれが一と言添えれば朝メシつきで素泊まりと同じ四〇〇〇円で泊まれる。どうするね?」

 慶一は取り敢えず、

「ありがとうございました」と言い、ちょっと考えてみたが、一々懐具合を気にするまでもなく、胸の内の会計士に聞き合わせてみるまでもないことで、慶一はすぐに肯った。「とても助かります。お手数ですがよろしくお願いいたします」

 すると、男はブルゾンのポケットから名刺を一枚とり出すと、裏に万年筆で何やら書き込み、

「そら」と慶一に手渡した。その時慶一は気づいたのだが、外はもうとっぷりと日が暮れていて、山のなかを突っ切るときは辺りはまったき闇になる。「これをフロントで出せば……」

「どうもありがとうございます」

 慶一は丁寧に礼を言った。お仕事は、と言いかけたが、男は、

「いいのいいの。どうせ大したことやってねえんだからさ」と笑い、「さ、そろそろ降りる駅だからさ。元気でやんだよ」

 と言って、まだ人立ちのしているデッキへ出て行った。

 間もなく列車は美深に着いた。午後七時四九分、三〇秒停車。男はプラットフォームにおりてから慶一に向かって手を振って見せた。慶一も振り返した。それから男の姿は水銀灯の光のなかから消えて行った。

 それから慶一はボックス席で窓際に尻をずらし、窓辺にほおづえを突いて時おり飲み止しのお茶に口をつけて、後は専ら沈思黙考して過ごした。

 いったい、瑞生は実家の方へ向かったなどと考えたのは、とんでもない勘違いだったかも分からない。抑も〝健康優良児〟の慶一と〝可不可〟の瑞生とでは思考回路もかなり異なるのである。

 それは一年間だけ慶一の籍を置いたことがある文芸部での活動ぶりに対する反応の違いでも明らかなことだった……、慶一は文芸部で短篇をいくつか、あと中篇の断片をいくつかものして部誌「ぎよ」に発表していたのだが、自分でもなかなかの出来、と思え、部員の佐々木鮎彦くんや小館博輝くんなどからかなりの(世辞混じりだったが)評価を受けたものも少しあったのだけれど、とくとくとして瑞生に見せてもあまりよい顔をしなかった。今にして思うと、瑞生は読書を好まないものらしいが。その後〝バンド活動〟に専念するために慶一は文芸部を離脱したのだが、将来的に若しチャンスがあれば、きちんと文芸誌主催の文学賞に応募して受賞したうえで作家としてデビューしたいな、でもムリだろうかな、ちょっとやってみたいんだけどな、と揺れる気持ちを持っていた。

 その頃の短篇で一番気に入っているものとしては、以下に揚げる「白黒狂想曲」なるものが挙げられる。


(「白黒狂想曲」、部誌「ぎよ」一九八七年秋季号掲載・転載は許可済み)

 一.

 それは土曜日の夕方のことだった。その日の王立動物園での勤務も滞りなく済み、六時に仕事が退けたあと、おれは着替えを済ませると、いい気分で便所に立ち寄った。

 鼻歌を唄いながら小便をし、手を洗って廊下に出たところで、おれはレーヴィン園長に出交した。

 おれはいやな予感を覚えた。大体、このレーヴィンなる園長は小狡い上に高慢で、職員と打ち解けようともしないので、一介の飼育係から叩き上げた副園長に始まり、事務職の女性職員に至るまで、ほとんど全ての職員から嫌われていた。そしておれも例外ではない。

 まあ、レーヴィン園長の立場を考えてみれば、それも尤もな話だと頷けるかもしれない。

 この国の王立動物園の園長職というポストは、実のところただの腰掛けにすぎない。この王国の王家は代々動物を大事にする仕来りになっていて、そのお陰で毎年赤字ぎりぎりのこの動物園に対する予算案も、ほとんど問題にされず王国議会での承認を経て可決されている訳だ。

 そんな訳で、この動物園の園長には高級官僚の出身者が多い。現にこのレーヴィン園長も今のポストに就くまでは財務省にいた男であり、この動物園での任期が終われば意気揚々と財務省に戻って行くのだろう。レーヴィン園長にとっての王立動物園園長職のポストとは、だから、言ってみれば一種の通過儀礼に過ぎない。動物園職員と馴染みの仲になど、別になりたくなくとも、当たり前だ。

 おれたち動物園職員は、そうした事情はよく分かっていたし、こうして高級官僚に対し出世に繋がるポストを提供するがためにこの動物園は存続し、そのお陰でおれたちが職を失って、不況のこの世の中で路頭に迷うこともないのだ、ということも痛いほど分かっていたが、それでもレーヴィン園長は偏にその人柄のために嫌われていた。財務省に戻ったレーヴィン園長が仮令(たとい)長官になったところで、一介の公務員に過ぎないおれたちの給料は一ペカーリも上がる訳ではないから、当たり前の話だろう。

 そのレーヴィン園長は、事務所の廊下でおれの顔を見るなり、

「おい、お前ら、夕食が済んだら園長室に来てくれ」と言った。「ゆゆしき事態なのだ」

 レーヴィン園長の顔は、夕闇の廊下の中、心なしか蒼ざめているようだった。

「何ですか、一体?」

 おれはそんな園長の表情など気に留めないようにして訊き返した。

「今は言えん。――いいな、それからこのことはくれぐれも内密にしてくれよ。頼むぞ」

 それだけ言うと、レーヴィン園長は神経質そうな溜め息を吐いてくるりと踵を返し、園長室に入るとドアをばたんと閉じてしまった。

 おれは肩をすくめると、事務室に戻った。

 事務室では既に飲み会が始まっていた。おれたち職員は、毎週末、昼間の勤務の後は、親睦を深めるため、こうして事務室に集まって一緒に酒を飲む習慣になっている。もちろんレーヴィン園長がこんな所に顔を出したことは一回もない。が、おれたちにはその方が却って注ごうがよかったし、その方が園長自身のためにもなったろう。下手にこんなところに顔を出すと、職員から余計嫌われるようなことになりかねない。

 おれは、事務室に集まった仲間に、かくかくしかじかと話をした。

 すると、飼育係の源藏が、早速、

「うへえ」と言った。「何の用だろうな。今夜は早く帰りたかったんだけど」

 弥七も、ビールを飲みながら、

「あの園長、無理ばかり言うからなぁ」

 とこぼした。

「仕方がないだろう。園長が来いと言ってるんだから」

 おれも内心では源藏や弥七と同じ気分だったが、飼育係長としてそう言った。

「何か、緊急の用みたいだったな。ここは早めに切り上げて行った方が得策のようだな」

 そんな訳で、おれたち八人は、夕食会は早々に切り上げると、雁首そろえて園長室を訪れた。

 おれが園長室のドアをノックすると、すぐに、

「誰かな?」

 と声がした。

「近江です」

 おれが答えると、打てば響くように、

「ああ、近江くんか。入り給え」

 園長が言った。自分で呼び付けておいて、何が〝入り給え〟だ。こういう気取りたおしたところもこの園長が好かれない一因になっている。

 ともかく、おれたちはぞろぞろと園長室に入った。すると当の園長はいつものように丈夫なオーク材でできた机の上でもったいぶった仕草で両手を組み、涼しい顔をしているのかと思いきや、今夜は机の後ろを落ち着かぬ様子でうろうろ右往左往しているところだった。

「園長、お話ってなんでしょうか?」

 おれが口を開くと、園長は立ち止まり、おれの顔を見た。さっきのは見間違いではなかった。明らかに顔色が悪い。どうやらおれの悪い予感は当たりそうだった。

「仕事が済んで早々、申し訳ないな」

 レーヴィン園長は言った。話の切り出し方が妙に下手だ。

「いや、それはいいんですが――」

 おれが言い掛けると、園長は指を一本立てておれを制し、口を開いた。

「先ず」

 とレーヴィン園長は大きな声で言った。

「外に誰もいないか、確認してくれ給え。それから、ドアをロックしてくれ」

 おれたちはそうした。ドアの外には誰もいなかった。茂太が鍵を掛けた。

「よろしい」レーヴィン園長はもったいぶった声で言った。「では、用件に入ろう。まず言っておくが、先ほど近江くんにも言った通り、この話は内密にして欲しい。極秘扱いだ。分かったかね?」

 園長室に横一列に並んだおれたちはうなずいた。五郎兵衛がごくりと唾を呑む。

「お前たちも知っての通り、明日の昼前に、マルス三世国王がこの動物園にお出ましになる」

 おれたちももちろん、その話は承知していた。このマルス三世という王様は、今年で在位二十年になるのだが、たび重なる増税政策を強行したため、国民の間での評判はすこぶる芳しくない。しかし、王位継承後に、当時は黎明期にあったこの国のロボット産業に力を傾注してこの国随一の成長産業となるまでに育て上げたので、それを評価する声もあった。

「そしてお前たちも知っての通り、王様は動物を大変お好みだ」

 おれたちももちろんそのことはよく知っていた。マルス三世は即位後に、動物愛護法を制定し、犬や猫に対する去勢手術まで禁止してしまったため、街中は野良犬や野良猫であふれ返っている。この法律に違反した者は厳罰を喰うのが常だ。去年の冬にも、売り物の魚を盗んだ泥棒猫を打ち殺した魚屋の店主が死刑になったばかりで、こういう事情もあって、マルス三世は庶民に毛嫌いされていた。

「王様は動物の仲でも、とりわけパンダをお好みだ」

 その通りだ。この動物園では、何十年も前に中国から贈られたジャイアント・パンダを飼育しており、動物園で交配して繁殖させている。今この動物園で飼育しているパンダは〝ルンルン〟というのだが、これは国王がじきじきに命名したものだ。いかにもセンスのない名前だが、こういう事情のため、ルンルンは動物園で非常に大事にされている。

「明日も、当然ながらマルス三世はルンルンをご覧になりにいらっしゃる予定だ」

 園長の言葉の通り、国王は月に一回は動物園へやって来る。そしてここで飼われている三十六種八十三頭全ての動物の園舎を時間をかけてゆっくり巡る。そのお終いには、自分で名前を付けたジャイアント・パンダのルンルンを愛でてから帰って行く。パンダのルンルンは、腹の底まで国王を好いているのかは疑問だが、ともかくマルス三世が来るたびに、大人しく国王に鼻面を撫でさせてやっていた。

「ところがだ」

 レーヴィン園長はここで言葉を切り、その場に立ち並んだおれたち八人の顔をゆっくりと眺めた。おれはとっさに思った――やっぱりだ。こいつは何かある。

「実は」と園長は唾を呑み、「そのルンルンが、先ほど死んでしまったのだ」

 と言った。

 園長室の中には、しばらく沈黙が流れた。おれたちの中で最初に口を開いたのは与八だった。

「ま、まさか…」

「その、まさかがまさかなのだ」

 そこで園長はまた苛々した様子を見せた。両手を背の後ろに回し、おれたちが入って来た時と同じように、途方にくれた様子でうろうろと歩き始めた。まるで第八園舎にいる、熊のアナトーリのようだ。おれはこんなに落ち着かない様子を示す園長を見るのは初めてだった。

「一体、どうしてです?」

 弥七が訊ねた。園長は、やや顔をうつむけた姿勢で歩きながら、一言、

「分からん」

 と言った。今度は太一が、

「病気ですか? 事故ですか?」

 園長は言葉少なに、

「おそらく病気だろうな。――さっき、夜勤の清五郎が見に行ったら、死んでいたらしい」

 と言うだけだった。

 おれは、これは大変なことになったものだ、と思った。

「じゃあ、…」

 おれが言いさすと、園長はまた手でおれを制し、

「そうなのだ。これは厄介なことだ。非常に由々しき問題だ」

 と口早に言う。

 おれにもレーヴィン園長がそう言う意味は分かった。

 マルス三世は、一応立憲君主制を布いてはいるがその実は圧政そのものと言え、自分に異議を唱える者は容赦なく強制収容所に送り込んでしまう。くだんの動物愛護法が制定された時にも、収容所送りにされた議員が三人も出た。だから国民に嫌われるのも当たり前なのだが、みな自分の身がかわいいから、表立ってそんなことを口走る奴は一人もいない。

 レーヴィン園長にしてみれば、まさに自分の首がかかった問題なので、急を要すると判断したのだろう。マルス三世の寵愛を受けたパンダのルンルンを死なせてしまったとなれば、国王の心証を悪くすることは間違いない。

「分かりました、園長」おれは言った。「これは確かに、園長にとっては問題ですね。ですが――」

 が、レーヴィン園長は冷ややかな声で口を挟んだ。

「わたしだけではない。お前たちの問題でもあるぞ」

「は?」

 おれは狐につままれたような気分で園長を見つめた。

「まだ分からんか?」

「ええ、分かりません」

「考えてみろ。例えばだ、わたしがルンルンを謀殺した、などという風評が立ったとする。そうなれば、悪くするとわたしは一生収容所行きだ。その上、下手をするとお前たちまで巻き込まれかねないのだぞ」

「あ」

 おれは、ずぼん、と自分の顔が長く伸びるのが分かった。

 レーヴィン園長が財務省内でどういう立場にあるのか、ということまではおれは知らない。しかし、高級官僚である以上、省内には敵や、あるいは園長の出世を望まない連中は必ずいる筈だ。一人や二人ではきかないかも知れない。そうした連中がそんな噂を流せば、レーヴィン園長の首を飛ばすことくらいは簡単だろう。

「え、園長、そうすると…」

 源藏がふるえ上がって、わななく声で言った。

「そうだ」園長は確信のこもった顔でうなずいた。「そういうことなのだ」

 おれは急速に足元の力が抜けるのを感じた。陰茎の根元が笑いだした。もう、失禁直前である。

「園長、ルンルンが死んだというのは、本当のことなのですか?」

 甚七が訊ねた。

「先ほど、夜勤の清五郎から報告があった。わたしは自分で見に行った。本当かどうか気になるなら、お前たちが自分の目で確かめるがよかろう」

「分かりました、そうしましょう」おれは言った。「お前ら、一緒に来い。まず死亡確認からだ」

 おれは、甚七、与八、五郎兵衛、弥七、茂太、源藏、太一の七人と連れ立って、第三園舎に向かった。もう日はとっぷり暮れていて、水銀灯に照らし出されたおれたちの影法師は、いかにも力なく、とぼとぼと地を歩いている。

「参ったな。えれえことになったなぁ」

 太一が溜め息まじりにぼやいた。

「まだ確かめてみないと分からんぞ」

「だけど、清五郎もここに長いからな。まさか誤認ということはあるまい」

「誤認であることを祈ろうぜ」

「畜生。あんな園長が来るからおれたちまでとばっちりを喰うんだ」

 みな口々に文句を云う。

「やめろ、みんな」おれは言った。「ここは冷静になれ。下手をするとおれたちまで巻き添えを喰って収容所行きになるぞ。何としてもそれだけは避けたい。まずルンルンの生死を確認して、それから最悪の事態を回避し、収容所行きになるのがレーヴィン園長だけで済むように、何とか方策を立てよう」

 すると弥七が、

「つまり、あのレーヴィン園長をはめよう、って言うんですかい?」

 と余り乗り地でない声音で言った。これだから緊急の時には、くそまじめなやつは損をするのだ。

「人聞きの悪いことを言うな」おれは言った。「そもそも何もなかったんだ。おれたちは何もしちゃいない。ただの事故だ。――いいな、もしレーヴィン園長がおれたちも巻き込もうとするようなことがあったら、何も知らなかった、と最後まで言い通すんだぞ」

 すると茂太がげんなりした声で、

「しかしレーヴィン園長もあの性格だからなぁ。きっと話が大きくなったら、おれたちも地獄へ道連れにされるぜ」

 と言った。甚七は、そんな茂太を、

「とにかく現場へ行ってみようぜ。現場を確認しなけりゃ始まらねぇ」

 となだめた。

 おれたちはぞろぞろと第三園舎の事務室に入った。すると、清五郎が蒼い顔で飛び出て来た。

「おいっ。今、ここは取り込み中だ。立ち入り禁止だ」

 その一言で全てが分かった。

 だが、まず現場確認だ。

「落ち着いてくれ、清五郎。おれたちは事情を知ってる」

 が、清五郎は更に血相を変えた。

「何? 一体誰に聞いた?」

 おれは手を挙げて清五郎を制した。

「落ち着けったら。園長だ。レーヴィン園長に聞いたんだよ」

 すると清五郎はやや落ち着いた様子だったが、今度は、

「園長って、何で園長がお前らに話すんだい?」

 とぶつぶつ言う。

 おれは、赫くなったり蒼くなったりしている清五郎の肩を強く叩き、

「さっき、おれたちも極秘扱いってことでレーヴィン園長から話を聞かされたんだ。――どうやら園長は、あと始末をおれたちにさせたいみたいなんだ。話の詳細はまだ決まっていないがな。そこでおれたち、まず本当に間違いなくルンルンが死んでるのかどうか、確かめに来たんだ」

 と言った。すると清五郎はやっと胸を撫で下ろし、

「なあんだ、そういうことだったか」と言った。「そういうことなら、もっと早く言ってくれ」

「お前が早とちりするからだよ」

 とは五郎兵衛。源藏も、

「さあ、早いとこルンルンの屍体したいを見せてくんな」

 清五郎は唇に指を当てて「しいっ」と言い、手ぶりでおれたちを飼育小屋へと導いた。

 小屋の中で、ルンルンは大の字になっていた。おれは小屋の明かりが点くとすぐにルンルンの脈を調べた。

「どうだい?」

 与八が恐る恐る訊ねた。

「どうだいもこうだいもねえよ」おれは言った。「きちんと死んでるよ。いや、見事に、と言った方がいいかな」

「そうかあ」

 太一ががっかりした声を上げた。

 清五郎とおれたちは、しばし、ルンルンの屍体を取り囲んで見下ろした。

「一体、いつ死んだんだ?」

 おれは訊いた。清五郎は、精も根も尽き果てたといった表情で眼鏡のレンズを布で磨いていたが、

「さあね。帳簿を見て、昼の餌を食ったことは確認している。――いつもより、手を付けた笹の量がちょいと少なかったんで、気にはなったがね。その後は知らん。閉園時間まぎわになると、いつもなら自分でのそのそとこの小屋に戻って来るのに、今日はそっちの方で寝たままだったから、おかしいなと思って様子を見に行ったら、こと切れてた」

 と精気のない声で答えた。

「じゃ、お前たちでルンルンをこっちへ運び入れたのか?」

「そうだよ」

 清五郎はぶすっとした声で答える。おれは慌てて、

「人には見られなかったろうな?」

 と念を押した。清五郎は、

「そこは大丈夫だ。大体この動物園なんて今どき来るひともいねえよ。客はみんな隣りの機械動物園の方に行っちまうからな。屍体したいを運び込んだのは閉園時間の後だ。たとえお客に見られたとしても、大方寝てるとしか思われなかったろうよ」

 と吐き捨てるように言った。

「じゃ、こうして大の字にしたのはお前たちなんだな?」

「そうさ。なんとか蘇生できないものか、と思ってさ。――とにかく、何でも試したぜ。心臓マッサージに始まって人工呼吸に及ぶまで」

「獣医は呼ばなかったのかい?」

 弥七が訊ねた。この王立動物園にも、もちろん獣医が常駐している。

「呼ぶもんか。うちのターニャ獣医は口が軽いからな。死んでることは分かったから、本来なら死亡診断書を書いてもらわないといけないがな。しかしルンルンの件で呼ぶような訳には行かねえ」

 太一は、

「それですぐにレーヴィン園長に知らせた、って訳か」

 と言った。清五郎は、

「ああ」

 と溜め息ともつかない声を漏らすと、園舎の中をぐるぐる歩き始めた。まるで、清五郎そのものが飼育されている動物のように見えた。おれは、

「まあ落ち着けよ、清五郎」

 と声を掛けはしたものの、そう言っている自分の顔も蒼くなっていることが、自分でもよく分かった。

「こうやってうろうろしていても仕方ねえや」

 甚七も言った。与八も、

「そうさ。――ここは早いとこずらかって、レーヴィン園長と善後策を話し合った方がいいんじゃないか?」

 と応じた。おれはうなずいて、

「その通りだな。早く園長室に行った方がいい」

 と言った。それで話は決まった。おれたちは園長室に戻った。

 園長室では、蒼い顔をした園長が待っていた。

「見て来たか?」

「はい、確認して来ました。清五郎はパニック直前でしたよ。もう何も考えられない、って風でした」

「ああ、そうだな。しかし、獣医を呼ばず、すぐ直接にわたしに知らせてくれたのは賢明だった」

「それはいいですがね」五郎兵衛が口を挟んだ。「これから一体、どうしようと言うんですい?」

 それを聞くとレーヴィン園長はまた落ち着かなげな様子を見せた。

「一体どうしようか、わたしにもいい考えが浮かばないのだよ。そこでお前たちの力を借りようとしているのだ」

 おれたちはみな、腕組みをして黙りこんだ。

 と、弥七が、

「園長、ここは一つ、やはり正直に申し出た方が良くはありませんかね?」

 と言う。園長は一つうなずいて、

「そう。本来ならそうするべきだろうな。しかし、今回の件は色々な意味で微妙だ。うまく行くとは思えん」

「とりあえず、急病で寝ているからお見せできません、と言えば…」

 茂太が言った。しかし園長は苛立った様子で腕を振りまわして、その言葉を途中でさえぎった。

「そうは行かん。どのみち、ルンルンが死んだことは明るみに出るだろう。そうなれば、我われはおしまいだ」

 おれは一つひらめいて、

「それじゃあ、誰か着ぐるみを着て立てばいいんじゃありませんかね?」

 と言った。だが、園長はまた溜め息を吐いた。

「それも考えた。しかし、ルンルンの巨体に似せた着ぐるみを作るのに日数が要る。それに、そんな着ぐるみに一体誰が入れるというのかね? これからずっと、ルンルン役をできるような余剰の係員もここにはおらんはずだが」

「ううむ…」

 おれたちは沈黙して考え込んだ。と、五分ほども考えたろうか、源藏が突然大きな声を揚げた。

「園長、考えたんですがね?」

 レーヴィン園長は、胡散臭そうな目付きでそれに答えた。

「何かね?」

「実は、おれの仲間が一人、隣りの機械動物園にいるんですがね」

 と続けた。

 この国では、盛んなロボット産業の精髄を内外に広く知らせる目的で、ロボット動物を集めた機械動物園を、この王立動物園のすぐ隣りに設けている。そこには、本物の動物そっくりのロボットが、犬や猫からマンモスに至るまで展示されているのだ。どれも精巧にできているので、本物とほとんど見分けがつかないほどだ。

 園長は源藏の言葉で全て理解したらしく、はたと膝を打った。

「それはいい。それじゃあ早速機械動物園に行って、ルンルンのレプリカにできそうなロボット・パンダを一頭借りて来てくれるかね?」

 おれたちはそうすることにした。


 二.

 先ほど説明した通り、機械動物園は王立動物園のすぐ隣りにある。機械動物園の方が敷地ははるかに広く、王立動物園の三倍ほどの面積があるのだ。そこに、百種を超えるロボット動物が〝飼育されて〟いる。どの動物も動力は電気だ。動物は充電池を内蔵していて、夜間の閉園時に充電しておいて、昼間の観覧時間に備えることになっている。今ではこの機械動物園の方が有名になってしまい、いつも閑散としている王立動物園に対して、引きも切らず観客が訪れていつでも盛況だ。海外からの観光客も多く訪れる。

 おれたちは王立動物園の裏口を出ると、すぐに機械動物園に向かった。道々弥七が源蔵に、

「おい、お前の仲間ってどんな奴だよ。事務方じゃ話にならんぜ」

 と確かめた。源蔵は、

「なあに。ロボット動物の管理人をしているんだ。案ずることはねえよ」

 と涼しい顔だ。茂太も、

「もうそろそろ機械動物園も閉園時間だろう。そいつが帰った後だったら一体どうするんだ?」

 ととがめた。源蔵は、

「多分大丈夫だ。さぶって奴なんだが、きっとまだいるはずだ」

 とこれも請け合う。

 そうこうするうちにおれたちは機械動物園の裏門に着いた。守衛が、おれたちの姿を見とがめて、

「こらこら、ここからは立入禁止だ」

 と言ったが、源蔵がレーヴィン園長とさぶの名を出すと、渋々通してくれた。ついでに守衛詰め所で訊いてみると、さぶはまだ帰っていないとのことで、おれたちのためにさぶを呼び出してくれた。

 さぶはすぐに顔を出した。

「よう、源蔵、一体こんな時間にどうしたい?」

 源蔵はおれとさぶの顔を代わるがわる見比べていたが、おれがうなずいて示したので、小声で事の次第をさぶに説明した。

「ううん」

 話を聞いたさぶは、難しい顔をして腕を組み、黙り込んだ。

「おい、さぶ、ここの動物園にはルンルンのレプリカ・ロボットもいるんだろ? それを一頭、貸してくれというんだ。お前なら都合が付くだろう、と思ってここへ来たんだよ。もう頼れるのはお前しかいないんだ。何とか頼むよ。な?」

 と必死で語りかける源蔵の言葉をさぶはしばらく聞き流している風であったが、ややあって、

「うむ」と返事をした。「たしかに、ここにはジャイアント・パンダの機械動物もそろっている。のみならず、ルンルンそのもののレプリカもある。――マルス国王たってのお望みだったからな。しかし、今ちょうど間が悪いことに、ルンルンのレプリカはメンテナンス中だ。解体して、オーバーホールの真最中なんだよ」

 さぶのその言葉に、おれ以下一同はがっくりした。

「なあんだ」

「やっぱり駄目か」

「おれたちも収容所行きかぁ」

 甚七や五郎兵衛や太一は口々に失望の念をあらわにした。が、さぶだけは冷静に構えていた。

「おい、マルス三世国王は、いつお前たちの動物園を訪問する予定なんだ?」

「明日だよ。日曜の朝」

「そうか。そうすると時間的にはまだ余裕があるな。――お前たち何人いる? 一人、ふたり、さんにん…八人か。悪かねえな」

 さぶは懐から煙草の箱を取り出し、一本くわえて火を点けた。

「おいさぶ、一体何が言いたいんだよ?」

 源蔵が訊き返すと、さぶは小声で、

「おい、この話はここじゃできねえよ。おれのオフィスに来てくれや」

 という訳で、おれたち八人はさぶの後にくっ付いて、〝おれのオフィス〟へと向かった。その〝おれのオフィス〟は、機械動物園の奥の奥、倉庫にでも使われているのではないかと思しき建物の一隅にあった。煙草の脂の臭いが染みついている上に、台帳やら帳面やら図面やらが棚からあふれ出し、机の上や床の上に至るまで乱雑に取り散らかっているといった塩梅だ。

「済まんな、汚くしていて」さぶはしれっとして言った。「ま、適当にその辺の、柔らかそうなマニュアルの上を選んで腰を掛けてくれや」

「それよりさぶ、おれたちはもう時間がねえんだよ。明日の朝マルス国王が来園したら、それでおれたちの命は終わりなんだ。一体お前、何の話があるんだ?」

「ああ、済まねえ」さぶは言ったが、余裕の態で口にはまた煙草をくわえている。「まあ、聞いてくんな」

「聞く、聞く」

「早く教えてくれよ」

 弥七や茂太は詰め寄らんばかりの勢いだった。

「うん、話ってのはこうだ」

 ようやく切り出したさぶに、与八は、

「勿体ぶりやがって。大した話じゃなかったら、お前のことぶっ殺すぞ」

 と凄んだ。そんな与八を手で制したさぶは静かに、

「お前たち、手は器用な方かね?」

 と訊ねた。源蔵は、よく呑み込めていないおれたち一同の今の気分を代表するが如き口調で、

「はあ?」

 と言った。しかしさぶは、

「どうかね? 器用かね?」

 ともう一度訊ねた。

「き、器用かって訊かれれば、まあ――人並みだな」

 源蔵はどもどもと返事をした。

 太一や甚七も、

「おれも、せがれの模型自動車を組み立ててやれる程だがな」

「おれも、この間自分ちの屋根の雨漏りを修繕したが…」

 などと、話が分からないながらもさぶに答えて返した。さぶはそれを聞いて、満足そうに二、三度うなずくと、

「そうか。それならまあ良かろう」

 と言った。しかし勿体ぶった態度はまだそのままで、今は短くなった吸い殻を灰皿で丁寧に揉みつぶしている。

「お前、一体何が言いたいんだよ?」源蔵がじれったそうに叫んだ。「早く肝心のところを聞かせてくれよ?」

「ああ、そうだな」

 さぶは言うと、たくさん鍵が付いた鍵束をじゃらりと腰から外し、おれに向かって差し出した。

「な、何のつもりだよ?」

 おれがたじろいだ声を出すと、さぶは指を一本立てて口に当てた。

「静かにしておくんなさい。――それから、このことは、ルンルンが死んだことと同様、くれぐれも内密に頼むぜ。これが、おれが考えた最前の策なんだ。おれにできることはこの程度が関の山だな。

 もう一度念を押しとくが、この件は内密だぜ。今夜お前たちはここに来なかったし、おれにも会わなかった。そういうことにしていてくれ。いいな。でないとおれは、安心して話を切り出すことができねえ」

 分かったな、と更にもう一度念を押すさぶに対し、おれたちは慌てて分かった、分かった、と口々に言った。

 それを確かめて満足したのか、さぶは、

「まあ話は単純なことよ。――今夜いっぱい使って、お前らがルンルンのレプリカ・ロボットを一台作ればいいのさ」

 と言い放った。

 おれたちは当然ながら一瞬おのが耳を疑い、続いてたじろぎ、どよめいた。

「そんな…」

「作れと言っても、なあ…」

「一体どうやって?」

「お、おれ、電気回路って昔から苦手なんだよなあ」

「一体、作り方を誰が教えてくれるっていうのよ?」

「いくら何でも、滅茶苦茶だよなあ…」

「何を言い出すのかと思ったら、こんなとんでもないことを…」

「できるわけねえよ」

 おれたちはぶうぶう言った。すると、さぶは手近のファイルの上をばしんと打った。

「静かにしろ、お前ら」

 さぶはわめいた。その勢いに押されて、おれたちは黙りこんだ。

「いいか、お前らはここに、そもそもルンルンのレプリカを借りに来たんだろう? しかし、あいにくルンルンは修理中なのだ。これはさっきも言った。

 おれもいろいろ考えたよ。ああ、考えたともさ、お前たちのためによ。別のレプリカ・パンダを貸し出すかとか、ルンルンのレプリカ・ロボットを急いで組み上げさせて貸そうかとか、いろいろな。

 しかし、どう考えてもやはり道はこれしかない。お前たちが、今夜この動物園の倉庫にこっそり忍びこみ、パーツを一つひとつ選び出して色を塗り、パンダらしくみせかけて動物園に置いておく。これしかねえんだ。

 これがお前たちのためにおれができる最善だし、またお前たちに見つかる抜け道としてもこれがベストだろう。

 お前ら、まさに自分の首がかかっている問題なんだろう? それに、ここしか助かる道がねえからここに来たんだろう?

 お前ら男だろう。のるかそるか、一つやってみるか、って気になる骨のある野郎はいねえのかよ?」

 突如としてさぶが一席ぶったこの大演説におれたちはすっかり気を呑まれてしまい、続けて鼻白んだ。

 その場にはまた沈黙が訪れた。

 しかしさぶは金壷眼かなつぼまなこでおれたちのことをじっとにらみ据え、おれたちは気勢を削がれて黙り込んでいた。

 その沈黙を破ったのは源蔵だった。源蔵は恐るおそる、

「あのよう、さぶ…」

 とおずおずとさぶに話しかける。さぶは威勢よく、

「何でいっ!?」

 と応じる。源蔵はおろおろした声で、

「そりゃあ、お前さんの言ってる意味はよく分かるよ。しかしなあ、ものには限度ってものがあるんだ。おれたちの中には、お前さんのように工学を勉強したやつは一人もいねえ。そこへ来て、ひと晩でジャイアント・パンダのロボットを一体こしらえろだなんて、無理もいいところの話だよ…」

 と語り掛けた。それを受けて、甚七や五郎兵衛らも、

「そうだよそうだよ」

 とか、

「こんな話、あまりにも無茶すぎなんだよ」

 とか、

「機械動物園の動物は、みんな精巧に作られてるんだろ。それを一からおれたちに作れだなんて、余りにも…」

 と口々にぶうたれた。が、さぶはそんな繰り言には動じず、涼しい顔をしている。

 おれが見かねて、

「なあさぶよ。おれたちのために懸命に考えてくれたのは嬉しいよ。ありがとうよ。だけどな、機械については丸っきりど素人のおれたちに、一体どれ程のロボットが作れると言うんだい?」

 と言った。他の者たちも、おれの言葉に同意した。

 するとさぶは、もう一本煙草を出して火を点けると、

「それじゃあ何かい。お前さんたちは、他にどうするって言うんだい?」

 と逆に訊いて来た。

「どうするってその…」

 そう言いかける源蔵の声はもう泣きそうだ。

「別のパンダのロボットを一体借りられればそれで済むと思ったんだが…」

 しかしさぶは首を横に振った。

「ならん。第一、ルンルン以外のロボットはルンルンよりもはるかに小さい。子供が見たって別物だとすぐ分かるぜ」

 とすげない返事をする。

「ルンルンを組み直すって訳には行かんのかね?」

 さぶはまた首を横に振る。

「いかないね。あれはもう、関節部から各パーツを全て取り外してしまっていて、その内部の電子神経ケーブル系統をチェック中だ。組み直しには、やはり専門の知識をもった職人が必要になる。ひと晩じゃやはり無理だし、その上外部に話が漏れる。そいつはまずいだろう」

 おれは両手を掲げた。

「お手上げじゃないか」

「そこで、お前さんたちの奮起を期待してえんだよ」

 さぶはおれたちをぐるりと見回して、言葉を続けた。

「ここへ来た以上は、やってもらわにゃあ困るんだ。もしお前たちが手をこまねいて何の手も打たなかったとするだろう。そうするとレーヴィン園長の言う通り、あの園長のみならずお前たちもしょっぴかれることになるだろうな。そうなると当然おれの名前も出るだろう。そうしたらおれまで連座させられる羽目になる」

 五郎兵衛が声を上げた。

「しかし、組み立てって、むつかしいんだろう?」

「そうさな」さぶは煙草を二、三服吹かして言葉を継いだ。「レプリカ・ロボットの制作は、ここに入った新米の職人がまず一番初めに覚えさせられる仕事だ。たしかに簡単しごくな仕事という訳じゃないが、たいていの職人なら半年もしないうちに、一人きりで機械動物を一頭こしらえることができるようになるもんだ。ここには新人向けマニュアルもそろっている。裏の倉庫に行けば各パーツも塗料も全て納まっている。お前たち八人が掛かれば、一晩徹夜すりゃあジャイアント・パンダのロボット一頭くらいはできるんじゃないかとおれは思うんだ」

 おれは、乾いた唇を舌でなめると、

「確かに、簡単な仕事ではなさそうだが、入りたてほやほやの新人に任されるくらいの仕事なら、いっちょやってみてもいいんじゃねえか。おい、お前らには異存はあるか?」

 誰も何も言わなかった。

「よし」おれは言った。「じゃあおれは、ひとっ走り動物園まで行って、レーヴィン園長から許可をとってくるからな」

 すると弥七が、

「許可って、電話じゃまずいんですかい?」

 と訊いた。おれは、

「ばか言え。この国の電話回線網が信用できねえことくらい、百も承知だろう。どこで盗聴されているか分からんのだ。ここは直接行った方がいい。ちょっと待っててくれよ」

 おれはそう言い置くと走り出したが、ふと、

 ――もしや園長、帰ってしまったのでは?

 といやな考えがきざした。それはともかくおれは走り、園長室の前で息をととのえた。

 それからコツコツ、と二回園長室のドアをノックしたのだが、案の定反応がなかった。

 ――やっぱりだ。園長奴、怖気づいておれたちをほったらかしにして逃げ帰っちまったんだ。

 おれは怒りと絶望のあまり頭の中が真っ白になる思いだったが、気を取り直してもう一度戸を叩いた。

「園長、レーヴィン園長、おられないでしょうか? 近江です」

 すると、ドアの向こうから、

「うう…」

 という唸り声のようなものが返って来た。園長はどうやらいるらしい。が、今度は別の考えが原因で、おれはまた蒼くなった。もしかして園長、今回のルンルンの一件が原因で、脳溢血でも起こしてぶっ倒れているんじゃなかろうか? そうなったら全てが水の泡になる。

「園長、開けますよ、園長」

 おれは言うなり部屋に飛び込んだ。

 入るや否や、おれは執務席に腰かけている園長と目が合った。園長は椅子に座って頭をかきむしっているところだった。

「――ああ、近江くんや」

 園長は溜め息混じりにそう言うと、また頭をかきむしり始めた。

「園長――」

「――ああ、これが夢であればよかったのだが」

 園長はぶつぶつ呟いた。

「何言ってるんですか、園長、しっかりして下さいよ。これは夢なんかじゃありませんよ。園長だってよく分かっているでしょう?」

「――ああ、わたしはあの時、王立動物園園長のポストの話など、断っていればよかったのかも知れん」

 園長は呟きを止めない。更にぶつぶつ、

「――ああ、もしかしたらあの時昇進試験など受けなかった方がよかったのかもしれないな」

「――もしかしたら、財務省などに入ったのが悪かったのかもしれん」

 おれはつかつかと園長が腰を落としている執務席に近づいた。

「園長。レーヴィン園長」

 おれは大きな声で呼び掛けた。すると園長は、いかにも精気のない、どんよりした眼差しでおれを見た。そして、力なく、

「はあ? 何かね? もう朝か?」

 とおれに訊き返す。

「はあ、じゃありませんよ」おれは言った。「今さらたら・ればの話なんかしたって仕方がないでしょう。起こったことは起こったことなんですから」

「うむ、まあ、そう言いたい気持ちは分かるよ。しかしな――」

 おれは仕方なしにレーヴィン園長の頬を右手で一つ張った。ぱしっ、という乾いた音が園長室に響いた。レーヴィン園長は左手で頬を押さえ、狐につままれたような顔をしていた。

「園長、起きましたか?」

 するとレーヴィン園長は目をぱちくりさせて、

「あ、――ああ、近江くんかね」

 と言った。

「近江くんかねじゃありませんよ。しっかりして下さいよ。今日の午後、ジャイアント・パンダのルンルンが急死した。それで我われは奔走している。そうじゃないですか。大丈夫ですか?」

 園長はまだ片手で頬を押さえたままの姿勢で、

「――あ、ああ」と言った。「ああ、ああ、そうだったんだな」

「それで、ちょっと機械動物園に行って来たんですが」

「ああ、そうだったな」やっと園長の目にも光が戻ってきた。「――で、首尾はどうだったね?」

 おれは園長にことの次第を説明した。

 園長は目を閉じ、半ば瞑想でもするかの如き様子でおれの話を聞いていた。

 おれの話が終わると、レーヴィン園長は無表情な眼差しをおれに向けた。

「――で、きみはどうするつもりなのかね、近江くん?」

「どうするって決まってるじゃありませんか、園長」

 おれはレーヴィン園長の様子に奇妙な感覚を抱いた。園長の様子はどう見ても無関心そのものと云ってもいいくらいだ。

 ――ひょっとして、園長さんは頭がどうかなってしまったのじゃないかね?

 おれの一部がおれに囁き掛けた。それ程、この園長の呈する様子はおかしかった。

「そうか、やるのかね」

 園長は無関心ともなげやりとも取れる調子で言った。

「当たり前でしょう。活路はそこにしか見出せません」

「そうか。――そうだな」

 園長は肩を落としてふうっと溜め息を吐き、両手をテーブルの上で組んだ。

 おれはレーヴィン園長の目を見た。よく見ると、両目ともすっかり血管が見えるほど充血している。

 そこに至って、おれはようやく理解することができた。

 今回の事件、おれたちにとってはまさに青天の霹靂となったルンルンの死は、おそらく園長にとっては人生で最初に出会った〝本物のピンチ〟だったのだ。これまで順風満帆だった園長の人生に、今初めて汚点が付こうとしているのだ。園長は決してこの問題に無関心だったり、あるいは問題から逃げようとしている訳ではなく、反対に、おれたちが留守にしている間に、自問自答しながらこの問題を再三検討し、吟味し、挙げ句の果てに神経をすっかりすり減らしてしまったのに相違ないのだ。

「園長、いいですか」おれは小さな子にかんで含めるような口調で、言葉を選びながらゆっくり話した。「今が大事な時です。タイム・リミットまであと十二時間しかありません。許可をいただけますか?」

「――うむ、構わん。よろしく頼むぞ」

「それから、――ですね」おれはどう言おうか迷ったが、けっきょく、「我われは今夜、徹夜しなければなりません。その分の時間外手当てを――」と続けた。

「ああ、ああ、そうだったな」

 園長はもぞもぞと身体をまさぐり、尻ポケットから財布を出した。そして、しばらくの間、その上等のワニ革の財布を見つめていたが、いきなりぱしんと音を立てて財布を机上に叩きつけるようにして置くと、大きな声で言った。

「今回のことでは、すっかりお前らに迷惑を掛けてしまったな」

 おれは園長のその声音を聞いて幾分かほっとした。それは普段のレーヴィン園長の口調と変わらない、生気の戻った声だったからである。

「お前たちは今夜は徹夜してくれるのだな。済まない。ではよろしい。これから十二時間分の時間外労働の手当てとして、お前たち一人あたま、七万五千――いや、十万ペカーリ出す。それでどうかね?」

「じゅ、十万? そんなにいただけるんですか?」

「うむ。今夜の一件がうまく乗り切れれば、それだけの価値があるからな」そこで園長は指を一本立てた。「ただし、一つだけ条件がある」

「な、何ですか?」

 おれはいささかたじろいだ。園長は眼光炯炯としていて、平生の油断のならないレーヴィン園長の姿そのものだったからだ。

 園長は厳めしい口調で、

「いいな、今夜製作したレプリカ・ルンルンを、これからは本物のルンルンとして扱うのだ」

 と命じた。おれは目を白黒させた。訳が分からない。

「ど、どういうことですか?」

「簡単なことだ」園長は言い放った。「わたしは今回の件はどこにも記載はしない。お前たちも何も知らないふりをしろ。――そうだ、その機械動物園のさぶという職員にも、五万ペカーリ出そう。わたしのこの動物園での任期はあと一年ちょっとだ。その次には別の者が園長として来るだろう。その新任の園長には、あれはロボットだ、と教えてはならん。あれは生身のパンダ、生身のルンルンだとしてふるまえ。いいな」

 おれにもやっと呑み込めた。こうすれば今回の事件を闇から闇へと葬れる、という訳だ。おれは園長の采配に半ば呆れ、半ば感心しながら機械動物園へと道を急いだ。


 三.

 機械動物園へ戻る途中、幸いおれは誰にも会わずに済んだ。息せき切って道を小走りに急いだのだが、文字通り街路には人っ子ひとりいなかった。

 それもその筈で、この国の首都にはふた月ほど前から夜間外出制限令が出されている。おれは政治には疎いのでよく分からないのだが、それでも何となく様子がおかしいことは感じとれた。

 王立動物園の昼間の入場者数もこのところぐっと目減りしているし、どうやらマルス三世国王の甥だか伯父だかが政権奪取をねらってクーデターの挙行を画策しているらしい、というのが専らのうわさだ。

 おれはまた裏門から機械動物園の敷地に入り、八人がおれを待っているさぶのオフィスへと急いだ。

「で、どうでしたか?」

 息を切らせてオフィスに入ると、まず与八が声を上げた。

「園長のゴー・サインが出たぞ」

 おれは言った。

「ゴー・サインか。すると今夜はひと晩帰れないな」

 新婚ほやほやの弥七がうんざりした声で言った。

「そうだ。今夜は徹夜だな。――その代わり、園長はおれたちに、一人あたま十万ペカーリずつくれると言っている」

「十万ペカーリかあ」甚七が舌なめずりしながら言った。「そいつぁ悪くねえなぁ」

 おれはさぶにも、

「おい、レーヴィン園長はあんたにも五万ペカーリ出してくれると言っていたぜ」

 と教えてやった。それを聞いてさぶも顔をほころばせた。

「但し」とおれは続けた。「一つ条件があるそうだ」

 おれはみんなに、レーヴィン園長が出した条件についても詳しく説明した。

「いいんでないの、それで」とは茂太だ。「さっき近江さんが言ったとおり、今回の一件はなかったことにしてもらった方が都合がいいや」

「そうだなあ」と五郎兵衛もあごを撫でながら同意した。「じゃ、これからは今回製作するニセ・ルンルンを本物のジャイアント・パンダのルンルンとして扱うわけだな」

「機械動物園に頼めばメンテナンスしてもらえるのかな?」

「馬鹿、メンテナンスなんて頼んだら、即ことが露呈するぜ」

「でも、壊れちまったらまた問題があるしなあ」

「大丈夫」とさぶが言った。「年に一回、おれが直接そちらに行って検査すればいいだろう。他、不調になるようなことがあれば、その都度おれが行けばいい」

「よし、決まったな」おれは言った。「どうする? ここで組み立てるか、それとも王立動物園に持って行くか」

「ここで完成させちまったら、移動する時に人目に付く。まずパーツをそちらの園舎に運んでから作業した方がいいだろう」

 さぶが言った。

「なるほどな」

 おれも同意した。

「じゃあ、お前さんたち、ちょっとこっちに来てくれ」

 さぶが立ち上がった。おれたちはその後をぞろぞろと付いて行った。

 今夜は幸い、月も出ていない。これなら多分、部品は安心して持ち出せるだろう。外出制限令が出されていても、そんなものお構いなしに外に酒を飲みに出る酔っ払いはまだいる。そんな連中にも見とがめられたくなかった。

 さぶはおれたちを連れて敷地を横断し、機械動物園の倉庫へと向かった。

 倉庫はさすがに大きかった。三階建てのビルほどの高さがあり、奥行きもゆったり取られている。

 さぶはおれたちを裏口に案内すると、先に真っ暗な倉庫の中に身を潜りこませた。やがて電燈が灯った。

「大丈夫かなあ、こんな夜中に煌々と明かりを点けて」

 太一が言った。源蔵は、

「大丈夫だろう。この建物ならほとんど窓がないから」と言ってなだめた。

 やがてさぶがまた裏口からひょっこり顔を出した。

「さあいいぞ。お前さんたち、来てくれ」

 倉庫の中は塗料や機械油の匂いがした。おれたちはさぶに導かれて階段を登り、〝大型動物用パーツ類〟と札が下がる一郭にやって来た。さぶは、

「さあ、これを」

 と言って、おれたちがいない間に用意してくれていたらしい、細かな表の載ったコピーをおれたち八人に配った。

「そこに載っているのが、ルンルンのレプリカ・ロボットのパーツの全てだ。これから手分けして集めてもらいたい」

「うひゃあ、五百以上もあるんだな」

 甚七が頓狂な声を上げた。

「そう。数はかなり多い。それに重いものもある。――ひとまずパーツ類はここに集めて、それから王立動物園に持って行ってそこで組もうや」

 さぶの提案に、おれたちはうなずいた。

 それからおれたちは倉庫内に散り、パーツを集めた。

「耳はこれでいいのか」

「胴体のパーツはこんなに沢山分割されているんだな」

「視神経ケーブルはこれでよかったんだっけ?」

「おい、このパーツは重い。誰か手伝ってくれ」

「おいさぶ、この充電池は倉庫内に在庫がないみたいなんだが、どこかで替えが見つかるかね?」

「どの部品も真っ白なんだな。塗装もおれたちでやらないといけないのか」

「うひゃあ、パンダの目玉は気味が悪いんだなぁ」

「ロボットの肌にもちゃんと毛が生えているんだな。これならあの王様の目もごまかせるかもな」

「ええっと…、モーター、モーターだ。モーターがない」

「尻尾はこれでよかったかな?」

「口のパーツは…、これか。ひゃあ、パンダの口にも歯が生えているんだな。噛まれたら大ごとだぞ」

「ちょっと、そっちを持ってくれ」

「ええと、これは…」

 おれたちは初めての場所に多少戸惑ったが、何とか無事にパーツを集め、倉庫の床に並べた。さぶは、

「次は、工具だ。このレプリカ・ルンルンは工具セットBで組み立てられる。まずそれを各自、持って来い」

 工具セットには半田ごてに始まり、電子スパナ、電子レンチに至るまで、二十種類ほどの工具がそろっていた。

「うへえ。こんなにあるのか」

「使いこなせるかなぁ」

「おれ、半田付けってやったことがないんだよな」

「大丈夫かな」

 しかしさぶはそんな泣き言には耳を貸さず、ぱしんと手を打ち合わせて注意を惹いてから、言った。

「おい、何をほざいているんだ。急ぐぞ。次は塗料だ」

 すると、源蔵は泣きそうな声で、

「おいさぶ、お前、塗装は難しいって言ってたよな?」

 と問うた。が、さぶは涼しい顔で言い放った。

「大丈夫だ。心配はいらねえよ。新開発の電子スプレー・ガンを使えば手軽に済む。――塗料は黒二号だ。ものがパンダだから、黒一色の塗装で済むんだ。簡単に済んでよかったな」

 おれたちは言われたとおり塗料の入った大きなボトルを取って来た。

 さぶは、床にそろった各部品や工具、そして塗料を満足そうに見回して、

「よし。それじゃあこれからこれらを動物園まで運ばなければならない。機械動物園からは車が出せるが、王立動物園の敷地まで入れるのかな?」

 と言った。おれは、

「ああ、こっそり裏門を開け放っておけばいいだろう。おい太一、ひとつ門を開けて来てくれないか」

「へい。お安い御用で」

 太一はすぐに走り去った。

 残ったおれたちは、さぶが運転して来た電気トラックの荷台に、部品やら工具やら塗料やらを載せた。

「よし、じゃあこいつはおれが運転して行くから、あんたたちは王立動物園まで走ってくれ」

 さぶがそう言うので、おれたちは機械動物園の裏門を出て、王立動物園へと向かった。

「近江さん、ほんとに大丈夫ですかねえ?」

 与八が訊ねて来た。おれは、

「おれに訊かれても困るな」と歩きながら言った。「さぶができると言うんなら、できるんだろう」

「園長はまだいますか?」

「ああ、いるよ。少なくともさっきはいた。憔悴しきっていたが…」

 おれはレーヴィン園長のことを思うと、少し心配になった。

「まだいますかねえ? まさかおれたちを残して帰っちゃったりとか、していませんよねえ?」

「ああ、多分な」

 言いながら、おれはだんだん心配が募って来た。が、その場はそのまま捨ておくことにして、第三園舎へと向かった。

 第三園舎の前では、おれたちより早く着いたらしいさぶと清五郎が立って待っていた。

「何か、おれの知らねえところで話がどんどん進んでいたようで」

 清五郎はおれに向かって、皮肉まじりにそう言った。

 おれは清五郎の背をぽんと叩き、

「まあ、そう言うな。こっちはこっちで大変だったんだ。――それで、ルンルンの身体の方の始末は終わったのかい?」

「まだ園舎の中にありますぜ。まさか人は呼べないし、あの巨体をおれ一人では扱いかねますし、どうしたものかと思い迷っていたところでさあ」

 おれはもう一度清五郎の背中をぽんと叩いた。

「あんたにも、早くメカ・パンダのことを教えてやるべきだったな。悪かった。まさか連絡に電話は使えないし、レーヴィン園長もお前のことまで頭が回らなかったんだろうよ。悪く思わないでくれ」

 清五郎は肩をすくめて見せた。

「まあ、いいですがね。それより、これからロボットの組み立てでがしょう? おれも手伝った方がいいですかね?」

「ああ、そいつはありがたいな。もし疲れていないのならやってくれ」

 おれたちが話しているうちに、さぶや源蔵たちはせっせと荷台からジャイアント・パンダのロボットのパーツ類を運び出していた。おれもそれに加わった。清五郎も何も言わずに手を貸してくれた。

 運び出しは二十分ほどですっかり済んだ。さぶは、王立動物園の敷地内に機械動物園のトラックが停まっているところを見られると具合が悪いと言って、マニュアルをその場に置いて先にトラックを返しに行った。おれたちはてんでにマニュアルを取った。

「ええと、じゃあおれは頭の部分を先に作るかな」

 と甚七が言った。

「じゃあおれは右腕から」

 とは弥七。

「おれは左腕」

「胴体。もう一人誰か手伝ってくれ。胴体は大きいから」

「よし来た。おれも胴体をやろう」

「おれは右の太股を」

「おれは左のふくらはぎを」

 そうこうするうちにさぶもやって来て、作業は本格的に始まった。

 おれはそれを見届けると、とりあえず右足のパーツを置いた。

「おれはちょっと、園長室をのぞいて来るから」

 とおれは源蔵に声を掛けた。するとそれを耳に留めた五郎兵衛が、

「あれ、近江さん、一体どこへ行くんですかい?」

 と訊いた。

「レーヴィン園長の様子を見て来るよ。ちょっと気になるから」

 おれは足早に園長室を目指した。どうも先ほどのレーヴィン園長の様子が気に掛かって仕方がなかったのだ。

 園長室の前に着くと、おれは二つほど咳払いをして、

「園長。レーヴィン園長」

 と呼び掛けながら、こつこつとドアをノックした。

 しかし、返事がない。

 おれは、だんだん顔が蒼ざめて来るのが自分でもよく分かった。おれは慌てて、

「園長。入りますよ」

 と半ば叫ぶように言ってドアを開けた。ドアから入ると真正面に見える執務席には、園長の姿はない。

 ――ま、まさか!?

 おれが慌てて室内を見回していると、

「うーん」

 という間延びした声がして、ドアから入って右手に据えてある応接セットのソファの上で、レーヴィン園長がむっくりと身体を起こした。

「何だ、近江くんか」

 園長は赤い目をしきりとこすっている。寝ていたらしい。

「何だ、じゃありませんよ園長。どうか気をしっかり持って下さいよ」

 一瞬、悪い予感が当たって、園長は自殺でもしてしまったのではないか、とてっきり勘違いし掛けてしまったおれは、ほっとするのと同時に園長に対し少し腹が立ち、叱呵しっかするような口調になってしまった。

「わたしか。わたしなら大丈夫だ。心配はいらん」

「とてもじゃないが、心配が不要なようには見えませんよ園長。――頃合いを見て、ちょっとご報告に上がりました。我々は、ジャイアント・パンダのルンルンのレプリカ・ロボットの製作に着手しております」

 園長はソファから立ち上がると、戸棚の方へ足を向けた。

「そうかね。いや、何もかもお前たちに一任してしまって済まないな。わたしは気が滅入って仕方がない」

 園長は言いながら戸棚を開け、中から黒いボトルを取り出した。

「ああ、ブランデーだが。気付けに一杯やろうと思うんだが、きみもやるかね?」

「わたしは結構です。この先、まだ作業がありますので。しかも山ほどね」

 おれは皮肉を込めてそう言った。

「ああ、そうだったな。わたしも手伝えればよかったが…」

 おれはそれを聞いて、初めて園長に対する同情の気持ちが湧いて来た。確かに、現場から距離があるこの園長室で、果たしてうまく行くかどうか分からない作業の進み具合についてやきもきと気を揉んでいなければならないというのは、精神的なストレスになるかも知れない。

 レーヴィン園長はコーヒー・メーカーから漆黒の液体をコーヒー・カップに注ぎ、次いでそこへブランデーをどぼどぼと足した。それを一気に半分ほど呷る。

「――して、どの辺まで終わったのかな?」

 園長はやや落ち着いた声でおれに訊ねた。

「まだ手を着けたばかりですので、どの辺まで、とはっきりは言えません。が、この調子でしたら朝には間に合うのではないか、と思われますが…」

 おれは希望的な観測を言った。

「そうかね。――わたしも行って手伝えればよいのだが」

 おれはそう言うレーヴィン園長を手で制した。

「まあまあ。園長は監督役なんですから、お気楽になさっていて下さいよ」

「うむ。しかし、気楽にはしておられんのだよ」

 園長は手で胸を押さえて言った。おれは内心でまた慌ててしまった。まさかレーヴィン園長、放っておいたら心臓麻痺でも起こすんじゃないだろうな。

 そう言うおれの不安を読み取りでもしたかのように、相変わらず右手を胸に当てながら、園長は、

「ああ実はな、さっきからここの辺りが痛んで堪らないのだよ」

 と言った。おれは飛び上がった。

「や、止めて下さいよレーヴィン園長。ここで園長に倒れられてしまったら元も子もなくなります。どうかお気をたしかに持って下さい。後生ですからお願いします」

 園長はなおも胸を押さえながら、左手でコーヒー・カップを持ち上げ、ぐっと飲み干した。それからまたコーヒー・メーカーの方に歩んで、コーヒーを注いだ。

「こんな風に飲んだくれていることは、他の者には言わんでおいてくれるとありがたいのだが」

 言いながら園長はブランデーの瓶を取り出してカップに注いだ。

「分かりました。他言はしませんからご安心なさって下さい。ブランデーは気付けになる程度でしたらかまわないのではありませんか?」

「うむ。そう言ってくれるととても助かるがね」

 園長はカップを持ったまま執務席へ向かい、ブランデーの瓶をどしんと卓上に置くと、立派なデスク・チェアにどしんと腰を落とし、両手で顔をこすった。

「レーヴィン園長、お疲れなのでしたらあちらのソファでお休み下さい」

 おれはできるだけ優しげな口調で園長に言った。が、園長は、

「そうは行かんよ。お前たちをこき使っておいて、自分だけ休んでいるという訳には行かん」

 と言い、コーヒーを一口飲んだ。おれは改めて園長の顔を見たが、そこには色濃く影を落とす疲労があるだけだった。先ほど見えたような絶望感や悲愴感は、今はどこにも残っていなかった。

「じゃあレーヴィン園長、わたしは作業の続きに戻りますので」

 おれは少し安心して園長に言った。

「うむ。そうしてくれ給え。わたしはここで報告を待っていることにする」

 そう言うと園長は、革の背もたれにぐっと体重を預け、目を閉じた。

 おれはそこまで見届けると、第三園舎に急いだ。そこには、おれが出て行った時からは少しは進んでいるようだったが、相変わらず混沌としたパーツの山ができていた。

「ちょっとそっちの電源ケーブル、貸してくれないか?」

「おい、マニュアルのここに人工三半規管とあるが、一体どこのことだ?」

 誰かに何かを依頼する声。命じる声。工具を使う音。コンプレッサがごとごとと回転する音。今では清五郎まで加わって作業が行われているが、おれが想像していたその半分も進んでいない。

 まだ手や足や腕や頭や胴体がその辺に散らばっている。

「これは、ちょっと遅れているんじゃないか?」

 手袋をはめながらそう言うと、茂太に神経ケーブルのつなぎ方を教えていたさぶが顔を上げ、

「ええ、ちょっと遅いようには見えますがね。なに、新人としてはいい方ですよ。新人の中でも遅い方は、二日も掛かって一体作るのがいますから」

「二日? 一人でやるのか?」

「いいえさ、まさか。十人がかりでさ」

 おれは蒼くなった。

「十人がかりで二日だって? 冗談じゃねえ。おれたちのタイム・リミットは朝の九時だ」

 おれはふるえ上がって時計を見た。そろそろ午前一時半を回ろうかという時刻だ。

「急ぐぞ」

 おれは足元に転がっていた左の下腿部とマニュアルとを取り上げると、戦列に加わった。

 見ると、胴体部分はほぼ完成しており、今はそこに頭部を取り付け、それから電気系統と神経系統の接続を行っているようだった。

 おれは下腿部に取り付けるべきモーターを探し、次にそれを制御するための電源ケーブルと神経ケーブルをマニュアルと首っ引きで基板に半田付けした。この前半田ごてを使ったのは一体いつのことだったろうか? 十年前のことか、はたまた二十年前のことか。記憶はぼんやりとかすんでよく思い出せない。だがともかく、半田付けはできた。半田が固まったところでテスタを当てると、どうやらおれの作業は正確だったらしい。

 ほっとして時計を見ると、何ともう三時近かった。

 ――これは急がないとまずいな。

 おれはそう思い、マニュアルのページを繰った。ええと、この神経ケーブルの分岐点から伸びるケーブルは、と…。

「もう少し待ってくれ。いま、視神経ケーブルをここに通すところなんだ」

「おい、四号の電源ケーブルがねえんだけどよ、誰か間違えて持って行った奴はいねえか?」

「済まねえ。ここにある」

 おれは額に汗して無我夢中になって働いた。途中、何度か目の前が真っ暗になってぶっ倒れそうになったが、それでも手は休めなかった。必死でマニュアルをめくり、その図と照らし合わせて手を動かす。おれ以外の者も同様だっただろう。

 その中でもさぶがいてくれたのは実にありがたかった。さぶは、与八がモーターと誤って小型発電機を取り付けようとしたところを寸前で止めた。また、弥七や太一が何度か神経ケーブルと電源ケーブルとを間違えて接続しかけた時も、その都度止めてくれた。多分、さぶがいなければレプリカのルンルンは完成しなかったろう。いや、たとえ完成はできても動かなかったのではなかろうか。

 作業が一段落つくと、さぶは大きな声で、

「さあ、後は塗装をして終わりだぞ」

 と言った。その声に、おれたち九人は思わず床にへたり込んでしまった。時計を見ると午前五時を回っていた。

「や、やっとできたな」

 甚七が精も根も尽き果てた、と言わんばかりの声で言った。

「まだまだ。さあ、塗装だ。誰か手伝ってくれよ」

 さぶが言う。一番しっかりしていたのは清五郎と源蔵の二人だった。二人は、おれたち一同がぽかんと見守る中、電子式エア・ブラシを使って、耳、目の周り、腕、脚、尻尾を黒く塗装して行った。作業は着々と進み、午前六時前には立派なロボット・パンダができ上がった。それはあのルンルンそっくりである。さぶは、それを見て、

「おい、ルンルンがよくする仕草を教えてくれ。このロボットにインプットするから」

 と言った。清五郎が、生前のルンルンがよく取った姿勢や、マルス国王に対しどういう甘え方をしていたかを口述し、その作業も滞りなく済んだ。六時半だった。


 四.

「お、終わったな」

「つ、ついにできたんだな」

 おれたちは嬉しさのあまり我を忘れて相手かまわず手を握り、ハイ・タッチを交わして抱き合った。

 が、さぶはそれでも冷静だった。

 感涙にむせぶおれたちを、さぶは暫く眺めていたが、おれたちの気分がまた平静になりかけたところを見計らって、

「まあ、待て、待て」

 と言った。おれたちはさぶを見た。

「完成したかどうかは分からん。まだ機能チェックをしていないからな。とりあえず充電しよう」

 さぶはそう言うと電源プラグをコンセントに差し込んだ。充電するには最短でも三十分、できることなら一時間ほど掛かる、とさぶが言うので、おれたちはその時間を使って事務室で食事をとることにした。

「そのついでに、レーヴィン園長にも知らせた方がよかろう」

 おれは提案し、みんなそれに賛成した。

「レーヴィン園長、おられますか?」

 おれが園長室のドアをノックすると、すぐにレーヴィン園長が顔を出した。目は泣き腫らしたかのごとく赤い。

「おお、お前たちみんなそろって…。さあ、中に入って話をしよう。ご苦労なことだったな」

 園長が部下にねぎらいの言葉を掛けるところをおれは見たことがなかったので、ちょっと吃驚した。

 園長は昨夜おれに見せた憔悴ぶりとは打って変わり、今朝は平生の余裕を取り戻したのか、それとも上べだけ取り繕っているのか、勿体ぶった仕草で園長の執務席に着くと卓上で両手を組み、おれたちを見上げた。おれたちは園長の前に横一列にぞろぞろと並んだ。

 園長はさぶの姿を認めると、

「ああ、隣の機械動物園の職員というのはお前さんか。今回は寝耳に水の話で、難儀だったな」

 と言った。さぶは一つ頭を下げて挨拶すると、

「ルンルンの恰好は一応付きました。後は簡単な機能チェックをして、お終いです」

 と言う。レーヴィン園長はうんうんと頷いて同意すると、

「そうだ、お前たちにまだ礼金を渡していなかったな」と言って、いつ用意したのか、デスクの引出しから封筒を十枚取り出し、おれたちに一枚ずつ渡した。「どれにも十万ペカーリ入っている。さあ確かめてくれ」

 おれたちはみな、殊勝らしい顔をして封筒を受け取った。苦労はしたが、棚からぼた餅とはこのことだ。十万ペカーリあれば何ができるか。何が買えるか。こんな思いがけない報酬に与らせてくれたことでは、死んだルンルンに感謝したい程だ。

 そこで五郎兵衛が、恐るおそる、

「あのう、園長、おれたち、ちょっと腹が減ってるんですが…」

 と切り出すと、レーヴィン園長はいかにも鷹揚そうに頷いて見せた。

「おお、そうだろうとも。――それ、そこの電話で、みんな好きなものを注文しろ。何でもいいぞ」

 そこでおれたちは、ピザやフライド・チキンやらあれこれ注文し、事務室で食べることにした。

「まったく、今回の一件では冷や汗かいたよなぁ」

 と甚七が瓶からコーラを飲みながら述懐した。

「本当だぜ。おれ、いっときはルンルンも園長も恨んでいたんだがな」

 と清五郎がピザを一切れ取って言った。

 弥七も、ハンバーガーにかじり付きながら、

「先がちっとも見えない仕事で、てっきりおれも収容所行きか、とまで思い詰めたんだがなぁ」

 と応じた。

「しかし、十万ペカーリも懐に落ちて来て、得しちゃったな」

 とは茂太。

「レーヴィン園長も、心臓の代わりに八気筒のエンジンが入ってるんじゃないかと思ってたけど、どうしてどうして、中々人情味がある人だったんだな」

 と太一。しかしさぶは、

「おいお前ら、まだ最後の動作チェックが終わっていないんだぜ。安心するのはそれからにしようぜ」

 と言う。与八はそれに対して、

「まったくだ。心臓の代わりにモーターが入ってるのはあちらさんの方だからよォ」

 と混ぜっ返して見せた。おれたちは一斉に笑った。

 食事が済むと、おれたちは十万ペカーリの入った封筒を懐に、第三園舎へと引き返した。

 レプリカ・ルンルン、いや、これからは新ルンルンと呼ぶべきなのかも知れないが、とにかくそいつはすっかり充電されているようだった。

「こいつ、どこを押すと動くんだい?」

「どこかに起動スイッチがあったろ」

「その前にプラグを外した方がいいんじゃないか?」

 そこへさぶが割って入り、

「まあ、待て待て」

 と言った。

「お、そうだここには専門家がいたんだな」と源蔵。「じゃ、ひとつ最終チェックをお願いしようか」

 さぶはまず、壁のコンセントからプラグを抜き、背中の左腰部分の毛の中に隠れている蓋を開け、ボタン・コンソールを出すと、その一番上に付いている、赤いキーを一回押した。すると、

 ピー

 という音が鳴り響き、ルンルンの眼が赤く点滅し始めた。

「わっ」

「どうした」

「動くのか」

「まさか、飛ぶのかっ!?」

 おれたちはどよめいたが、さぶは至って落ち着いていた。

「なに、いま起動中だということを示しているんだよ。完全に起動するまで、二、三分待ちねい」

 と言って煙草を一本取り出してくわえ、火を点けた。

 さぶの言った通り、二分もすると眼の点滅は止まった。

「次は何だ?」

「次は、…こいつを押すのさ」

 さぶは、コンソールの青いボタンを二回押した。すると、また

 ピー ピー

 というブザーが鳴り、ルンルンの内部でがちゃりがちゃりと金属どうしが嚙み合うような音がした。

「何だっ」

「どうした」

「動くのかっ」

 おれたちはまたどよめいたが、さぶは至って冷静である。

「なに、初回起動時はいつもこういう音がするのさ。内部の歯車の一つひとつから、神経ケーブルの一本いっぽんに至るまで、きっちりと動作するかどうか、それを今セルフ・チェック中だ。四、五分待ちねい」

 さぶの言った通りだった。五分ほど待つと、ルンルンの体内から、また

 ピー

 とブザーが鳴るのが聞こえた。さぶは満足そうに頷くと、

「これでよし。どこにも問題はねえや。完成だ」

 と言って、次にコンソールの黄色いボタンを押した。

 すると驚いたことに、レプリカ・ルンルンはひとりでに動き始めた。まず、朝起きたばかりの時にそうするように、右手で顔を拭い、続いて右腕を下ろすと、今度はゆったりした動作で上半身を折り、両手を床に突いて四つん這いになるとゆっくりと園舎の床の上を這い回った。それから背中を下にしてごろりと寝転び、いかにも笹か何かを食っているような動作をして見せた。

「ル、ルンルン! これはルンルンだ!」

 清五郎が叫んだ。その両目は、眼窩がんかから目玉が転げ落ちるのではないかと思われるほどに見開かれていた。

「ま、間違いねえ」与八も泡を吹いた口の端を拭いながら言った。「こいつは本物のルンルン以上に、ルンルンそっくりだ」

「おいおい」とさぶは、呆れたような声を上げた。「お前ら、機械動物園に来たことはないのか? あっちのルンルンだって、こっちにいたルンルンがモデルになってるんだから、似ているのは当たり前だろうが」

「まあ、そりゃあそうだが…」茂太が震える声で言った。「おれはこれまで、機械動物園の動物なんざ、単なる作りものだろうと思い込んでたんだ。それが…、ねえ…」

 後の言葉が続かない。さぶはちょっと笑って、

「それに、さっき清五郎から直接、生前のルンルンはどんなポーズをよく取ったか、どんな仕草をよくしていたか、詳しく聞けたから余計だろうな。ぜんぶきっちり、この電子の脳髄の中のメモリにインプット済みだ。こいつは意図的に消去しようとしない限り、ずっとこのままさ。つまり、お客は永久にルンルンを見られるって訳さ」

「そいつはちょっとまずいな」おれは口を挟んだ。「いいかさぶ、そっちのルンルンならそれでいいかも知れんが、こっちのルンルンは生きてるんだぜ。どうやって自然な死を遂げさせればいいんだよ?」

「そりゃあ、そうだ」

 甚七と五郎兵衛も同意した。が、さぶはおもむろに煙草をもう一本つまみ出すと、ゆったりと火を点け、

「おいおい」と言った。「まさかお前さんたちは、このパンダは人前で死ななきゃいけないものとでも思ってるんじゃないだろうな? いいかい、動物は必ず死ぬ。そして、いつでも死ねるんだ。そうじゃないかい? ある朝行ってみたら、残念ながらルンルンはこと切れていました。そういう死に方だってあるだろう? 適当にあと何年だか何十年だか、動作させておいて、本物のルンルンなら今ごろ死んでもおかしくはないだろう、そういう時になってから、死なせる。それでうまく行くんじゃないかね?」

 たしかに、さぶの言う通りだ。おれはさぶに頷いた。

「慥かに、そうだな。お前さんの言う通りだよ。繁殖のことや仔パンダのことも同じって訳だな?」

「その通り」とさぶは言った。「このルンルンってのは雄だろ? 決してさかりは付かねえし、雌のパンダも寄り付かないだろう」

「それに」とおれはその言葉尻に付け加えた。「もうルンルンは三頭も子供がいるんだ。ルンルンはもう子作りには飽きたらしい、と言っても十分説明が付く訳だ」

 弥七がぱしんと両手を打ち合わせた。

「つまり、完全犯罪って訳だな!?」

 おれは、それに対して、

「おいおい、犯罪だなんて人聞きの悪いこと言うなよ。これは元から何もなかったことなんだ。いいか? 。ここにいるルンルンは元気な生身のパンダだし、おれたちやレーヴィン園長は昨夜も徹夜なんかしなかったし、さぶもこっちに来なかった。だろ、さぶ?」

「その通りでさ」さぶは答えた。「ここでは何も起こらなかった。ルンルンは元気だ」

 おれたちは自分に催眠術でも掛けるみたいに、ここでは何も起こらなかった、ルンルンは元気だ、と口々に復唱した。

 その時、園舎の入口の方で物音がした。

「やべえっ。誰か来たか!?」

 清五郎が入口の方に飛び出て行ったが、間もなく何ごともなかったような顔で戻って来た。その後ろには、誰あろうレーヴィン園長その人がいた。

「おいおいお前たち、もうそろそろ八時になるんだぞ。まだ整備は終わらんのか?」

 言いながら中に入って来た園長は、レプリカ・ルンルンの前に立った。両手を後ろで組み、感心したように、

「ほう、これは」と言った。「なかなか、大したものじゃないか」

「そうでがしょう?」さぶは厭らしいにやにや笑いを顔に貼り付かせてへつらうような声で言った。「こいつぁ、もう、この国の持てる技術の粋を集めたっちゅうもんでして。へえ。ちょっとやそっと見ただけじゃ、ロボットだと気付く人はそういませんでしょうな」

 さぶは揉み手をしながらレーヴィン園長にすり寄って行った。どうやら、先ほどの十万ペカーリの鼻薬に対する礼だというつもりらしい。

「これは、動くのかね?」

 レーヴィン園長がさぶに訊ねた。さぶは、

「へえ」と答え、レプリカ・ルンルンの後ろに回ってボタン・コンソールを弄った。「ちょっとお待ちになっておくんなせえ」

 レプリカ・ルンルンのお遊戯を一通り眺めると、レーヴィン園長は、また「ほう」と言った。

「すばらしいものじゃないか。いや、わたしもさすがに気になってね。ちょっと自分の目で一目見てみようと思って来てみたんだが。まさかこれ程までのものとは思わなかった。いや、大したものだ。これはどうして動作を仕込んだのかね?」

「いやその」さぶはにやにやと愛想笑いをしながら言った。「こいつは体内のコンピュータのメモリにインプットしたんでさぁ。動きを仕込むのは、別にそう大したことじゃありませんので、へえ」

「ふむ」と園長は言った。「では、自発的な動作はしないのかね?」

「へ?」

 さぶは狐につままれたような顔をしている。園長は、

「つまりだ。メモリにインプットされた以外の動作はしないのかね、ということだが?」

 それを聞いて、さぶはまたにやにや笑いを広げながら、

「へえ」と言った。「インプットされたもの以外の動作もしますぜ。そいつぁ、つまりこいつの脳髄の基板に刷り込まれているんでさぁ。つまり、こういうジャイアント・パンダならパンダなりの、コウテイペンギンならペンギンなりの本能ってもんがございましょう、そういう本能的な動作もいたしますよ」

 まるで居酒屋の客引きのような口調であった。園長は満足したように、

「なるほどね。特にインプットされた以外の動作は、パンダならパンダ用に、工場で基板に刷り込まれた本能的な動作をする訳か。なるほどね」

 と頷いた。続いて園長はおれを見ると、

「ああ、近江くん。もう時刻は八時を回ったぞ。マルス三世国王は九時の開園と同時にお見えになる。それを考えて仕度をしてくれないか」

 おれは大人しく、

「はい。了解です、園長」

 と答えた。園長はおれに頷き掛けると踵を返し、園舎から出て行こうとしたところで、足元に転がっていたものに蹴つまずいてよろめいた。何とそれは、死んだジャイアント・パンダのルンルンの亡骸なきがらだった。

「おお、お近江くん」

 園長は泡を喰らった声でおれに叫んだ。

「ここ、これの始末もしておいてくれよ。いいな?」

「あ、そうでしたね。わかりました」

 おれは首をすくめて答えた。

「よろしく頼むぞ。じゃあ、九時の開園には間に合うようにしてくれよな」

 レーヴィン園長はそう言い置くと、足音高く帰って行った。

 おれは清五郎や太一らと顔を突き合わせて、この死んでいる方のルンルンの始末をどうするか相談した。

「間もなく昼間の飼育係が来ますぜ」と清五郎は言った。「こいつは、埋めちまうにはちょいとガタイが大きすぎて、おいそれとは行かねえですね。仕方がねえや、とりあえず園舎の裏に隠しておくことにしましょうぜ?」

「幸い、今は暑い季節でもないし」

 太一も同意した。

「そうだな。まず人目に付かない場所に移して、後になってから始末を付けるのが最善だろうな」

 おれは、甚七や源蔵らの力も借りて本物の――いや、今や偽物となったルンルンの重くてかさばる身体を持ち上げ、檻から出し、園舎の裏に横たえると、上からビニール・シートを被せて見えないようにした。

「これでよし、と」

 おれたちは一息ついた。他に抜かりはないか、その辺を十人で散々探し回ったが、別に問題になりそうなあらは見当たらなかった。

 やがて、昼間の担当の飼育係が来て、

「お早うございます、清五郎さん」

 と挨拶した。清五郎は何食わぬ顔で煙管を取り出し、一服つけて、

「おう。お早うさん」

 と言った。飼育係は、何で第三園舎におれたちがぞろぞろいるのか、不審そうな顔をしているので、おれは、

「お、じゃ、そろそろ行くか」と大きな声で言った。「清五郎、どうもあい済まなかったな。元気でやれよ」

 清五郎も、右手を挙げて、

「あいよぅ」

 と返事をした。おれたちは第三園舎を出ると、園長室へ向かった。さぶは機械動物園に帰ると言って裏門から出て行った。

 レーヴィン園長は、執務席の後ろをうろうろと歩き回っていた。おれは、

「大丈夫ですよ、園長。きっとうまく行きますから」

 と半ば自分自身に言い聞かせるように大声で言った。園長は、おれの顔を見ると、

「うむ」

 と唸ったきり、またデスク・チェアの後ろをうろうろし始めた。それから、

「わたしはもう胃が痛くて堪らん。今日で胃薬をもう三回も飲んだ。あと十五分で九時か」時計をにらみ、「近江」と言った。

 おれは即座に、

「はい、何でしょう?」

 と訊ねた。

「お前、わたしと一緒にいてくれんか。頼むよ」

 おれは、多分そんなことだろうと見当が付いていたので、

「ああ、そんなことなら構いませんよ。お伴しましょう」

 と請け合った。

「済まんな」と園長は言った。「これから、園の代表として挨拶しなければならんのだ。わたし一人では、何とも堪え難くてね」

「分かります。よく分かります」

 おれは言った。すると、源蔵たちがおれの顔を見て、恐るおそる、

「あのう、おれたちもいた方がいいでげすかねえ?」

 と訊ねて来た。おれは苦笑いして、

「お前たちはもう帰っていいぜ。昨夜はよくやってくれたな。帰ってゆっくり休んでくれていい」

 と言った。レーヴィン園長も同意して頷いたので、七人はぞろぞろと出て行った。

 やがて時間が来たので、おれたちは外に出た。正門の前には既に演台が設けられてあり、王家用のリムジンの姿もあった。報道陣が乗って来たと思しきTV局のワゴン車も何台か並び、ものものしい雰囲気である。

 レーヴィン園長がまず、式辞を述べることになった。

「あー、今日は幸いお日柄もよく…」

 おれはすぐ下に付き添っていた。自分のすぐ近くにいてくれるように、とレーヴィン園長からの依頼があったからだ。

 五分間に及ぶ園長の挨拶は何ら異状なく終わり、おれはほっとした。

 続けて二、三名の来賓や王族の挨拶があり、最後に嫌われ者のマルス三世国王の言葉があって、式典は終わった。

 マルス三世はボディガードや侍従に付き添われ、レーヴィン園長の案内でいよいよ園内に足を踏み入れた。

 マルス三世は呑気なにこにこ顔を見せている。きっとTV映りをよくするためなのだろう。

 国王は真っ直ぐにルンルンのいた――いや、いる――第三園舎へと向かった。

 園舎に近付くにつれ、レーヴィン園長の顔色は目に見えて悪くなって行った。今ではもう蒼白と言っていいくらいだ。おまけに表情も強張っている。おれは園長の背をそっと指で突付き、

「大丈夫ですよ。絶対うまく行きますから」

 と小声で話し掛けた。レーヴィン園長はおれの言葉に、うん、うん、と二度、強く頷いた。

 マルス三世はついにルンルンの檻の真ん前にやって来た。そして、檻の奥に向かって、

「おいルンルン、おるか?」

 と声を掛けた。その声を聞くと、ルンルンはすぐに園舎の中から這い出て来た。これはさぶがメモリにインプットした通りの仕草だ。ちょっと見ただけでは、本当に生前のルンルンと違いが分からない。

「元気でやっておるかいの?」

 マルス国王はそう話し掛けると、ルンルンの鼻面に手を伸ばした。

 事件はこの時起こった。

 ルンルンは、目の前の国王の顔にやにわに嚙みつき、

 ガー

 と一口で国王の頭を食ってしまったのだ。

 おれは一瞬、自分の目で見たものが信じられなかった。園長も同じだろう。

 そこへ、動物園正門の方から、らっぱを鳴らしながら、馬に乗った近衛兵の一団が傾れ込んで来た。当然、おれは逮捕されるのだろう、と思って目を閉じた。恐らく園長も同じことをしただろう。

 しかし、結局おれが逮捕されることはなかった。園長もだ。源蔵も、茂太も、さぶも、清五郎も、誰も逮捕されることはなかった。

 あの時傾なだれ込んで来たのは、マルス三世王の近衛兵ではなく、甥のヘルツ二世の手の者だったのだ。ヘルツ二世は、マルス三世が王立動物園を訪れた際、隙を突いてクーデターを挙行しようと自分の手勢を差し向けたのだった。

 肝心の頭目であるマルス三世その人を失った軍勢は気が抜けて総崩れになってしまい、ヘルツ二世のクーデターは易々と成功に至った。マスコミはこれを、〝驚異の無血クーデター〟として大々的に取り上げた。

 レーヴィン園長はあれから、「クーデターの挙行に際し多大の功績があった」とかでヘルツ二世に取り立てられ、三階級特進とやらで今では財務省の長官になってしまっている。

 だが、おれたちには革命のおこぼれはなかった。

 ヘルツ二世国王は動物愛護法を撤廃し、王立動物園も閉鎖してしまったので、おれたちは職を失うことになった。一方機械動物園は敷地が拡張されて、さぶはまだそこにいる。

 仕事を失ったおれは、田舎に引っ込んで親父の畑仕事を手伝っている。暇な時には裏の川でぼんやりと釣り糸を垂れるのが楽しみだ。

 おれは浮きを見ながら、あの夜おれたちが用意したレプリカ・ルンルンの頭は、ジャイアント・パンダのものではなく、白熊の頭だったのだなあ、と思う。白熊の頭は空腹時に肉を見たため、〝本能的に〟マルス三世王の頭をかじり取ったのだろうな。

 しかし、どうも話が上手くできすぎている。レーヴィン園長は、もしかしてクーデター挙行の裏情報でも掴んでいたのではないか? あのレーヴィン園長が呈した奇妙な緊張感は、たしかにアドレナリンのもたらしたものなのだろうが、もしかするとあれは、収容所行きになる恐怖感からではなく、これから出世街道を驀進して行く、そのスタート・ラインに立った、千載一遇の好機を摑んだ亢奮から来たものではないか?

 ――止せ、考えすぎだ。

おれは川辺に横になる。

空を白い雲が流れて行く。いい気分だ。

               (了)


 ――あの短篇はなかなかいいできばえだったと思うんだけどな。

 と慶一は思うのだが、いかんせん、エンターテインメント系作品で四〇〇字詰め原稿用紙にしてピッタリ百枚という作品はその長さが中途半端すぎるらしく、どこの応募要項をみてもぴったり適合するところがみつからず、涙を呑んでいまは抽斗のこやしと化している。北海道大学理学部に通ずるのは理科Ⅱ類であるが、この入試には共通第一次学力試験で国語の受験が必須だ。つまり現代国語の試験勉強もするのだが、それなのに瑞生はなぜこういうおもしろい話を見向きもしなかったのだろう。若しかしたら、共通一次試験の現代国語で何か厭な目に遭ったのだろうか?

 慶一が心中でぶつぶつと呟いていると列車は南稚内に着いた。この駅で列車は上りの札幌行き夜行急行「利尻号」と交換する。つまり、宗谷本線は単線で列車どうしのすれ違いがなかなかできないので、主要な駅でいわゆる島式プラットフォームのあちらとこちらに停車してゆき違う訳である。慶一は明日はこの列車に乗るか、とぼんやり思いつつ、二、三人の客に混じって改札を後にする。教わった通りに歩くと、眼の前に大きな黒々とした建築が現れた。〝ホテル宗谷〟と大書されているドアを押すと、吸い込まれるように中へ這入る。

 フロントで迎える中年の女性に男から「宗谷3号」の中で手渡された名刺を出すと、小さくああ、と言い、あとは何も言わず、「502」と部屋番号が白く刻印された樹脂製のバーがついている、旧式のルーム・キィに朝食用のチケットを添えて差し出すので、慶一も黙したままうけ取り、エレベーターを探した。

 五階のあてがわれた部屋に這入った慶一は、プライベートな空間に這入れたことが嬉しくてただただほっとする思いだった。取り敢えずベッドの上に大の字でバタッとひっくり返り、何も考えずにうつろな天井をみつめた。胸郭の中で心臓がさかんに脈打っている。

 ――明日はどこへ行くのだろうか。

 それは慶一がこの晩に気にしていた疑問の一つだったが、明日にはやはりゆっくり考えるための時間はなさそうだ。

 そうだ、自分には、いや自分と瑞生には時間がないのだ。

 急がねば。

 と、がばと跳ね起きてバッグのなかを漁り、手帖を探してとり出すと、瑞生の項を捜し、実家の電話番号と住所をみた。と、うろ覚えの記憶には微妙な誤謬があって、宗谷支庁にあることは同じだが、正しくは稚内市ではなく、礼文郡礼文町であった。だが電話番号が付されてない。ちょっと出鼻をくじかれた慶一ははたと手を打ち、電話帳を拡げた。礼文町でみる。あった。

 慶一は部屋に備え付けの電話機に手を伸ばして受話器を取り、まず「〇」を押して外線発信モードにしてから、手帖に並んでいる数列を打った。カチリと音がして、慶一の電話機は特定の番号につながった――、呼び出し音がなり出し、慶一はちょっとどぎまぎするのだが、一応簡単な挨拶のことばはあたまの中で考えておいて、あとは電話機と電話回線にすべてをゆだねた――、しかしながら、慶一の電話に人声が応じることはなかった。慶一の耳の中では、瑞生の実家と思われる無人の薄暗い家屋のなかでいつまでも鳴り響く電話機の音が鳴り響き、それはいつしか疲労した慶一には心地よい子守歌のようになって波のように伝わり、慶一はその儘寝入って了った。その慶一をおし包むかのように何処かからうち寄せる日本海の波のおとが静かに聞こえてきて、慶一は分厚い硝子の嵌まった窓から射し込む月光に照らされて暫しまるで化石したかに見えた。その透明な光のなかで慶一の病んだ頭部や、衣服に覆われた肢体はあたかも海底にある様だった。

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