第61話 戻ってきて


「千紘は甘えただなあ」

「当たり前だ。もう、絶対離さない。誰が何を言おうと」

「ふふっ」


 椿の傍にいなかったから、みすみす太一にさらわれてしまった。そう考えた千紘は、もう椿をどこにも行かせたくなかった。自分の目が届くところにいないと、不安でたまらない。


 両親としばらく暮らす話が消えるぐらい、椿にベッタリとくっついた。視界に映らないのが苦痛だと、トイレや風呂もままならないほどだ。


 椿は、それがまったく嫌ではなく、不安が消えるならばと手錠で繋がるのも許可した。戻った実感を湧かせるために、繋がりが彼にも必要だった。

 1週間ほどすると、手錠は必要なくなった。ただ、視界にいないと不安になってしまうのは続いた。


 くっついている間は安心するようで、椿の定位置は膝の上である。

 後ろからまきつく腕に、文句のような言葉を口にしながらも顔は緩んでいた。


「そろそろ、仕事の時間じゃない? 遅れると、智村さんに俺が怒られるんだから」

「気にするな」

「気にするよ。大事な打ち合わせでしょ」


 千紘は、椿と自分のため、新しい仕事を完全在宅で出来るようにした。智村のサポートがあるからなんとかなっている。そのため、椿は彼にとても感謝しているから邪魔したくなかった。


 そして椿は、美間坂学園長のおかげで特例で、通信制として学校に通っている。

 授業を受けて、テストに合格すれば卒業できるように取り計らってもらった。

 やむを得ない理由とはいえ欠席ばかりしていたので、退学するしかないと諦めていた。

 仕方ないから、落ち着いた頃に通い直そうと考えていた。


 しかし千紘と烏森が働きかけてくれて、通い直さずに済む。

 自分はとても恵まれていると、椿は深く感謝した。


「俺も授業だから。ね、お願い」

「……分かった」


 さすがに、抱きしめられていた状態では授業が受けられないと、渋る千紘の腕を軽く叩けば、名残惜しげに離れていった。


 我慢しているのは千紘だけではないと考えつつ、授業のためにパソコンの準備をする。すぐ傍で、千紘もパソコンを起動させた。

 仕事をするには声が入ってしまうような距離だが、これ以上は離れないという強い意志を感じる。

 智村はもう知っているので、この状態でも支障はなかった。

 憧れが大半を占めているとはいえ、甘やかしすぎだと椿は思っていた。向こうも同じことを思っているので、どっちもどっちであった。


 休みが長期に及んだので、初めの頃は授業について行くのが大変だった。

 テストの日程、卒業までのタイムリミットは定められている。それまでに合格点を叩き出せなければいけないのは、なかなかの難易度であった。


 しかし、諦めかけていたところに降ってきたチャンス。ものにしないでどうするのだと、暇な時間があれば予習復習を欠かさなかった。

 千紘も勉強に付き合い、その教え方はとても上手だった。教師と遜色ないぐらいに。


 さらに椿を助けてくれたのは、千歳だ。

 彼も椿ほどではなくとも、休みが長期に渡った。

 千紘が許可を出したので、連絡をとって2人で勉強会をしている。一緒に頑張る人がいると、やる気の度合いが違った。椿も千歳も負けていられないと、切磋琢磨している。

 そのおかげもあり、気まずさが徐々に消えていき、友人と呼べる関係に落ち着いていった。


 その経緯をすぐ近くで見ていた千紘は、椿が何かあった際まっさきに頼る相手は千歳だと決めたほどだ。



 ♢♢♢



 本日の授業を終えた椿は、凝り固まった体をほぐすために大きく伸びをする。

 集中していたので、隣に座っていた千紘の存在を忘れてしまった。

 拗ねているかもと、千紘を見て驚く。


「……いつから見てたの」


 千紘は、椿をとろけるぐらいの甘い表情で見つめていた。視線に気づかなかったのが信じられないほど、とてつもなく甘かった。

 それを真正面で見てしまい、椿は顔を赤らめさせて口を尖らせる。


「15分ぐらい前に打ち合わせが終わってからだな」

「そんな前から? 言ってくれれば良かったのに」

「集中していたみたいだから、邪魔したくなかった。それに」

「それに?」

「椿を見ているだけで満たされる」

「なっ?」


 なんて恥ずかしいことを言うのだと、椿は顔を背けた。耳まで赤くなっている姿に、千紘は愛おしさで胸がいっぱいになった。


「早く結婚したいな」


 口にするつもりではなかった言葉。幸せすぎて、思わず言ってしまった。

 本音なので、慌てたり取り消したりすることなく、椿が可愛く怒るのを待った。


「……だって」

「ん?」

「俺だって、早く結婚したい。そんなこと言われたら、待ちきれなくなる」


 しかし返ってきたのは、自分も同じだという言葉と、肩に寄りかかる重みだった。

 心臓が止まった。大げさではなく、千紘はそう感じた。


 こんなに可愛くていいのか。天使か小悪魔だ。

 他の人を魅了するぐらいの力がある椿に、やはり目を離していられないと考えた。


「椿……俺を選んでくれて、ありがとう」


 たまらなくなって、赤く染る顔を隠すためにも椿を抱き寄せる。

 抗わずに胸に飛び込んだ椿は、いつもより早く鼓動している千紘の心臓を感じながら答えた。


「俺を愛してくれてありがとう」


 さらに早くなった鼓動に、自分と同じだと喜びを噛みしめた。

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