第58話 その手


「椿、どうしても俺の手を取らないのか?」


 太一は仄暗い目をしながら、椿に手を差し伸べていた。その手を取れば、とりあえずは何とかごまかせると椿は気づいていたけど、取ろうとは考えられなかった。

 この場はごまかせたところで、自分の気持ちに嘘をついたことになる。千紘を裏切りたくなくて、椿は首を横に振った。

 自分の首を絞める結果となってもだ。


「俺は、俺が助けてほしいのは、千紘だけだから」


 椿を掴んでいた、太一の手が外れた。


「そうか……それが、椿の答えなんだな」


 うつむいた太一の顔は、影になって椿から見えなくなった。しかし、良くない表情をしているのだけは分かった。

 今からでも、撤回すれば太一は許してくれる。椿が甘えれば、多少のお仕置きはされても命までは取られなかっただろう。それが分かっていて、椿は口を閉ざした。


「もう、いらない。椿なんか、いらない」


 何も言わない椿に、太一は耐えきれずに笑い始める。くつくつと、それは楽しいというよりもおかしくてたまらないといった笑い方だった。


「……死ね」


 振り上げられた、その手に光るナイフ。

 鋭くて、殺傷能力は十分だった。一撃では死ななくても、何度も刺されれば助からない。防御しようとあげた手は、なんの盾にもならなかった。


 あと数センチで刺される瞬間、ナイフの軌道がそれた。椿の体に埋まることなく、空を切る。


 太一がやはり殺せないと、思い直したわけではなかった。むしろ、彼の殺意は強かった。椿を絶対に殺そうとしていた。


 軌道がそれたのは、ナイフを持つ手を蹴った者がいたからだった。狙いは命中して、太一の腕は弾かれた。


「ぐぅっ!」


 痛みに太一は顔をしかめ、ナイフを落とす。床を滑ったナイフは、吹っ飛んだ扉の隙間に入り込む。

 椿は目を閉じていたので、何があったのか見ていなかった。衝撃を待っていたら、空気が切り裂かれて、ナイフが落ちる音を耳にした。


 痛みを感じず、椿はゆっくりと目を開く。もしかして、自分はもう死んだのではないかと考えた。目を開けたら、そこは天国かもしれない。

 死んだらどうなるのか。椿はその光景を見て驚く。


 何か言おうとして、何も言葉にならず椿は一気に涙をあふれさせた。泣きながら、太一との間に立っている人を見る。

 その人物は、嗚咽を出す椿に優しく笑いかけた。


「椿、待たせてごめんな」


 椿の目には、千紘はヒーローにしか見えなかった。自分だけのヒーローだと。


「……ち、ちひろっ……」


 ずびっと鼻を鳴らし、ようやく椿は名前を呼ぶ。必死に伸ばした腕を、千紘はしっかりと引き寄せた。

 腕の中は、安心出来る場所だ。世界で一番安全な場所。

 椿は体の力を抜いて、千紘に全身を預けた。全てを預けている様子に、千紘は愛おしさで胸がいっぱいになり、痛いぐらいに強く抱きしめた。


 椿を安心させるために千紘は抑えていたが、彼の無事な姿を見て、色々な感情がごちゃごちゃに混ざりあって大変だった。

 腕にいる存在が消えてしまわないように。恐怖から力の加減ができなかった。

 椿は千紘の気持ちを、恐怖を感じ取っていたので文句を言わず、好きなようにさせていた。むしろ痛いぐらいの方が、千紘が本当に助けに来てくれたのだと実感ができて椿も嬉しかった。


 このまま再会の喜びを噛み締めていたかったが、まだそんな悠長なことは言っていられない状況だった。

 腕を蹴られただけで、太一はまだ制圧されたわけではなかった。2人の抱擁を邪魔しなかったのは、武器になれる何かを探していたからだ。


 椿を害すのが第一目標ではなく、武器というのはナイフしか持っていなかった。彼の計画では、椿を助ける演技をすれば身を預けてくれるはずだった。よく考えれば計画の穴に気づきそうだが、早く椿を手に入れたいと焦っていたのだ。

 計画が失敗し、ナイフが使えなくなった中、太一が見つけ出したのは扉の破片だ。鋭いものを選び、標的を椿に定めた。

 千紘を選ばなかったのは力で負けると思ったからではなく、椿を諦めきれず他の人間には渡さないという執着でだ。


 殺せなかったとしても、一生残る傷を作りたい。それを見るたびに、自分を思い出すような傷を。

 叫ばず、静かに体の柔らかい部分を狙って、太一は椿を刺そうとした。狙いが当たっていれば、椿は大怪我をしていただろう。


 しかし、それを千紘が許すはずがなかった。狙って近づいた太一を、椿を抱きしめたまま避ける。そして無防備になった背中を、遠慮せずに蹴りあげた。


 太一は顔から転ぶ。痛そうな音がして、椿は思わず自分が転んだかのように顔をしかめた。抱きしめられていたため音だけ聞いていたが、それでも凄い勢いだったのが伝わった。


「ち、千紘。どうなったの。うぶっ」

「椿は見なくていい。後は俺が処理するから」

「……分かった」


 椿は不満だったが、千紘の頑なな様子に最終的には任せることにした。

 千紘は、もう椿に太一を関わらせるつもりはなかった。椿と二度と関われないのが、太一にダメージを与えると考えてだ。

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