第51話 ある人の


「上手くいっているかな」


 庭にある池を覗きながら、椿は誰に聞かせるまでもなく零す。

 池には錦鯉が泳いでいて、その美しい姿に見とれていた。


「……千歳には、申し訳ないことをしたかな……」


 千歳の気持ちに応えられず、彼の心を傷つけた。それなのに、彼は椿の助けになってくれた。

 これまで辛い思いをたくさんしたが、その苦しさを上回るほど献身的な行動に感謝していた。


「今度、美味しい肉でも奢ろう。後は、千紘さんに聞いて、欲しいものをプレゼントしよう。これからも仲良く出来ればいいな。……それは、千歳次第か」


 千歳からすれば、あまり関わりたくないと思うかもしれない。それを無理強いできなかった。これからの関係がどうなるかは、千歳次第だ。


「……結婚かあ。まだ先だけど、楽しみだな」


 婚姻届を出せるのは、早くても椿が成人してからである。法律で決まっているからだ。諸々の準備や対策を終えて婚約発表を行われるが、それもすぐではなかった。

 お互いに好き合っているとはいえ、もう少しだけ様子を見るべきだと約束させられた。世間が少し落ち着いてからでも遅くはない。鎮火してきたが、まだ千紘のことで世間は騒いでいる。それで信用してもらえるならと、椿も千紘も受け入れた。


 椿も千紘もすぐに一緒に住みたいと願ったが、それは椿の両親から待ったがかけられた。

 しばらく会えなかった分、椿と一緒にいたいという願いだった。少しの間でいいから、家で過ごしてほしい。そんな頼み方をされたら、さすがに椿も断れなかった。


 そういうわけで、千紘と離れないと約束したが、同棲はしばらくお預けとなった。残念だったが、これも認めてもらうためだと椿は気持ちを切り替えた。


「ごめん。餌は持ってないんだ」


 椿の存在に気づいた鯉が、わらわらと集まってくるが餌を持っていないと椿は謝った。しかし言葉が通じないので、鯉はどこかに行かずに水面を揺らす。

 揺れて波紋が広がったため、椿は後ろから近づく存在に気づかなかった。


「ぐっ!?」


 気配を感じて振り返った時には、椿は体に強い衝撃を受けた。気絶まではいかなかったが、痺れて倒れ込む。

 地面にうずくまり、ぴくぴくと体を震わせる椿の横に、こんなことをしでかした犯人が近づいた。

 手を伸ばし椿の頭を撫でながら、優しく話しかける。


「大丈夫だ。椿は俺が守るからな」


 そして抵抗できない彼の体を抱えると、その場から立ち去った。



「おーい。椿?どこ行った?」


 それから数分もしないうちに、戻って来ない彼を探しに千紘が現れた。

 名前を呼ぶが返事は無い。すれ違いになってしまったかと、戻ろうとした千紘は池付近の地面が乱れているのに気づいた。


「……まさか」


 ありえないと切り捨てるには、状況がおかしかった。千紘は嫌な予感に襲われながら、急いで中に戻った。



 ♢♢♢



 椿がいなくなった。

 料亭のどこを探しても姿がなく、家に帰った様子もない。家出をする理由もないので、相談の結果、警察に届けを出した。

 犯人に検討もつかない中、とにかく椿の身が優先されたためだ。


 東雲家だけでなく、南津家も捜索に協力した。まだ仮とはいえ、椿は千紘の結婚相手。もしものことがあれば、千紘がどうなるか分からない。そんな危うさがあった。


「犯人は、絶対に殺す」


 犯人がいるのかどうか決まっていないのにも関わらず、すでに千紘は殺気立っていた。昼夜を問わず椿の情報を探し、せっかく良くなっていた体調が元通りになってしまった。

 必死なのは、千紘だけではない。他の人も、椿を探すために必死になっていた。


 しかしその中で、烏森だけはどこか微妙な様子だった。思い詰めていて、元気がない。

 千紘はそれに気づく余裕がなかったが、千歳がおかしいと感じた。


 そして、椿がいなくなったという一大事に、全く姿を現さない人物を怪しんだ。



「烏森さん、小林太一は今どこにいるのか知っていますか?」


 千歳に問われ、烏森はもう隠し切れる話ではないと、とうとう諦めた。


「それが……全く連絡が取れないのです。東雲君が姿を消す前から」

「どうして、それを早く言わなかったんですか」

「彼も東雲君に好意を抱いていたので、失恋を癒すためにしばらく一人になりたいのだと、勝手に決めつけておりました。東雲君が姿を消して、その連絡をしたのに返事がなく……まさかそんなはずはないと、見て見ぬふりをしていましたが……やはりそうですよね。小林君は……彼はとんでもないことをしたのでしょうか」


 苦悶の表情を浮かべながら、烏森は懺悔するかのように膝をついた。


「彼が精神的に追い詰められていたと分かっていたのに、きっと時間が経てば立ち直れるはずだと見守ることを選びました。その選択は、間違っていたようです」


 千歳は早く言わなかった烏森を責めている時間はないと、冷静になれと自分に言い聞かせて怒りを押し殺す。すぐにおかしさに気づかなかった自分も悪いと。


「彼がどこにいるのか、あなたは知っていますか」

「心当たりはありませんが……小林君の家は知っています」

「すぐに教えてください」


 千歳は烏森から情報を聞き出すと、すぐに電話をかけた。

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