第42話 小さな抵抗
「……千紘兄ちゃんにされたことは許せるの? 千紘兄ちゃんがしたことだって、許せるものじゃないのに」
椿に完全に断れたが、千歳はまだ諦めきれなかった。千紘だって、椿に対して酷いことをした。それなのに、どうして感情に差があるのか。不満を口にすると、椿は苦笑する。
「そうだね。さすがに犯罪だけど……俺はそれを愛だと感じた」
「ストックホルム症候群じゃないの、それ。恐怖を恋心と勘違いしている。そうじゃない?」
簡単には認められず、千紘への気持ちが勘違いなのではと聞いた。
「まあ、普通に考えればそう思うよね。親にも大丈夫かって何度も言われた。考え直せって。でも俺は、これが一時の気の迷いとは思いたくないんだ。この気持ちが操られているとも」
椿は胸に手を当てる。柔らかい微笑み。それは、気持ちを大事にしている様子をありありと見せつけていた。
「……千紘兄ちゃんのことが、それだけ好きなんだね」
「……うん、好き」
もう絶対に無理なのだと察するぐらい、椿は千歳が見た中で一番いきいきとした表情を浮かべた。
「そっか」
千歳はなんとか笑った。椿への思いを吹っ切るために自分の気持ちを殺して笑う。
その葛藤を、空気に徹しながらも様子を窺っていた烏森は感じ取るが、何も口出ししなかった。
「こちらをどうぞ」
1人の恋が終わり、烏森はそれを弔うように千歳と椿の前にカップを置いた。コーヒーと甘い香りがふわっと漂い、2人の肩から力が抜ける。重ねていた手が自然とほどかれ、それぞれのカップを受け取った。
「ありがとうございます」
「東雲君が好きなカフェモカです」
「いい匂い。……あれ、椿ってコーヒー苦手じゃなかった?」
カップを手に取り、温かさといい香りに目を細めた千歳は、そう言えばと思い出す。
「知ってたんだ」
まさか千歳が知っているとは思わず、椿は驚いて目を見開く。コーヒーが苦手なのを、はっきりと伝えたことは無かった。それとなく避けてはいたが、千歳には知られていないと勝手に考えた。
「知っているよ。椿とどれだけ一緒にいたか、たくさんのことを知ってる。他にも暑いより寒い方が苦手とか。甘いものが好きとか。前は豆大福が苦手だったけど、いつの頃か好きになったことも」
楽しそうに椿のことを話す千歳は、ある記憶を思い出して悪い顔をする。
「そういえば昔、椿は人見知りだったよね。いつも人の後ろにいて。烏森さん、でしたっけ。その時色々大変だったんですよ。聞いてください」
「ちょ、ちょっと千歳、止めてよ」
「それは面白そうですね。ぜひ聞きたいです」
「烏森さんまでっ」
椿をからかう状況に入った烏森と千歳は、お互いに目配せして笑う。
「小さかった時は女の子に間違われるぐらい小さかったから、俺と千紘兄ちゃんの妹に間違われることが多くて。親達も悪ふざけでワンピースとか着せたりしたんです」
「おや、随分と可愛らしかったでしょうね。見たかったです」
「あ、それなら今度持ってきますよ。アルバムに写真が残っていますから」
「千歳っ!」
椿が顔を赤くして止めても、千歳の話は止まらなかった。失恋した小さな意趣返しだった。
「本当に可愛かったから、誘拐されかけたこともあって。しかも男だって分かってからも、相手が諦めなかったんです。気づいた俺と千紘兄ちゃんで撃退したけど、そこから俺達にさらにべったりになっちゃって」
「だって、あの時凄く怖かったから。大人に欲を向けられて、しかも無理やり腕を掴まれて引っ張られたんだよ? 怖くてしばらく悪夢も見たから」
「そうだったの? だからベッドにも潜り込んで来たんだ。言ってくれれば、もっと優しくしたのに。暑いって追い出したりしたよね。ごめん」
椿は心配をかけすぎたくなかったからか、そこまでトラウマになっていたとは言わなかった。千歳は勝手に大丈夫だと判断して、椿を軽く扱う場面が何度かあった。その代わり千紘がフォローに回ったので、千歳は兄を取られて嫌な気持ちになり、女の子みたいな格好をしているのが悪いと外に連れてやんちゃな遊びをさせた。
「逆に心配されすぎないぐらいで良かったよ。それで大事にされていたら、ずっとトラウマは消えなかったかも。千歳が変わらず外に連れてくれて、怖かった思い出がどんどん楽しいものに変わっていった。今もたまに思い出すことはあるけど、怖さはほとんど無くなっているから。それは千歳のおかげだよ」
「……少しでも役に立てたの?」
「うん。恋したぐらいにはね」
明確なきっかけはなかったが、千歳に対して好意を抱くようになったのは、そういうことの積み重ねだった。無意識にしていた行動が、椿を救っていたのだ。本人はそれに気づいていなかったけど。
「そっか。俺も椿に何かを残せていたなら、それでいいか。……椿は、千紘兄ちゃんの居場所が知りたいんだよね」
カップを見つめて、千歳がぽつりと呟いた。椿は千歳の気持ちを考えたら大げさな反応をするべきではないと思ったが、それでも千紘の話題に身を乗り出してしまった。
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