第37話 太一との壁
椿は両親との再会を喜んだが、どこか壁を作ったままだった。まだ精神が安定していないせいだと、両親は見守ることを選んだ。椿は腫れ物扱いをされながら、家へと帰ってきた。
千紘との生活は、驚いたことに3ヶ月にも満たなかった。椿としては、もっと長く経っていた気分だった。それぐらい濃厚な時間を過ごし、千紘という存在を刻み込まれた。
執着するべきではなく、千紘のことを忘れるべきという両親の言葉は合っている。囚われていても、椿の人生にとって良いことは一つもない。
しかし椿は、千紘を忘れたくなかった。
千紘が家に帰ってきてから、すぐに太一が駆けつけた。憔悴している様子に、彼にも心配をかけたのだと椿は感じる。しかし、それだけだった。
「椿っ、大丈夫だったか?」
椿の顔を見た瞬間、太一は勢いよく近づいてきた。そして怪我がないか、体に触れて確認する。
「大丈夫だよ、酷いことはされてないから」
「……悪い。椿を守ると誓ったのに……」
「大げさだって。そんなに落ち込まなくていいから。俺はこうして元気だし」
椿は微笑む。太一は近くにいるはずなのに、大きな距離を感じて戸惑った。
「椿、違う。誤解なんだ」
「誤解?何が?」
「西井とは何もなくて。あの時、急に向こうから抱きついてきて。すぐに椿を追いかけようとしたけど……」
「引き止められたんだろ」
「どうして」
「千紘さんがやりそうなことだから」
驚く太一を視界に入れながら、椿はくすくすと笑い出す。愛おしい者について話すかのように、その目はどろりと甘かった。
当時は分からなかったが、段々と何があったのか気づいた。
西井を送り込んだのは、千紘。美間坂学園長とは知り合いで、どうにか説得してねじ込むのに成功した。
南津家に近い人間だと、椿が知っていて警戒する可能性が高いので、西井が雇われた。椿と太一を引き剥がすのが目的で。
俺に近づくと怪しまれるから、太一をターゲットにした。情報はあらかじめ集めていたはずだ。喫茶店に千紘が現れたのは、椿に会いに来る目的もあっただろうが、太一を確認しにも来た。
その情報から、太一はどんな人をあてがえば椿から目を離すのか、最適な容姿と性格を選び出した。作戦は上手くいき、太一は西井に構い切りになり、椿の傍にいる時間が減ってしまった。千歳の姿が現れなかったから、気が緩んでいた。
そしてとうとう、椿の目の前で抱き合うところを見せて、大きなショックを与えた。そろそろ椿が飛び出すと予想して、千紘は近くに来ていた。もしかしたら、位置情報アプリなどを西井が前もって仕込んでいたのかもしれない。
それを利用して、千紘は椿の前に現れた。弱っているところに漬け込み、自分に執着させる計画を実行した。椿はまんまと嵌められた。太一もそうだ。
「太一は何も悪くないよ。千紘さんが一枚上手だっただけ。だから気にしないで、謝らなくていいから」
「……つばき?」
「守ってくれてありがとう。太一のおかげで、学校生活は凄く楽しかった。幸せな生活を送れた。でも、もういいよ」
「何を言っているんだ」
「太一を巻き込んでごめん。もう俺のことを気にしなくていいから、自分のために生きて」
椿の壁は透明で一見分からないが、高く頑丈で飛び越えられないほどだった。それを太一は見せつけられて、思わず息を飲む。
「あの時、すぐに追いかければ良かったのか? 椿を見つけたのが俺だったら、こんなことには……」
太一は椿を探している間、すぐに追いかけなかったことをずっと後悔していた。しかし椿が見つかったという連絡を受けて、弱ってはいたが無事だったのを聞いて安心した。謝れば、また元通りになると勘違いしていたのだ。
まさか、後悔が続くとは思ってもみなかった。太一はすがりつきそうになる手を、必死に掴んで抑えた。抑えていないと、今にも叫びそうだった。
「いや。たぶん、あの時太一が先に俺のところに来ていたとしても、千紘さんはいつかは俺を捕まえていたよ。諦めずに、別に手を考えただろうね。……まあ、あの時は太一に追いかけてほしいと思ったけど、もう過ぎたことだからね。戻れないのに、あれこれ言っても仕方ないよ」
慰めの言葉が、逆に太一の胸を抉った。太一には期待していなかったような、千紘を信じているような言葉は、罰を受けている気分に陥らせた。
「……悪い、本当に悪い」
「だから謝らなくていいって。俺は何も怒っていないし。むしろ心配かけて、探させたみたいでごめん。連絡を取れば良かったのかもしれないけど、そんな考えにいかなくて」
「……椿、悪かった」
謝らなくてもいいと言っているのに、謝り続ける太一に、きかん坊を相手にしている気持ちになった。
どうして、そんなに謝るのか。そもそも怒っていないのに。なだめる方が面倒になってきた椿は、太一から視線を外して遠くを眺める。
窓の外を眺めているようで、彼が見ているのは別にあった。
それが何か、いや誰か分かってしまう太一は、もう一度謝罪の言葉を口にした。
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