第36話 千紘の後悔
眠ったままの椿を前にして、千紘はずっと胸が痛かった。
ベッドに横になっている椿の顔色は、青を通り越して紙のように真っ白だった。目の下にクマが出来、唇はカサカサだった。
さらに千紘の胸を痛ませたのは、こけた頬と明らかに細くなった体である。
栄養失調で倒れたと聞き、覚悟をしているつもりだったが、受けた衝撃が大きすぎた。
たった1週間。それだけで、ここまで弱った。傍にいるのを怖がった自分のせいで。
千紘は眠る椿に触れようとしたが、そんな資格はないと直前で手を下ろした。
椿の呼吸は弱々しく、近くでよく見ないと死んでいるのかと勘違いしてしまいそうなほどだ。
寝顔はあどけない。やつれていても、椿の魅力は変わらなかった。
本当に存在しているのか。千紘は心配になってきて、壊れ物を扱うように慎重に触れた。
椿の頬は冷たく、かさついていた。それでも生きている。
千紘は唇を強く噛んだ。
「……俺のせいだ」
1人の生涯を背負う覚悟が、彼には足りていなかった。見たくないものから距離をおいて、椿の身を危険にさらした。部下が気づかなければ、死んでいた可能性もある。
「……椿」
呼びかけても反応はない。
それほど深い眠りの中にいて、千紘の声は届いていなかった。
「……俺を許してくれなくてもいい。俺のいない場所で幸せになってくれ」
千紘はそう言いながら、椿の額に唇を落とした。本当は唇に触れたかったが、キスをするのは良くないと自分を抑えた。
「はは、目を覚まさないか。物語のようには上手くいかないな」
目を覚まさない椿に、千紘は残念そうに笑いながら頬を撫でて病室から出て行く。
「……ちひろ……さ」
それからすぐに椿は、夢うつつの中で千紘の名前を呼んだ。しかし、応える者はいなかった。
♢♢♢
椿が意識を取り戻した時、そこには目に涙をためた両親の姿があった。
「椿っ」
「と、さ……か、さん」
「良かった。無事で良かった」
名前を呼べば、勢いよく抱きしめられる。椿はそれを受け止めながら、自分が今病室にいるのだと理解する。
食事も睡眠も疎かにしていたので、眠りについたつもりが意識を失っていた。それを発見されて、病院まで運ばれたのだろう。
そこまで考えると、椿は病室内を見回した。ある人物の姿を探していたのだ。しかし、探していた人物は見当たらなかった。
「ち、ひろさんは?」
椿は抱きしめてくる母親に問う。その名前を聞いて、彼女は眉間にしわを寄せた。そんな顔を椿に見せたくなくて、小さく息を吐く。
「……今はゆっくり休みなさい」
話をそらそうとする母親に、椿は首を横に振った。まだ本調子では無いので、動きはゆっくりとしていたが、それでも意思は強かった。
「いやだ。ちひろさんはどこ? おしえて」
ふるふると首を振りながら、椿は千紘の居場所を尋ねる。
自分を見つけたのは千紘に違いない。それなら、病院に連れてきたのも千紘のはず。
両親を呼んだのは優しさだとしても、どうして千紘が傍にいないのか理由が分からなかった。両親に会えたのは嬉しかったが、まっさきに千紘に会いたかった。
それなのに、両親は困ったような顔をするだけで答えない。千紘はここにはいない。
椿は病室から出ようと、ベッドから降りようとする。
「椿、何しているの。寝ていなさい」
「そうだ。まだ目覚めたばかりなんだから、休んでいなきゃ駄目だ」
「いやだ。ちひろさんにあわなきゃ」
両親は止めてきたが、言うことを聞かなかった。
しかし足に力が入らず、椿はベッドから転げ落ちる。それでも椿は腕の力を使って、なんとか外へと出ようとした。
椿の姿は鬼気迫るものがあり、両親は顔を見合せた。そして諦める。
「……彼は来ないわ。もう二度と」
「え?」
母親は悲しそうに顔を歪めて、その事実を伝えた。椿は動くのを止め、母親の方を見た。そして表情を見ると、嘘をついていないと察してしまう。
「こないって、どういうこと?」
「そのままの意味よ。彼は、椿の前には二度と現れないと誓ったの」
「……どうして」
「どうして? そんなの決まっているでしょ。椿にしたことを考えれば、警察に突き出さなかっただけましよ。土下座をしたって許したくなかったけど、あなたをこれ以上苦しませたくないから止めたわ」
母親は強い怒りを、声色に含ませる。拳を握りしめて、今はここにいない千紘に対する怒りを抑えていた。
「きちんと理解しているの、椿。あなたは誘拐されて監禁された。そして栄養失調で倒れて病院に運ばれた。これは完全に犯罪よ。私達がどれだけ心配したか分かっているの。あなたが学園から姿を消したと聞いて、どれほど探したか。なんであんな人のことばかり気にかけるのよっ」
とうとう母親は耐えきれずに涙を流した。ようやく見つかった椿と感動の再会だったはずが、彼が気にかけるのは犯罪者である千紘だけ。怒りが頂点に達するのも無理なかった。
顔を覆う母親に椿は申し訳なさを感じたが、それよりも千紘の行方が気になって仕方なかった。
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