第35話 壊れていく平穏


 千紘が仕事に出る時間が増えた。椿と会う時間を減らすように、仕事をたくさん詰め込み始めた。

 椿はそれを分かっていて、何も言わずに見守っていた。自分が余計なことをして、やぶ蛇を出したくなかった。


 千紘が帰ってこないとなると、椿は何もすることがなくなった。帰ってこない千紘に、料理を作っても無駄になってしまう。

 そのため料理を作らなくなってしまい、自然と自分の食事も疎かになった。食べても美味しくないのに、作る元気もなく口に入れるのも面倒くさかった。


「……だるい」


 椿はふわあっと大きなあくびをして、ソファに寝転んだ。まどろみの中で、動く気にもなれずにいた。空腹を通り越し、何も感じていない。ただ動けなかった。指一本動かすのさえも苦労するぐらいだ。


「……ねむい」


 眠気よりも、意識を失うように闇に沈んでいく。それに抗うことなく、椿はゆっくりと目を閉じた。



 ♢♢♢



 千紘は、椿に会うのが怖くなった。

 嫉妬に駆られて、暴力はふるわないとしても言葉で傷つけてしまうかもしれない。椿を一度壊したこともあり、千紘は行動に慎重になっていた。


 回復した椿は、どこまでも千紘に対して献身的だった。千歳に行っていた分が自分に来るのは喜ばしいことだったが、いつかなくなると考えると怖くなった。

 そのいつかが来る日を引き伸ばすために、椿から距離を置いた。


 別に緊急では無い仕事を積み重ねて、千紘は椿に会えないストレスも相まって苛立っていた。

 自身が引き起こした事態だと分かっていても、イライラは止まらない。とんとんと机を指で叩き、表に出している姿はいつもと比べると珍しいものだった。

 部下も遠巻きにしていて、必要最低限の会話しかしない。優秀ゆえ、千紘が放っておいてほしいのだと察した。

 そうやって気遣われていることを、千紘も分かっていた。私生活の苛立ちを仕事に持ち込むなんて、社会人として良くないが椿に関しては冷静になれない。


 あの小屋にまだいるだろうか。自分が来ないのをチャンスだと考えて、脱走しているのではないか。

 そうされていたとしても仕方ない状況だと、千紘は自嘲気味に笑う。誰もいない小屋を見るのが怖くて、今日もまた帰れないだろうと、次の仕事に手を伸ばした。


 それから集中していると、外はすっかり暗くなっていた。椿のことを考えそうになる頭を振って、千紘はスマホのメッセージアプリを開く。


『今日も仕事で帰れない』


 昨日も一昨日も、それどころか1週間、同じメッセージを椿に送った。椿は、こまめに返事を送ってくる。体調を気遣うものが多くて、余計に千紘へ罪悪感を湧かせた。


 いつもすぐに来る返信が、今日はまだ来ない。もしかしたら、本当に小屋から出てしまったのではないかと、千紘はスマホを見るのを止めた。見ていたら、嫌な想像ばかりしてしまう。それなら見ない方がマシだと、そう考えた。


 スマホを気にしないように、千紘はさらに仕事を片付けていく。そうしているうちに気がつけば、深夜に近い時間になっていた。

 随分と集中していた自分に苦笑しつつ、千紘はスマホを見る。マナーモードにしていたせいで気づかなかったが、着信が何件も入っていた。


 それが、椿のことを唯一知っている部下からだったので、千紘は血の気が引く。

 10件以上は入っている着信、何か緊急事態が起こった証拠だ。誰に起こったのか、椿以外にはありえない。そこまで一瞬で考えて、千紘はすぐに部下に電話をかけ直した。


 返信が遅い時点で、何かあったのだと考えるべきだった。そもそも、椿を1人にし続けるべきではなかった。

 ぐるぐると後悔が頭の中を駆け巡りながら、早く電話に出ろと千紘は焦る。コール音を聞くたびに、椿が自分から遠ざかっている気がした。


「何があった!?」


 ようやく繋がった時には、相手の声も聞かずに一方的に叫んだ。


『落ち着いてください』

「落ち着いてなんかいられるか。椿に何かあったんだろ? どうして会社にかけなかった」


 落ち着いている部下に、千紘はどうしてそんなに冷静なのだと怒りが湧く。相手を責める言い方をして、自分の非から目をそらそうとしていた。


『私が食料を届けに小屋に行ったところ、意識を失っているのを発見しました。すぐに病院に連れていきましたので安心してください。幸い栄養失調とのことで、命に別状はございません。現在は点滴を受けながら、眠っております。最近睡眠不足だったようで、ずっと目を覚ましてはいませんが……』


 部下の報告を聞きながら、その裏に自分を責める感情が含まれていると感じた。椿を間近で見ていて、境遇に同情しているのをなんとなく気づいていたが、自分に静かに歯向かうほどの大きなまで膨らんでいるとは思ってもみなかった。

 椿はたくさんの人を狂わせる、そんな毒を持っているのかもしれない。馬鹿らしい考えだが、部下が自分に傾倒していたのを知っている千紘にとっては、あながち間違ってはいないのではないかと椿の存在が恐ろしくなりそうだった。


 しかし今は、それよりも椿が心配だと、千紘は入院している病院を聞き出し、途中の仕事を放り出して向かった。

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