第33話 変わった椿
「……ち、ひろ……さ……けほっ」
「つ、椿」
久しぶりに話した椿は、掠れた声を出すと咳を繰り返す。それを見た千紘が、慌てて冷蔵庫から水を持ってきて、蓋を開けてから渡す。
その水を勢いよく半分ほど飲むと、椿はしっかりとした眼差しで千紘を見る。
「千紘さん」
一度名前を呼ぶと、後は口を閉じる。
しかしそれだけで、千紘は涙をにじませるほど喜んだ。
「……まだ、俺の名前を呼んでくれるのか」
はらはらと涙を流し、千紘は椿にすがりつく。そして甘えるように抱きしめると、ぐりぐりと顔を押し付けた。
椿は静かに、その背中に手を伸ばした。今度はしっかりと抱き返し、なだめるように優しく叩く。ぎこちなくても優しい手つき。
「……なあ、どうして優しくするんだ? そんなことをすれば、俺は椿を離せなくなる。それでもいいのか?」
椿は嫌がることなく、千紘を抱きしめた。その表情は、少しの諦めとそれを上回る慈愛に満ちていた。
抱きしめたままの状態で、ほんのかすかだが確かに椿は頷く。その様子を見えていないはずなのに、千紘はほっと息を吐く。許されたと分かって、彼の目から涙が止まらなくなった。
椿は、自分よりもはるかに壊れている千紘を、1人にさせられないと同情した。徐々に精神が回復していく中で、千紘の本音を聞いているうちに、自分が傍にいないと壊れてしまうと思った。必要とされているのならば、一緒にいるべきだと考えた。
完全にストックホルム症候群に陥っていたが、それを指摘する者は誰もいなかった。しかし椿は、きちんと自覚していた。この関係は歪で、おかしいと言われる類のものだと分かっていながら、椿は千紘の傍にいようと決めた。
それでも千紘の傍にいると決めたのは、愛していると言ってくれたからだ。
千歳とは、気持ちを通じ合わせることが出来なかった。その苦しみを、椿は痛いほど分かっている。分かっているからこそ、千紘に同じ苦しみをさせたくなかった。
愛するのを疲れてしまい、愛してくれる人に依存したくなった。
千紘に対して、元々言えば親愛であれ好感度が高かった。ここまで愛してくれるなら自分も返さなくてはと、義務のようにも感じていた。
♢♢♢
そこから、人形のように生気のなかった椿は、急激に回復していく。喜怒哀楽を取り戻し、少しずつ会話も増えた。
「千紘さん、ご飯が出来ました」
「ああ、分かった」
小屋ではあるが千紘が用意したので、最新の設備が揃っている。
椿は母親に仕込まれた料理スキルを駆使して、簡単な料理を作るようになった。
椿が作ったのなら、どんなゲテモノでも完食できる自信のあった千紘は、あまりの美味しさに舌鼓を打つ。
千歳と椿が同居している間に何日か千紘が泊まっていたが、その頃は千歳の提案で外食や出前をとっていたので、しっかりとした手料理を食べるのは初めてだった。
「こんなにも美味しい料理を食べられるなんて、俺は幸せ者だな」
千紘は、いつでも椿の作った料理を大絶賛した。お世辞ではなく、毎回本気で言ってくれていると椿には伝わった。
だから、とうとう耐えきれずに泣いてしまったのも、不思議なことではなかった。
「つ、椿? 俺が何かしたのか?」
突然涙を流し始めた椿に、何かしてしまっただろうかと千紘は慌てた。嫌われたら、立ち直れないほどのダメージとなる。
「わ、悪いところがあったら直すから。泣かないでくれ」
おろおろと行き場のない手をさ迷わせている千紘に、椿は首を振って答えた。
「ち、違います」
「違う?」
「悲しくて泣いているわけじゃなく、嬉しいんです」
千歳と暮らしていた際、ここまで褒められなかった。全て当たり前の事として、感謝された回数も片手でおさまるぐらい。
椿は好きで行っていたので、当時は辛いなどみじんも感じていなかった。
しかし千紘に褒められて、人に感謝されるのがこんなにも嬉しいものだと初めて知った。
そう、たどたどしく説明すると、千紘の眉間にしわが寄る。
「まさか、あいつがそんなに馬鹿だったなんて……」
険しい表情のまま重々しく吐き出しているので、椿は涙を拭って無理やり笑う。
「千歳は悪くないです。俺が勝手にやったことですから」
「例えそうだとしても、千歳は感謝するのを忘れるべきじゃなかった。人にしてもらえるのが当たり前だなんて、そんなのは傲慢だ」
まるで自分の事のように怒る千紘に、椿は笑って手を伸ばす。そして指を絡めた。
今度は無理やりではなく、自然な笑いに近い。
「いいんです。こうやって、千紘さんに褒めてもらえましたから。ありがとうございます」
「俺は本当に美味いから褒めただけで、お礼を言うのはこっちの方だ。……椿は甘いものが好きだよな。今度取り寄せる」
「そ、そんな気を遣わなくても」
「俺がしたい。椿をたくさん喜ばせたいんだ。いつものお礼として受け取ってほしい」
「は、はい」
はにかむ椿を視界に入れながら、千紘はもう絶対に千歳には渡すわけにいかないと決意した。
千歳が椿を探しているとしても。
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