第32話 変わる距離
千紘が連れていった先は、透き通った青い湖が見られる場所だった。近くに小屋があり、そこに滞在している。
昔、小さい椿が行ってみたいと話した場所。天気のいい日は、美しい湖の光景が見える。濃い青色。幻想的な風景に、椿は1人で車椅子を使い外を眺めるようになった。
ぼんやりと日が暮れるまで、湖を眺めている椿は、目を離したら消えそうなほど儚い雰囲気である。
千紘は溜まっていた仕事を片付けながら、そんな椿の姿を見るのが好きだった。好きではあるが、ふっと消えないように監視もしておきたかった。
「外に出るなら、ブランケットをかけろって言っただろ。風邪ひいたら心配する」
ずっと外に入れば、体が冷える気温。何度注意しても、椿はブランケットをかけるのを忘れた。それを持っていくのが、千紘の役目になっていた。
真っ赤なブランケットをかけながら、千紘は小言を零すが本気で言ってはいなかった。むしろ世話を出来る喜びを感じて、献身的に動いていた。
「なあ、椿。俺は、ずっと千歳が羨ましかった。椿と同い年で、何もしなくても傍にいられるのをずるいと思っていた」
椿の隣に腰かけて、千紘は同じように湖を眺めながら話を始める。椿はちらりと視線を向けたが、それが交わることは無かった。また湖に視線を戻したので、2人は顔を合わせずに話が続く。
「千歳のことも弟として好きだったから、俺は兄で譲らなきゃいけないと我慢していた。それに、椿は俺に憧れているから、千歳には負けないほど好かれていると思っていた。……間違いだったけどな」
千紘は頭を傾けて、椿の膝に乗せた。
「俺がどんなに特別扱いをしても、椿は結局千歳を選んだ。ただ近くにいたから、同い年だったから。千歳に対して、椿が特別な感情を向けるたびにぐちゃぐちゃに壊してやりたかったよ」
体重をかけて寄りかかると目を閉じた千紘は、なおも話を続ける。
「婚約するって聞いた時は、どうして千歳なんだって腸煮えくり返ったよ。千歳は椿をなんとも思ってない。俺の方が好きなのに、どうして。千歳じゃなくて、俺でも良かっただろう。俺なら椿を愛せる。大事にするのに、どうして駄目なんだ」
これ以上は、怒りから大きな声を出してしまう。椿を怯えさせたくはないと我慢する。
「千歳からなら奪える。あいつは俺に嫌われたくないから、俺の嫌がることは本能的に察して避ける。でも他は駄目だ。頼る相手を作るな。気持ちを傾けるな。……だから排除した。椿がこうなってしまうと分かっていても」
千紘が懺悔をしていると、頭をぎこちなく撫でられる感触がした。
ここにいるのは椿と千紘だけ。誰が撫でているのか、消去法で簡単に導きだされた。
しかし千紘は信じられずに固まる。その手が誰か確かめたい。そんな誘惑に駆られたが、見ようとすれば止めてしまうかもしれないと動けなかった。
そのため、膝に頬をすり寄せるだけにとどめる。
静かな空間で、千紘はありえないと分かっていても、許されたような気分になった。
♢♢♢
それから、椿は車椅子なしで歩いて移動するようになった。筋力が落ちたせいで遠くまでは行けないが、行く場所と言えば湖しかないので十分だった。
自由に歩けるようになってから、千紘は椿がそのままどこか行ってしまうのではないかと気が気でなかった。
できる限り傍にいて見張っていても、確実ではない。信用出来る部下に見張らせていても、安心できるはずがなかった。
「……悪い。こんなことをするべきじゃないと分かっている。でも、心配でたまらないんだ」
そして千紘がどうしたかというと、椿がどこにも行かないように拘束したのだ。小屋の中は自由に移動できるように、チェーンで調節した。
自分が傍にいる時は外して、一緒に湖を眺める。その時でさえも、椿の手を握り決して離そうとはしない。
「……どんどん椿の自由を奪って、それでも安心できない。俺は、椿と会っちゃいけなかったんだろうな。椿のためには」
千紘は懺悔を重ねるが、行動を変えるつもりは全くなかった。どんなに拘束をしても、絶対に動けない状態にしても、彼の心配は尽きない。
「それでも椿と会った。会わなかった頃には、もう戻れないんだ。椿がいないと、上手く息もできない。愛している。椿を愛しているんだ」
はらはらと涙を流しながら、千紘は椿を抱きしめる。そして目を閉じれば、そっと頭を撫でられる。ぎこちなさは相変わらずだが、千紘にとっては幸福な時間である。
椿は何も言わない。何が起ころうと、声を出すことがなかった。
最初はそれでいいと思っていた千紘だが、段々と欲が出てくる。
椿の声が聞きたい。罵声でもいいから何か話してほしい。
その欲はどんどん大きくなっていき、千紘は我慢できなくなった。
「なあ、椿。ここから解放すると言えば、俺と話してくれるか? 許してくれなくてもいい。ただ、話がしたい。……いや、駄目だ。解放なんて……」
抱きしめながら言われた椿は、千紘をじっと見つめる。そして、ゆっくりと口を開いた。
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