第31話 2人の生活
太一の件があったせいで、椿の精神が少しだけ壊れてしまった。
どこかで信じていたものが、ただのまやかしだと分かり心が耐えられなくなった。
逃げる気力を失った椿は、一日中ベッドの上でぼんやりと過ごしている。ほとんど動かず、最低限の行動しかしない。
廃人のようになってしまった椿を、千紘は甲斐甲斐しく世話していた。
千紘はこの状態になるのを、ずっと望んでいた。自分が世話をしないと、生活もろくに出来ない。一生自分から離れられない存在。
手ずから食事を与えながら、千紘はうっとりと椿の姿を眺める。
「椿は本当に可愛いな」
頬に手を伸ばしても拒否されない。なんの温度もない瞳で見返してくるだけ。
頬を何度か撫でると、親指を半開きになった口の中に突っ込む。
それでも椿は反応することなく、されるがままだった。
「ははっ」
千紘は指を引き抜くと、唾液で濡れたそれをためらいなく舐める。
「甘いな」
恍惚とした表情を浮かべる千紘を、椿はじっと見ていた。
♢♢♢
椿にはもう逃げる意思がないと分かり、千紘は外に出ても平気かどうか悩んでいた。
ずっと閉じ込めておきたいが、ホテルに滞在し続けるわけにもいかない。
椿に対して誰も探していないと言ったが、実際には捜索は行われていた。しかし表立ってはされていないので、ここまで辿り着けはしないと千紘はタカをくくっていた。
ただ、同じ場所にとどまっていると、情報はじわじわと広がっていく。従業員などにお金を握らせていても、人の口に戸はたてられない。
バレるリスクを少なくするために、拠点は変えるべきだと千紘は考えた。
椿と一緒に行きたい場所だったら、候補はたくさん浮かぶ。しかし、考えなしには決められない。椿を自分だけの存在にしておくには、慎重すぎるぐらいでちょうどいい。千紘は愚かな真似は、絶対にしない自信があった。
「逆に日本にいた方が目くらましになるか?」
海外で生活するのもいいが、千紘にも仕事がある。今はリモートでしのいでいられても、いつまでも持つものではない。
それなら日本にいた方が楽だし、不測の事態が起こっても対応しやすいと考えた。
「なあ椿、日本に戻りたいか?」
千紘は椿の隣に座り問いかける。しかし返事は無い。
答えを望んでいないから、気にすることなく彼の体を抱き寄せた。
「日本に帰って落ち着いたら、どこかに旅行するか。ああ、でも椿が18歳になるまでは待っていた方がいいな。籍を入れたら、後は好きなところに連れていくから、それまで我慢していてくれ。してくれるよな。椿には俺だけいればいいよな」
くつくつと笑う千紘は、伸びた椿の髪を指ですく。かけたパーマはとれたので、あごぐらいまでの長さの髪は指通りがいい。髪の手入れに時間をかけている千紘にとっては、満足のいく出来栄えだった。
「椿、絶対に俺から離れないでくれ。お願いだ。……そのためなら、なんだってするから」
髪をすく手を止め、千紘はふと真顔になる。そして椿に幼子のようにくっつきながら、必死に頼み始めた。
知略をめぐらせて椿をとらえたとは思えないほど、それは純粋な願いだった。
しがみつく千紘の背中に、椿の腕がゆっくりと伸ばされた。しかし結局、その手が抱きしめ返すことはなかった。
♢♢♢
千紘はツテを使い、プライベートジェットに乗って、椿と共に日本へ帰ってきた。
椿は歩くこともままならないので、車椅子を使っての移動である。わざわざ最新式を買って、千紘が介助していた。
日本へと戻ってきたのに関わらず、椿は全く嬉しそうな様子を見せない。ただぼんやりと、移りゆく景色を眺めていた。
その隣で千紘は、辺りを見回しながら警戒する。こういう移動の時間が一番危ない。
椿と一緒に戻るのを知られないように気を遣ったが、もしものことがある。椿を狙って誰か現れた場合、すぐにでも雇ったボディーガードに足止めさせるつもりだった。
「いい天気で良かったな。これからしばらく移動になるけど、気分は悪くないか? 辛い時はいつでも合図してくれよ。遠慮しなくていいから」
甲斐甲斐しく世話をしながら、車に乗り込む。椿はずっとぼんやりしたまま、ただ窓の外を見ていた。
「これから、どこに行くと思う?」
千紘は椿と共に、後部座席に座った。運転手は彼の言うことならなんでも聞き、裏切らない、余計なことは口を出さないという人を選んだ。
こうして椿と移動している様子も、腹の中では思うところがあるかもしれないが、存在を消していた。
椿のことを見ると、千紘の機嫌が悪くなるのを知っているので、絶対に視界に入れないように気をつけている。その徹底ぶりも、千紘が気に入る要因だった。
千紘は、椿と2人きりのように話を続ける。
「ずっと前に、椿が行きたがっていたところがあっただろう。本当に小さかった頃。俺の後を、ひよこみたいにくっついて歩いていた頃だ。その時に、いつか行きたいって言っていたよな」
椿の髪を撫でながら、千紘はとろけるような笑みを向けた。
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