第28話 逃げた先で
あてもなく走った椿は、いつしか学園の敷地からも抜けていた。山道を進む彼の行く先を、塞ぐものは何もなかった。
周りには木しかなく、時間も遅いので暗い。月明かりだけなので、ほとんど闇である。虫や鳥が鳴く音しか聞こえず、いつもであれば恐怖を感じていただろう。
しかし椿の脳内には、ただ歩くだけしか頭になかった。部屋には帰りたくない。帰って、西井がいたら椿は自分が何をしでかすか分からなかった。もしかしたら殴ってしまうかもしれない。
危害を加えたら、きっと太一は怒る。抱きしめ合っていたのだ。西井と恋人になったのだろうと、椿は考えた。それなら自分は邪魔者だ。椿が彼をどうにかしたら、向こうの味方をするのが容易に想像できた。
帰りたくないではなく、帰れないのだと気づき、椿はもう駄目になった。気を張っていた分、呆気なく折れた。
「ひっく……ふっ、うっ……」
涙を流しながら、足取りがどんどん遅くなっていく。ゴシゴシと腕で拭っているせいで、危なっかしい。
暗い夜道の中で、そうやって歩いていれば足元が疎かになる。案の定、木の根に引っかかり勢いをつけて転んだ。
全く受身を取れず、椿は顔から地面に突っ込んだ。まだ柔らかい場所だったから良かったものの、下手すれば大惨事だった。
大惨事は免れたが、当然痛みはある。体も心も痛くて、椿は起き上がれないまま泣いていた。
消えてしまいたい。本気でそう思った。
存在していれば、辛いことしか起こらない。消えた方が、ずっとずっと楽だと。
「もう、やだ……きえたい」
「それなら、俺が消そうか?」
椿は都合のいい幻聴だと、その声が聞こえてきても反応しなかった。こんな場所に人がいるはずがない。手を差し伸べてくれる人など誰もいないと絶望していた。
全く動かず泣き続ける椿に、声をかけた人物は苦笑する。無視されたのではなく、自分を認識されていないのだとすぐに分かった。無視だったら許さないところだった。
それなら認識してもらうまでだと、しゃがんで優しく椿を顔をあげさせる。その手つきが自然だったので、椿が抵抗することはなかった。
視界がぼやけているため、椿は誰だか判別できなかった。ずびっと鼻を鳴らし、ぼんやりと彼を見つめる。涙と鼻水まみれの顔。拭う余裕もなかった。
「だれ?」
舌足らずな問いかけに、クスッと耐えきれず笑いがこぼれる。椿に対する愛おしさで胸を溢れさせながら、顔を近づけた。
「言っただろ。助けるって」
くすくすと笑い続け、そして軽く椿の唇にキスを落とす。すぐに離れたが、キスに変わりなかった。
思考回路が上手く機能していない椿は、まだ相手が誰だかも分かっていないのに、自分を助けに来たという言葉だけで味方だと判断する。キスされたのも、たわむれだと深く受け止めなかった。
「つれてって」
それどころか、味方が現れた嬉しさで自分から手を伸ばした。おかしくて、ふふっと無邪気に笑っている。まるで子供が抱っこを要求するかのようなしぐさに、男の口角が上がった。
上背のある椿を優しく起こし、そして抱っこしてあげた。軽々とまではいかないが、落としそうな心配がないぐらいの安定感はあった。
「それじゃあ行くか。いい子いい子。早く泣きやめ」
ぽんぽんと背中を軽く叩かれ、椿は返事の代わりに相手の首に腕を回した。しがみついた椿は、安心したように息を吐く。
「……ん」
強ばっていた体から力が抜けて、意識を失うみたいに眠りについた。これまでの疲労が、一気に襲いかかったせいだ。様々な事柄から逃避したとも言える。
すうすうと穏やかな寝息を立てる椿。その赤くなった目元をさすり、穏やかに男は微笑んだ。
やっと戻ってきた。腕にかかる重みが、椿を取り戻したと証明しているみたいで、嬉しくてたまらなかった。
椿が目を覚ます前に、暖かい場所に移動しなくては。風邪をひいたら大変だ。
そう考えた男は、さっさとここから立ち去ることにする。
しかしその前に、遠くに見える美間坂学園へ視線を向けた。
「それじゃあ、椿は返してもらうから」
一方的に宣言すると、椿が楽な体勢になるために抱え直して、森の中を降りていく。
すぐにその姿は、闇に紛れて見えなくなった。
♢♢♢
「……椿?」
それからしばらくして、椿を探す太一が現れた。
あの後すぐに椿を追いかけようとしたが、西井が引き止めたせいで、なだめるのに時間がかかった。タイムロスはあったけど、行く場所がないから探せば見つかるはずだと、太一は軽く考えていた。
西井にばかりかけていた時間を、たっぷり椿に使おう。誤解もとけば一石二鳥だ。
そう考えながら、森の中を探していた。
しかし呼びかけても、どこに行っても、椿の姿は見つからなかった。
「椿っ、返事してくれ!」
さすがに太一も焦りを感じ始め、大きな声で名前を呼ぶ。しかし返ってくるのは、木々が風邪で揺れる音や鳥の鳴き声だけ。
「……椿?」
太一は、とんでもないことを仕出かしたと自覚する。判断ミスを悔やんだが、すでに手遅れだった。
結局椿は見つからず、姿を消してしまった。
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