第19話 逃避
「急にそんなことを言われても困ります。一体どういうことですか。椿、何があったの?」
母親の驚き戸惑う姿を見て、椿は申し訳なく思っていた。しかし、もう決めたことだと自分を奮い立たせる。
「この人達が今言ったように、しばらく遠くへ行こうと思っている」
この人達と言いながら、椿は隣に座る烏森と小林を指す。彼等は、椿のためにわざわざ家まで来てくれた。
家に呼ぶ前に、椿は母親にアルバイト先でお世話になっている人だと伝えていた。そのおかげで悪い感情は抱いていなかったが、それでも困惑してしまう。
「どうして遠くに行こうなんて……千歳君はこのことを知っているの?」
千歳の名前が出るとは予想していたが、椿は過敏なぐらいに反応してしまう。顔がひきつった彼の表情に、母親は何かを察する。
「何があったのか、もっと詳しく話してちょうだい。隠さないで。椿がどんな話をしたとしても、私は受け止めるつもりだから」
本当に大丈夫なのかと椿は怖かった。戸惑ってなかなか話し出せないところを、小林が頷いて後押しする。その動きを見て、椿は肩の力が抜けた。
「……ごめん。ずっと言い出せなかったけど、千歳とは上手くいってない。たぶん、もうすぐ婚約破棄するって向こうから言われると思う」
「え、どういうことなの。ちょっと話が急すぎるわ。千歳君と仲良しだって、ずっと楽しそうに話してくれたわよね?」
母親が驚くのも無理はなく、椿は騙していた後ろめたさから目をそらした。それでも、きちんと話しておかなくてはと拳を握る。
「顔合わせした時に、俺と結婚するのはありえないと言われた」
あの時を思い出して、椿は胸を服の上から掴む。一番最初に胸を痛ませた出来事。
「好きになれるように努力するって言ってくれたから、それでもいいと思った。いつか、いい関係になれるって期待した。でも千歳は、高校に入ってから女子とばかり一緒にいるようになって、俺をないがしろにして……千紘さんが帰ってきてからは、千紘さんにばかりべったりで俺を邪険にしだした」
「……椿」
「言えなかったのは、心配かけたくなかったから。ごめん。後からこんなこと言って、困らせているのは分かっている。一度隠したら、もう話せなくなってた」
自分以上に苦しげな顔をしている母親に、椿はもっと早く相談するべきだったと後悔した。相談していれば、違った結末になっていたかもしれない。しかし過去は変えられない。すでに千歳との関係は壊れた。
「……消えろって言われて、俺は千歳に会うのが怖くなった。今度会った時、また蔑まれた目を向けられたら……想像しただけで耐えられない。だから、逃げたい。千歳のいない所に行きたい」
椿は深く頭を下げた。母親が認めなくても、どちらにしても実行するつもりだ。そのために、烏森が手配してくれている。
「逃げるとしても、ちゃんと高校は卒業したい。烏森さんの知り合いに学校を経営している人がいるらしくて、事情を話したら試験に合格したら編入を認めてくれる。もう、試験を受けて合格したんだ。勝手に話を進めて悪かったけど、それぐらい本気だってことを分かってほしい」
母親は椿の覚悟に、もう何を言っても無駄だと悟る。千歳との不仲を話さなかった椿も悪いが、様子がおかしいのに気づくべきだった。そんな不甲斐ない親に、止める権利はないと諦めた。
「そこは遠いの?」
「隣の県だけど山奥にある。俺や千歳の情報も知られていないところ。逃げるにはもってこいだよね」
ははっと笑う椿だったが、乾いた笑いしかこぼれなかった。痛ましい空気が場を包み、言わなければ良かったと椿は後悔する。咳払いをしてごまかした。
「本当なら千歳とのこととか、自分で処理しなきゃ駄目なんだけど、消えてくれって言われたから……」
「それは私達に任せなさい。これぐらいしか出来ないけど、あなたが苦しまないようにするから。今まで悲しい思いをさせてごめんなさい。気づいてあげられなくてごめんなさい」
母親は椿と同じように頭を下げる。親に頭を下げさせてしまったことに、椿は申し訳なさで唇を噛む。
「頭をあげて。後のことを任せてごめん。千歳と鉢合わせしたくないから、ここに帰ってくる機会は減るけど、ちゃんと連絡する。もう心配かけないように」
「落ち着いたらでいいわ。それで、いつから行くつもり?」
「準備が出来たらすぐにでも」
「そう」
寂しくなると思ったが、椿に罪悪感を抱かせないために口には出さなかった。もっと説得が難航する覚悟をしていた椿は、ほとんど受けいれられた様子に安心する。どちらかと言えば、納得して見送られたかった。
「お父さんには、私から話しておくわ。ちゃんと説得するから。椿は何も気にすることなく行きなさい」
「うん、ありがとう。迷惑かけてごめん」
「子供なんだから、たくさん迷惑かけなさい。隠されるよりずっといいわ。これだけは覚えておいて。私もお父さんも、椿が幸せになることを一番に望んでいるから。あなたが幸せになるための選択をして」
「……うん」
椿は涙で滲む視界の中で、それでも母親に対して笑いかけた。
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