第17話 疑惑


 千歳が、どうしてここに。

 さらにパニックになった椿。千紘が呼び出したとは、すぐに考えつかなかった。

 とにかく離してもらいたくて、必死に抵抗しているのに、千紘は好き勝手していた。千歳が声を出したのを聞いて、それでもなお止まることなく目を細めて、行為を楽しんでいる。


「何してるんだよっ」


 このキスを止めたのは、千歳だった。

 最初は呆然と立ち尽くしていたが、眉間にしわを寄せながら走ってきて、椿と千紘の体を無理やり引き剥がした。

 そして椿に対して叫ぶ。


 何をしていると言われても、椿には説明できなかった。そもそもしてきたのは千紘で、椿は被害者であった。

 しかし、千歳の目は椿が悪いと言っていた。揉めていたところからではなく、キスをした瞬間を目撃したのだろう。だから、椿が悪いと決めつけた。


 話も聞いてくれずに責めてくるのか。どこまでも自分に信用がないと、椿は胸が痛くてたまらなかった。


「千紘兄ちゃん。一体何があったの? どうして椿と……キスなんか」


 椿が答えないのに焦れた千歳は、質問の矛先を千紘に変えた。椿相手と比べると、しおらしく眉間のしわも消えていた。間近で態度の違いを見せつけられ、椿はショックで打ちのめされる。


 その様子を横目で見た千紘は、口角が上がらないように必死に耐えながら答えた。


「悪い。千歳と婚約しているとは分かっていたけど、椿が思い出にどうしてもって頼んでくるから。一回だけで終わらせるって言われて、断りきれなかった。千歳のことを考えたら、絶対に受け入れたら駄目だったよな。本当に悪かった」


 事実無根な話を、平気で口にする千紘が椿は恐ろしかった。最初から最後まで嘘で、椿はキスをしてほしいなんて頼んでいない。それなのに、後悔しているような雰囲気を出して話す姿は真に迫っていた。もし当事者でなければ、椿も騙されていたぐらい演技が上手かった。

 当然、千歳は騙された。そもそも、彼は千紘を疑っていなかった。そこでこのような話を聞けば、どんな反応をするのか。


「そんな。千紘兄ちゃんは全然悪くないじゃないか。頼まれて仕方なかったんだろう。……悪いのは、全部こいつだ」


 千歳は鋭い視線を椿に向けた。もう名前すらも呼んでいない。

 今まで見たことのない目を向けられて、椿は何かを言いたいのに、違うと説明したいのに声が出せなくなった。何を言ったところで、千歳は信じてくれないと悟ってしまった。


「見損なった。やっぱり千紘兄ちゃんに色目を使ってたんだな。最低だよ。婚約は破棄するから、お前なんかと結婚したくないし、顔も見たくない。殴られないうちに、とっとと俺の前から消えてくれ」


 千歳の握りしめた拳を、椿は見た。強く握りすぎて震えていた。

 本当に殴る気なのだ、自分を。その向こうで、千紘がニヤリと笑っているのも見えた。思い通りに事が進んで喜んでいる。


 言葉が出ない代わりに、千歳に手を伸ばす。信じて欲しいと、それだけしか頭になかった。


「触るな」


 しかしその手は、無情にも振り払われた。まるで椿が汚いものかのごとく、千歳は顔をしかめた。触れられるのすら、我慢ならないといった様子だ。


 椿は自分が、もっと千歳の中で大きな割合を占めていると勘違いしていた。現実を突きつけられて、いっそおかしくなった。

 こらえきれなかった笑いが、歪な声になって外に出ていく。


「なに、笑っているんだよ」

「いや」


 一度笑えば、あんなに出なかった声も楽に出せるようになった。しかし、椿はもう弁明をしようとはしなかった。

 この態度は予測していなかったのか、千紘も訝しげな表情を浮かべていた。それだけでも、椿はしてやったりな気分になる。


「千歳の気持ちはよく分かった。今まで俺のわがままに付き合わせてごめんな。無理させてごめん。言われた通り消えるよ」


 自分の体にむち打って、震える足を力が抜けそうな体を何とか動かして、椿は頭を下げた。そして千歳に対し、これが最後だと満面の笑顔を向けた。

 千歳の中に残る自分が、いいもので終わらせたかった。


「ありがとう。……だった」


 掠れて言葉にならなかった気持ち。聞こえないのが、自分と千歳の関係を表しているようだと、椿は自嘲気味に笑った。


 そのまま、振り返ることなく公園から立ち去った。もしかしたら、千歳が引き止めてくれるかもしれない期待を諦め悪く持っていたが、ただ彼を惨めにさせただけだった。


「……あーあ。ばかみたいだ」


 涙も鼻水も流して、椿は下を向いて歩く。どこに帰ればいいか分からず、あてどなく進んでいた。

 親を心配させたくなくて、家に帰るという選択肢はなかった。それに千歳の態度から、婚約が破棄されたと知られたくなかった。悲しませたくないし、腫れ物を触るような扱われ方をしたくない。そんな小さなプライドだけでも、守らないと壊れてしまいそうだった。


 どこにも居場所がない。

 椿はこの世界にひとりぼっちの気分になり、頭に良くない考えもよぎっていた。


「……東雲?」


 そんな椿に、話しかけた人物がいる。

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