第11話 千歳の兄
実は千歳には兄がいる。
顔合わせの時に現れなかったのは、彼がすでに社会人で忙しく、ちょうどその頃は海外に出張していたためだ。
名前は
もちろん椿も知っていて、幼少期は千歳と一緒に遊んでもらったぐらいの交流はあった。しかし千紘が社会人になってからは、ほとんど会っていなかった。千歳に会いに行った時に、ちょうど家にいれば挨拶を交わすぐらいの関係性。
それでも椿は密かに憧れていて、いつかあんなふうになれたらいいなと思っていた。千歳も兄という近さなので、椿以上にその気持ちが大きかった。
「そういえば、千紘兄ちゃんが帰ってくるんだって」
だから椿にそう知らせた時、千歳の声は嬉しさで溢れていた。
「千紘さんが? いつ?」
椿もその知らせに、テンションが上がる。千紘と会うのは何年ぶりだろうかと、すぐには思い出せないぐらいだった。
「一週間後。それで、俺達の婚約を祝いにここへ来たいって言っているらしいけど……どうする?」
どうすると聞いているが、千歳はまさか断らないだろうといった圧を少しだけ出していた。椿は特にそれに気づかず、千紘がここに来るのかと家を見渡していた。
きちんと掃除しているつもりだけど、千紘の目にはどう映るだろうか。どれだけやっても、完璧には程遠い。
「……うん、ぜひ来てくださいって答えておいて」
それでも来てくれるだけ嬉しいと、椿は予定の中に大掃除を入れながら頷いた。
♢♢♢
「よお、久しぶり。千歳、椿」
千紘を迎えに行くかという案もあったが、本人が直接車で向かうということになり、約束の時間ちょうどにインターホンが鳴らされた。
「久しぶり、千紘兄ちゃん」
玄関の前で待ち構えていた千歳が、光の速さかと思うぐらいのスピードで扉を開ける。その後ろから、椿も玄関に現れた。
「お久しぶりです。千紘さん」
「おー、元気そうでよかった。2人とも大きくなったな。特に椿。もうすぐ千歳を抜かすんじゃないか」
「ちょっと、千紘兄ちゃん。気にしてるんだから、そういうこと言わないでよ。ほら、早く中に入って」
「はいはい、悪かった。それじゃあ、お邪魔します」
千紘に対して、千歳は言動が幼くなる。甘えている証拠だ。気にしていた身長のことを言われて、頬を膨らませながら招き入れる。
椿は苦笑しながら、2人の後を追った。
「へー、綺麗にしているんだな」
中に入っての第一声に、椿は内心ガッツポーズをする。
大掃除を行って、天井から床までピカピカになるように磨き上げた。千歳も手伝おうとしたけど、戦力にならないので椿一人でやった。
そのため終わった後は、疲れて動けなくなったぐらいだ。それぐらい気合を入れていたから、褒められて凄く嬉しかった。
「だろ。さ、座って座って」
千歳は何も出迎える準備に関わっていないが、まるで家主のように振舞っている。
椿は少しだけモヤッとしたが、全て自分が勝手にしたことだからと我慢した。
それよりも、千紘のために美味しいコーヒーを淹れなくてはと、急いでキッチンに向かった。
今日のために、烏森に頼んで家でも美味しくコーヒーを淹れるコツを教えてもらっていた。お世話になった人に飲んでもらいたいと伝えれば、頑張ってくださいと椿を励ましながら特訓した。そのため、なんとか及第点をもらえた。
「お。コーヒーか」
「千紘さん。はい、待っていてください。すぐに淹れますから」
「いい香りだな。手際もいい」
「たくさん練習したので体が覚えました。あまり見ないでください。恥ずかしくて手元が狂いそうなので」
「俺のことは気にせずやってくれ」
「そう言われましても……」
椿は視線にやりづらさを感じながら、千紘がどこにも行かなさそうなので諦めて動く。こういう時は何を言ったところで、素直に聞いてくれないと経験で分かっていた。
千歳は何をしているのだと、気づかれないようにため息を吐いた。邪魔でもなんでもいいから、足止めしてほしかった。
「凄い美味いな。家で淹れたとは思えないぐらいだ」
「うぇえ、苦い。ミルクと砂糖ちょうだい。……まだ口の中苦い。こんなのよく千紘兄ちゃんは飲めるな。俺は無理。苦くてまずい。コーヒーなんか嫌いだよ」
「千歳は子供舌だな。……というか、椿がせっかく淹れてくれたんだから、まずいとか言うなよ」
「あ、えっと。ごめん」
「ううん、いいんだ。俺もコーヒーは苦手だから。ああ、そうだ。実はその時に」
そこで椿はカフェモカのことを話そうとしたが、遮るように千歳が千紘に抱きつく。
「なあ、千紘兄ちゃん。いつまで日本にいる予定なの? 今日泊まっていってよ。いっぱい話したいことがあるから。ねえいいよね」
「まったく甘えたなのは変わらないな。しばらくこっちにいるつもりだけど……迷惑じゃないか?」
最後は椿に向かって問いかけられたのだが、彼が駄目だと言うはずがなかった。千歳が喜んでくれるのなら、何でもするつもりなのだ。
「ええ。ぜひ、ここに滞在してください」
そんな椿を、千紘は意味ありげに見た。
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