第11話 千歳の兄


 実は千歳には兄がいる。

 顔合わせの時に現れなかったのは、彼がすでに社会人で忙しく、ちょうどその頃は海外に出張していたためだ。

 名前は千紘ちひろ、年齢は26歳。千歳より背が高く、野性味のある美形。どちらかというと近寄りがたさのある見た目だ。まだ若いのにも関わらず、会社を経営している凄腕の人物である。

 もちろん椿も知っていて、幼少期は千歳と一緒に遊んでもらったぐらいの交流はあった。しかし千紘が社会人になってからは、ほとんど会っていなかった。千歳に会いに行った時に、ちょうど家にいれば挨拶を交わすぐらいの関係性。

 それでも椿は密かに憧れていて、いつかあんなふうになれたらいいなと思っていた。千歳も兄という近さなので、椿以上にその気持ちが大きかった。



「そういえば、千紘兄ちゃんが帰ってくるんだって」


 だから椿にそう知らせた時、千歳の声は嬉しさで溢れていた。


「千紘さんが? いつ?」


 椿もその知らせに、テンションが上がる。千紘と会うのは何年ぶりだろうかと、すぐには思い出せないぐらいだった。


「一週間後。それで、俺達の婚約を祝いにここへ来たいって言っているらしいけど……どうする?」


 どうすると聞いているが、千歳はまさか断らないだろうといった圧を少しだけ出していた。椿は特にそれに気づかず、千紘がここに来るのかと家を見渡していた。

 きちんと掃除しているつもりだけど、千紘の目にはどう映るだろうか。どれだけやっても、完璧には程遠い。


「……うん、ぜひ来てくださいって答えておいて」


 それでも来てくれるだけ嬉しいと、椿は予定の中に大掃除を入れながら頷いた。


 ♢♢♢


「よお、久しぶり。千歳、椿」


 千紘を迎えに行くかという案もあったが、本人が直接車で向かうということになり、約束の時間ちょうどにインターホンが鳴らされた。


「久しぶり、千紘兄ちゃん」


 玄関の前で待ち構えていた千歳が、光の速さかと思うぐらいのスピードで扉を開ける。その後ろから、椿も玄関に現れた。


「お久しぶりです。千紘さん」

「おー、元気そうでよかった。2人とも大きくなったな。特に椿。もうすぐ千歳を抜かすんじゃないか」

「ちょっと、千紘兄ちゃん。気にしてるんだから、そういうこと言わないでよ。ほら、早く中に入って」

「はいはい、悪かった。それじゃあ、お邪魔します」


 千紘に対して、千歳は言動が幼くなる。甘えている証拠だ。気にしていた身長のことを言われて、頬を膨らませながら招き入れる。

 椿は苦笑しながら、2人の後を追った。


「へー、綺麗にしているんだな」


 中に入っての第一声に、椿は内心ガッツポーズをする。

 大掃除を行って、天井から床までピカピカになるように磨き上げた。千歳も手伝おうとしたけど、戦力にならないので椿一人でやった。

 そのため終わった後は、疲れて動けなくなったぐらいだ。それぐらい気合を入れていたから、褒められて凄く嬉しかった。


「だろ。さ、座って座って」


 千歳は何も出迎える準備に関わっていないが、まるで家主のように振舞っている。

 椿は少しだけモヤッとしたが、全て自分が勝手にしたことだからと我慢した。

 それよりも、千紘のために美味しいコーヒーを淹れなくてはと、急いでキッチンに向かった。


 今日のために、烏森に頼んで家でも美味しくコーヒーを淹れるコツを教えてもらっていた。お世話になった人に飲んでもらいたいと伝えれば、頑張ってくださいと椿を励ましながら特訓した。そのため、なんとか及第点をもらえた。


「お。コーヒーか」

「千紘さん。はい、待っていてください。すぐに淹れますから」

「いい香りだな。手際もいい」

「たくさん練習したので体が覚えました。あまり見ないでください。恥ずかしくて手元が狂いそうなので」

「俺のことは気にせずやってくれ」

「そう言われましても……」


 椿は視線にやりづらさを感じながら、千紘がどこにも行かなさそうなので諦めて動く。こういう時は何を言ったところで、素直に聞いてくれないと経験で分かっていた。

 千歳は何をしているのだと、気づかれないようにため息を吐いた。邪魔でもなんでもいいから、足止めしてほしかった。


「凄い美味いな。家で淹れたとは思えないぐらいだ」

「うぇえ、苦い。ミルクと砂糖ちょうだい。……まだ口の中苦い。こんなのよく千紘兄ちゃんは飲めるな。俺は無理。苦くてまずい。コーヒーなんか嫌いだよ」

「千歳は子供舌だな。……というか、椿がせっかく淹れてくれたんだから、まずいとか言うなよ」

「あ、えっと。ごめん」

「ううん、いいんだ。俺もコーヒーは苦手だから。ああ、そうだ。実はその時に」


 そこで椿はカフェモカのことを話そうとしたが、遮るように千歳が千紘に抱きつく。


「なあ、千紘兄ちゃん。いつまで日本にいる予定なの? 今日泊まっていってよ。いっぱい話したいことがあるから。ねえいいよね」

「まったく甘えたなのは変わらないな。しばらくこっちにいるつもりだけど……迷惑じゃないか?」


 最後は椿に向かって問いかけられたのだが、彼が駄目だと言うはずがなかった。千歳が喜んでくれるのなら、何でもするつもりなのだ。


「ええ。ぜひ、ここに滞在してください」


 そんな椿を、千紘は意味ありげに見た。

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