第7話 広がる亀裂


 椿が家に帰ると、まだ千歳はいなかった。

 連絡をしてきたが、心配で帰ってきたりはしなかったらしい。そういうところだと、椿は力なく笑った。


 絆創膏のおかげで、帰り道は何とか平気だった。家に入ってすぐに消毒をし、またあのお店に行かなくてはと考える。

 椿の中で、楽しみな予定ができた。



「ただいま」


 それから千歳が帰ってきたのは、夕方の外が暗くなった頃だった。挨拶をする声色は普通で、後ろめたさなどみじんもない。

 リビングで夕飯の準備をしていた椿は、いつもしている出迎えを止めた。

 そのまま待っていると、千歳が部屋に入ってきた。


「おかえり」


 時間が経ったおかげで、穏やかな気持ちになっていた。怒っている様子のない椿を見て、千歳は大丈夫だと勘違いする。


「もう体調は平気なの? 何回か電話したけど、出なかったから心配したよ」

「ごめん。さっき起きたばかりだから、スマホを見ていなかった。ごめん。体調は、もう平気だから」

「それなら仕方ないね。元気になって良かった」


 椿の嘘にも気づかず、千歳はへらっと笑う。


「今日の夕飯何?」

「オムライス」

「本当に? やった。それじゃあ、すぐに手洗ってくる」


 そのまま洗面所に行った彼の姿を、視線で追いながら椿は口角をあげる。

 まだ心配をする言葉をかけてもらえた。少しは気にしてもらえた。

 そんなささいなことで、彼は喜んだ。

 玉ねぎのみじん切りをしているせいで刺激されて、その目からは涙が出た。ホロホロとこぼれる涙が食材につかないように、腕で拭ったのを千歳は知らない。戻ってきた時に目が赤いことについても、ただ玉ねぎのせいだとしか考えなかった。

 椿が食べたオムライスは塩辛い気がした。それは彼の気のせいで、精神から来るものだった。

 喫茶店のおかげで上向いた心は、すぐに元に戻っていた。



「今日はどこに行ったの?」


 食事も終わりまどろんでいる中で、椿はなんてことのないように尋ねた。

 その瞬間、千歳の肩が小さく跳ねる。本来ならば椿と出かける予定だったのに、女子と遊んだ後ろめたさを思い出した。

 やはり怒っているのかと顔色をうかがったが、椿は特に変わりない。ただの世間話かと、千歳は深く考えなかった。


「えっと、1人が観たいって言ってた映画観て、ファミレスでご飯食べて、その後はボーリングとカラオケしたんだ」

「そっか。楽しかった?」

「うん。椿も体調が悪くなければ楽しめたよ」「そうだな、残念。次の機会を待つよ」


 椿は飲んでいたカップに口をつける。しかし、唇を湿らせただけだった。

 彼は、千歳が2人きりで出かけるのをやり直そうと言うのを、どこかで待っていた。だからこそ、話題にも出した。

 ないがしろにした事実に、千歳が反省するのを期待した。


「そうだね。みんなで遊ぶのは楽しいし。椿も、もっと他の人と遊んでもいいんだからね」

「……あー、うん。そうする」


 しかし椿と千歳の考えは、どこまでも噛み合わなかった。欲しかった答えをもらえず、椿は顔を隠すようにカップを傾ける。

 観たかった映画は、今日で公開終了だった。それを先ほど知って、円盤化や動画サイトで配信されたとしても、もう二度と観ることはないと椿は決めていた。

 それも、千歳は知らない。



 ♢♢♢



 あの日着ていた服も靴も、全て処分した。買ったばかりでもったいなさはあったが、それよりも見ると苦い思い出がよぎって、身につけるのが苦痛だった。着た瞬間に体調が悪くなるから、捨ててしまった方がいっそ楽だと考えた結果だ。

 千歳に対する感情は、あんなことがあっても無くならない。無くなってしまえば楽なのに、好きな気持ちをコントロール出来なかった。恋とはそういうものだと諦めている。


 それに、いくら千歳に気持ちがまだ無かったとしても、成人したら結婚することは決まっている。今はまだ婚約者だが、結婚して生活を始めたら、千歳の気持ちも変わるはずだと椿は考えた。跡取りとして、子供も期待される。そうなれば、千歳も逃げ続けられなくなる。

 追い詰めたくはないが、こんなずるい考えも椿にはあった。


 少し冷静になるために、椿は千歳と距離を置くことにした。別に別居を始めるつもりではない。そんなことをすれば、両家を巻き込んで騒ぎになるのは目に見えていた。

 それならどう距離を置くのかというと、とにかく千歳と過ごす時間を減らす。学校は元々減っていたので、家にいる時間を減らすつもりだった。

 学校にも慣れ、家事も効率的に行えるようになったちょうどいいタイミング。どうやって減らすかは、前々から決めていた。


 アルバイトである。やりたいとは思っていたので、全く抵抗なかった。

 問題は何をするかだった。コンビニやファミレスなど求人雑誌を眺めていたが、これというものが見つからない。

 アルバイトに重きを置きすぎても、学業やその他もろもろの面で影響が出てくる。それは避けたかった。家からも出来れば近い方がいい。

 選り好みしなければすぐに見つかっただろうが、いい条件をと選別していたら候補が無くなってしまった。

 そのため、今のところ椿はまだアルバイトが出来ていない。

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