第3話 ずれていく


 千歳は、椿を好きになれるように努力をすると言ったが、全くその気配が見られなかった。

 邪険に扱っているわけではない。ただ、幼なじみとしての距離感から縮まらないのだ。

 婚約しているのは発表済みのため、外では椿を婚約者として扱う。冷やかされても気にした様子はなく、むしろ椿を自慢したりもする。


「そうなの、俺の婚約者。羨ましいでしょ」


 そう言って肩を引き寄せられるたびに、椿の心拍数は上がった。婚約者だと紹介されるのは、嬉しくてたまらなかった。

 ただ、言い方を変えればそれだけだった。関係が進むことはなく、キスをすることはおろか家の中では最低限の接触しかない。

 話はする。一緒に食卓を囲んだり、テレビを見てぼんやりと過ごしたりもする。

 しかし、それは別に恋人でなくても、友人だとしてもありえる距離感だった。


 椿も高校生になり、そういう触れ合いがあるのではないかと期待を持っていた。好きになる努力をすると言ってくれたから、徐々にステップを踏んでいくのではないかと、一緒に過ごしている間ドキドキしていた。

 触れ合いそうな指。ふとした時に絡む視線。椿は、千歳からのアクションを待っていた。自身から動こうとしなかったのは、気持ちが相手にない状態で無理やりしたくなかったからだ。


 しかし月日が経つにつれて、千歳は自分を好きになろうとしてくれているのか、疑問が湧き出した。

 その頃、千歳はクラスメイトとよく遊ぶようになった。放課後、カラオケやボーリングなどに行き、夜遅くまで帰ってこない日が増えた。

 仲のいいグループが違ったため、椿がそれに同行することはなかった。友人と遊ぶのは普通で、それを制限して束縛するのが嫌で何も言わなかったが、女子と距離が近いのは気になっていた。

 傍にはべらせ、こそこそと内緒話をしたり、意味ありげに視線を交わしたり。まるで恋人のような様子に、遠くから眺めているだけで胸が痛んだ。


 もしかして、その子を好きになってしまうのではないか。

 元々、女性と結婚すると考えていた千歳は、恋人にするのも恋をするのも女性が相手になる可能性が高い。

 婚約をしているから、まさか裏切らないはずだと心の中で思っていても、心配は絶えなかった。

 誰かに相談したかったが、できる相手もいない。親には、仲が悪いと思われたくなくて、絶対に話せなかった。


 しかし、どんどん椿の中でモヤモヤが溜まっていって、彼はついに耐えられなくなった。

 それでも千歳に直談判しに行くわけではなく、誰もいない屋上に逃げたのが彼らしかった。

 直接不満を突きつけて、嫌われるのが怖くて本人には言えなかったのだ。


「……どうして」


 屋上のフェンスに寄りかかり、椿は空を見る。美しい青の中を、ゆっくりと雲が移動していく。

 それを眺めているうちに、いつの間にか彼の目に涙があふれた。あふれ出したら今度は止まらなくなり、誰もいないのをいいことに泣き続ける。


「ひっく……ふっ……う」


 とめどなく流れる涙で視界がにじむ。

 今だけ、あと少しだけこのまま。ここで気が済むまで泣いたら、もう少しだけ頑張れるから。

 そう自分に言い聞かせながら泣いていると、突然屋上の扉が開いた。誰かが入ってきたと分かっても、すぐに涙を止められなかった。

 入ってきた人が驚く気配があり、しばらく椿の顔を見ていた。しかし、それから少しして扉が閉まる。

 人の存在がいなくなったので、いなくなったのだと椿は察した。泣いている人がいたら、それが知らない相手だったら、気まずくていなくなるのが普通だ。誰が来たかにじんだ視界では判断できなかったが、きっと知らない人だった。

 気を遣ったのだと分かっても、一人になった寂しさが胸をしめた。見捨てられたと感じてしまった。


 しかし、これがきっかけで涙が段々と止まっていく。いっそ吹っ切れた。

 愛されるなんて、期待するのが馬鹿だった。とにかく傍にいられればいい。

 椿は、千歳に対する期待の種類を変えた。ハードルを下げたのだ。

 期待しなければ、傷つくことも無くなる。そうすれば、一緒にいられると考えた。


 空を見るのを止めて、椿は大きく伸びをする。そして屋上から中に戻る。

 重い扉を開けた時、どこからか甘い匂いがした。食べ物みたいな。しかしそれが何から香っているのか、彼は分からないまま一直線に教室へ向かった。

 教室では、未だに千歳が女子生徒と近い距離で話していた。クラスメイトの何人かは、椿に同情的な視線を向ける。婚約を知っていて、それなのに千歳と椿の距離があまり近くないのをおかしいと思っている人達だった。

 そういった同情の視線も、前までの椿なら傷ついていた。しかし、もう違う。


「千歳」

「ん? 椿、どうしたの?」


 千歳に近づいた椿は、名前を呼んで笑った。それが自然なものではなく、作られたものだと千歳は気づかない。ずっと近くにいたのにも関わらずだ。椿の作り笑顔が上手いのもあったが、それ以上に違いに気づけないほど興味を持っていなかったのだ。


「そのままでいいよ」

「? 分かった」


 言葉の意味を深く理解せず、千歳は頷いた。言質はとったと、椿はまた笑う。

 その日、決定的な歪みが生じたが、気づく者はいなかった。

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