第十一報 救助人としての責務

 吹き荒ぶ雪の風。


 それを弾き飛ばすほどの暴風を、雪銀竜スルニィズィルンの翼が放つ。降り積もった雪が巻き上げられ、視界が白に染まった。


 一切の音を立てる事無く、竜は大地に降り立つ。雪山に棲むがゆえに、雪崩なだれを呼ぶ振動を嫌うのであろう。


 咆哮は無い。だが、こちらを睨む眼光一つで圧倒的強者である事を示す。


 威風堂々、秀麗皎潔しゅうれいこうけつ。雪山の王者たる姿だ。


 しかし今のヴァルターにとっては、単に脅威でしかない。死の領域デスゾーンにおいて、明確に具現化された死だ。


 だからこそ、ヴァルターは動く。死よりも速く、機先を制するために。


 懐に手を入れる。指と指の間に挟む形で三本、それを抜き取った。全力をもって、それを竜に投げつける。背負ったセヴェドは決して落とさぬようにしながら。全身の筋肉が、みしり、と音を立てた。


 一本。竜の強固なる鱗に容易く弾かれた。


 二本。目へと飛んだそれは、またたいた薄い瞬膜しゅんまくすら貫く事は出来なかった。


 三本。刺さった。竜の口の端、口角の部分に。


 だが竜はまったく意に介さない。当然だ、彼にとってはかすり傷以下なのだから。


 しかし、それでも構わない。投げつけたのは、魔獣除けの杭なのだから。


 魔獣除けは、威圧をもって魔獣を遠ざけているわけでは無い。幻惑に似た、欺瞞ぎまんによる認識の攪乱かくらんだ。だからこそ、それが効かない魔獣がいる。


 多くは、強力な魔獣、といわれる者達。その実は魔獣特有の器官である『魔力溜まり』が大きい存在である。それらは攪乱が効くよりも先に、視覚や嗅覚が人間を捉えてしまうのだ。


 雪銀竜は言わずもがな、強力な魔獣だ。攪乱など効果があるわけがない。しかし、それは距離がある場合の話だ。自身の体に、直接それがくっついているなら効果は生じる。


 薬としてこうには即効性が無くとも、点滴ならば効果が早いのと同じだ。杭が刺さったならば、幻惑の魔法が体内に流し込まれる。


 とはいえ、永続的な効果など有り得ない。竜相手では、ただの目くらましにしかならないのだ。


 ヴァルターは即座に行動する。


 竜の横を通って来た道を戻る事など出来はしない。山を更に登る事など有り得ない。


 ならばどうするか。道は一つしかない。

 否、道などないのである。


 ヴァルターは右へと走る。そして、身体を宙へと投げ出した。


 崖から飛び降りたのである。


 頭を振って杭を吹き飛ばし、幻惑から逃れた雪銀竜。縄張りから逃れ落ちていった人間たちを一瞥し、翼を広げて飛び去っていった。






「ぐっ、ぐぐっ、ぬぅぅっ!」


 ざがががっ、とヴァルターの左手が崖を削る。魔力を手に集中させて強化し、岩壁を掴むような形で指を突き入れているのだ。


 だが人間二人分、いや、セヴェドの重量を考えれば三、四人分の重量。重力も伴ったそれを、片手の指先だけで止められるわけがない。落下速度が緩む程度の話である。だが、それでも単純に落下するよりは百倍マシだ。


 岩壁から身体が離れてしまったら、完全に空中に投げ出されてしまう。飛行する魔法など存在しない、岩の大地に叩きつけられる以外の選択肢が無くなる。


 崖が次第に傾斜する。僅かにヴァルターの側に弧を描いているのだ。


 指だけだった岩壁との接触点。それに両足が追加される。


 じわりじわりと落下速度が緩まり、遂には停止した。が、一息つく事も出来ない

坂になっているとはいえ、歩いて降りられるような緩やかなものではないのだ。崖と何が違うのか、そんな場所である。


 不用意に一歩踏み出したら転がり落ちてしまうだろう。そうなったら今度こそ岩肌に擦られ、大岩にぶつかり砕かれ、人間だった物になってしまう。


 ヴァルターは岩肌と対面しながら、周囲を確認する。


 自身の右斜め下。おおよそ三メートル下方に岩の出っ張りを発見した。


 ある程度の広さがある。かなりの賭けではあるが、飛び移るしかない。


 両脚に魔力を込めて筋力を上昇させる。セヴェドの身体を掴んでいる右手の力を増す。そして、岩壁に突き入れた左手を引き抜いた。と同時に、両脚で岩壁を走る。


 走りながら落ちていく、とでも表現するのが正しいだろうか。左足で一歩踏み出してずり落ちる、右足で一歩踏み出しずり落ちる。岩肌から離れないように、左手の手のひらで岩壁を触れ続けた。


 ざりざりと音を立てながら落ちていく。


 そして、ヴァルターは着地した。


 幸いにして、遥か下のどこかの大地にではなく、目標としていた場所に。


「はぁっ、はぁっ、はぁ……っ!」


 さしものヴァルターも息が荒れる。背負っているセヴェドを岩壁に、もたれ掛けさせる形で座らせた。自身も同じように座り、呼吸を整える。


「くっ」


 鈍い痛み。


 それは左手から生じていた。厚手の手袋で視認は出来ないが、その中身がどうなっているかは容易に分かる。人差し指、中指、薬指がへし折れている。それも第二関節から反対方向へ。


 リュックサックを苦労しながら開き、応急処置セットを取り出す。


「が、ぁ、……っ!」


 ばぎっ、と鈍い音が指から生じる。反対になったら元に戻さないといけないのは、世の条理なのだ。細い木の棒をへし折って添え木として、包帯できつく巻き付ける。三本ともそうして、痛々しい手を手袋で覆い隠した。


 荒い息を立てながら、今度はセヴェドの治療を開始する。


 幸いにして雪銀竜は追ってこない。弱った獲物セヴェドを捕食しなかったのは、縄張りを侵したから排除しただけ、という所か。


 ヴァルターにとって、それは有り得ない程に幸運な事である。あんな化け物に追われながら帰還するのは不可能だ。


 寒風吹きすさぶ遮る物の無い岩壁、このままでは凍えてしまう。すぐに緊急時用のテントツェルトを張り始める。骨折した左手を無理やり動かしつつ、何とか完了。セヴェドを押し込み、自身も中へと入る。


 轟々とテントを風が横殴る。幸いにして二人分以上の重しがある事で、吹き飛ばされる事は無さそうだ。


 既に周囲は暗い。日が落ち切ってはいないだろうが、吹雪によって光が遮られているのだろう。カンテラを再度起動させ、暖を取る。テント内の気温が上昇し、ようやく一息つく事が出来た。


 食欲は無いが、食べなくては翌日の行動が出来ない。食料を無理やり腹に押し込み、微睡まどろみの中へと意識を沈めていった。






 翌朝。


 吹雪は昨日よりもずっと弱く、空や太陽が見える状態になっていた。とはいえ、安心できるような環境ではない。テントを片付け、リュックサックを身体の前に抱える。再びセヴェドを背負い、決死の覚悟で出発だ。


 昨日は気付かなかったが、明るくなった事で気付く事が出来た。人一人分よりもずっと狭いが、道がある。普通に歩く事は出来ないが、横歩きするなら何とか進めるだろう。


 荷物を前に抱える形にしたのは重心を前に寄せるためだ。岩肌に身体を寄りかからせる形で進むのである。ざり、ざり、と靴が道とも言えぬ道をる。前に抱えたリュックサックも岩肌に擦れて音を立てている。


 昨日、雪銀竜に有った場所は七合目付近。どれだけ落下したかは分からないが、空が見えるなら雲から抜けたという事だ。


 二千メートル半ばからちょうど、といったあたりだろうか。相当な距離を落ちたわりに、ほぼ五体満足なのは有難い事である。


 普通に歩けば十分じっぷんやそこらで行ける距離を一時間かけて進む。拙速よりも堅実確実に。救助人ヘルトゥーフとしてのヴァルターの考えだ。帰還できなければ意味がないのである。


 そうこうして半日近く。遂に道は広がり、普通に歩く事が出来るようになった。少し安堵しながらもヴァルターは気を緩めない。一つの難所を超えて安心した時が一番危険なのだ。


 警戒は続けながらも休憩を挟みつつ、ヴァルターは山を下る。岩だけだった周囲に少しずつ緑が戻り、林になり、森が見えた。岩場を抜け、砂利だらけの場所を超え、足元が土になる。


 そして、遂に山を下り切った。


 死の領域からの、死の象徴からの帰還。それを成し遂げたのである。


 そこからどうやって帰ったのか、ヴァルターは覚えていない。次に彼が意識を取り戻したのは、病院のベッドの上だった。

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