第十報 有り得ないは有り得ない

「何じゃと!それは本当かっ!?」


 組合の中にユーディタの声が響く。切羽詰まった様な声色に、普段騒がしいロビーが静まり返った。頭を乱暴に掻きながら、受付裏から彼女がやってくる。集まった冒険者たちが自身の事を見ているのに気付き、ふん、と鼻を鳴らした。


「組合長、どうされたんですか?」

「話は後じゃ、ヴァルターを呼んで来い」


 心配して声を掛けたレリィに、ユーディタは眼光鋭く命令する。ただならぬ状況だと理解し、レリィはすぐに二階へと駆けだした。待つことなく、ヴァルターを連れ立って帰還する。


「救助ですね」

「ああ、そうじゃ。が、今回はマズい。セヴェドが救難要請を送ってきた」

「っ!」


 ユーディタの言葉に、ヴァルターは息を呑む。それは彼だけでは無かった。レリィも、ロビーに集まっていた冒険者たちも驚愕している。


 ユーディタの口から発されたセヴェドという言葉。それはアーベンリズンにおいて、知らぬ者のいない冒険者の名だ。


 帝国の東、凍土と氷雪に国土の三分の一を覆われた国がある。共和国と呼ばれるその国の軍において、大佐として兵を指揮した過去を持つ。冒険者となった後は大陸の方々で名をせた。数年前にアーベンリズンに来てからは、冒険に、後進の指導に、と活躍する。


 組合長であるユーディタも頼りにしていた。そして、この場の冒険者たちにとっても恩のある人物なのだ。


 二足で歩く灰色熊の獣人であり、彼は強靭な肉体を持つ。剛腕をもって振るわれる槍斧ハルバードは、大型魔獣すら両断する威力だ。


 半袖の黒シャツに緑の鉄板入りベスト、茶色の長ズボン、靴は無し。


 彼は常に軽装だ。これは彼の種族と出身地、経験による所が大きい。


 熊の獣人ゆえに頑強で、極寒冷地で育った事から特に寒さに強い。軍において技術を得ている事から、如何なる環境でも生存できる。齢五十に近付きながらも、それらは決して衰えていない。


 万全盤石、質実剛健。彼が救助を求める事など、誰も予想していなかった事態なのである。


「場所は北東部の雪山、その七合目付近」

「海洋中継拠点との連絡路の探索ですか」

「ああ、間違いなくそうじゃろう」


 アーベンリズンの北東部、丘陵地帯の北には岬がある。だが、その場所に陸路で到達する事は不可能。年中雪が降り積もり、凶悪な魔獣がひしめく山脈がそびえているのだ。


 海を行く貿易船や客船にとって、北部航路は重要な海路。それ故に岬の突端の僅かな平地に、帝国は中継拠点を作り上げた。物資の集積と補給、そして万が一の時の避難地として。


 だからこそ、陸路での接続が望まれている。道さえ見つかれば鉄路が繋がり、貿易港として機能する可能性があるのだから。


 しかし、それは容易ではない。ゆえにセヴェドは、かの地へと赴いたのである。


「一人で向かった事は理解できる。あやつと共に行ける者はおらぬからな」

「ええ」


 ユーディタの言葉にヴァルターは頷く。


「必ず救助して戻ります」

「セヴェドすら遭難する地じゃ、無理はするな。お主まで失うわけにはいかん」


 ユーディタの表情は険しい。彼女の言葉は商業組合の組合長としての言葉であると同時に、彼女の本心だ。セヴェドへの信頼と同じく、ユーディタはヴァルターの事も信頼しているのである。


 彼女へ一つ会釈して、ヴァルターは自室に戻って素早く準備を整える。最大級の警戒を供として、彼はアーベンリズンを出立した。






 雪山とは、それそのものが死の領域デスゾーンである。入念な準備と計画、魔獣への対処を行えるだけの技量が必要だ。人間、獣人、エルフに海歌人。種族による得意不得意は有れど、今回の救助要請地点は全てにおいて脅威の領域だ。


 アーベンリズンは、その西方を世界最大級の山脈に塞がれている。


 西の森の先は山岳地帯、更にその奥は二つの六千メートル級の峰を持つ自然の大壁だ。ヴァルターが向かう北東部の山脈は四千米級の一峰いっぽうを持つ。大壁とは町を挟んだ反対側に位置している。


 アーベンリズンは温暖な気候を持つ、気候が安定した地。これは、西からの雨雲を大壁が防ぎ止めるためだ。その地形と気候から見ると、北東部の山脈が年中雪に覆われているのは妙である。本来、大壁の東側は温暖で乾燥するはずなのだ。


 古くから、多くの学者や冒険家がその原因を調査してきた。


 いはく、大壁の北方を抜けた雨雲が山脈北部から注いでいるのだ、とか。

 曰く、山脈内部の特殊な鉱石が上空の大気を冷やしているのだ、とか。


 曰く、目に見えない魔獣が峰々を巡って雪を降らしているのだ、とか。

 曰く、天候を操る神なる龍が自らに適した気候を作り出しているのだ、とか。


 現在に至るまで、多くの事が言われたが結論は出ていない。山には今までの挑戦者が残した道が何本か存在している。登山道というにはあまりにも粗雑ではあるが、他の場所よりはずっと安全だ。


 セヴェドもこの道のどこかからか登ったはず。彼の救難要請地点を思い出し、そこへ続いているであろう道へと足を踏み入れた。


 ヴァルターの服装は今までにない程の重装備だ。普段の服の上から赤色の防寒服を着こんでいる。ズボン下に耐寒インナーを履き、ブーツも専用の物だ。手袋も普段よりずっと分厚く、平地にあっては少し暑いくらい。頭には、雪羊の毛で作られた速乾性のニット帽。


 登り始めでまだ装着していないが、口元を隠すフェイスマスクとゴーグルもある。食料から緊急時用テントツェルトまで、背に負う荷物はかなりの重量だ。それだけの物を持って行かないと挑戦すら不可能な場所なのである。


 一歩一歩、山道を進む。次第に傾斜がきつくなり、遂にはほぼ垂直の岩場に対面した。他に道など無く、岩壁に張り付いてよじ登っていく。手で岩を掴み、足で身体を上昇させる。


 何とか岩壁を登り切り、一息ついた。ここまででおよそ四合目、先はまだまだ長そうである。






 雪が身体を痛いほどに叩く。既に周囲は白に染まっており、少し先ですら視認する事は困難だ。ゴーグルとフェイスマスクが最大限その力を発揮する。雪から視界を守り、風から身を守ってくれていた。


 足元は変わらず、歩く事が困難な岩場が続いている。気温低下と降り積もった雪によって、非常に滑りやすくなっていた。


 右は急な山肌、左側は同じく急傾斜の崖だ。進む道は人がギリギリ二人すれ違える程度の幅。少しでも風に揺さぶられたら、崖下に真っ逆さまである。もしそうなったら、原型を留めない程にられ砕かれ断ち切られるだろう。


 絶対に落ちるわけにはいかない。それ故に視線は下へと向き、数歩先を確実に認識しながら進んでいく。


 今はおそらく六合目から七合目付近。救難要請が発された地点まではあと少しだ。ここまでの暴風雪では、通常ならば発見は困難。しかし道は幸いにして一つ、崖下にでも落ちていない限りは見つけられるはずだ。


 前へと進める足が、吹雪で押し戻されそうになる。それを押し返してヴァルターは前進した。ざざっ、と音がする。吹雪の中でも分かる程の、だ。


 それが耳に入った瞬間、ヴァルターはすぐさま周囲を確認する。そして、音の発生源が右手の山肌の上からだと理解した。吹雪によって白に包まれ、空は鈍く灰色に染まる。


 その中を、それは転げ落ちてきた。


「くっ!」


 咄嗟に身を引くし、山肌に向かって飛び退いた。


 山肌で一度はずんだそれが、ヴァルターの頭の上を回転しながら飛び越す。先程まで彼がいた場所を粉砕し、遥か崖下へと落ちていった。


 雪塊せっかいだ。


 雪の塊といっても柔らかいものではない。ごく氷点下の環境において固められたそれは、最早氷の塊である。


 ヴァルターに襲い掛かったそれは、人間よりずっと大きく重いもの。そんな物に衝突されればどうなるかなど、言わずもがなである。雪塊の残骸が頭上からパラパラと降り注ぐ。


 周囲の安全を確認して、ヴァルターは再び歩き出した。


 それから数分。


 歩いてきた道と比べると開けた空間に辿り着いた。おおよそ人間が五人ほど手を広げて横に並べる程度の広さだろうか。


 ふと、その真ん中に大きな雪塊がある事に気付く。先程と同じく、山の上部から落ちてきた物だろうか。少し警戒しつつ近付いていく。もう一度、頭上からの襲撃を受けるのはごめんだ。


 がつっ、と彼の足が何かを蹴った。


 雪ではない。それよりももっと硬い、金属のような。身を屈め、それが何かを確認する。降り積もった雪を払うと、半月状の刃と鋭利な穂先が現れた。


 それはつまり。


 横にある大きな塊は雪塊などではない、という事だ。


「セヴェドさん!」


 体に積もった雪を手で払いのける。そこには身を丸めて腹部を押さえながら気を失っている、灰色熊の獣人がいた。彼が自らの手で押さえている部分は赤に染まっていた。


 何かによって胸の中心から左脇腹に掛けてザックリと斬られている。周囲に何もない雪山でこの傷は、確実に魔獣に襲われた傷だ。


「これは、深手だ」


 通常ならば失血によって命を落としてもおかしくない程の血の量。でありながら、灰色熊はまだ息をしていた。


 救難要請を発してから相当の時間が経っている。でありながら彼が生きているのは、咄嗟に行った止血による所が大きかった。傷に布を手で押し込むようにして、緊急措置を取ったのだ。


 結果、低温環境である事も相まって彼の出血は停止した。


 更に、彼が熊の獣人である事も幸いした。体温を保ったまま代謝を落とし、自然における熊の冬眠のような状態になっていた。


 獣人達は人間と同じように生きている。基本的に獣特有の習性や生態は生じない。だがこの極限状態にあって、彼の中に眠る野生の血が蘇ったのだろう。


 少し安心し、ヴァルターは彼の周囲を確認する。


 先程自身が蹴ったのは、彼の得物である槍斧ハルバード。だがそれは、柄の中心辺りで無残にへし折られていた。彼が身に着けている緑のベストは、右肩から左脇腹まで真っ二つ。鉄板入りであったはずなのにもかかわらず、それごと両断されていた。


 いや、鉄板入りであった事が功を奏したのだろう。何かに右上から袈裟斬りに斬りつけられ、それを槍斧で受け止めた。


 柄がへし折れ、斬撃は彼の身体に襲い掛かる。槍斧で威力が減衰した事で、鉄板によって右肩から胸までは守られた。しかし、勢いが戻った胸の中心から左脇腹までは切り捨てられてしまった。それを表すように彼の切り傷は、胸は浅く、脇腹は深い。


 なんにせよ、これ以上ここに留まっているのは得策ではない。彼ほどの使い手を重傷に追い込む存在がいるのだから。


 十分に役目を終えた緑のベストを取り外す。彼の荷物や得物は諦めるしかない。


 何故なら、彼の背丈はヴァルターよりずっと巨大な二百五十センチ。体重はおそらく二倍から三倍はあるはずだ。彼を担いで帰るだけで精一杯。いや、普通の救助人なら担ぐ事も出来ないはずだ。


「ぐっ、ぬっ、おおっ!!」


 全身の力を使って、ヴァルターはセヴェドを持ち上げる。普段の鍛錬が無ければ、とてもではないが出来なかったであろう荒業だ。持ち上げられた事に少しだけ安心し、ヴァルターは来た道を戻るために一歩踏み出した。


 自身だけで作った足跡より、ずっと深く足跡が雪に刻まれる。通常であっても登りよりも下りの方が危険だ。この状態でその危険性は、今登っている山を越える程に高まる。


 慎重に、だが悠長にはしていられない。代謝が下がって止血がされていても、瀕死の重傷である事には変わりないのだ。


 一歩一歩、前へ。だが、その歩みは十歩も行かぬ所で止まってしまう。


 重量から?

 否。


 疲れから?

 否。


 帰り道を塞ぐ形で、眼前にそれが舞い降りたからだ。


 その身から伸びる尾は体と同程度、全てを含めて人間の十五倍。人を五人並べてちょうどの体高、広げた翼は更に大きく。銀に近い白の体を彩る鱗は、光の加減で端が青くきらめいている。


 雪が降り積もる山を縄張りとする、ただただ魔獣として生きる知性無き竜。


 雪銀竜スルニィズィルン


 極限の地において、それとの出会いは死を意味する―――

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