第八報 目に見えるだけが脅威ではない
インナーと同じ材質の防水カバーでリュックサックを覆う。
水場へ向かう事を考えて、念のため持ってきた事が功を奏した形だ。海へ向かう場合は持参するが、洞穴の場合は基本的に不要なのである。
無意識下で、要救助者が
リュックサックを身体の前面に抱え、ゴーグルを装着する。
既に何度か潜水して水の中を確認していた。水中は細長い一本のトンネルのような形となっている。それはヴァルターの背の二分の一程度の直径、かなりの狭さだ。
三分の一程度進んだ所で、水の先に緑の光が見えた。苔から発された光だ。
発光苔は水中には自生しない。つまり、そこは水が途切れている場所、という事である。それらを確認して、彼は荷物を持って進む事に決めたのだ。
カンテラを左手に水へと入り、大きく息を吸い込む。壁面を蹴り、トンネルの中を滑るように泳ぎ始めた。
カンテラを前に出し、右手で水を掻く。足で地面を蹴り、前へ前へと身体を推進させる。
トンネルの壁、天井、地面はゴツゴツとした岩。だが非常に脆く、蹴る度に欠片が水中に散った。どうやら壁や天井の向こうに空洞も多いようだ。何かの拍子に崩落してもおかしくは無い。風と水、海と生物によって浸食された結果と言えるだろう。
トンネルの三分の一ほどの位置まで到達した。
先程、様子見のために身一つで泳いできた地点である。息は全く問題無し。日課の鍛錬によって鍛えられた結果だ。
水中で聞こえるのは、水を掻いた事で生じた波の音だけ。静寂の空間とも言える世界だが、それを楽しんでいるような余裕はない。
力を込めて地面を蹴る。推進力を得た身体が加速し、水を貫き進んでいく。洞穴の中の
大きな足幅で滑るように歩いている、といった表現が正しいだろう。だからこそ速度が出ず、水中呼吸が出来ないヴァルターにとっては危険地帯だ。
目算は間違っていない。十分に息が続く距離。呼吸の余裕を確認しつつも、万が一の時は元の場所に戻る事を想定する。何が起きるか分からないからこそ、こういった場所は
何も無ければ大丈夫。だが、そういう時は得てして危難に
ヴァルターにもそれは訪れる。
おおよそ半分ほど進んだ所で、それは襲い掛かってきた。一筋の矢がヴァルターの顔面に飛んできたのだ。
罠か?
いや、違う。魔獣だ。
咄嗟に身体を捻じり、
銀色の細長い体は、鋼鉄製の矢の如く。鋭く尖った顎に
潜水時に使用していたカンテラを貫いた事例には事欠かない。それどころか、人体に突き刺さった話も多くある。更には、その脅威は水の中だけではない。海岸や船上の灯り目掛けて突っ込んでくるのだ。
冒険者はおろか、漁師にとっても脅威となる魔獣。天然の罠とも言える、海中の
何とか躱したヴァルターは、身体を半回転させてそれと対峙する。かの魔獣も空振りを認識して、細長い体を翻して彼に向き直った。
音の無い水中で両者は睨み合う。
だが、時間が経てば経つほどヴァルターに不利となるのは必定。
魔力の流れが生じる。
ヴァルターではない、鉄の矢からだ。
それが、矢羽の如き尾びれに集まる。一気に力を解放して先程よりもずっと速く、鋼矢駄津は突撃した。
認識しての見切りか、それとも勘による行動か。ヴァルターは大きく身体を屈め、地面に両足を付ける。勢いよく立ち上がる様に、全力で身を上昇させた。
そして右手の指を揃え、捲り上げるように突き上げる。
狙う先は鋼矢駄津の首。
両者は水の抵抗を貫いた。
ばがっ、という何かが砕けた音が、無音の水中に響く。トンネルを構成する岩石が粉砕された音だ。
勝者は。
ヴァルターだった。
下から上へと渾身の力で突かれた一撃は、正確に鋼矢駄津の首を捉えていた。くの字に曲がったそれを伴って、右手をトンネルの天井に突き刺したのである。
絶命した鋼矢駄津は、力無く水中に漂う。圧倒的不利な環境だったが、ヴァルターはなんとか切り抜ける事が出来たのだった。
だが、問題は終わっていない。
呼吸だ。
戦闘によって時間を取られ、肺の中の酸素が尽きかけている。大急ぎで戻っても、間に合わない可能性が高い。
そこで気付いた。
粉砕したトンネルの天井の先に光が見える。それは即ち、外と繋がっているという事だ。大急ぎでヴァルターは浮上する。
そして。
「ぅぶはっ!」
止めていた呼吸を再開する。幸いにして、そこには空気が有った。
周囲を確認すると、人間一人分の空間だった。上は空が見えるが、かなりの深さがある円柱状の空洞だ。そして浸食によるものだろうか。右に左に小さく細いトンネルが出来ていた。
空気の流れがある。おそらくは、細いトンネルは外部と繋がっているのだろう。
幸運を掴んだヴァルターは、少しばかり休んでから再び水中へと潜った。
警戒しつつ進んだが、残り半分のトンネルには鋼矢駄津はいなかった。おそらくは細長い体を活かして、どこかからあの一匹だけが入り込んだのだろう。
遂に緑の苔が光る場所へと到達する。
が、すぐに異変に気付いた。水面に、何か細い物がある。
海藻だと認識していたが、すぐにその考えを改めた。
髪の毛だ。
長い薄青のそれは水の動きに合わせて、ゆらゆらと漂っている。要救助者の女性である事はすぐに理解出来た。水面から顔を出し、彼女の事を確認する。
うつ伏せに倒れる彼女の顔は、上半分が水中に浸かっていた。鼻が水中に浸かっているかどうか、といった程度である。
彼女の腰には小さなポシェット、腰の尾の上には少し大きめのナイフ。持ち物から見るに、それほど長期間の探索を想定していなかったようだ。
彼女の身体には魔力が満ちている。魔法を中心に戦闘を行う冒険者であればこその、軽装と言えるだろう。
荷物を開けたり、ナイフを抜いた形跡がない。魔獣に遭遇したのなら魔法で応戦するだろうが、その痕も周囲の空間に無かった。
全身を確認したが、先程の鋼矢駄津にやられたような傷跡も無い。なぜ彼女は倒れ伏しているのだろうか。
「っ!」
そんな事を考えていると、鼻を突く臭気が漂ってきた。洞穴の奥からだ。
腐乱臭。
多くは火山などで漂う危険な毒の臭い。吸い込めばあっという間に意識を失い、長期間吸い続ければ簡単に絶命する。
それを確認するが早いか、身体が動いたのが早いか。ヴァルターは彼女の背の布を両手で掴み、思いっきり水中へと引き入れた。彼女の身体に擦過傷が出来る事など、気にしている暇は無いのだ。
自身もすぐに潜水し、トンネルの中を彼女の身体を牽いて戻る。一切息を吸えなかった事で、呼吸はすぐに限界を迎えた。
鋼矢駄津に礼を言わなければならない。
先程生じた空間まで、何とかたどり着いて呼吸する事が出来たのだ。だが、その空間は一人分しかない。ヴァルターは顔を出しているが、救助した彼女は水の底に置いたままだ。
自身の生存を優先したからではない。
トンネルのもう一方の出口へと辿り着いたヴァルター。彼女の身体を水中から引き上げて、地面へと寝かせた。
胸を確認する。かなりの大きさだが、それを見ているわけでは無い。呼吸による上下運動が起きているかどうかの確認である。
ゆっくりとだが、確実に息をしている。少なくとも、物言わぬ状態で町へと戻る事にはならないようだ。あとは彼女の回復力に期待するしかない。
彼女は意識を失う直前に、顔を水中へと投じた。顔全てを水に浸けられれば問題は無かっただろうが、そうはならなかった。
しかしギリギリで鼻だけが水中に有った。水が動く事で水が被り、ほんの少しではあるが呼吸が出来たのだ。彼女の咄嗟の行動が功を奏した形であろう。
ヴァルターは安心し、彼女を担ぎ上げて町へと戻っていった。
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