第3話

 健斗の部屋はすっきりとしたワンルームで、それでいて普通のワンルームよりも広々とした造りだった。


「この部屋さぁ、広すぎて。だからお掃除ロボットめっちゃいいんですよ」


「でね——」と、健斗は部屋に入ったわたしに早速困りごとを相談した。


 我が社の製造したお掃除ロボット『KIyoCO』は部屋の隅の壁際でコンセントに繋がれていた。そこまで移動して、しゃがみ込み、「ここなんだけど」と言う健斗の横に恐る恐る近づいて、圧迫する体でなんとかしゃがみ込み、困りごとを聞いている時は呼吸なんてできなかった。


 すぐ隣に健斗がいる。それだけで冗談ではなく、もう本当に人生が終わってもいいと思ったし、自分の吐いた息を健斗が吸うかもしれないと思うだけで呼吸困難になりそうだった。わたしの体から呼吸と一緒に出ていくわたしの小さな細胞を健斗が吸い込んで肺に吸収する。


 ——神様、こんなこと許されるのでしょうか……。


 つまりはわたしも同じこと。健斗の吐き出す息に混じった健斗の細胞をわたしの肺は取り込むことができるのだ。誰かに自慢したいと言うよりは一生この秘密を二人だけのものにして生きていきたいと思った。


「で、ここに洗剤のタブレットを入れるとお風呂掃除もできるってことですよね?」と聞かれ、半ば上の空で「はい」と答えた。


 わたしが開発したお掃除ロボット『KIyoCO』は、いわゆる普通のお掃除ロボットのように部屋中を動きまわって細かい埃やチリを吸い込むだけではなく、拭き掃除だってできる。事前に場所を『KIyoCO』に覚えさせ、アプリ上でマップ登録をすればワンフロアだけではなく、移動して別の部屋も掃除できる。健斗が持っている『KIyoCO』は、その中でも一番グレードが高く、お風呂の床掃除もできる仕様になっていた。


『KIyoCO』の上部にある蓋を開けてさらに小さな蓋を開けると、そこに拭き掃除用のタンクがあって洗剤のタブレットが装着できる。一度に装備できるのは三個まで。洗剤のタブレットは何種類かあって、リノリウム用、木材用、石材用、それにワックスなどが揃っている。健斗が持っている最新型の『KIyoCO』はさらなる進化を遂げたモデルで、お風呂掃除用の洗剤タブレットも装着可能だった。もちろん、お風呂を掃除する時はモップ部分をお風呂用に取り替えなくてはいけないれど、それはそれでとても簡単で、本体の裏についているモップをスライドして取り出しお風呂用モップを装着するだけと言うお手軽な使い方だ。


 健斗の困りごとは、バスルーム用に切り替えたいのだけれど、どうしてもうまくいかないと言うもので、日頃の使い方をその場で聞く限りではおかしなことはなかった。それでも、スマホに入っているアプリを確認したらその誤作動の理由がわかった。


 アプリにバスルームのマップが登録できていない。

 ただ、それだけのこと。


「なあんだ、そんなことだったのかぁ」驚く健斗の目の前で『KIyoCO』を稼働し、スマホを一旦お借りしてアプリを起動。バスルームのマップを登録する。健斗の住んでいる部屋のバスルームは一般的なバスルームの二倍はある広さで、確かに毎日手で掃除をするには広すぎるような気がした。それに健斗はアイドル。忙しくて毎日なんてできないだろう。


 バスルームに移動し、マップ登録をする間、わたしはできるだけ健斗に気づかれないように、鼻から息を吸い込んで体にため込んでからゆっくり吐き出すを繰り返していた。バスルームには健斗の使っているボディソープやシャンプーの香りが漂っている。身体の隅々まで行き渡るように、バスルームの湿り気のある空気を吸い込んで細胞に送ることで、わたしも健斗と一体化しているような、そんな錯覚を覚えた。


 もう死んでもいいかもしれない。


 何度もそう思いながらマップ登録を待っている時間で、深呼吸のおかげもあってわたしの緊張も最初ほどじゃなくなっていった。でも——。


「待ってる間、よかったらなんか飲む?」不意にバスルームの入り口から声をかけられ飛び上がった。カチコチと機械仕掛けの壊れた人形のように振り向くと、ルームウエア姿の健斗が半身を壁にもたれかけさせ、こちらにむいて微笑んでいた。


 ヤバイ。死にそう。悶えて倒れてしまいそう。

 でも。

 まだ死ねない。

 こんな機会はもう二度とやってこない。


 死んだら全ておしまいだ。だから気を確かにして、「はい」と絞り出す。健斗は「じゃあこっち」と広いリビングに置かれたソファへとわたしを誘った。L字型のソファ。濃いグレーの上質な布カバーのソファに腰を下ろすと、びっくりするほどお尻が吸い込まれていって、わたしは思わず「あぁう」と変な声を出した。


 もしかして聞かれてしまったかも。そうなら最悪だ。そう思って健斗のいるキッチンに目をやると、気づかれていないようで安心した。あんな声、死んでも聞かれたくなかった。


「お茶でいい?」と声をかけられ、「はい」と絞り出すように声を出す。健斗がおしゃれな薄いグラスに茶色い液体を入れて持ってきてわたしに差し出し、わたしはそれを受け取った。受け取る時、健斗の指にわたしの指が微かに触れて心臓が一回動きを止めた。生きた心地がしなかった。いや、わたしはその時一度死んだのかもしれない。そしてまた生き返った。今死ぬわけにはいかないから。


 それからバスルームのマップ登録ができるまで三十分、家にいない時でも遠隔で操作ができる『KIyoCO』アプリの便利な使い方や、洗剤タブレットの定期購入方法などをしどろもどろで説明した。その時、床掃除用の水タンクに入れるルームフレグランスがあると知った健斗は「この香りを使いたいな」とサンダルウッドの説明を聞いて言っていた。「仕事で疲れた夜はよく寝れそうだし」と言っていた。


 マネージャーの長野さんに、製品を渡すときに説明したはずの『KIyoCO』の使用方法は、健斗には半分ほどしか伝わっていなかった。正直、悔しかった。だって、『KIyoCO』はわたしが企画開発した、世界一優秀なお掃除ロボだと思っていたから。


『KIyoCO』の説明が一通り終わると、健斗はわたしを気遣ってくれたのか、好きなテレビ番組の話やアニメの話をしてくれた。驚いたことにわたしが好きな深夜枠の異世界転生アニメを健斗も見ていて、その話題で少し盛り上がった。——気がした。


「それで、あのキャラって猫屋敷さんに似てるよね。めっちゃかわいい」


 製品説明をした後のほんの少しの会話。不意に言われたこの言葉でわたしの耳は赤く染まり熱が充満した。耳たぶからじりじりと言いようのない感触が広がり、もう少しで耳が取れてしまいそうなほど、耳の感覚がどこかの異世界へと消えていく。その時なんと答えたかなんて、どうやっても思い出せないほど、わたしの脳味噌は健斗の声やしぐさを記録することに全力を捧げていた。


 ——かわいいって……。わたしが……、かわいいって言ってくれた。


 この日から、わたしは健斗と特別な関係になった。——と、思う。毎日健斗の姿を見て、毎日健斗に話しかけ、健斗はそれに答えるように微笑んだ。それはテレビの中で見るアイドルグループ『ムーンデイズ』の健斗ではなく、わたしだけの健斗だった。


 でもその健斗は、もうこの世にいない。

 

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