第2話
あれは一年ほど前のこと。
健斗がとある番組の企画で、わたしの会社の商品を取材に来た時のことだった。健斗が商品開発部門のデモンストレーションルームに撮影クルーと一緒に入ってきた時、事前に聞かされていたとはいえ、わたしは死ぬほど心臓を跳ね上がらせ、目が、耳が、健斗に張り付いて体が硬直した。
「へえ、これが最新機種なんですね! すごい、こんなのがついてるなんて! これってあれですよね、外出中でもスマホのアプリで操作すれば家中掃除できちゃうんですよね。まじですごいです。僕も家に欲しいかも」
彼のこの言葉を聞いた広報部の吉岡部長はすかさず「それでは無料でご提供しますのでぜひ使ってみてください」とカメラの前で健斗に言い、「いいんですか?」と喜ぶ健斗に本当に製品をプレゼントしてしまった。
「実は僕機械音痴で、こういうの使いこなせるかなぁ、心配です」
そう言った彼に吉岡部長は満面の笑みで「大丈夫です。なんならうちの社員をセッティングにいかせますよ」と、わたしの背中をどんと押して、「彼女なら心配ないですから」と勧めた。
わたしはびっくりして、言葉が出なかった。健斗と同じ空気を吸っているだけでも心臓が早鐘を打っていたのに、さらに健斗に近づいたことで体から魂が抜けていきそうだった。わたしはおどおどしていたと思う。その様子を面白おかしくカメラに映され、その場にいる社員にも撮影クルーにも、もちろん健斗にもそんなわたしは笑われて。その時の撮影は始終和やかな雰囲気で終了した。
はずだった——。
撮影終了後、番組のプロデューサーと一緒に吉岡部長のところにやってきた健斗のマネージャーさんは「まずいですよねぇ」と、苦い顔をした。
「先ほどは番組の撮影上ノリであの流れになりましたが、実際アイドルの家に一般人が来るってのは無理な話なんで、代わりにわたしが説明を聞いて健斗の家にセッティングします」
かちこちに極限まで緊張し、それでも頭の中は健斗の家に行けるかもしれないと期待を膨らませていたのに。わたしの頭は「そりゃそうだ」と思っていても、残念な気持ちでいっぱいだった。
わたしは誰にも言ってないけれど、健斗をアイドル養成時代、言うなれば十代の頃から追っかけて応援してきた。デビューしているアイドルグループのバックダンサーで健斗が踊るとしれば違法ギリギリの転売サイトでコンサートチケットを買ったこともある。それこそ、健斗につぎ込んできたお金を勘定したら今の年収分くらい——五百万円ほど——は注ぎ込んできたかもしれない。
ガタガタ喉を震わせて「わかりました」と絞り出し、わたしはマネージャーの長野さんに自社製品の操作方法、使用する薬品の簡単な説明、それとインターネットに接続して利用できるアプリの連携方法などをお伝えした。「どなたでもお使いいただけるが売りなので、難しくはないです」と言い添えて。
それからしばらくしたある日のこと。マネージャーの長野さんから会社に連絡が入った。それもわたしをご指名で。受付の女の子から開発部に電話がかかってきてわたしが呼ばれ受話器に出ると、あの女性マネージャーさんの少し気怠そうな声が聞こえた。
「ムーンデイズのマネージャーさんから」と電話口で言われたときは何かの冗談だと思っていたわたしでも、その声には聞き覚えがあった。年齢的にはわたしと近いはずなのに、どこか威圧的な話し方は、間違いなく長野さんだと思った。
『もしもし? こないだの人ですよね? えっと、
「はい」の二文字を相槌として打ちながら話を聞いていたわたしの、受話器を握る手に力が入った。べっとりと手が濡れていき、力を込めるとぬるりと受話器が落ちそうなほどに、緊張と高揚感に全身が包まれていく。
——まさか、まさか、健斗の部屋に行けるだなんて。
耳を疑いながらも詳細を聞き、誰にも言わないという約束をして、わたしは受話器を震えながら置いた。じっと電話を見つめる。何かの冗談か、それともテレビ番組のドッキリか。そんなことも頭をよぎった。
バラエティ番組で大好きな芸能人に会うというドッキリはままあるような気がする。ほとんどは知人が仕掛け人。誰それちゃんが誰それさんの熱烈なファンで、今日は彼女を驚かせたくてお願いしました、的な。そんな番組を見たことがある。もちろん健斗が出ていたから録画した番組だったけど、その番組内で確かそんな企画をやっていた。あれは確か、ドラマでよく見る顔の、さほどかっこよくもない俳優さんに会う企画だった気がする。
緊張で石像のようになったわたしが健斗の部屋——撮影用に用意された偽物の部屋かもしれない——で、慌てふためく姿をテレビクルーが撮影して、それを面白おかしく編集して流すのかもしれない、なんて妄想が浮かんだ。以前のバラエティ番組の時は、わたしが呼吸をするのも忘れ、赤色から青色に顔が変わる様子にデカデカと『人間じゃない顔色しちゃってる!』なんてテロップが出ていたし、実際何かのエフェクトで顔がドアップに映し出され、真っ青に加工されていた。『東大卒のエリート女子社員もモッチーの前では無言!』なんてテロップも出た。モッチー。健斗の愛称だ。でもわたしはモッチーとは呼ばない。だって、養成所のころはそんな愛称さえまだなかったんだから。わたしの中ではずっと健斗のままだ。
——と、そこまで妄想を膨らませ、それはないなとその時思い至った。わたしにそんなドッキリを仕掛けてくるような友人はいない。家族も北海道に住んでいて、そんな手の込んだことはしないだろう。それに——。
父も母も工業系の家業で忙しく超が百万回つくほどの真面目人間。兄は仕事の関係でアメリカに住んでいるし、妹はもうずっと引きこもり生活をしていて外部との接触はもちろん、家族とも最低限しか関わることはしない。とはいえ、妹とは似たもの同士でつながりが深いわたしは、時々メールのやりとりをしていた。彼女は引きこもりではあるが、プログラミング能力に長けていて、わたしは自分の仕事——製品開発——の相談を時々していた。
それでも実際顔を合わせて会ったのはいつだったか。確かお盆に帰省した時に一度話をしたけれど、それっきり会ってはいない。とまあ、そんなわたしに、いつかのバラエティ番組で見たような嬉しいドッキリを仕掛けてくれる友人や知人はいるはずもなかった。これはきっと、ドッキリ大作戦ではないと言うのがわたしの見解だった。
誰にも見られないようにこっそりメモした健斗の住所。指定された日は三日後の木曜日で、当日までわたしは生きた心地がしなかった。当日は、なんだかんだ理由をつけて半日休暇をもらい、お昼休憩と共に会社を後にした。
わたしは健斗のマンションがある麻布までタクシーで向かった。緊張に緊張を重ね、もう自分の身体が自分じゃないほどに熱っていて、とてもじゃないけれど電車に乗っていく気にはなれなかった。タクシーにひとりで乗り込んで、外の景色を眺めながらこれから起きる出来事を脳内で妄想し、ゆっくりと味わっていたかった。もちろん、会話をするシミレーションもした。緊張しすぎて変な声が出ないように、マネージャーの長野さんの電話を受けた日から鏡の前で何度も何度も笑顔を作る練習もした。
——企画開発部の猫屋敷です。本日はどう言った不具合でございましょうか。
わたしの会社のお掃除ロボットは厳正なるチェックを合格した製品しか出荷しない。だから不具合が出るということはあまりないのだけれど、健斗が困ったことがあると言っている以上、まずは「不具合」という言葉を使ったほうがいいのだろうか。
——いや、ご不便をおかけして、の方がいいのかもしれない。
営業向きではない自分の語彙力のなさは今更仕方ない。それに誰にも相談なんてできやしない。わたしは、わたしの今できる全てで健斗の困りごとを解消する。そう心に決めて、マンションの住所を少し通り過ぎたところでタクシーを降りた。
「ここ、狭いけど大丈夫?」と運転手さんが聞いてくれたけど、そんなことは気にもならなかった。だって、すぐそこに健斗の部屋がある。狭い路地だけど、そこが一番人目につかないで車を降りれると思った。
健斗の部屋は少し古めのマンションだったけれど、入り口にはもちろんオートロックがついていた。部屋の番号708を押して、インターホン越しに健斗が「はい」と出た時は大袈裟ではなく胃袋や小腸、大腸までもが口から飛び出てきそうになった。
——健斗の声だ。間違いなく、健斗の声だ。
健斗の声を聞き、能面のように顔が固まってしまったわたしに健斗がスピーカー越しに声をかける。「あはは、どうしたんですか? 大丈夫ですか? 今開けますね」と、笑いながら健斗は言った。きっとインターフォンのカメラでわたしの顔が見えていたんだと思う。
こんなわたしを見られて、死ぬほど恥ずかしかった。
エレベーターに乗って七階のボタンを押し、健斗の部屋のチャイムを鳴らすとすぐにドアが開いて、見たこともないような健斗が中から顔を出した時はもう死んでもいいって思った。ラフなロングティーシャツは薄いグレーで首元がゆるっと開いていた。健斗はアイドルだし、テレビでもSNSでもルームウエア姿を見たことなんてもちろんないから、その姿を拝めたことだけで卒倒しそうになった。そんな自分を奮い立たせ、冷静を装い挨拶を交わす。
息を吸い込み拳を握りしめて、「本日はお日柄もよく——」なんて変な言葉を吐き出してから、自分が見当違いなことを言ったと気づく。
「ぷっ」と吹き出した健斗は「あはははは! 何それ?」と優しく笑った。
ああ、あの顔を思い出すと胸が痛い。辛すぎて体が雑巾絞りのように捻れていく。わたしの、健斗。今でもはっきりと思い出せる。あの時の笑顔も、声も、それにわたしの体中の血液が煮えたぎるような感覚も。
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