ao side

 ひょんなことから始まった翠との暮らしは意外にも穏やかなものだった。

16歳から一人暮らしをしているという彼女は全く家事ができなかった。彼女なりに頑張ってあれやこれやをやっているのが、不器用で可愛らしいと思えた。

バツが悪そうに俯く翠は年相応で親しみがわく。アイドルとして完璧なんだから気にしないでと慰めると翠ははにかんで笑った。

食べ物の好き嫌いも分かってきた。子供舌でハンバーグやオムライスが好き。ピーマンやわさびなど苦みは辛みは苦手。


 当初の目的であるについては必要ないのではと思うくらい翠は家にいた。

仕事でもプライベートでも一緒となると息苦しくなるかと思っていたが、互いに程よい距離感を掴めているのか気にならない。

むしろ、家に誰かがいる安心感すら覚えた。


 翠は肌を見せるのを嫌がった。部屋着は露出が少なく、お風呂に入るときは必ず宣言してから入った。おそらく鉢合わせないように配慮してくれているのだろう。

私が少しでも肌の見える格好をしているとわかりやすく目を逸らした。衣装のときにいくらでも見えているのに何を今更と思わなくもないが、おそらくアイドルとプライベートのスイッチが彼女にはあるのだろう。


 お酒もたまに2人で飲んだ。

隙がなく、凛とした印象の翠がアルコールを飲むとぽやっと柔らかくなるのが好きだ。たまに寂しそうにどこかを見つめている横顔にずっと魅入ってしまう。含蓄のある言葉に翠はきっと歌詞を書いても素敵だろうなと聞き惚れる。

 ほろ酔いでテレビ初放送の話題の恋愛映画を並んでみていたとき。こんなのありえないよ、とか今のはアリかなとか茶々を入れながらポップコーンをつまむ。

物語のクライマックス、2人の想いがとうとう通じ合うシーン。出来すぎたよねと隣の翠に賛同を求めようとした口を噤む。

一筋の涙が彼女の目からすっと落ちる。でもそれは単にこの話に感動しているからとは思えなかった。仄暗いような複雑な何かが感じられた。


「いいなぁ」


テレビの音量に掻き消されそうな呟き。


「私も」


彼女の芯に触れられるような気がした。

知りたいような、知ったらもう戻れないような。カンカンと頭の中で警戒音が響く。


「愛されたい」


翠の視線は熱く、視線で溶けてしまうのではないかと思うほど。気付かないふりもできず、かといって何か声をかけることもできず。

映画のエンドロールが流れる。


「なーんてね」


おどけるようにして翠は立ち上がり、空き缶やポップコーンの袋を片付けていく。

何か言わねばと言葉を絞り出そうとするも、彼女は自室へと消えてしまう。

 

 翠のことは大切だけど、まだ先程の彼女の瞳の熱さと同等の気持ちを持てているかと問われると答えは否だ。その場しのぎで調子のいいことを言って傷付けるより彼女のごまかしに今は甘えるしかない。


 翌日からの翠の様子は変わりなく、関係性が変わってしまうのではないかと危惧していた私はほっと胸を撫で下ろした。



 翠と暮らし始めて半年の月日が経った。

翠の好きな煮込みハンバーグをいつものように2人で食べていたとき。なんとなくつけていたテレビからそのニュースは流れてきた。

 ビルの屋上にて自殺を図ろうとした女性が友人による2時間にも及ぶ説得もあえなく、飛び降りてしまったと。

ご飯を食べているときに見るものじゃないなと思うが、わざわざチャンネルを変えるというのもなんだか違う。

 翠はどうだろうと正面に座る彼女に目をやる。彼女は思いを馳せるようにぼんやりと画面を見つめている。もうとっくにニュースは次の話題に移っていたが彼女は茶碗を持ったままじっとしている。


「かけられなかったんだろうね、人生。」

ぽつりとつぶやく彼女に首を傾げる。

それは死んでしまった人のことだろうか。その意味を考えあぐねている私に

「友達?2時間も止めようとしてたのに止められなかったってことは。繋ぎ止めるためにかけられなかったんだ、自分を」

と翠は言葉を続けた。

この世からいなくなりたい人を引き留めるために自らの命をかけなくてはいけないということだろうか。それはそうかもしれないが、それをできる人ってそうそういないのではないだろうか。

 頭の中をぐるぐると色んな思考が埋め尽くす。


「やっぱおいしいね。碧ちゃんのハンバーグ。だいすき。」


翠はもう、さっきのニュースは忘れているかのようにニコニコとハンバーグを咀嚼している。

「明日MVの撮影だからね。エネルギー蓄えとかないと」

「4時起きだっけ。8時間は寝たいから……え、あともう少しで寝ないとじゃん。」


オレンジと紫のグラデーションが美しい夕刻。またひとつ、翠の価値観に触れた。

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