#5A 始まった生活の終わりから
「悪い――考えたこと、無かった。少し、時間もらえるか?」
それがあの日の、キリエの答えだった。
あれから季節が一回りしたけれど――答えはない。
大学生になって、十八年暮らした街を後にして、そして――
「帰ったぜ……ホトリ……」
「おかえり、キリエ。結構、飲んできたみたいだね」
そのキリエと、ひとつ屋根の下で暮らしている。
キリエは高校入学の時点で東京の大学に狙いを定めていたらしく、バンド活動の傍ら受験勉強を進め――時々テレビで聞くような有名大学に合格した。
対する私はといえば、これからも絵を描き続けるには専門の学校に行かなくちゃいけない……そんな漠然としたモチベーションで、金魚のフンのように着いてきてしまった。受験のための書類も面談も、それに家探しだってキリエに頼りっきりで――けれど、独り立ちする勇気もなくて。
「水、貰えるか……?」
「お酒のときは、こっちの方がいいみたい……飲みさしで、ごめんね?」
ふらついたキリエは、土足のまま仰向けに倒れる。
上体を持ち上げて、枕の代わりに膝を差し込み……傾けた口許にスポーツドリンクを注ぐ。溺れてしまわないように、少しずつ。
東京に来てから、一年と三か月――じめつく都会の夏にも、少し慣れた。
「……大丈夫?」
「助かる、ホトリ……そうだ、今日さー……聞いてくれよ……」
へたれてしまった足の代わりに、この手は忙しなく動き続ける。
今まで国数英理社を学んでいた時間が丸っきり美術(ときどき社会)に置き換わって、それ以外の時間は溜まった依頼を捌く。そんな日々。
キリエの方はというと……大学で経営の勉強をし、軽音サークルに入り、駅前のアパレルショップでアルバイトをするようになった。
「……なに。ライブ大成功?」
「そりゃあ勿論……そういや、先輩がさー……アタシと、付き合いたいってさぁ」
――そして、どうやら彼氏が出来たらしい。
「そっか――」
いや、まぁ。 実のところ……そこまでショックを受けたわけじゃない、と思う。
あの日の告白は、私も気の迷いということで処理したし。
こうしてルームシェアしているのも、上京するにあたって金銭面でも安全面でも二人の方がいいって話になっただけのことだし。
それに――キリエに誰からも声がかからない方が、私にとっては、遺憾なくらい。
「だから、問題なし。うん」
無意識にやたら増やしていた新規レイヤーを消して、必要なものだけを結合する。そこに下書きレイヤーが混ざっていることに気付いて、ちょっぴり絶望した。
「――じゃあ、いや……それでは。②のラフで、行きます。期限は、予定通りに。」
普段は本当に苦手な依頼主との打ち合わせに、今は少しだけ安心を覚える。けどこれも一過性のもので――午後四時、集中の切れた指先は……いつの間にか、キリエの所属する軽音楽サークルの名前を検索窓に打ち込んでしまっていた。
「先輩……だから、四年……は、引退してるんだ。三年……?」
サークルのアカウント、そこに所属する人間を見つけては――キリエとのツーショットを探す。回答編のない推理を、無限に繰り返していた。
「はぁ……何、やってるんだろう。私は」
いつか、こんな日が来るというのを……考えなかったと言えば、嘘になる。
長い黒髪には、いつからか赤い稲妻めいたメッシュが刻まれて。ライブの時しか見られなかったパンキッシュな服装は常になって……東京に来てからのキリエは、更に格好よくなった。私の方はと言えば、実家から持ってきた服だけで日々を過ごしていて、特に変わり映えもない。
それに、高校と違って大学はもちろん共学だ。そうなったらキリエが放っておかれるわけもない。
こうして所在なくサークルのアカウントを見ていると、集合写真やライブ中の写真を幾つも見つける。そこに写るみんな、男女問わず、なんていうか……そう、画になってると、思う。
私なんかよりも、よっぽど釣り合っていて――
「どしたよホトリ。食欲ないか?」
「あ、ごめんね。大丈夫、いただきます。ちょっと、これからの、考え事」
キリエの声と、キリエお手製カレーの香りに意識が覚醒する。
あの暴露から、既に二週間が経っていた。以来、続報は無い。けれどそのせいで私の頭は空回りを続け、無意味な思考の螺旋階段をひたすらに昇降している。
「これから。もう夏休みだもんな、もう。ホトリは夏コミだっけ」
「え?あー……うん。そうだね、今年は受かったから……色々、頑張る」
「いいね。部数計算と――あと、そうか、売り子か。その辺、頼んな」
「ありがと。キリエは?」
「アタシは夏合宿ライブの練習と、後はインターンがちょっとな」
「……忙しくなるね、おたがい」
カレーと海藻サラダに彩られたテーブルに、今夏のタスクを散らかしてみる。
去年よりも明らかに増えているそれは、無意味に悩む時間など残されていないということを、無機質に客観的に伝えてくる。
――何か、動かないと。
「あぁ後、今年は帰ってこいとよ」
「かえる?」
「実家実家。去年は戻らなかったから、せっつかれちまってさ」
「あぁ、そうだね、じゃあ――そうだ、今年は、一緒に帰る?」
だから、目の前に現れたものを。蜘蛛の糸だと勘違いして……手繰り寄せた。
「そーだな。一人で帰っても息詰まるし、ヒマだし。」
「あ、あと。」
「ン?」
――いいんじゃねえか、勘違い。
最後に背中を押してくれるのは、今より少し高いキリエの言葉。
延々考えるよりも……思い込んだまま突っ切った方が、私らしい。いつかの言葉を今の私用に少し繕って、原動力の薪にする。
「――そうだ。向こうに帰ったら、ちょっと。行きたいところあるんだ。」
最後に。
もう一度だけ、思いを告げよう。
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