#3 だって貴方に変えられた世界で

 私から見て一メートル遠く、四十センチ高いステージで。

 筧キリエは歌う。ギターをかき鳴らしながら。


「――今この瞬間、アタシは!アンタのために、歌ってるんだぜ……ッ!」


 絶頂のキリエがフロアに放つギターピック。そこには私が描いたバンドロゴが――ガトリング砲を携えたシスターのイラストが――プリントされている。

 筧キリエがギターボーカルを務めるガールズバンドのロゴ作成。

 それが倉橋ホトリの人生最初の有償依頼だった。


 依頼料、十万円。支払期限なし。


 ロゴのイロハを知らずに描いたせいで、縮小印刷されると不細工になってしまうそれは既に黒歴史入りで、こちらからリテイクを申し出たくなる。

 あれ以来、キリエに背中を押されてネットでの依頼も請けるようになったけれど――実力でこの値段を付けられるようになるには、あと何年かかることか。


「よーッ、待たせたなホトリ」

「うん、おつかれさま、キリエ」


 ライブ後、ビル風が吹き抜ける路地裏で待つこと三十分。ギターケースを背負ったキリエが出てくる。一丁前にサングラスで人目を憚ったりなんかして。


「大丈夫、なの?キリエだけ、出て来ちゃって」

「何だよ今更。今日はホトリが先約だったろ」

「んー、でも。ライブの日は、ほら。打ち上げとか。私のことは――」

「――諸々込みで承諾してんのアタシは。ほら、土産」

「ひゃ」


 言いながら差し出される瓶コーラが、首筋に触れる。

 今日の熱狂と八月の熱気に煽られたキリエの火照りと拍動が確かに伝わる。


「まぁ?ホトリがアタシの力抜きで期末を乗り切れるってんなら――そうだな、お言葉に甘えて打ち上げ合流すんのも悪くはねーが……」

「――私が悪かったです。お勉強、お教えしてください、キリエさまー」

「よろしい」


 ことあるごとに「天才」を自称する筧キリエは、実際天才だった。

 学校の勉強程度なら復習無しで九十点代をマークするし、体育だって競技によっては運動部を凌ぐくらいの運動神経を見せる。美術だってデッサンだけなら私よりも上手なくらい。しかも教えるのも上手いんだから、もう完璧超人だ。

 そういうわけで、テスト前の土日には泊まり込みで家庭教師をしてもらっていた。これが無ければ恐らく、キリエと一緒に三年生を迎えることは出来なかっただろう。


「それに、アタシだってタダ働きじゃない……だろ?」

「それはそう、だけど。そういえば、残りは?」

「二万とちょっと。ま、卒業までには余裕で」


 依頼料の十万円を、キリエは高校三年間で少しずつ私に返済している。

そう言っても金銭でのやり取りではなく(それは私が拒否した)、例えば購買の紙パック飲料だとか、コンビニのシュークリームだとか、ライブハウスへの交通費だとか、チケット代だとか。そういうものを(時々勝手に)奢ってきて、その分が十万円から差し引かれていく。けど、そもそも十万円自体なんて値段を付けたのはキリエ自信だし、あんまり実感はない。ちなみに家庭教師はテスト一回につき五千円。


「さて、と――その辺のファミレスでいいか?」

「キリエ、結構汗臭いよ。着替えは?」

「無い――んなら、こっからだとホトリの家のが近いよな、空いてるか?」

「うん。お母さんにも、今日来るかも、って言ってる」

「泊まりも?」

「大丈夫」


 土曜、夜八時。家の最寄りに向かう車両は――人もまばら。

 隣に座るキリエは、いつの間にかギターを抱いて眠っていた。急に訪れた静寂に、余計なことを考えてしまう。高校卒業後の進路とか、自分が本当に絵で生きていけるのかとか、キリエが十万円を完済したら、私たちの関係はどうなるのか……とか。


 船を漕いだキリエの顔から、ずり落ちたサングラス。

 それが床に突く前に拾えたのは、いつの間にか彼女の顔を見ていたせい。

 なんとなしにかけてみるけれど、世界が一際暗くなるだけだった。


「そういや聞きそびれたな――どうだった?今日のアタシは」


 最寄り駅に着くと、すっかり元気になったキリエがそんなことを言った。


「うん、かっこよかったよ。相変わらず、ファンサ凄いね」

「――はん、惚れ直したか」


 その、余計な一言で。

 いつからか胸の奥に生まれていたものが、蠢くのがわかった。


「ねぇ、キリエ」


 遠くから聞こえる花火とか、

 最悪、掻き消してくれそうな駅前の喧騒とか。

 読みかけのライトノベルの話とか、

 キリエが歌ってた、知らないバンドの歌の歌詞とか。

 全部分かってるみたいな、キリエの自信満々の笑顔とか。

 

「――私が、好きだよって、言ったら。付き合って、くれる?」


 言い訳百個を踏み台に、それはついに、口許から転がり落ちてしまった。

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