ミスアンダースタンドランダバウト

@KitakamiNero

#1 ¥100,000

 逃げ込んだのは、階段の踊り場。

 眼前には屋上への接続扉――けれど、未使用机のバリケードに封じられたそこは、私の逃亡を許可してはくれない。万事休すで座り込めば……埃が舞って、噎せた。

 

――足音が、ひとつ。

 

 神田さんが逃げ出した私を嘲笑うために追いかけてきた?いやそれなら、取り巻きの二人も一緒じゃないとおかしいし。

 先生が様子見に来た?あり得る……けど、ありがた迷惑だと思う。これで放課後の議題にでもなれば、これからの学校生活は針の筵だ。


「よっ」


 現れた想定外の人物に、たじろぐ。

 長く揃った睫毛に守られた切れ長の目に、獰猛に吊り上がった口角。隙間風に長い黒髪が靡いて、耳元に隠したピアスが煌く。百七十センチ超えの長身も相まって、第一印象だけで敬遠するに足る……狂暴なビジュアル。確か、名前は――


「なに、筧さん。あなたも。私に、勘違いだって、言いに来た?」


 筧キリエ。私が彼女に口答え出来ていること自体が、自分がやぶれかぶれであることを証明している。


「――ハッ。アタシはアイツらみたいにヒマじゃねーよ」

「じゃあ、なに」

「傷心のアンタに恩を売って、絵を描いてもらおうと思ってな」

「……意味がわからない、けど」

「見たよ、アンタの絵。超上手いじゃん」


 上半身だけを折り畳んで、屈む私に視線を合わせる。

 狼に食われんとする赤ずきんの心境は、きっとこんな感じだろう。


「いいよ、お世辞なんて。それに、筧さん、分かるの?そういうの」

「正直あんまり。あんま見ないんだよな、アニメとかゲームとか」


 返す刀はあっさり届き、ばつが悪そうに視線は他所を向く。なんだこいつは。


「――だが!」

「な、なに」

「だが、どうだ。アタシより目が肥えてるだろう神田が自作発言するってコトは、やっぱ上手い寄りなワケだろ?それに『私の絵は10万だ』なんて大見得切れるんだ。将来性までバッチリ……アタシから見ればこんな優良物件ないぜ?」


 創作ダンスのように身振り手振りを伴って、いつの間にか声量とテンポの上がった語り口は、踊り場にやたら反響する。テキストにすれば、無茶苦茶なのに。

 神田さんが自作発言をしたのは、プロフに高校生と書いてあったからせいで、自分の絵に10万なんて破格値を付けたのも「フリー素材みたいなもの」と言われてカッとなって飛び出した買い言葉に過ぎない。

 だから「勘違いしてるんじゃないの?」と言う彼女の意見には、概ね同意だ。


――ならどうして私は、叫んで逃げてこんなところに来たんだろう。


「私なんて、ほんとう。勘違いしてるだけ、だよ」

「いいじゃんか。誰にでも出来るコトじゃないぜ」


 全ての独白が、今は目の前の狼に咀嚼されて。望んでもない解が返ってくる。


「――勘違いが?」

「少なくともアタシのような天才には、出来ない」

「……天才?」

「おう。ヘタに頭の出来がいいとな、プロになれるのは何分の一だ、今売れてるヤツは何歳までにヒットした……なんてグダグダ算盤弾いて、不安拗らせてロスしちまう。その辺のすっ飛ばして突っ走れるんなら、勘違いだってなんだって大歓迎だろ」


 急な自画自賛。……あと、言外に私のことバカだって言ってない?失礼。褒めようとしているのは分かるけど、初対面だし、乱暴だし、これじゃ噛み砕けない。


「はず、なのに。」


 口は、ぱくぱくと下手な呼吸を繰り返す。瞳は潤んで、筧さんの顔が滲んでいく。 例えば、スポーツドリンクがいつもより甘く感じることから、水分不足に気付くように。私はこんな言葉が欲しかったのだと、分かってしまった。

 プロになるなんて思ったことも、自分の絵に値段をつけようと思ったこともない。けれど、私――なろうと思ってもいいのかもしれない。値段を付けてもいいのかもしれない。自分に才能があると、勘違いしても、いいのかもしれない。


「……いいよ、依頼。恩を着せられて、なんでも、描いてあげる」

「よォし、契約成立だ。改めてよろしく頼むぜ、『黑夢月』――」

「ちょ――ホトリ!!いいから、普通に名前で呼んでくれていいから!!」


 差し伸べられた手を掴む。

 見た目通りの馬鹿力に引っ張られて、あっけなく立ち上がる私の身体。


「よろしくな。倉橋ホトリ」

 

 高校一年生、梅雨迫る六月の半ば。

 屋上へ繋がるペントハウスの、踊り場。

 自信過剰な笑顔に巻き込まれて、私の人生が変わり始めた一日目。

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