第183話 痴漢、JC、勇者
俺とリオ、そしてクロエの三人は、黒澤Pの愚痴などで盛り上がりつつ、和やかな雰囲気でバス停に向かった。駅に着く頃には、時刻は八時前後になっていた。
ホームに入るのとほぼ同時に電車が来たので、待ち時間ゼロで乗り込むことに成功する。
「……座るのは無理だな」
春休み中なので学生の姿こそ少ないものの、通勤ラッシュであることに変わりはない。
座席は全て埋まっていて、疲れた顔の会社員がぎっしりと詰まっていた。
誰もが皆、死んだような目をしている。異世界の戦で見かけた敗残兵達が、こんな目つきだったように思う。
現代のサラリーマンってのは、負け戦続きの経済戦争に投入されているわけだし。雰囲気が落ち武者じみてくるのかもしれない。
俺は弱った乗客に同情の念を抱きつつ、つり革を掴む。俺の左隣ではリオ、右隣ではクロエが同じ体勢を取っている。
両手に花……いや二人とも未成年なので、両手につぼみだろうか。
なんとなく周囲のサラリーマン達の視線が険しくなった気がするのだけど、自意識過剰だと思いたい。
「どうせ混んでくるし、今のうちにくっついとく? 汚いおっさんと密着したくないから、事前に中元さんの腕の中あたりに避難したいんだけど」
「私は背中にくっつけばいいのかな?」
……もう自意識過剰じゃない。今のリオとクロエの発言で、付近のおっさんどもが殺気立ったのがわかる。
朝から公共機関で十代美少女を侍らすこの男は何者だ、と言いたげだ。
「くっつくのはよせ。傍に寄る分には構わないが」
やった、とクロエが呟いた瞬間、電車が動き出した。
ぐら、とバランスを崩したクロエを、片手で受け止める。
「……ありがと」
それから数分。
俺達を乗せた列車は何度か駅で停車し、そのたびに乗客が増えていった。
満員電車と言っていい。
これが全部東京駅で吐き出されるのだから、恐ろしい一極集中である。
俺が異世界にいた十七年の間に、首都圏の過密状態は一向に解消されなかったようだ。
『次はー、新木場。新木場』
母国の行政能力に頭を痛めていると、駅員が独特の発生でアナウンスを始めた。
新木場。
そこそこ大きい駅だし、また乗客が増えるのだろう。
息を吐いてとうんざりしていると、斜め前にいる女の子と目が合った。
碧い目。
はっきりとした顔立ち。
外人だ。
少しカールした髪は腰のあたりまで届き、ボーイッシュな服装と相まって活動的な印象を受ける。
……見たところまだ中学生くらいだろうが……様子がおかしい。
涙を浮かべて、唇を震わせているのである。
具合が悪いのか?
俺は口をパクパクと動かして、声を出さずにたずねる。
『ど、う、し、た、の ?』
金髪碧眼の女の子は、縋りつくような顔で答える。
やはり声を出さずに、唇で『い、あ、ん』の動きを見せた。
い、あ、んの発音。満員電車で涙を浮かべる少女。
この組み合わせは……。
痴漢?
俺が声を出さずに『ちかん?』と口の動きでたずねると、女の子は小さく首を縦に振った。
「……」
近頃は、痴漢の冤罪も問題になっているという。駅員はほとんど女性の言い分しか聞かないそうなので、男からすれば魔女狩りみたいなもんだ。
恐ろしいことだと思う。
この件をめぐって、男女で対立するような書き込みをネットで見かけたこともある。
よく話題に上がるのは、女性専用車両について是非などだ。
デリケートな問題だし、目の前の女の子が泣いていようとも、見て見ぬふりをするべきか?
もちろん、そんなわけがない。
だって一番悪いのは、痴漢をする奴だ。その次にきちんと調べて捕まえようとしない、警察や鉄道会社が悪い。
おかげで女の子が苦しんだり、男女で意味不明の争いが起きたりする。
犯人を正しくしょっぴくのを諦めて、被害者であるはずの女性達を隔離する方向に逃げたのがおかしいのだ。
こういうのは、分割統治に似ている。怒りの矛先が統治者に向かわないよう、民衆を二つのグループに分けて、片方だけ優遇した政策を取るという手法だ。これを行うと扱いが悪い側の民衆は、統治者ではなく自分より扱いがマシな方の民衆を憎むようになる。真に憎まれるべき者が憎まれない。
鉄道会社がそれを狙ったわけじゃないのだろうが、歪んだ状況だ。
ほんと、しょうがねえよな。
誰かが諸悪の根源を取り除かない限り、こじれる一方だ。
俺は目を閉じ、スキルを起動した。
【勇者ケイスケはMPを2000消費。二回行動スキルを発動】
【180秒の間、一ターンに二回の行動が可能となります】
人ごみをかき分け、少女の背後に回る。
ポケットからスマホを取り出し、撮影する。
全く同時に二つの動作を行うのだから、犯人が逃げ切れるはずがない。速さではなく、因果律で勝負しなければ無理だ。
カシャリと撮影音が鳴り、周囲の視線が俺に集まる。
「おー写ってる写ってる」
画面の中では、グレーのスーツから伸びた毛深い腕が、少女の尻を鷲掴みにする瞬間がばっちりと写真に収められていた。
俺は同じ色のスーツを着た人物を探し出す。
……あれか。
必死で窓際に逃げようとしている背中を、むんずと捕まえる。
腕力に任せて引き寄せると、俺よりやや背が高いことに気付いた。
恰幅のいいサラリーマンだ。
年齢は五十代後半から、六十代前半。肌はテカテカと脂ぎっており、真っ黒な髪は生え際が後退している。
大きな目の下には膨らんだ涙袋があって、狸親父と形容するのがしっくりくる。
「なんだお前は?」
私に何をするつもりなんだ。これは暴力だ、と男は喚いた。
「画面見ろよ。わかるだろ。あんた今、この子の尻触ってたよな? ……まさか恋人同士だったりするのか?」
金髪の少女に視線を向けると、ふるふると首を横に振られた。
「なるほど」
男に向き直る。……こいつ黒澤Pか杉谷さんの用意したサクラじゃないだろうな? とも思ったが、この汗のかきようからすると、おそらく演技ではない。本当に動揺しているようだ。
「これで冤罪はありえないだろ? 現行犯だ。次の駅で俺と一緒に降りような」
「お前は責任が取れるのか!? 俺には家族だっているんだぞ」
車内が緊迫した空気に包み込まれる。
誰も声を上げようしない。頼むからこの気不味い時間が終わってくれ、と祈っているように見える。
「大体、お前……お前……お前、手品師の中元だな。自分だって女子高生と婚約してるのに、俺のことをどうこう言えるのか」
「……今俺のことは関係ねえし、俺とリオの場合は互いに合意した上で婚約したんだが」
黙れ、と男は唾を飛ばす。
「お前みたいなのがいるから駄目なんだ。勘違いで立場のある人間をつぶす気か? 訴えてやるからな。そしたらお前なんて、二度とテレビに出れなくなる」
「ほお?」
「これだからゆとり世代は駄目なんだ。誰が今の裕福な日本を作ってやったと思ってるんだ。お前らもだ! 見てるなら助けろ! この暴力タレントを抑えろ!」
「色々勘違いしてるな」
俺は男の襟を握り、ゆっくりと腕を上げる。
ぐぐぐ、と男の体が持ち上がり、足が床から離れた。
「ひっ」と小さくうめく声が聞こえる。
今や男の頭は、他の乗客より遥かに高い位置にあった。
「俺は1985年生まれだから、ギリギリゆとり世代じゃねーんだ。まあゆとり教育どころか義務教育すら済ませてねーから、その世代より物を知らないけどな。でもお前みたいなのの対処法なら知ってる。死なない程度に痛めつけりゃいい」
「……殴る気か?」
「言っとくが、俺はタレント業に未練なんかねえよ。テレビに出れなくなったら、肉体労働して生活するだけだ」
「恫喝だ! 不当な逮捕だ! これで警察が相手してくれると思うなよ!」
「次の駅で降りろ」
「離せ!」
「次の駅で降りろ」
「……離せ……」
「次の駅で降りろ」
少し力を入れ過ぎたらしい。
男の襟が首元にしまり、顔が赤黒くなっている。
死にはしないだろうが、見ていて気分のいいものではない。
車両が停まる。
俺はドアが開くと同時に、男を持ち上げたままホームに降りた。
リオに向かって、「先に行っててくれ」と声をかける。
「おっさんはしばらく俺と一緒な」
俺は男を片手で持ち上げたまま、駅員を呼んだ。
ふと横を見ると、あの金髪の女の子も降車していたらしく、俺の隣で青い顔をしていた。
* * *
「……拘束時間長いんだよ、毎度毎度」
また駅で女の子を助けたんですか? と鉄道警察に面白がられながら、俺は事情聴取を終えた。
綾子ちゃん、リオ、そして金髪少女で三度目なのだから、慣れたもんだ。
さきほどの痴漢男は軽傷を負っていたようだが、俺が罪に問われることはないらしい。
実はいうとちょっとやりすぎたかな、と心配だったのだけど、杉谷さんに電話したら「ああ私の方で揉みつぶしておきますので」となんでもないことのないように言われて終わったのだった。
持つべきは権力者の上司である。
で。
ようやく交番から出ていいと言われる頃には、昼前になっていた。
確実に遅刻だ。
黒澤Pにスマホからメールを送り、こうこうこういう事情で、と説明する。
『イメージアップに繋がりそうなのでナイスです。それも番組で取り上げていいですか? 主婦層の人気が回復するかも』
返事は予想通りの内容。
俺は『お好きにどうぞ』と返し、スマホをポケットにしまった。
「ありがとうございました」
俺と同時に交番から解放された金髪少女が、深々と頭を下げる。今時日本人でも珍しい、九十度の角度だ。
「いいよいいよ。単にカッとなっただけなとこあるし」
あんま戦い向きの性格ではない俺だが、それゆえに庶民的な怒りで動くところがあるのだった。
敵国との因縁だので戦意が燃えることはないが、女子供が泣いているのは無性に頭にくる。
「いい歳したおっさんが、無理やり女の子を触るなんて許せないからな」
「同意の上で触るのは問題ないんですか? 中元さんって、十六歳のフィアンセがいるんですよね」
「そりゃあ。……そりゃあ……どう、なん、だろう……?」
己の日常を思い返す。
オフの日の朝は、アンジェリカに舌を吸われて始まる。昼は綾子ちゃんに口移しでお茶を飲まされ、夜はリオに背中を流される。
いくら向こうから迫ってくるとはいえ、真っ当な大人ならば振り切るのが道徳的に正解なはずだ。
なのに俺ときたら、やられっぱなしでいることが増えてきている。
互いに好意を抱いてるからといって、これは痴漢以上にアンモラルなのではないか?
俺は淫行番付の、かなり上の方にきているのではないか? 横綱ポジションにいるのでは? 将来の親方候補なんじゃ? 淫行協会の理事も狙える逸材なのでは?
「……なんだよこの、待望の日本人横綱……」
自らの危うさに気付き、愕然とする。
ぶっちゃけあの中の誰かと喧嘩して110番に通報されたら、全てが終わる生活をしている。
「……やべえわ俺……」
「中元さん?」
突然うなだれた俺を、金髪少女は心配そうに見つめていた。
「いやなんでもない。ちょっと罪の意識が噴火しただけだ」
「噴火ですか。ものすごく激しい比喩に聞こえます」
「……日本語上手いよな、君」
生まれも育ちも日本なんです、と女の子は答える。
「そうなのか? そういえばまだ自己紹介してなかったな。知ってると思うけど、俺は中元圭介」
「あ、はい。……柴田……こ……です」
「ごめん、下の名前聞き取れなかった。もっかい言ってくれないか」
「……
「えらい和風だな」
見るからにガイジンさんな風貌だってのに。
日本人の親と養子縁組した、白人なんだろうか?
「お父さんがアメリカ人なんです。お母さんは日本人。ミックスです」
「……そっか。今時はハーフじゃなくて、ミックスって言うんだな」
ジェネレーションギャップを感じつつ、女の子に目をやる。
すらりと長い手足。体格の割に大きな胸。金髪の巻き毛。青い瞳、高い鼻、真っ白な肌。
「お母さん本当に日本人?」
「よく言われます。地毛は黒なんです。目もカラコン入れてて、本当はグレーに近いの」
「実際は金髪碧眼じゃないわけか」
「半分日本人で、金髪碧眼なんてありえないですよ。……でもハーフタレントだと、より外国人っぽく見える方が需要あるから。見た目だけじゃなく、中身もそう。お仕事する時はカタコトで喋ります」
ハーフタレントと口にした瞬間、目元に悲し気な色が浮かんだのを見逃さなかった。
自分の人種は選べない。
色々と苦労してきたのだろう。
「そうか。君もタレントやってるのか」
こくりと光子は頷く。
「……あの」
「ん?」
「多分、今日からお世話になると思います」
「ってことは」
君も外国人に日本を褒めさせるコーナーに出るのか? とたずねる。
返事は無言の頷き。
……年齢を聞いてみると、やはり十五歳。学年は中三だ。
といってもあと数日で春休みが終わって、高校生になるわけだが。
「ん? 外国人に日本を褒めさせるって内容なのに、混血かつ日本育ちの君が出てるのか? 正直、見た目以外全部日本人なような……」
「ワー! スゴーイ! ワタシコウイウノハジメタミタ!」
「うおっ! カタコト超うめえ!?」
いやカタコトが上手いってなんだよって思うけども。
光子は一瞬で雰囲気を切り替え、完璧に「日本語が苦手なタメ口系外国人」を演じきっている。
「ワタシノクニニ、コウイウノナイ! スゴイデス! ニホンジンノチエ!」
「マジでそれっぽいな。欧米コンプの中高年が喜びそうだ」
「女優志望ですし」
言って、光子はペロッと舌を出した。
いたずらっぽく笑うと、途端にアメリカーンな印象に代わるから不思議だ。押し黙っている時の空気感は、物静かな日本人女性に近いというのに。
「……収録中は、エミリー呼びでお願いしますね」
「芸名か? わかった」
俺達は共犯者の笑みを浮かべ、ハイタッチをした。
悪い子ではない、と思いたい。
でも、この子の風貌が外国人風である以上、異世界から来た可能性は拭えないから。
「……解呪」
俺はてのひらを重ねたまま、小声で呟いた。
「かいじゅ?」
これとって変化は見られない。
光子……ではなくエミリーも、自身に魔法の類はかけていない。
「まじないみたいなもんだ、気にしないでくれ」
「?」
ひょっとしたら今回の刺客は、人型じゃないのかもしれない。
外国人を疑っても意味がない可能性がある。
「んー……」
俺が一人で唸っていると、みつ……エミリーは「じゃあ、私もおまじない」と囁いた。
「へ?」
反射的に顔を向けると、少女の白い肌が目の前に来ていた。
ちゅっ、と小さな音。
頬にキスをされたのだと気付いた時には、もうエミリーは階段を駆け下りていた。
……電車待たなくていいのか?
まあ痴漢されたその日のうちにまた乗り込む気は起きないか。
バスかタクシーで局に向かうのかな、などとどうでもいいことを考えつつ、さきほど唇が当たった箇所を撫でる。
……少し濡れている。
拭き取るのも変というか、むしろ一生このままでもいいのだが、頬へのキスはアンジェリカの得意技なので、なんだか一番やっちゃいけないことをしたような気分だ。
今日はアンジェリカに、何かお土産を買ってやらないとな……ていうか今から罪滅ぼしに、何か買ってきてほしいものを聞いておこうか。
再びスマホを取り出す。
そして画面を覗き込み、硬直する。
115092:50109
「……あ?」
表示されている時刻が、一層激しく狂っているのだ。
もはや画面からはみ出そうなほど数字が並んでおり、スマホの機能を弄ったとしても原理的に不可能なように思える。
いくらなんでも、ここまでおかしくはなかったはずだが。
……さきほどの行動を思い出す。
エミリーとハイタッチをし、頬にキスをされた。
あのハーフ少女との接触が原因でこうなった?
まさか、あの子が今回の事件の主犯なんだろうか。
「……考えたくないが」
俺はアンジェリカに相談してみることにした。
が、途中で指が止まる。敵は精密機器に干渉できる能力の持ち主。
ひょっとしてメールを盗み見ることもできるのではないか? という疑念が脳裏をよぎる。
ならば、暗号を用いるべきだ。
俺とアンジェリカの間にのみ通じる暗号――乳児語で文章を打ち込む。
解読に必要なのは言語理解ではなく、日常生活に支障をきたすレベルの母性愛だ。
『ばぶう。ばぶぶばぶぶばぶぶ、ばぶぅーばぶ。まんまおっぱい、ちゅきちゅき。ばぶ』
数十秒ほど経ったところで、送ったメッセージが未読から既読に切り替わった。
『え? お父さんの近くにいるかもしれないんですか?』
『たーいー。まんまばっぶ。バブ、バブブバブバブ』
『それは確かに怪しいですね……。術者との距離が近付くと、表示の狂いも強くなるのかもしれません。起動条件は接触なんでしょうか? もう一度会ってみた時に、色々と調べた方がいいと思います』
『バブ』
『ええ。面倒な相手です。私の方も警戒することにします』
『おぎゃあ……おぎゃ』
『大丈夫ですよ。この部屋は私とアヤコがいるんですよ? 普通の日本人しかいない場所より、よっぽど安全だと思います』
『まんまあああああぁぁぁぁ!! おむつぬれてるのおおおおおお!! まんまあああああああああああああ!! おしりふいてなのおおおおおおおおお!!』
『わかってますって。戸締りには気を付けます。お土産、楽しみにしてますからね』
『ふええ、ふええ、ふええ』
『はい、またあとで。お仕事頑張って下さいね、私の赤ちゃん』
文字を打ちすぎて、指が疲れた。
俺はスマホを左手に持ち変え、顔を上げる。
エミリーは疑わしい。それが俺とアンジェリカの共通見解。
前進している手応えと、嫌いではない少女を探らねばならない嫌悪感の両方を感じながら、俺はホームに向かって歩き出した。
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