第171話 交渉人、大槻綾子

 不思議な夢を見た。

 黒いアゲハ蝶となり、少女の腋から染み出る蜜を吸うという、深層心理が心配になるような夢だ。

 明らかに、眠る直前にやらかした行動に影響されていた。


「……俺はどうなっちまったんだよ」


 ぼやきつつ、目を開ける。

 こんなに奇妙な気分で起床したのは、生まれて初めてだ。

 トラウマ丸出しな戦場の夢や、エルザを失う夢なんかに比べれば遥かにマシだが、一人の人間として見ると、もっとおかしい方向に進んでるような……。


 まあいい。

 良い方向に考えよう。

 アンジェリカ達と戯れたおかげで、心が癒されつつあるのだ。きっとそうだ。

 無理やりな開き直りをしつつ、上体を起こす。


「ん」


 途端、甘い香りが鼻孔をくすぐった。ケーキ屋の前を通りがかった時のような、食欲をそそる匂いだ。なにやらキッチンの奥から火を使っているような音も聞こえてくるし、誰か飯でも作っているのかもしれない。

 

 スマホを覗き込むと、既に午後一時。なるほど昼飯時だ。何か口に入れた方がいい。


 俺はベッドから這い出ようと、足に力を込めた。すると柔らかいものが右足に絡みついているのがわかった。


「……アンジェか」


 一体どういう寝相をしているのか知らないが、アンジェリカは俺の右足にしがみつき、顔はへそのあたりに乗っかっていた。

 この状態で鼻呼吸をすると、直に俺の股間の嗅ぐことになるのではなかろうか?

 

「アンジェ、アンジェ。起きろ」


 細い肩を揺すり、起きるよう促す。アンジェリカはしばらく「んにゃんにゃ」とぐずるような声を上げていたが、やがてパチリと目を開け、


「……おはようございます」


 と照れくさそうに笑った。


「結構寝てたな」

「ですね」

「綾子ちゃんがなんか作ってくれてるみたいだし、食べようぜ」

「おとーさん、おとーさん」

「なんだ?」


 アンジェリカは体を起こすと、両手を頭の前に持っていって胸を張った。グラビアアイドルがやるような、バストと腋を強調するようなポーズだ。表情もそれらしく、誘うような目つきをしている。


「……なんのつもりだ?」

「え? しゃぶりついてこないんですか?」

「もうそんな気にならないっての」


 あの燃え上がるような欲望の炎は、どこへ行ったのやら。

 おそらく寝ている間に、理性低下が解除されたのだろう。

 晴れて普段通りの、禁欲的で健全で紳士な俺に戻れたわけだ。各方面から抗議の声が聞こえてきそうだが、とにかく普段の俺は紳士ったら紳士なのである。


「俺は先にあっち行ってるからな」


 未だ眠そうなアンジェリカを放置して、トイレに向かう。

 ジョロロロロ……ジョロロロ……と二十代の頃より少しだけキレの悪くなった排尿を済ませると、洗面所で手を洗い、口をゆすぎ、ついでに顔も洗う。


 アラサー男の起き立てってのは、目ヤニやら寝癖やらでそれはもう酷いことになっているのである。

 若い異性と暮らしてると、どうしても自分がどう見られているのか気になってしまうもので。

 鏡の前でひとしきり顔を弄り回し、見られる状態になってから俺はキッチンの方へと歩いて行った。


「おはよう綾子ちゃん」


 ……おはようございます、とか細い返事。

 綾子ちゃんはエプロン姿で、熱心にフライパンを見つめていた。調理で手が離せないのだろう。

 なら邪魔しない方がいいかな、と引き下がろうとしたところで、カチリと火を止める音がした。


「……中元さん、はい」

「?」

「……どうぞ!」


 綾子ちゃんは両手を上げ、恥ずかしそうに眼を逸らしている。


「……それ、なに?」

「あれ? 吸わないんですか、腋」

「吸うか!」


 どうやら俺は相当の腋フェチだと思われているらしいが、全然違うわ、と声を大にして言いたい。

 あれは理性低下のせいで一時的におかしくなってたんであって、平常時の俺ならば腋に対する執着など微々たるものだ。精々、美少女の腋汗に刺身を浸して食えばほのかな塩味と酸味で柚子醤油の代わりになりそうだな、美味いだろうな、と思うくらいだし、それを実行に移すほどの変質者ではない。


 俺は至ってノーマルなのである。

 ノーマルだよなこれ? 

 どうなんだ? 


 段々自分でも自信がなくなってきたぞ? 

 容姿端麗なファザコン娘達に毎日誘惑された結果、なんかもう色々おかしくなってるのは否めない。


 マジでどうなってんだよ俺は? 美少女の腋汗で刺身を食うとか考えちゃ駄目だろ……アラサー人妻の腋汗ならセーフだけど。


「危ないところだった。未成年の腋汗に執着するなんて、変態でしかないからな」


 年齢の問題ではない、と頭の片隅で警報が鳴っているが、無視することにした。


「そういえば何作ってんの? すげえいい匂いする」

「……ホットケーキ焼いてみたんです。皆疲れてるから、甘いものがほしいんじゃないかって」

「気が利くな。うん、確かにそういうのが食いたかったところだ」


 少なくとも米の気分ではないな、と頷く。


「……良かった……中元さんが喜んでくれるなら、作り甲斐があります……」


 綾子ちゃんはバンザイしていた両手を下げ、エプロンの裾をつまんでもじもじと体を揺らし始めた。

 家庭的で控えめで、まさに大和撫子といった振る舞いに、キューンと男心が刺激されるのを感じる。

  

 なんか、いいなあ。


「綾子ちゃんは結婚したら、きっといい奥さんになるんだろうな。……いい人妻に……」

「……え……」


 急にどうしたんですか、と綾子ちゃんは頬を染める。青白い肌が一瞬で燃え上がり、リンゴのような色合いになった。鎖骨から胸の上部かけてもやはり真っ赤で、全身で照れているのだと見て取れる。


「へ、変なこと言わないで下さい……中元さんのこと、恥ずかしくて見れなくなっちゃいます……」

「初心だなぁ」


 こんなことで照れてちゃ、悪い男に引っかかっちまうぞ? と心配になるが、俺と同居してる時点で、悪い男の毒牙にかかってるようなものかもしれない。

 ……不味いよなあ、これ。

 俺は保護者の役割をこなさきゃいけないはずなのに、日々綾子ちゃんと男女的な意味で距離が縮まっていくし。しかもアンジェリカやフィリアとも関係が進展しちゃってるし。

 

 我ながらゲスすぎないか? と冷静になってきたので、話題を真剣な方向に切り替えてみる。


「そうだ。俺さ、綾子ちゃんにかけてもらったデバフが解けちゃったみたいなんだよね」

「……あ、はい。わかりました。……また弱体化させればいいんですよね」

「ああ。でもこっちの綾子ちゃんだけじゃなく、またあっちの綾子ちゃんの力も借りなきゃいけない。ちと面倒だな」

「……あちらの私は、あまり協力的ではないんですか?」

「そうではないんだけど、あっちの綾子ちゃんとはそんなに親しくないからなぁ」

「……じゃあ、これを取引材料に使ってみたらどうでしょうか?」

「これ?」


 綾子ちゃんはポケットからスマホを取り出し、顔の高さでかざした。


「私よく中元さんが寝てる間に腹筋やパンツの中身を盗撮してるんですけど、この画像を見せればあちらの私は何でも言うことを聞くと思うんです」

「お、おう。なんでそれを俺本人に聞かせても大丈夫だと思った?」

「だって中元さんはもう私のものじゃないですか? ……そんな当たり前のことはどうでもいいので、今から私、あっちの自分に連絡取ってみます。……アドレスが変わってないのなら、いけるはずです……」

 

 前言撤回。

 こんな危ない女の子、いい奥さんになれるわけがねえ。

 俺以外の誰が面倒見てやれるってんだ?


 危険人物を世間から隔離する意味でも、一生養ってやらなきゃいけないのかもしれないな……。

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