第147話 ネゴシエーション
あんなものを見せられてしまったのだ。
とても話し合えるようなコンディションではない。
浮ついた熱が全身を覆い、獣じみた欲望が駆け上ってくる。
(頭冷やせ。相手は女子高生だろうが)
こういう時は、母親の裸を思い浮かべるのがいいと聞く。
男なら誰だってこれで萎えるからだ。
俺は動揺と興奮を鎮めるべく、さっそく頭の中でおふくろの服を引ん剥く作業に入った。
母ちゃんの裸……。
ママの裸……。
アンジェリカママの裸……。
途中から実母ではなく、エプロン姿のアンジェリカが艶めかしく脱衣するシーンに上書きされた。
俺はもう駄目だと思った。
(余計ムラムラしてどうする……!?)
十七歳の少女の部屋に不法侵入したあげく、ベランダで別の少女の裸体を妄想して悶々するおっさん。
変態ワールドカップで予選リーグを突破した瞬間な気がする。
対戦相手のJK大好きヤクザが、同年代の女性と健全な交際を始めるというオウンゴールをやらかしたのもあり(先日権藤からそういうメールが送られてきた)、結果的にケイスケ・ナカモト率いる日本代表はジャイアントキリングを達成、ベスト16へと進出……。
嫌だ……。
こんな形で勝ちたくなかったし、何よりこんな大会に出場したくなかった。
そもそも変態ワールドカップってなんだ?
イエローカードが逮捕状で、レッドカードが死刑嘆願書だったりするのか?
だがまあ、怪我の功名とでも言うべきか。
世界中の変質者がピッチで競い合う想像をしたおかげで、甘ったるい興奮は全て吹き飛んでいた。
罪と恥の意識が脳の大半を占領し、綾子ちゃんへの欲望は欠片だに存在しない。
「よし」
経過はどうあれ、結果が目的通りならばそれでよしだ。
俺は勢いよく立ち上がり、部屋の中へと向き直った。
紛うことなき覗きだが、相手は俺に惚れているのだ。
堂々としていれば怒られることなどない。
俺は勇者。何を恐れることがあろう。
腕を組んで仁王立ちしていると、件の綾子ちゃんその人が戻ってきた。手を洗ったばかりらしく、指先をしきりにハンカチで拭っている。
「うむ」
俺は静かに頷き、隠蔽魔法を解除した。
男は度胸。突撃あるのみである。
いけ、俺――!
「あっ、急でごめんね綾子ちゃん、頼むから大声出さないでくれるかな……」
卑屈な笑顔を浮かべながら、コンコンと窓枠をノックする。
ビクッと肩を跳ねさせて驚く少女に、低姿勢なスマイルをプレゼント。
……しょうがないだろ。
相手がモンスターだの魔人だの、自分の命を狙ってるような輩なら強気に出れるんだが。
俺に恋愛感情を抱いてる女の子が相手だと、どうしても遠慮してしまう。
無自覚に低姿勢になってしまうというか。
この子俺のこと好きなんだよな……と思うと、酷いことできないじゃん?
「……えっ、中元さんですか!?」
まるでセールスマンの如く頭を下げる俺と、口元を覆って硬直する綾子ちゃん。
なんとも情けないネゴシエーションの始まりであった。
「……」
「……よかったら開けてくれるかな」
「…………」
眉間にしわを寄せながら、綾子ちゃんは窓を開けた。
無理もないが、警戒心バリバリな顔だ。
「……どうしてこんなところにいるんでしょうか」
「君を呼び出す方法が思いつかなかった。最近おふくろさんのガード固いだろ」
なんたってこの子はほんの数ヶ月前に、カナの手によって真っ二つにされているのだ。
事情を知らないご両親からすれば、「通り魔被害に遭って制服を切り裂かれた娘」なのである。
あの一件以来、綾子ちゃんはあまり店先に立たせてもらえなくなったようだ。
親御さんが人目に晒すのを警戒しているのだろう。
そんな状況で独身男の俺がふらりとやってきて、「こんにちは店主さん。二階にいる娘さん呼んでもらえます?」なんて言語道断もいいところだ。
そう考えると昨日の夜は、よく一人で徘徊できたなと思う。
こっそり抜け出したんだろうか?
「……お母さんは大げさすぎるんです……」
「年頃の娘さんを持つ親なら、普通じゃないか? 現にこうして変な虫が寄ってきてるしな」
「……何か変なことしにきたんですか? なら入って下さい」
「なら入って下さいはおかしいだろ。俺が言うのもなんだが」
身をかがめて、再び部屋の中に侵入する。
「……それで中元さんは、我慢できなくなって、まだ明るいうちから夜這いをかけに来たわけですよね?」
「違う。全然違う」
ブンブンと首を横に振って否定する。
「ええとな、今日は綾子ちゃんに頼み事があって来たんだ」
「……プロポーズ、ですか?」
「そういう方向ではないね」
「……未婚のまま妊娠するのはちょっと……」
「だからそっち方面じゃないんだってば」
女子の部屋に潜入した俺もおかしいが、綾子ちゃんも相当キている。
もしかして俺は、とんでもない場所に迷い込んでしまったのではなかろうか。
食虫植物に飛び込んだ羽虫の気分だ。
「……じゃあ、何しに来たんですか」
「二つお願いがある」
「二つ……。もしかして、もう一人の私に関することでしょうか」
上目使いにたずねられる。
中々鋭い。
「そうなるね。もう一つは全然それとは関係のないことだが」
「……」
「綾子ちゃん?」
「あっちの私は元気ですか」
「え? ああ、異様にテンション高いよ。なぜか朝から肉料理作ってるし」
「……中元さんに精をつけさせてから、孕むつもりでしょうね……気を付けて下さいね……」
本人が言うだけあって、事実なのだろう。恐ろしい話である。
「私には学生っていう、守らなきゃいけない身分があります……だから歯止めが利きます。けど、あちらの私には社会的なブレーキがないんです……何をするかわかりません……。料理を食べたあと眠くなったら、危険信号です……すぐに吐き出して下さい……寝てる間に既成事実を作られちゃいます……」
「あ、ああ。肝に銘じておく」
ただでさえ小声なのに早口でまくし立てるものだから、聞き取り辛くて適わない。おまけに目も合わせちゃくれない。
俺と同居している方の綾子ちゃんは、以前より大きな声で喋るようになったし、目も合わせてくれるようになった。
同じ人間だというのに、環境の変化で既に内面も差別化され始めている。
なんとも不思議な気分だった。
「……中元さんはじゃあ、あっちの私と別れたいから、そのお手伝いをしてほしいんですね?」
「それも違うっていうか、俺が話す前から結論出すのやめようぜ」
「……ではどのような用件でしょうか……」
言って、綾子ちゃんは椅子に座った。できる女秘書みたいな動きだった。
が、直後モニターに目をやって「ああーっ!」と奇声を上げたので、なにもかも台無しだった。
なんたって画面いっぱいに、俺の胸板の拡大画像が表示されているのだ。
しかもその胸板の持ち主が部屋に押しかけてきたとなると、これはもう自殺ものだろう。
「あ、あのっ、中元さん、これは」
「俺のファンなのかな? いつも応援ありがとう」
「……う、うう……っ」
ゆでダコのように赤くなった顔に、にっこりと微笑みかける。
あえて画像を閉じる前に声をかけたのは、話し合いで主導権を握るためだ。
人間三十を過ぎると、こういう悪知恵も働くようになる。
「……えっと……見ました?」
「見たって、何を?」
「……中元さん、いつ頃からベランダにいたんですか」
「ついさっき来たばかりだが。ここに着いた時にはもうカーテンを閉め切ってて中の様子なんて見えなかったけど」
とはいえ何事にも限度があるので、しらを切るのも大事である。
「……じゃあ、本当に、何も見てないんですね……」
「もちろんだとも。……何か見られたら困るようなことでもしてたのか?」
「……してない、です……」
綾子ちゃんは唇を震わせ、慌てた様子で画像フォルダを閉じる。
両ひざをこすり合わせるような動きを見るに、己の痴態を思い出しているのだろうか。
「なあ綾子ちゃん、もう一人の君と仲良くやっていくのは無理かな? 保険証なんかを共有できると凄くありがたいんだけど。いつか大きな病気にかかるかもしれないし」
「……無理です」
未だ赤い顔のまま、少女は答える。
「ある意味双子の姉妹みたいなもんじゃないか。どうしてそう毛嫌いするんだ」
「……双子じゃないです。……あれは私の、老廃物です……私の体から分かれたんだから、抜け落ちた毛みたいなものです……」
「そりゃ言いすぎじゃないか?」
「言いすぎじゃないです。……私は私が、悪い子なのを知ってます……。汚いところも、全部全部……。こんな人間が二人もいるなんて、世も末です……」
話しているうちに頭が冷えてきたのか、綾子ちゃんの頬から赤みが消えていく。
「でも俺にとっちゃ、あっちの綾子ちゃんは家族も同然なんだよ。もう三ヶ月近く同居してるんだ。あの子のためにも、やれることはやっておきたい」
「……三ヶ月……」
「驚いたか?」
両手を股の間に挟み込むようにして、綾子ちゃんは言う。もじもじとした動作で、恥じらうように。
「……もう、あっちの私と関係を持ったんですか?」
「関係?」
「……肉体関係です……」
「いや」
俺はあの子の保護者だぞ、と返す。
「父親代わりなんだ。娘のように思ってる子に手を付けるわけがない」
「……なおさら危険です……それこそ私のストライクゾーンなんですから……」
綾子ちゃんは腿の間から出した両手を、ひざの上に置いた。
「あの、中元さん」
「なんだ?」
「絶対、引くと思うんですけど」
「引かないから言ってくれ」
「……」
「綾子ちゃん?」
実は一日八回は中元さんを使うんです? 小学生の頃お父さんに薬を盛ったことがあるんです? 過去に二人ほど殺してます?
どんな暴露が来ても綾子ちゃんだったら驚かないぞ俺は。
「……私……去年まで、その、お父さんのことが好きだったんです……。わ、私、ファザコンなんです……!」
「なんだそんなことか。知ってた」
「引きますよね……こんなのおかしいですよね……ですからあっちの私も、父親代わりの人間ならなおさらつけ狙うに決まって……あれ?」
俺なんて、脳が十六歳の少女をママと思い込み始めてるんだぜ。
マジで気にするなよと言いたいね。
「俺の周りだとよくある話だから、別にって感じだな。もっと酷いのがたくさんいるし」
「……そっか……あっちの私に聞いたんですね……」
綾子ちゃんは胸の前で両手を重ね、息を吐いている。忙しく動く手である。
「……気持ち悪く、ないんですか」
「特殊な趣味だとは思うが、実行に移してないならいいんじゃないか? 精々一緒に風呂入ったりしてたくらいなんだろ?」
「……そうですけど……」
「ならどうでもいいことだ」
性的な行為に及んでいないなら、物理的にはただのお父さんっ子でしかない。
極まった特殊性癖に囲まれて暮らす身からすると、今更そんなもん気にするかって感じだ。
それよりもとっとと話し合いを進めたい気持ちの方が大きい。
「……中元さんは、こんな変態女でも好きでいてくれるんですか……?」
「うん?」
【大槻綾子の好感度が99999999上昇しました】
なんだか話が変な方向に向かってるな、と俺が首をひねったのと、綾子ちゃんが立ち上がったのはほとんど同時だった。
「綾子ちゃん?」
急にどうした、と不思議に思っていると、ファザコン少女はベッドに向かってふわふわと歩き出した。
父親とのツーショット写真でも見せびらかす気か? と少々げんなりしながら眺める。
こいつらの行動パターンなどお見通しだ。
父親父親、何があっても父親。
適当にファザコントークに相槌を打ってりゃ機嫌がよくなるのさ、と姿勢を崩すと、綾子ちゃんは枕の裏から何かを取り出した。
……あんな位置に隠すもの、それも小さな四角形となると……嫌な予感しかしないのだが。
「……私……お父さんに執着してたのは事実なんですけど……でも、変なことはしてないです……。お父さんとは、キスだってしたことありません……ほんとです……。綺麗な体のままです……」
「そ、それがどうかしたかな」
「……中元さんの手で、確かめて下さい……」
綾子ちゃんは新入社員が名刺でも贈るような仕草で、おずおずと差し出してきた。
両手の指でつまんだ、避妊具を。
「……なんでこんなもん持ってんの」
「……女子は、保健の授業で配られますから」
「マジかよ……たまにあいつらだけ別の教室で授業受けたあと、神妙な顔してると思ったら……」
「……中元さんのお願い、聞いてもいいです」
「え?」
「……交換条件です。……その代わり、抱いて下さい」
震える声で、読書少女は言う。
「……もう、我慢、できないです……」
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