第143話 移動式白痴結界

 根がサディストでもなんでもない俺は、リオを調教すると決まって陰鬱とした気分になってしまう。

 確かにあいつは喜んでるけど、こんなことが許されるのだろうか、と。


 どちらかといえば俺は、アンジェリカの前で赤ちゃん返りしてる方が性に合っている。

 ひょっとしてあいつとは運命の赤いへその緒で結ばれてるんじゃないか、と思うほどだ。

 

 ……運命の赤いへその緒? 

 赤い糸じゃなくてか? 

 なんで俺、こんなフレーズがさらっと思い浮かぶようになってんだ?

 

 いかんな。


 あいつらの度重なる誘惑で、急速に性癖が折れ曲がっている気がする。ボキンと直角に進路を変更して、変質者コースまっしぐらだ。

 果たして俺は、元の健全なアラサー好きに戻れるのだろうか?


 このままじゃいつか本当に不祥事を引き起こすぞ、と頬をはたく。

 少し頭を冷やさねば。


 自販機でコーラを買い、勢いよく飲み干す。


 落ち着いて考えようぜ。俺はもうおっさんなんだぞ。

 三十代前半ってのは、世間から見れば家庭を持っていてもおかしくない年頃だ。

 そんな人間が女子高生とのスキャンダルを報道されたら、きっと粉ミルクしか飲ませてもらえなくなるだろう。

 アンジェママはああ見えて怒ると怖いのだ。母乳をお預けされた赤ん坊は、干からびるしかない。 


 俺達アラサー赤ちゃんからすれば、年下のママの愛情ってのは死活問題だからな。

 アンジェママに嫌われるリスクを背負ってまで、リオと一線を越えるわけにはいかないのさ。

 

「……ん? んん……?」


 いや、だから何考えてんだよ俺は。

 数秒遅れで己がモノローグの惨状に気付き、愕然と膝をつく。


 俺はもう、駄目かもしれない。

 リオを調教する一方で、順調にアンジェリカに調教されているみたいだ。


 なんでここまでおかしくなっちまったんだよほんと。

 いくらなんでも不自然なレベルじゃないか?

 確かにアンジェリカに母性を感じてはいるが、真っ昼間から甘えたくなるほど深刻ではなかったはずだ。


 ――人格に悪影響を及ぼすほどの、思考能力の低下――


 まさか、と大慌てで休憩所の外に出る。


「うおっ」


 すると視界いっぱいに、我が目を疑う光景が広がっていた。


「まんまああああ」

「ほぎゃあ、ほぎゃあ、ほぎゃあ」


 局のスタッフやタレント達が、幼児語を発しながらハイハイを繰り返しているのだ。

 大の男どもによる、集団赤ちゃん返り。

 地獄絵図としか言いようがない。


 俺はこの現象に、心当たりがある。


 術者の半径数百メートルほどにいる者の知力を低下させる、強力な弱体化魔法デバフだ。

 即ちそう遠くない位置に、異世界からやってきた魔法使いがいるということ。それも相当の凄腕が。


 この術を自在に使いこなせて俺と因縁があるとなると、一人しかいない。

 俺はそいつの人となりをよく知っている。

 記憶の片隅にそれらしき気配があるし、姿だって思い浮かべることができる。


 なのに、肝心の名前が思い出せない。


 そもそも思い出すとはなんだろう。

 俺は誰で、ここはどこなんだろう。


「……糞っ、しっかりしろ。俺は勇者なんだぞ!」


 崩れゆく思考を必死で繋ぎ止め、考える。

 解呪を自分にかければ、すぐにでも知力は戻るだろう。

 だが、解呪の詠唱法すら忘れてしまっているときた。


 このまま俺は全てを忘却してしまうのか?


 ――否。

 まだ詰みではない。


 たとえ自分が解呪を使えなくとも、他人に使ってもらえばいい。

 幸いアンジェリカはレベルアップで解呪を習得しているのだから、あいつに離れた場所から唱えてもらえばいいだけのことだ。

 解呪の射程はそれなりに長いのである、何も問題はない。


 震える指で、スマホの操作に移る。

 一刻も早く、アンジェリカに来てもらわなければ……。

 

『アンジェ、おれだ。まずいことになった』


 綾子ちゃんからSNSの使い方を教わっているようだし、きっと出てくれるはずだ。

 俺のことが大好きだと言っているあの少女なら、ちゃんと反応してくれる。


 頼む。


 祈るような思いで待っていると、メッセージが既読に変わった。

 中々返信が来ないのは、文字を打ち込むのに慣れていないせいだろう。


『どうしました? あ、文字打つのすっごい遅いと思いますけど、大目に見て下さいね』

『アンジェママのおっぱい飲みたい』

『え』


 違う、そうじゃねえよ。

 アンジェリカに甘えてみたい願望はあるけど、今はそれどころじゃないだろうが。

 俺が真に伝えるべきこと、それは――


『ママしゅきいいいぃ』

『私もお父さんのこと大好きですよ。でも急にどうしたんですか?』

『ママのこと考えてたら我慢できなくなった』

『……成人男性って、こうも簡単に精神年齢をブン投げられるんですね……正直びっくりですよ』

『ママのおっぱい飲みたい。さっきコーラ飲んだけど、こんなのママの母乳と比べたらただの腐敗汁だよ。飲めたもんじゃないよ』

『……やだ……今のお父さん、かわいい……』

『おっぱい』

『えっと、そんなに飲みたいんですか? 急には出ないと思うんですけど、いいんですか? まず私を妊娠させなきゃいけないと思うんですけど』

『ママのおっぱい飲みたいからママのお腹に赤ちゃん仕込む』

『ここまで過激派な赤ちゃんは初めて見ましたよ』


 俺も初めて見たよ。誰だよこいつ。本当に俺かよ。

 けど自分でも止められねえんだよ、もっと重要なことを伝えたかったはずなのに、お前に甘えること以外何も思い浮かばない……!

 俺だってこんなこと、したくないってのに……!


『お家に着いたら、すぐに吸わせてあげますからねー。ちゃんと寄り道しないで帰ってくるんですよ? ママとの約束ですからね?』

『うん! まっすぐかえる!』


 俺はスマホをポケットにしまい込むと、四つん這いの姿勢になった。


 ハイハイをするためだ。


 なんたって俺は、さっき未熟児で生まれてきたばかりの身。

 こんなとこで遊んでないで、保育器に戻らないと。

 あの中でいい子にしてたら、アンジェママが迎えに来てくれるんだ……。


「何やってるんですか中元さん」


 と。

 数十メートルほど這い進んだところで、眼前にハイハイ歩きをしている男が現れた。

 うっすらと日焼けした小太りのオヤジ。

 黒澤プロデューサーだ。

 脂ぎった四十男が赤ちゃんじみた動作をしている様は、もはやグロテスクですらある。


「黒澤さんこそどうしたんですか。膝汚れますよ」


 ごく当たり前の指摘をしながら、俺は立ち上がる。

 そう。立ち上がることが、できた。

 自分がさきほどまで知能低下のデバフを食らい、アンジェリカに助けを求めていたことも思い出す。

 この術の使い手も鮮明に思い浮かべることができる。


 知力が元に、戻っている……?


 見れば周りの人間も、次々に首をかしげながらハイハイを中断している。

 間違いない。弱体化は解除されたようだ。あるいは解除しないまま、術者が遠方に移動したのかもしれない。


「……なんですかねこれは。皆して地面を這ってたわけですか?」


 黒沢プロデューサーは、信じられないと言いたげな顔をしている。

 無理もないだろう。突如として職場が狂気に飲み込まれれば、真っ先に疑うのは己の正気だろう。

「集団催眠?」「薬物の散布による奇行?」などとブツブツ独り言を繰り返している。


「黒沢さん、不安なら医療機関に」

「これ報道したら数字取れますかねぇ。取れるでしょうねぇ。いいねぇ」

「……報道する気なんですか?」

「当然でしょう! いやー参りましたね、まさか自分自身がスクープの火種になるなんて。病院に運ばれる人が出たら、もっと話題になるんだろうけどなぁ。ADの誰か、倒れてくれないかな」


 視聴率最優先の生き様も、ここまで極めればあっぱれであろう。

 人としてどうかと思うが、テレビマンとしては優秀なのかもしれない。

 俺は呆れ半分、感心半分でプロデューサーを眺めながら、意識は己の内面へと向けていた。記憶の奥底で眠る、思い出の世界へと。


(あいつもこっちに来たのか)

 

 かつてのパーティーメンバーにして、デバフと精神操作のエキスパート。

 魔術師エリン。

 奴が来たのは、まず間違いあるまい。


 今から追いかければ、捕まえられるだろうか?


 ……駄目だ、無謀すぎる。


 あいつの半径数百メートルに近寄ると、また俺の知能は低下させられてしまう。

 そしてエリンは俺と同じように隠蔽魔法を使える。

 おまけに邪悪な存在ではないので、感知スキルで見つけ出すことができない。


 どこにいるのかわからない上に、難攻不落の結界持ち。

 実に厄介な相手だ。


 きちんと攻略法を考えなければ、一方的にやられるだけだろう。

 俺は頭を振って、会議室に戻った。

 考え事なら、仕事をこなしながらでもできる。


 きっと何か抜け道があるはずだ。

 何か……。

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