第139話 子守の報酬

 マンションに戻ると、俺はすぐさまベッドへとダイブした。

 着替えも済ませていないが、どうでもいい。


 とにかく寝たい。一刻も早く寝たい。


 どういうわけか今の俺は、猛烈な眠気を感じているのだった。

 短時間とはいえ酸欠状態に陥ったので、脳が休息を求めているのかもしれない。

 

 毛布を被り、ごろりと仰向けになる。

 そういえばアンジェリカとフィリアは向かいの部屋で一緒に寝てるから、このベッドは俺と綾子ちゃんで使うことになるんだろうか。

 それは不味いよなあ……と成人男性として当然の配慮をするも、既に思考がまとまらなくなり始めていた。


 駄目だ、俺の脳みそはもう眠ろうとしている。

 やむを得まい。今日は綾子ちゃんと一緒に寝るか。


 なあに、たかが一晩の添い寝で事故なんか起きないさ。


 さっき失神してた時だって何もしてこなかっただろうしな、と大いに油断しながら目を閉じる。

 そうやって睡魔に身を委ねていると、やがて後方からシュルシュルと衣擦れの音が聞こえてきた。

 おそらく綾子ちゃんが、パジャマに着替えているのだろう。そしてブラジャーを外しているのだろう。


 Eカップなのに就寝時はノーブラ派、それが大槻綾子という少女だ。

 これでまだ十七歳なのだから、正真正銘の危険人物と言える。

 まあブラジャーを着けてても思想面で危険人物であることには変わりないのだが、とにかくより脅威度を上げるような真似は止めて頂きたい。

 着けたままだと寝苦しかったりするんだろうし、しょうがないのかもしれないが……。

 

「中元さん」


 と。

 不埒な想像を膨らませていると、その綾子ちゃん本人に話しかけられた。

 耳穴をくすぐるウィスパーボイス。吐息がふうふうと当たって、無性にくすぐったい。


「起きてますか?」

「寝てるよ」

「……そうですか」


 隣いいですか? とか細い声でたずねられる。

 まさか「アンジェのとこに行け、このベッドは俺が独占するんだ」と言えるはずもなく。

 俺は力ない声で、


「好きにしてくれ」


 と答えた。

 返事はふふ、という笑い声。綾子ちゃんはさっきから、異様に声が朗らかである。

 そんなに公園でのやり取りは、心に響くものがあったのだろうか?

 

「お邪魔しますね」


 不思議に思っていると、綾子ちゃんはするすると俺の隣に滑り込んできた。

 ぱふっ、とベッドに体重を預ける音が鳴る。少し遅れて漂ってくる、少女のふわりとした香り。

 

 どうも綾子ちゃんは、俺と密着することを選んだらしい。髪の毛の先端が、そよそよと俺の頬を掠めている。

 かなりの至近距離だ。

 

「お話いいですか?」


 言いながら、綾子ちゃんは俺の右腕を抱きしめてきた。

 肘は弾性の塊に挟まれ(しかもブラジャーをしていない)、手首はふとももと思わしき部分で挟み込まれる。

 ……図体のでかい赤ん坊と思えばいい。

 たとえ乳尻ふとももが発達していようと、中身はまだまだ甘えたい盛りの赤ん坊なんだ。


 己に言い聞かせながら、耳を澄ませる。


「……なんだい? 俺眠いから途中で寝落ちしちゃうかもよ」

「そんなに時間は取らせませんから。明日の朝六時まで付き合ってくれるだけでいいんです」

「六時間近く喋り続けるのか……?」


 長えよ。

 けれど女が夜中に話しかけてきたら、長話になるのは確定事項みたいなもんだ。

 誰だってそうだ。エルザだってそうだった。


 フィリアに至っては深夜に突然飛び起きて、「私が死んだらもっと若い神官をパーティーに入れるんでしょう?」と何時間もめんどくさい絡み方をする日が月に一度はあった(なぜ月に一度なのかは察するべし)。

 そのたびに俺は「フィリアさん以外の回復役を入れるつもりはないよ、年齢なんか気にしてないよ、フィリアさんは綺麗だよ」となだめなければならなかったのである。

 

 異世界時代にたんまりと味わった、女だらけのパーティーの弊害である。

 そんなに愚痴りたいことがあるなら壁にでも言えばいいものを、奴らはなぜか男に聞いてもらいたがる……。

 しかも、愚痴る時間を選ばない……。


 こんなに面倒な生き物もいないだろうが、なんだかんだ言ってその煩わしさを受け入れてしまうのが男の愚かさか。

 情緒が安定しきってる女には、あんま魅力感じないだろうしな。それはそれで物足りないんだよな。

 男女ってほんと上手くできてるもんだ。

 

 性別という神秘、あるいは罠に思いを馳せながら、俺は目を開けた。

 目と鼻の先に、綾子ちゃんの顔がある。真夜中だというのに、瞳は爛々と輝いていた。

 この分だと愚痴ではない……と思いたい。


「今日はありがとうございました」

「え?」

「……嬉しかったです」

「ああ、それね……」


 気にしなくていいさ、俺は君の保護者なんだからと眠い目をこすりながら答える。


「……あっちの私を追い払った時の中元さんは、格好良かったです」

「そうかな? 自分でも何言ってたのかあんま覚えてないんだ」

「……とても男らしくて……頼りがいがあって……」

「そこまで言われると照れるな」

「何がなんでもこの人の子供を産まなきゃ、子孫で地表を埋め尽くさなきゃ、って思いました……」

「……」


 それ卵を産んで地球侵略を試みるタイプのエイリアンの台詞だよな、と恐ろしげなイメージを膨らませていると、綾子ちゃんちゅっちゅっと音を立てて俺の鎖骨に吸い付いてきた。

 

 ……寝れない。

 寝れるわけがない。


 この分だと一晩中、理性と欲望の狭間で戦わなければならないのだろう。

 



 翌朝。

 いつもより二十分ほど遅く目を覚ますと、綾子ちゃんは隣にいなかった。

 朝ごはんを作ってくれてるのかな? と台所を覗き込みに行くと、生姜とニンニクの香りを漂わせながら、肉を焼いている真っ最中であった。


「……おはよう。なんだか夕飯みたいな朝食だな」

「あ、おはようございます。今朝は中元さんだけスペシャルメニューですよ。豚肉の生姜焼きと、ガーリックトーストです。お飲み物はコンビニでマムシドリンクを買ってきましたから」

「……俺今日は仕事あるんだけど、口臭大丈夫かなそれ」

「夜はスッポン鍋にしようと思ってます。今日からは毎日、精のつく料理をいーっぱい食べてもらいますからね」


 聞いちゃいねえ。

 綾子ちゃんとは時々会話が噛み合わないけど、今がまさにそれだ。

 俺をギンギンにして、何をするつもりなのか。想像するだに恐ろしい。


 身震いをしつつ、洗面所に向かう。

 以前のアパートはトイレと洗面台が一つの空間に詰め込まれていたため、しょっちゅう用を足している女性陣と鉢合わせたりした。

 だがこのマンションはトイレが個室になっているため、そのようなアクシデントが発生することはない。

 

 今日からは気楽に顔が洗えるんだな、とるんるん気分で洗面台の前に立つ。 

 広くて衛生的な水回り。上がった収入で手に入れた、確かな成果だ。

 こういうところに充実感を感じるあたり、俺の精神構造はまさしく庶民なのだろう。


 顔を洗い、目やにを取る。

 それからトイレのドアを開けると、フィリアのスカートをめくり上げ、悪戦苦闘しているアンジェリカと鉢合わせした。


「おう。邪魔したな」


 何も見なかったことにしてドアを閉めると、直後、猛烈な勢いでSOSコールが始まった。


「お、お父さん! 起きたなら手伝って下さい! 神官長がしーしーを拒否するんです! このままじゃ床がびちゃびちゃになんです!」

「うやあああああー!」


 早朝から勃発する介護問題に目眩を覚えつつ、俺は再び扉を開ける。

 そうだ。元々フィリアを引き取ったのは俺の責任なんだ。アンジェリカに押し付けるわけにはいかない。


「フィリアはそんなにぐずってるのか?」


 アンジェリカは金色の眉毛をへの字に曲げ、困ったような顔をしている。

 

「朝一番のがまだ出てないのに、お父さんと一緒じゃないとおトイレしたくないって言うんですよ」

「な、なんじゃそりゃ」

「前はもっと素直だった気がするんですけどねえ。神官長ってば段々、お父さんに執着するようになってません?」

「……なんでだろうな? 男親の方がいいのか?」

「そりゃあまあ男親がいれば他に何も要らないのはわかりますけど、ちょっとは私の言うことも聞いてほしいですよ」

「わかるのか。……まあいい、続きは俺がやるからアンジェはリビングで休んでてくれ」

「いいんですか? ではお言葉に甘えて」


 さささっ、と軽快なモーションでトイレを抜け出すアンジェリカを見送ると、俺は後ろ手でドアを閉めた。

 何が起こるかわからないので、一応、施錠もしておく。


「……さて」


 ゆっくりと、視線をフィリアに向ける。

 薄手のネグリジェに身を包んだ、ゴージャスな白人美女。それが便器に座って、子供のような表情で拗ねている。


 アンジェリカの顔が甘めな東欧系なのに対し、フィリアは彫りの深い西ヨーロッパ系だ。ハリウッド女優なんかに居そうなタイプだろう。

 間違いなく「可愛い」ではなく「綺麗」の系統で、幼い動作がちっとも似合わない。そんなことをされても、ああ、こいつの精神は壊れてしまったんだ……と物悲しさを覚えるだけだ。


「朝から落ち込ませてくれるよな」


 かがんで、視線の高さをフィリアに合わせる。

 小さな女の子に言い聞かせるようにして、


「なんでトイレしたくないんだ?」


 とたずねる。

 フィリアは「お父様! お父様!」と声を弾ませていた。満面の笑みを浮かべながら、頬をぺたぺたと触ってくる。

 綾子ちゃんとは違うベクトルで話が通じていない。

 

「……アンジェのことが嫌いになったのか?」

「家族以外の人に、下着の中を見せてはいけないんですよ?」

「アンジェも家族だろ?」

「あの人は、お客さんですよ」

「アンジェのこと、忘れちゃったのか?」

「アンジェって誰?」

「……わかった、もういい」


 頭を撫でてやると、フィリアは安心したかのように目を細めた。

 緊張がほぐれたのか、単に甘えたかったのか。そのままフィリアは腕を伸ばし、俺を抱き寄せる。

 そして、静かに唇を重ねてきた。


 便器に座り、下着を下ろした女と接吻をする。

 朝からなんとも退廃的な行為に及んでいた。その上チロチロチロチロ、と水音も聞こえてきたのだから、もはや地獄行きは確定だ。


「……そうか。リラックスしたら出たか」


 フィリアが用を足し終えたのを確認すると、俺はトイレットペーパーをミシン目二つ分巻き取った。

 当たり前だが、女性が放尿したら拭いてやらねばならない。

 心を無にして一連の作業を済ませると、改めてフィリアに話しかけた。


「俺も小便したいから、どいてくれないか」

「お父様、ニンニクの匂いがする」

「フィリアは鼻がいいな」


 のろのろと立ち上がったフィリアと交代するようにして、便座に腰を下ろす。


「悪いが出てってくれないか。見られてると出るもんも出ない」


 小だけじゃなく大もしたいしな。さすがにこれを女に嗅がせるのははばかられる。

 俺が人として最後の尊厳を守ろうとあがいていると、フィリアは小首をかしげて言った。


「お父様は、私が死んだらもっと若い神官をパーティーに入れますか?」

「……何?」

「さっきの女の子は、私の次の神官ですか?」


 切なげに呟いて、フィリアはトイレを後にした。

 

「……」


 はて。

 今の発言に聞き覚えはないか。ある。あれは確か、俺がまだ十代だった頃にフィリアから言われた台詞だ。

 あの頃のフィリアはやたらと年齢を気にしていて、俺がもっと若い女神官を雇うんじゃないかと被害妄想に駆られていたのだ。

 

 その時期の記憶が蘇ったんだろうか?

 フィリアの精神は確実に壊れている。けれど全てを忘れたわけではなく、過去の思い出をいくらか残しているのかもしれない。

 俺への好意は残っているし、自分の身分が「神官」であることも覚えているようだ。


 なら異世界におけるダンジョンの知識も、保有しているのではないか?

 カナからもらったコインの手がかりを、知っているのでは?


 用を済ませるて、トイレを出る。

 洗面所に向かい、ぐずぐずと蛇口を弄っているフィリアの隣に立つ。

 

「一緒に洗おう」


 二人で水を共有しながら、話しかける。


「なあフィリア、聞きたいことがあるんだが」


 濡れたままの右手をポケットに突っ込み、コインを取り出す。


「これに見覚えはないか?」

 

 フィリアはじっと異世界の硬貨を見つめている。青い瞳からは、何の感情も見出だせない。小さな子供が虫の死体でも眺めているかのようだ。


「お父様、手が濡れてます」


 言って、フィリアは俺の手を取った。ためらうことなく自身の豊満な胸へと俺の手を押し当て、ゴシゴシと擦り付け始める。


「……あのなフィリア、女の胸はタオル代わりに使っていいものじゃないんだ」

「綺麗になった!」


 褒めて褒めて、と言いたげな笑みを向けられる。


「ありがとな、でも今俺はコインについて聞いてるんだ。フィリアなら何か知ってるんじゃないか」

「あーうー?」


 今度は左手を掴まれ、腋の下に挟み込まれた。生ぬるい密閉空間の中で、ゴシゴシと水気を拭き取られる。

 前後に出し入れされるたび、手のひらが揺れる横乳に当たる。


「わかった、もうお前の乳はタオルってことでいい。だからコインについて教えてくれ……」

「……」


 フィリアは薄ら笑いを浮かべながら、ぼんやりとした口調で言う。


「……王家の墳墓?」

「王家? ……王家に関係があるのか?」

「王様! 王様!」


 きゃっきゃとはしゃぎながら、フィリアは俺の手からコインをむしり取った。

 何をするつもりなのか。

 まさか口に含みやしないだろうな……とハラハラしながら見守っていると、なんとフィリアは朗々とした声で詠唱を口ずさみ始めた。


「神官長フィリアの名に置いて命ずる」

「お前、そんなのも覚えてるのか?」


 フィリアの精神はどこまで保持されていて、どこまで壊れているのだろう……。

 不安とも期待とも取れない感情を懐きながら、コインを凝視し続ける。

 やがてそれは眩い光を放ち出した。


 閃光、いや極光とでも言うべき光量だ。


「うおっ」


 反射的に目を閉じ、身構える。

 が、何も起きない。

 爆発というわけではなさそうだ。


「なんなんだ?」


 状況を確認するべく、そっと目を開ける。

 すると視界に飛び込んできたのは、壁一面に表示された文字の羅列だった。

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