第138話 クッキング綾子
俺は即座に綾子ちゃんを抑えようと試みたが、腕を上げたその瞬間、
「弱体化」
という呟きが聞こえた。
カクン、と全身の力が抜けるのを感じる。
なんとこの少女は、デバフを使って俺が抵抗できないようにするつもりらしい……。
とはいえ所詮、素人の浅知恵。こんなものはいくらでも解除できるのである。
俺はすかさず「解呪」魔法を唱えようと口を開けた。
が、舌がもつれて動かない。
「……?」
解呪のかの字が出てこない。まるで口の中が鉛になったかのようだ。
まさか脳出血でも起こしたのか? 初期症状は言葉が出なくなることらしいし、よりによってこんな時に――と思ったら、綾子ちゃんが俺の下顎を凝視しながら「弱体化弱体化弱体化弱体化弱体化」と念仏のように繰り返しているのが見えた。
えげつないもんである。
まず口の筋力を奪って、解呪の呪文すら詠唱できない状態にする腹積もりらしい。
あとは手足の筋力も弱体化してしまえば、無抵抗なお人形さんの完成だ。
おっさんを手篭めにするためにここまでするか? と言いたい。
だだまあ、この状態からの逆転も狙えなくはない。
今や俺の腕力は女の子並に引き下げられているが、目潰しや喉付きなどの手段を用いれば優位を取れるだろう。
でもそこまでやる意味はないし。
いいさ、好きにしろよもう。
相手は俺を好いている十七歳の女の子で、しかも男性経験は皆無ときてるんだ。
どうせ大したことはできやしないんだ。
キスかなんかで終わりだろ?
開き直って大の字になると、綾子ちゃんはより深く口付けをしてきた。
口や喉の筋力が弱っているところにそんなのがきたので、凄まじい息苦しさを感じる。
……長い。
また唇が重なっている。
いつ終わるんだろうか。
そろそろ息苦しくなってきた。
意識も遠ざかりつつある。
……俺は一体……何をされるんだ……?
* * *
気が付くと俺は、なぜかアパートの台所に立っていた。
おかしい、ここは引き払って向かいのマンションに越したはずだが……と狐につままれたような気分で首をかしげていると、いつの間にか隣で綾子ちゃんが袖まくりをしていた。
……いつ現れたのだろう?
いや、そういえばそうだった。
俺と綾子ちゃんは二人で料理をしているんだった。
なぜかあとから現状認識をして、それをあっさりと受け入れる。
これは夢でよくある現象ではないか、と俺の中の理性的な部分が告げていたが、そんなのことはすぐにどうでもよくなってしまった。
なぜなら今の綾子ちゃんは、とても幸せそうな顔で調理しているのだから。
縦セーターの上に白いエプロンを着込み、うっとりとした顔で棒状のものをすりおろしている。
あれは……山芋だろうか?
「とろろ料理かい?」
俺がたずねると、「ええ」と上機嫌な声で返事がきた。
「今時の若い子もこういうの食べるんだな」
「……女の子には人気あると思いますよ」
「そういうもんか? 言われてみればとろろ料理って、レディースメニューに多いかもな」
ダイエットに効果があったりすんのかなあ、なんて考えていると、綾子ちゃんはどこからか茶碗を取り出し、こんもりとご飯を盛り付け始めた。
そして、上からドバドバとおろしたてのとろろをかけていく。
そりゃあもう景気よくぶっかけていく。
一人で全部食えるのか? と心配していると、杞憂ですよと言わんばかりの勢いで食べ出した。
日頃お上品な食べ方をする綾子ちゃんにしては珍しく、ずるずると音を立てながら口内にかきこんでいる。
よほど腹が減っていたらしい。
米粒一つ残すものか、という執念すら感じさせる食べっぷりだ。
やがて綾子ちゃんはぶるる……と身震いしたかと思うと、「ごちそうさま」と手を合わせた。
いやはや。見事な食いっぷりだったよ、と俺はたまらず手を叩き、惜しみない賞賛を送ったのだった。
* * *
「――夢か」
どれくらい気を失っていたのだろう。
本能的な恐怖を感じて跳ね起きると、綾子ちゃんは俺の隣でぺたんと女の子座りをしていた。なにやら口元をハンカチで拭い、ぼーっとしている。
目が合った途端「美味しかったです」と呟いてきたが、どういうつもりなのか。
ズキズキと痛むこめかみを押さえながら、あたりを見回す。
まだ暗い。夜のままだ。
慌ててスマホを取り出して時刻を確認すると、十一時ちょっとだとわかった。
なんだ、こんなもんか。
やはり腐っても勇者の肉体。たかが酸欠では数分しか気絶しないようだ。
それでも十代の少女に不覚を取ったのだから、自慢できるものではないのだが。
「なんか倦怠感があるな……」
寝ている間に一体何をされたのか知らないが、けだるい感覚がある。
体内のエネルギーを何割か持っていかれたような感じだ。
ひょっとして綾子ちゃん、デバフの他に吸収系の魔法も使えたりするのか?
得体の知れない不気味さを感じた俺は、綾子ちゃんに再びのステータス鑑定を行った。
だがスキル欄は何一つ変わっていない。
目立った変化といえば、備考欄が「しゅきしゅき中元さんらいしゅきぃ」という文章で埋まっているくらいだ。
どうやらこの短時間で、すっかり精神状態を持ち直したようだ。
よくわからないけれど、元気が出たなら何よりである。
そんなに俺が好意を告げるのには効能があるんだろうか?
「とりあえず写真拾うの手伝ってくれないか。ご両親のプライバシーがバラ撒かれてる状態は不味いだろ」
「あ、ですね」
実に明るい声で即答される。
もはや完全に闇は消失したようだ。ふんふんとハミングしながら写真を集めている。
これが本来の大槻綾子なのだ。
確かに危ういところは無数にあるのだが、基本的には物静かで穏やかな人物だと思う。
恋愛と自分自身が絡んだ場合のみ、たかが外れるのである。
そう、自分自身。
あちらの綾子ちゃんからは、もう一人の己への激しい憎悪を感じた。
究極の似た者同士ゆえにそうなるのかもしれない。
自分の短所や欠点は誰よりもわかってしまうだけに、鼻につくのだろう。
戦争って内戦の方が残酷になりがちと聞くしな。
身内同士の争いほど醜いものはない。
それだけは避けなくてはならない。
なのにもう一人の綾子ちゃんはこのへんに俺達が住んでいることを把握してしまったし……異世界の連中は、地球をつけ狙っている。
色んな意味で危険が近付いているのではないか、と嫌になってくる。
「……面倒だなほんと」
ぼやいた声は、夜の公園に吸い込まれていく。
俺は力なく座り込み、呆然と綾子ちゃんを見つめる。
四つん這いで写真を拾い集める少女。まるで四つ葉のクローバーでも探しているかのようで、童女じみた仕草に感じる。
どんなに発育がよかろうと、まだ十七なのだ。
子供なのだ。
俺は大人として、この子達を守らねばならないのである。
「そうなんだよな」
弱ってる場合じゃない、とはっぱをかけて、腰を上げる。
「もう全部拾い終わったんじゃないか?」
「……だと思います」
「で、どうする? まだ話し合いするつもりかい?」
「……もう結構ですよ」
憑き物が落ちたかのように、綾子ちゃんは楚々とした微笑を浮かべている。
「……中元さんの気持ちは、伝わりましたから」
それにご馳走にもなっちゃいましたし、と爽やかな顔で告げられる。
俺、なんか食わせたっけ?
よくわからないがメンタルが立ち直ったのならばそれでよしということで、俺達はマンションに引き返すことにした。
「これは返しておくよ」
道中、不要になった避妊具の箱は綾子ちゃんに返した。
「そうですね、これからは避妊せずに抱いてくれるんですもんね」と何もかも勘違いした解釈をされたが、今は反論する気力もない。
「あ」
と、その時だ。
ポケットから箱を取り出した拍子に、一緒に出てきてしまったらしい。
袖に引っかかっていた硬貨が、チャリンと地面に落っこちた。
リオから受け取ったコインだ。
正確には俺がカナからもらった、異世界の隠しダンジョン産のコインだが。
すっかり失念していたが、これを回収して調べるのが今日の主目的だったはずだ。
「……フィリアが正気なら、色々聞けたんだがなぁ」
異世界出身の知識人は、残念ながら知性を喪失している。
ままならないものである。
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