第136話 なんでも知ってる

 一通り家具の配置を終えると、約束の時間が迫っていた。

 午後十時二十七分。待ち合わせの三分前だ。

 いつの間にか綾子ちゃんはいなくなっていて、先に公園へと向かったらしい。

 異世界女子二人はというと、とっくに床に就いていた。


 俺はアンジェリカ達を起こさないよう、そっと玄関の鍵を開ける。

 ノブを握る手に力が入らない。まるで全身が鉛になってしまったかのようだ。


 ――俺、死ぬのかな。


 気分としては、果たし合いの場に向かう剣客である。

 とても夜中に十七歳の少女と密会する人間の心境ではない。

 

 そりゃあ取っ組み合いになれば確実に勝てるけど、綾子ちゃんってなんか得体の知れない迫力があるし。

 弱体魔法デバフと女の情念を上手く組み合わせて、巧妙に無理心中を図ってくるかもしれない。

 あるいは犯されるかもしれない。

 男が女相手に何を心配してるんだと言われそうだが、怖いものは怖いのだ。


 何が一番怖いって、見た目は割と好みな方だから、情にほだされてコロッと落とされる恐れがある。


「最低だな俺……?」


 今のは自分でもどうかと思いながら、足を動かし続ける。

 廊下を真っ直ぐに進み、突き当りにある階段を早足に降りていく。

 このマンションは一応エレベーターも備え付けられているが、あえて歩く方を選んだ。事前に足を慣らしておかないと、逃走の際にスタートダッシュで遅れを取りかねないと思ったのだ。


 そうとも。

 何事も逃げるが勝ちである。


 殴れば終わりなモンスターと違って、女の子をなだめる作業には終わりがない。しかも上手になだめすぎると、今度はフラグが立って彼女候補になったりする。

 異世界時代に何度も味わった、男女関係という名のトラップである。底に蜜がたっぷりと詰まった落とし穴。落ちたら最後、待っているのは昼ドラだ。


 だからもしも綾子ちゃんとの話し合いで、妖しい空気になったら――ウンコしたいと言って、全力でトイレに走るつもりだ。


 それはもう走る。

 走って走って走りまくる。


 もうこれしかない。

 めちゃくちゃ情けないが、雰囲気を壊しながら回避行動を取る手段が他に思いつかない。

 

「……行くか」


 後ろ向きな覚悟を決め、俺はマンションの外に出た。

 頭上では幾千もの星達が瞬き、さながらメディアのフラッシュの如き様相を呈している。

 ……メディアか。

 そういや俺、週刊誌に監視とかされてたら終わるよな……? 


 ことの重大さに気付き、大慌てで隠蔽魔法をかける。

 最近は未成年女子と関わって自爆するタレントが多いので、警戒して損はあるまい。

 全く。十代の女の子ってのは色んな意味でめんどくさい。でも可愛いんだよな。

 ていうか元はアラサー好きだったのに、あいつらに調教されて性癖が歪んできてるんじゃないか俺?


 変わり果ててしまった己の内面を悔やんでいるうちに、俺は公園に到着した。


 どこにいるんだろう……と左右に目をやると、トイレ横のベンチにじっと座っている少女が見えた。 

 綾子ちゃんである。

 まるで置物のような静けさで、問題の少女はそこにいた。

 足はぴったりと閉じ、両膝の上に拳を置いている。街灯がちょうど俯き加減の顔に深い陰を作っていて、なんとも言えない負のオーラを醸し出していた。


 あれは別れ話か、あるいは妊娠を報告する前の顔である。付き合ってもないし孕ませた覚えもないのに、なぜこんな表情を作れるのか。


「……待たせたかな」


 なるべく気さくに聞こえるよう心がけながら、声をかける。

 綾子ちゃんはゆっくりと顔を上げ、「私も今来たばかりです」と答えた。鼻声だった。

 どうも泣いていたらしい。最悪の仕上がりというわけだ。


 俺はたっぷりと罪悪感を膨らませながら、綾子ちゃんの右隣に座った。自分が泣かせた女との話し合い。地獄である。


「話したいことがあるんだよな?」


 今すぐ子供向け番組にでも出れそうな、優しい声を作って話しかけてみる。

 綾子ちゃんの返事は、「しゃくりあげながら頷く」であった。

 

「と、とりあえず落ち着くまで待とうか? な? 今の綾子ちゃんは上手く喋れる状態じゃないみたいだし……」


 天災の域に達した攻撃魔法、日常生活すら困難になるレベルの高ステータス、チートなスキルの数々。

 そんなものはご覧の通り、女の涙一つで無力化されてしまう。

 男とはなんと悲しい生き物なのであろう?

 

 ちらりと横目で綾子ちゃんを観察すると、両手で顔を覆っているのが見える。

 ……夜中に黒髪の少女がめそめそやってると、幽霊と間違われるのではなかろうか。

 俺は世間様への配慮から、綾子ちゃんにも隠蔽魔法をかけることにした。

 

「多分アンジェの件で誤解してると思うんだけど、俺らは別に肉体関係を持ったわけじゃあ」

「……中元さんに拾われてから、料理のレパートリーを増やしました……」

「え?」


 綾子ちゃんは、何やら言いたいことがあるらしい。

 すんすんと鼻をすする音が混じるので聞き取り辛いが、俺は黙って耳を澄ませることにした。


「……中元さんは、凝った和食の方が好きみたいだから、煮物の作り方を覚えました……魚の煮付けも作れるようになりました……中元さんが、喜ぶと思ったからです……味噌汁も、実家にいた頃はインスタントの出汁を使ってましたけど、こっちに来てからはちゃんと煮干しから出汁を取るようにしました」

「あ、ああ、すっげえ美味いよ、ほんと助かってる」

「……美味しいご飯を作ってたら、いつか中元さんも私を好きになってくれるって信じてました……。でも、無駄だったんですね。……中元さんは、包丁もまともに握ったことのない、アンジェリカさんの方が好きなんですもんね……」


 まるで貞淑な妻を裏切って、外人パブの女に熱を上げる駄目亭主である。

 妻でもなんでもないはずの綾子ちゃんに、巨大な負い目を感じている俺がいた。


「……私の方がアンジェリカさんより、ずっとずっと中元さんのことを好きなんですよ……? 中元さんのことなら、何でも知ってるんですよ……? なのに私を選んではくれないんですか……?」

「なんでも?」

 

 不穏なものを感じたが、つい反射的に聞いてしまった。

 もちろん聞かない方がいい質問だったが、後の祭りだ。


「……中元さんは1985年7月1日生まれ、蟹座のO型……蠍座でA型の私とは、相性がいいです。……身長は百七十センチちょうどで、体重は六十八キロ。BMI指数だと23・53で数字の上ではちょっとぽっちゃりになっちゃいますけど、実際は筋肉質なアスリート体型ですよね……。学生時代に得意だった科目は、数学と体育……男子っぽくていいと思います……。きっと文系で運動音痴な私との間に赤ちゃんができたら、ちょうどいい能力に収まるかもって想像しちゃいます……。塩辛い味付けが好きで、お茶は熱めが好き。お酒は体質的に飲めないけれど、酒のおつまみは好き。海鮮料理が好き。読書傾向は平成史に偏ってますけれど、よく一緒に推理小説を買ってらしたので、本当に好きなのはああいうジャンルですよね……? 私中元さんと知り合って間もない頃に図書館にいるのを見つけて、こっそり遠くから観察してたことがあるんですけど、フランスの推理小説をたくさん借りていきましたよね? いいセンスだと思います……私もああいう本は好きです……中元さんが図書館に返却した直後に、同じ本を借りてページを嗅いだり舐めたりしてました……中元さんがさっきまでこれを読んでたんだなって思うと……私にとっては官能小説だったんです……読んでるうちになんだか変な気分になってきて……一人で、しちゃって……。そういえば今ので思い出したんですけど、中元さんって週に二回のペースで自慰をしてらっしゃいますよね? ネットで調べたら三十代前半の男性としては少々少ない方に入るみたいですけど、もしかして私達と同居してるから我慢してるんですか? 言ってくれれば手伝ってあげたのに、どうして声をかけてくれないんですか? 私は中元さんのプライベートも体調も何もかも把握していて、その上で好きなのに、どうして利用してくれないんですか? それともアンジェリカさんにそっちの処理を任せてるんですか? 定期的に二人でホテルに行ってるんですか? 私それを考えたらもう気が狂いそうで許せなくて死にたくて、今だって」

「わかった、落ち着いてくれ」


 前言撤回。これは貞淑な妻ではなく、貞淑なストーカーだ。

 ひょっとして俺は刺されるんじゃないだろうか?

 まんじりとして身構えていると、綾子ちゃんは幽鬼のような動作で俺にもたれかかってきた。


 美少女と密着しているのに、生きた心地がしないなんてのは初めての経験である。


「……ちゃんとあれ、持ってきてくれましたか?」

「あれ?」

「……ゴムです」

「それならまだポケットに入れっぱだけど……」

「……良かった。断られたらどうしようかと思ってました」


 言いながら微笑む綾子ちゃんは、壮絶なまでに美しい。

 壊れかけている者だけにまとえる、特殊な色香でもあるのだろうか?


「……中元さんは、悪くないんです……全部中元さんのおち○ち○が悪いんです……」


 綾子ちゃんの右手は、執拗に俺の左腿を撫で回している。


「……アンジェリカさんに取られる前に、早めに絞り取っておけばよかったんです……」

「あ、あのな綾子ちゃん、俺が今日ここに来たのは」


「――見つけた」


 見つけた?

 前後のやり取りと全く噛み合っていない台詞に、一瞬だけ時間が止まる。

 間違いなく綾子ちゃんの声なのだが、籠もっている感情の質も違っているように感じた。

 

 はて、どういうつもりなのか。


 不審に思って綾子ちゃんの顔を覗き込んでみると、どうやら向こうも驚いているらしい。両目をくっきりと見開き、硬直している。


「今、見つけたって……」

「私じゃないです」


 首を横に振られる。

 綾子ちゃんにも心当たりのない、綾子ちゃんの声。


 ――もしや。


 脳裏を駆け巡った予感に従い、顔を上げる。


 すると俺達のすぐ手前に、制服姿の少女が立っているのが見えた。

 上にコートを羽織り、学生鞄の中に右手を突っ込んでゴソゴソやっている。何か取り出そうとしているらしい。

 年齢は十代半ばから後半。身長は百六十程度で、前髪は目元を覆うほどに長い。だが顔立ちは地味めに整っていて、色っぽい文学少女といった趣があり――


「綾子ちゃん……?」


 そう。

 大槻家で今も普通に暮らしているであろう、もう一人の綾子ちゃんが目の前に立っていた。

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