第134話 あちらを立てればこちらが……

 アンジェリカの指は、アパートの一室を指していた。俺の部屋だ。


「なんだろう。強烈な闇を感じます」

「闇? ……感知でも使ってるのか?」

「いえこれはスキルではなく、動物的勘もしくは女の勘ですね」

「どういうことだよ」


 俺の部屋が抱えている闇となると――


「綾子ちゃんか」

「なんか嫌な予感がするので感知スキル使ってみたんですけど、アヤコの悪性が前より強烈になってます。膿んだ傷口みたいな、赤黒い色で表示されてますね」

「かなり機嫌が悪いわけだ」


 悪魔だの悪霊だのを探知するためのスキルで、日本の一般女子の精神状態を推し量っているのはどうなんだろうか?

 

「なんでアヤコは怒ってるんでしょう? 神官長がおもらしでもしたんでしょうか」

「アンジェは勘がいいのか悪いのかよくわからないな」


 やれやれ。勇者たる俺が、鈍い神聖巫女さんに教えてやるよ。

 今の綾子ちゃんはな、俺が居間で堂々とお前に甘ったるい言葉を吐いたせいで切れてんだよ。

 しかも直後に二人で出かけたから、逢引でもしてるのかと思われてんのさ。

 全く。これだから鈍感なガイジンさんは。


 つまり、大体俺のせいなのだった。


「……」


 背中がじっとりと汗ばんでいくのを感じる。

 なんかアパートに戻りたくないな、猛烈に。


「ねえ、今日は帰りたくない。どっか外に泊まろうよ」

「鋼のような体をした成人男子から、そんな乙女なセリフが出てくるとは思いませんでしたよ……」


 ガーリーな怯え方をする俺を置いて、アンジェリカはずんずんと足を進めていく。

 さすがに娘を盾にするのは不味かろうと、大慌てで後を追う。


「待て待て危ないから! 俺が先に入る。お前は後からついてきてくれ」

「お父さんは怯えすぎですよ? アヤコはちょっと変わったところがありますけど、性癖は至ってノーマルな女の子ですし、話せばわかるんじゃないかなって」

「いや性癖が一番駄目なんだけどな?」


 あれをノーマルだと感じるこいつも相当の危険人物だよな、と改めてファザコン娘の恐ろしさを思い知る俺である。

 そうだよな、こいつら性癖という一点においてはめちゃくちゃウマが合うんだよな……。


 普段綾子ちゃんとアンジェリカって、どんな会話を繰り広げてるんだろ? 


 あまり聞かない方がいいのだろうが、聞かずに放置するのはもっと怖い。

 なので試しに探りを入れてみたところ、アンジェリカは「義理派」で綾子ちゃんは「実父派」と多少の齟齬が見られるものの、概ね父娘婚の話しかしていないそうだ。

 ……で、アンジェリカはどっちかというと、自分が受け身になって父親に可愛がられるシチュエーションが好きらしい。ところが綾子ちゃんの方は、もっぱら『父親農場で家畜小屋にいる父親達の世話をする』といった感じの特殊な方向に向かいがちとのことで……父親農場?


「もっと詳しい解説がほしいんだが、それ」


 恐る恐るたずねながら、階段を上っていく。

 今や俺の恐怖は上限を突破しているが、アンジェリカはなんてことないですよ? な口調で続ける。


「なんかお父さんだけが飼育されてる牧場のオーナーになって、アヤコと交尾するたびに餌がもらえる制度にするのが夢だとか言ってましたね。さすがにこのレベルになると私でもついていけませんけども」

「わかったもういいぞ」


 人権意識が今より強まったら、思想犯として逮捕されるんじゃなかろうか、綾子ちゃんは。

 そんな危険人物が精神を濁らせてるとなると、これは正真正銘の危機であろう。


 そりゃあ戦って負けたりはしないけど、相手が俺に恋愛感情を抱いてる綺麗な女の子となると、とてもやり辛い。

 ある意味これは無敵だ。よほどの冷血漢でない限り、無下には扱えないと思う。


 惚れた弱み……とはちょっと違うか。

 そもそも俺が綾子ちゃんに抱いてる感情はなんなのだろうか? 同情が最も大きい成分な気もするが、その次に来るのが畏れな気がしないでもない。そして見た目に関しては、大変目の保養になるのでありがとう! な感じである。

 そうやって考えると、「ホラー映画に出てくる美人の幽霊」に対して抱く感情が一番近いかもしれない。すげー不気味なんだけど、演じてる女優が色っぽいせいで変に艶めかしいなこいつ……みたいな。


 今めちゃくちゃ失礼なことを考えてるな俺は?

 

 頭を振り払い、二段飛ばしで階段を上り切る。

 そうこうしているうちに、部屋の前に到着。

 ふぅーと息を吐き、精神を整える。


 よし。

 たっぷり言い訳するぞ。


 情けない決意と共に鍵を取り出そうとしたところで、先に内側からドアを開けられた。


「……お帰り……なさい」


 噂をすればなんとやらだろうか。綾子ちゃんの登場である。

 どうやら俺の足音を聞きつけて、出迎えてくれたらしい。


「あ、ああ。ただいま」

「……早かったですね……」


 耳を澄まさなければ聞き取れないほどの、か細い声。

 肌は漂白でもしたかのように青白く、エプロンを内側から突き上げる胸の膨らみはもはやはちきれんばかりだ。

 清楚なのにどこか扇情的な若奥さんといった感じの風貌だが、これで中身が異常者なのだ。人は見た目によらないのである。


「……中元さん、ちょっと髪湿ってません?」

「え? ……あー、汗かいたのかな。ちょっと走ったしな。ははは」

「アヤコー、ただいまですよ」


 遅れてやってきたアンジェリカの髪に、じっと視線を注がせる綾子ちゃん。頼む、気付かないでくれと胸の中で念じる。


「……アンジェリカさんの髪も……心なしかしっとりしてません?」

「えっ?」

「えっ?」


 アンジェリカと二人、同時にすっとぼける。阿吽の呼吸というやつである。


「……それになんだか、お風呂に入りたてみたいな匂いがするんですけど……男女が入浴するような機会というと、私には俗な想像しかできません……。気のせいだと、いいんですけど」

「気のせいだと思うな俺は」

「わ、私もお父さんに同意ですよ」

「……その息ぴったりなとこが引っかかりますね……あとでゆっくり、お話を聞かせて下さい……」


 ふふ、と優雅な笑いを残して、綾子ちゃんは奥に引っ込んでいく。

 細くてなよやかな、女性らしいラインの後ろ姿。

 縦セタの背中からブラのホックが浮き出てるのってえっちいなあ……なんて最悪の現実逃避をしている場合ではないだろう。


 俺は小声でステータス・オープンと唱え、綾子ちゃんの鑑定を試みる。

 女の子が何を考えているかわからない時は、ステータス鑑定に限る。

 備考欄ってほんと頼りになるよな。


 

【名 前】大槻綾子おおつきあやこ

【レベル】42

【クラス】家事手伝い

【H P】96

【M P】666

【攻 撃】66

【防 御】66

【敏 捷】66

【魔 攻】666

【魔 防】666

【スキル】ファザコン(狂) 弱体魔法

【備 考】強制的に分裂させられた少女。中元圭介が獲得した莫大な経験値がパーティーメンバーにも与えられたことにより、強力な後衛として育ちつつある。

 もう一人の自分に公的な大槻綾子の身分を独占されている引け目から、家事をこなして中元圭介に尽くすことにアイデンティティーを見出す。「毎日部屋を綺麗にして美味しいご飯を作れば、いつか中元さんは自分だけを好きになってくれる」と信じている。

 ……信じてました。

 それだけを心の支えにしてきました。

 でも今の中元さんは、私よりアンジェリカさんの方が好きみたいだから。私には勝ち目がないから。私みたいに気持ち悪いことばっか考えてる暗い女の子より、明るくて可愛いアンジェリカさんの方がいいに決まってますよね。

 そうですよね。

 誰だって私とアンジェリカさんがいたら、アンジェリカさんの方を選びますよね。私なんて勉強も運動も中途半端で実のお父さんを好きになっちゃう変態で、おまけに二人に増えちゃって生きてる資格なんてなくて、生活の面倒を見てくれてる中元さんで自慰をしちゃうような変質者で、こんなの見捨てられて当然ですよね。

 やっぱり私は駄目なんだ。生きてちゃいけない子なんだ。死んだ方がいいんだ。

 明日死のう。手首を切って死のう。そしたら中元さんが心配してくれて、その瞬間だけはあの人の心を独占できるから。

 ……なんでこんなに上手くいかないんだろう……。

 こんなにもこんなにも好きなのに中元さんには伝わらない。私は誰よりも中元さんを好きなのに。

 中元さんになら何をされてもいいのに。私の全部をあげるのに。命さえも権利さえも自由さえも。

 死んでも好きなのに。

 私の方が中元さんを好きなのに。

 アンジェリカさんより私の方が早く中元さんと知り合ったのに。

 私が一番中元さんを愛してるのに。

 誰よりも愛してるのに。

 全部を愛してるのに。

 声も目元も鼻も口も耳も喉仏も腕も足も胸板も腹部も背中も臀部も血液も神経も内臓も鼓膜も骨盤も赤血球も白血球も免疫系も何もかも全部全部好きで好きでたまらないのに。

 私なら中元さんの全てを受け入れてあげるのに。

 絶対に私の方が好きなのに。

 好きなのに。

 好きなのに。

 好きなのに。

 好きなのに。

 好きなのに好きなのに好きなのに好きなのに好きなのに好きなのに好きなのに好きなのに好きなのに好きなの



「……」


 ……途中から相手の主観に切り替わる備考欄なんてのは、初めての経験である。

 俺は震える指で、スクロールバーを下げ続けた。

 が、どこまで下げても「好きなのに」の羅列は終わらなかった。


 おそらくこれは、史上最長のステータスウィンドウであろう。

 そっとウィンドウを閉じ、テーブルを拭く綾子ちゃんに目を向ける。温和な笑顔を浮かべているが、そこがまた台風の前の静けさっぽくて怖い。


「……やべえな……」


 どこかでフォローを入れないと、綾子ちゃんは爆発寸前である。

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