第127話 パパの価値

 アパートの階段に、足をかける。

 手すりに触れてしまわないよう、ポケットに手を突っ込みながら上っていく。

 なんせ老朽化が進んでいるので、ここの手すりは錆だらけなのだ。

 触ると手のひらにべったりと汚れが付着して、大変なことになる。

 最初の頃はアンジェリカが両手を錆だらけにして、大騒ぎしてたっけ。

 

 この階段を利用するのも、あと数回。

 明日にはここを出て引っ越すと思うと、なんだか感傷めいた感覚が湧いてくるから不思議だ。


 まさか俺は、隣人が孤独死したアパートなんかに愛着を抱いてるんだろうか。

 男は年を取ると自分の習慣と結婚してしまうなんて言うが、実際その通りかもしれない。

 きっと意味もなく変化を嫌うようになるのだ。


 俺も老けたってことか、と自嘲しながら階段を上り終える。

 俺とは逆に、アンジェリカ達は新しい環境を楽しみにしているはずだ。

 あの子らの事情を最優先すべきなのだ。

 頭の中を独身男から父親モードに切り替えて、部屋のドアを開ける。


「ただいまー」


 返事はない。

 いつもなら台所仕事をしている綾子ちゃんが真っ先に出迎えてくれるのだが、どうやら居間にいるらしい。

 ……アンジェリカ達と一緒にテレビを見てるんだろうか。

 俺が出ている番組の鑑賞会をやっていると言っていたが、実物の俺より大事なのかそれは?


 若干の寂しさを覚えつつ、リビングへと向かう。


「ただいま……なんだなんだ、皆元気ないけどどうした」


 ベッドに横たわってぐったりとするアンジェリカに、テーブルの脇で体育座りをする綾子ちゃん。

 フィリアは年甲斐もなく女の子座りをし、赤く腫らした目元をごしごしと手でこすっている。

 

「喧嘩でもしたのか?」


 咄嗟に頭に浮かんだストーリーは、「フィリアがおもらしをしてしまい、それをアンジェリカと綾子ちゃんのどっちが掃除をするかで口論し、険悪になった」である。

 介護や子育てで頻発する問題であろう。

 夫の無理解が原因で妻に負担が……などとコメンテーターがまくしたてるやつだ。


 俺は別にアンジェリカ達と夫婦関係にあるわけじゃないけど、この家にいる唯一の男なわけだし。

 対応を間違えると、女性陣の共通の敵になったりしかねない。

 懐の広さが試されていると言えよう。


「なんかあったのか」


 俺に手伝えることはあるか? ときりっとした声で聞いてみる。

 するとアンジェリカがのっそりと身を起こし、生気のない表情で語り始めた。


「……さっきお父さんが出てる番組観てたんですけど、皆あれで心に傷を負った感じですね。ていうか説明して頂きたいんですけど。色々。詳しく。全部」

「どういうことだ?」


 背後で綾子ちゃんがぼそぼそと囁く。


「中元さん、『筋肉タレント特集』にタンクトップ姿で出てきましたよね。乳首浮かせて」

「お、男の乳首なんてどうだっていいだろ。減るわけじゃないし」

「……減ります。すり減ります。たとえ物質としての乳首が無事でも、乳首のイデアはしゃぶり尽くされてると思います」

「俺の乳首ごときに哲学用語を用いるなよ?」

「視聴率一パーセントでも、視聴者は百万人いるんです……。この番組の平均視聴率は十二パーセント程度だそうですから、千二百万人ですよ? それって日本人の一割が、中元さんの乳首を視姦したことになるじゃないですか。もはや乳首を配り歩いたようなものじゃないですか。立派な性犯罪の被害を受けたに等しいじゃないですか!」


 その発想こそが性犯罪では? と指摘したいが、怖くて言い出せない迫力が綾子ちゃんにはある。


「これだけの人数が脳内で中元さんの乳首を愛でたら、現実世界で体を汚されたのと何も変わらないです。誰も見ていない場所で陵辱された人と、皆が見ている場所で視姦された人では、後者の方が悪辣ではありませんか。これは乳首に対する殺人です」


 ぐすぐすと鼻をすすりながら意味不明の理屈をこねる綾子ちゃんに、そっと囁く。


「一ついいかな」

「なんですか……」

「あのさ。大前提として、これは凄く重要なことだと思うんだけど」

「はい……」


 すう、と腹に息を溜めてから、力強く告げる。


「――誰も俺の乳首になんか、興味ねえよ?」


 しぃん、と部屋の中が静まり返る。

 俺としては、ごく当たり前の常識を説いたつもりだった。

 だが綾子ちゃんの目つきはますます鋭くなり、アンジェリカは「お父さんは自分が女性からどういう目で見られているのか自覚するべきですね」とたしなめてきた。


 え……?

 なにこの反応?

 俺の方が間違ってるのか?

 世の中は三十二歳フツメン男の乳首に夢中だったりするの?

 俺だけ知らなかったんだけど?


「……私が……どうして今までこのアパートで家事を頑張ってこれたか、わかってますか……? 中元さんが定期的に、無防備な姿を晒すからなんですよ……? 安定した乳首チラや腕筋サービスのおかげで、料理や洗濯を頑張ろうって気になれてたんですよ……? それを、それを他所の女にもしてたなんて……パパ乳首の価値も知らないまま、投げ捨てるように……」

「すまん、わけがわからない。なんで家に生活費を入れるのと同じノリで、俺の乳首が語られているのかさっぱりわからん」


 ていうか俺のことそんな目で見てたのかよ、と思わず手で胸元を覆いたくなるが、俺の方も綾子ちゃんをそういう目で見ていたので、完全におあいこなのだった。

 だからこの件は不問にするとして。


「アンジェもそれで落ち込んでるのか? お前も俺の乳首に首ったけなのか?」

「私はそこまで男の人の乳首に執着は……正直途中からアヤコが何言ってるのかわからなくなりましたね」


 えっ、と綾子ちゃんが声を上げる。「裏切られた」みたいな顔をしているが、これが普通の人間の反応だぞ、と言ってやりたい。

 

「……私はそんなに……お父さんの体が他の人に見られるのは、やだなーってなりますけど、上半身はギリギリ許容範囲です」

「そう、なのか」

「下半身だったら許せませんけど。トランクスの中身は絶対晒さないで下さい」

「安心しろ、それをテレビでやったら俺は捕まる」


 そして家宅捜索されたらお前らの存在が露見し、俺は伝説の性犯罪者として名を刻まれるだろう。


「んーと。じゃあなんで塞ぎ込んでるんだ?」


 アンジェリカは暗い声で答える。


「お父さん、若い女の子達と共演してましたね」

「……あっ」

「大人気でしたよねー。全身ペタペタ触られたりして」

「ひょっとしてあれ、無編集で流されたのか……?」


 確かに俺は今、いくつかの番組で女性アイドルと仕事をしている。

 俺のファン層は、主に主婦と子供。引き締まった体目当てのおばさんと、手品で喜ぶ小学生が中心だ。

 で、女性アイドルのファンは成人男性がメイン。

 なので俺達が共演すれば、色んな層に受ける番組を作れるというわけで。

 そういった大人の事情から、最近の俺はやたらキャピキャピした女の子との仕事が続いているのだが……。

 

 筋肉タレント特集の収録は、一週間ほど前になる。

 そういえばあの時も、ゲストにアイドルが呼ばれていた気がする。

 あの子達が俺の体にベタベタ触れる場面も、あったようなないような。いや、あった。間違いなくあった。

「わー、中元さんの力こぶすごーい」みたいなノリで、それはもう色んな部分を撫で回された。


 でもそんな炎上確実な場面、絶対カットされて放送されるだろうなとタカをくくってたのに、まさかそのままの映像で全国区に垂れ流したのか?

 今頃怒り狂ったドルヲタが、俺に殺害予告をかましてるのではなかろうか。


「なんなんですか、あの|樹里(じゅり)って女! やたらお父さんにボディタッチ多くないですか!?」

「いや……えっと……恋愛禁止のグループに所属してるし、男の体が珍しいんじゃないかな……」


 そのアイドルに枕営業されかけたんだ実は、なんて言えるはずがない。

 これは墓の下まで持っていく秘密だ。


「アンジェならわかるだろ? ずっと女だらけの環境で過ごしてると、純粋に男って生き物が珍しくなるんだろうさ。だからほら、あの子らのお触りに性的な意味はなくて、単に好奇心からくる行動だったんじゃないか」

「わかんないですよ! 私はいつも好奇心じゃなくて、性欲に突き動かされてお父さんを触ってますもん!」

「お前とんでもないこと白状したな!?」

「お父さんの筋肉触ったら、えっちしたくなるに決まってるじゃないですか! あの番組に出てた女の子は、みんなみんな体目当てでお父さんにタッチしてたに違いないんですよ!?」


 ぜえはあと息を切らすアンジェリカを、呆れる思いで見つめる。

 そうか。

 そういうことなんだ。

 綾子ちゃんもアンジェリカも、自分が頭おかしいから、他の女もおかしいことを考えてると思ってるんだ。


 人間は、己が取るであろう行動の範囲内でしか、相手を疑えないのだ。


「……いいかアンジェ。お前には想像もつかないかもしれないが……世の中の大概の女の子は、性欲が淡いんだぞ……? 男と比べると、大分淡泊な生き物なんだぞ……?」

「?」


 ちょっと何言ってるのかわかりませんね、な顔をしている我が娘に、どう説明したものか、と肩を落とす。

 ……ていうか人種差もあるかもしれないしな、これ。

 日本人より欧米人の方が、夜はお盛んみたいなデータもあるみたいだし。

 エルザも積極的な方だったしな。


「ま、まあなんだ、とにかく日本の女の子っての奥手なんだ。アンジェがイメージしてるほどアグレッシブに男を誘ったりしない。変な心配しなくていいんだ」

「……そうなんですか、アヤコ?」


 いやその子はサンプルとして間違ってる、と制止するも、聞いちゃいない。

 綾子ちゃんは涙声で淡々と答える。


「いえ。日本人女性は基本的に、父親と父親に似ている男性は、性的に暴行しようと考えているはずです」

「ほらー! ほらー! アヤコもこう言ってるじゃないですか!」


 我が意を得たり、と鼻息を荒くするアンジェリカである。

 大変な事実に気付いてしまったのだが、この部屋、正気の人間がいない。

 なので誰かに意見を仰ぐと、もっと狂った意見が飛んでくるだけなのだった。


「……お前らは、俺が何をしたら機嫌を直してくれるんだ?」


 観念しました、と両手を上げながらたずねる。

 まるで老人のように衰弱しきった声が出てきたので、自分でもびっくりである。

 この短時間でここまで気力を削られるとは。こいつら魔王より強いんじゃないか?

 

「……今何でもするって言いました?」


【アンジェリカの性的興奮が70%に到達しました】


「……最後に妊娠検査薬を使うことになるお詫びなら、なんでもいいですよ……」


【大槻綾子の性的興奮が70%に到達しました】


 ギラギラと輝き始めた少女達の眼光を眺めながら、思う。

 そりゃこんなのと一緒にいたらフィリアも泣き出すわな、と。

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