第120話 勇者殺しの布

 己に言い聞かせながら、テーブルの前に座る。

 理性の力を総動員して、視線はリオから床へと移す。

 

 ……勝った。


 俺は浮きブラを眺めたいという獣の本能を押さえ込み、モラルを優先したのだ。

 己の中に潜む、邪悪に打ち勝った瞬間であった。

 まさに勇者だった。


 女子高生の浮きブラから視線を外したくらいで何を大げさなと言われそうだが、だって相手はリオなんだぞ?

 若くて綺麗で、俺に惚れていると公言している。あげくエルザの若い頃に瓜二つときた。

 これだけの要素が揃った相手を見ないようにするには、並々ならぬ意志の力を必要とするのだ。


 正直、異世界でデーモン退治をした時よりもしんどい。あいつらは殴れば大人しくなるけど、リオはそうもいかないからな。むしろ殴ればもっと乱れた上で懐いてきそうだし。

 

 ふうとため息をつき、深呼吸をする。

 その瞬間、鼻孔の奥に甘やかな香りが入り込んできた。

 

「?」


 香水でも石鹸でもなく、シャンプーともまた違う。

 そんな人工的な匂いではなく、花と人の肌を混ぜたような芳香だ。

 しかもさっきリオが立ってた場所から匂ってくるってことは……。


 なるほど。

 これ、あいつの残り香か。


 お前、めちゃくちゃいい匂いするのな。

 どうなってんだその体? 主食がスミレの蜜とかだったりするのか? 

 人がせっかく苦労して背中と尻を見ないように心がけてるってのに、体臭で全部台無しにしてくるとはな。

 なんだか悶々してきたじゃねえか。

 どうしてくれるんだ?


 洗いたてのアンジェリカでもここまで扇情的な匂いはしてこないぞ、と訴えたくなる。

 軽く汗ばんでる時の綾子ちゃんが、うなじから漂わせてる匂いといい勝負ってところではないだろうか? 

 だろうかっていうか、十代女子の匂いソムリエができてしまう自分にびっくりではないだろうか?

 もう権藤のことをどうこう言えないのではないだろうか?


「……やべえな俺……」


 あとアンジェリカの名誉のために言っておくと、あいつのベストコンディションは起きたての一時間だったりする。

 前日洗った髪が、一晩寝かせると珠玉の香りを放つようになるのだ。この時の匂いに限定すれば、他の全ての物体に勝っている。

 そしてこんなことを大真面目に考えている俺は、あらゆる意味で敗北している。


「はいお茶」


 と。

 犯罪者そのものな思考で頭をいっぱいにしていると、真横から声をかけられた。

 同時に、湯呑みを持った手がにゅっと伸びてくる。


「悪いな」


 俺は目をそらしたままお茶を受け取り、ぶっきらぼうにすすった。

 あくまで無愛想に、動揺を悟られないように。

 努めて意識しながら、口を開く。


「それじゃ本題に入ろうか。お前の言ってた忘れ物とやらだが」

「なんでこっち見ないの?」

「さっさと持ってきてくれないか、それ。今日はこれから会わなきゃいけない人がいるんでな。手早く済ませたい」

「ねえ。なんであたしのこと避けてんの?」


 直視したらムラムラしそうだから、なんて言えるはずないだろうが。


「なんか怒ってる?」

「……別に」

「嘘。絶対機嫌悪いじゃん。急にどうしたの? あたしなんか不味いことした?」

「お前には関係ない話だ」

「……ふうん」


 不信感でいっぱい、といった声。

 間違いなく好感度は下がっているはずだが、構わず話を続ける。


「俺にも俺の事情があるんでな。ゆっくりしてられないんだ」

「……その会わなきゃいけない人って、女の人?」

「いや、おっさんだよ。仕事関係の人」

「……そうなんだ……そっか」


 露骨に安心したような声を出すリオ。

 いじましさにほだされそうになるが、心を鬼にして事務的に振る舞う。


「わかったら早く持ってきてくれ」

「もう持ってきてるけど」

「え?」


 どこに、と思わず顔を上げると、しかめ面のリオと目が合った。


「やっとこっち見た」

「……どこにあるんだ?」

「あたしと話すの、そんなに嫌?」

「嫌ってこたあないが」

「……本命の彼女できたんでしょ」

「は?」

「家に出入りしてる女の子の誰かと、付き合い始めたんでしょ? わかるんだよこういうのって」

「お前何言ってんだ?」

「今日ずっと冷たいじゃん。これ以外に考えらんないんだけど」

「あのな。俺は単に……って泣いてんのかお前?」


 見ればリオの目元は赤く染まっており、すんすんと鼻をすする音も鳴り始めている。

 こ、これだから若い女ってのは。

 気が強いやつでも、全く予想できないタイミングで泣き出すのだ。

 対男限定の無敵モードみたいなものなのだし、厄介なことこの上ない。

 当然ながら俺にもよく効き、今まさに滑稽なくらいオロオロさせられている。


「いや、違うんだって。聞けよ俺の話。な?」

「あたしに飽きたんでしょ……」

「飽きるも何も、そもそも付き合ってもいないだろ俺ら!?」

「……付き合うつもりがないのにキスしてきたんだ……。へえ……」

「ああもう!」


 めんどくせえ。俺にどうしろっていうんだ。こんな時、普通の男ならどうするんだ?

 うっかり便所で抱き合いながらキスしてしまった女子高生に、女関係でなじられた時の正しい対処法とは?

「自首する」以外に思い浮かばないから困る。


「えっとな……別に、お前が嫌になったからでも、他に女ができたわけでもなくて」

「……なくて?」

「今日はその……あれだ」

「あれ?」


 そもそも俺は、あまり口の上手い方ではない。

 異世界で魔物相手に切ったり殺したりを続けてばかりいたので、そんなスキルは全く伸びていないのだ。

 口より先に手が出てしまう、不器用な人間なのである。


 なので俺にできることと言えば、誠意をもって事実を告げるだけ。

 勇者らしく本音を告げ、正道を歩むことしかできないのだ。


「えっと……お前を見てると……ムラムラしそうだから……あんま直視しないようにしてたんだよ」

「……」

「引いただろ? 引いてるだろ? 引けよ。糞っ。おっさんからかって楽しいか」

「……からかってないけど」


 リオは怒りも照れもせず、じっとこちらを見ている。

 このリアクションはちょっと予想外だ。

 いつものリオだったら喜んだりするかも? と思わなくもなかったので、意外なのだ。


「中元さん、あたしのこと見てえっちな気分になっちゃったの?」

「……不可抗力だ」

「三十二歳で、テレビにも出てるような人が、十六歳のあたしに欲情しちゃったわけ?」

「……お前がそうさせたんだろ……?」

「あたしのどこを見てやらしい気分になったの?」

「え」

「言ってよ。あたしのどの部分を見て変な気分になったのか、教えてよ」

「それ教える必要あるか?」

「なんだ。やっぱ嘘なんじゃん。ほんとはあたしなんかどうでもいいんでしょ?」


 ぐしっ、と鼻をすすり、また泣き出すようなそぶりを見せたため、大慌てで白状する。


「ブラジャー! 背中にブラジャーが浮き上がってるのを見て、変な気分になったんだよ! これでいいのか!?」

「……ブラ……」


 リオは視線を軽く下げ、己の胸元を見つめている。


「中元さんって、女の子の下着が好きなの?」

「人を特殊な変態みたいに言うな。別に下着にフェティシズムを感じてるんじゃなくて……お、お前も女なんだなって意識させられたんだよ。わかるだろ? 女にはこういうのわかんねえのか? ……ああくそ、自分でも何言ってんのかわかんなくなってきたぞ……」

「ブラを見て、女を意識させられるものなの?」

「……だ、だって女の人特有のものだろ、それって……。嫌でもそれに包まれてるものとか想像しちゃうし……」

「それってブラジャーが好きなの? あたしが好きなの?」


 こいつは俺に何を言わせようとしてるんだ?


「……た、多分、ブラジャーを着けてるお前が魅力的なんだと思う」

「ノーブラだと魅力がなくなるってこと?」

「そうじゃねえよ……鬼に金棒的な……元々エロいものがさらにいやらしく感じるというか……」

「ふーん。あたしってエロいんだ」

「いや……お前に性を見出してる俺がエロいんだろう」


 もはや勇者の権威も糞もないうろたえっぷり。我ながら情けなさ山の如しである。 

 リオはそんな俺を見て何を感じたのか、つーんと澄ました顔で髪をかき上げている。


「ま、大体のことはわかったかな」

「……何がだよ?」

「ちゃんと中元さんも男だってこと」

「あ?」

「いいよ。このへんで許してあげる」


 ちょっと虐めすぎたね、とリオは舌を出した。途端に幼く、いたずらっぽい表情になる。


「よかった。ちゃんとあたしのこと異性として見てたんだね。なんか安心したかも」

「……お前あれ嘘泣きか?」

「マジ泣きだったけど、中元さんがあんまり慌てふためくから段々冷静になってきたんだよね」

「……そうかよ」


 がっくりと肩の力が抜ける。

 十六の少女に翻弄される三十二歳とは、いかがなものか。

 脱力しながら、右手の甲で額を拭う。

 この短時間で相当の汗をかいたらしく、湿った感触がある。


「凄い汗。大丈夫?」

「大丈夫じゃない。お前のせいだ」

「もー。拭いたげるから怒んないでよ」


 一本取って気が晴れたのか、リオはすっかり世話女房のような顔をしている。

 こいつといると心臓に悪いな……などと思っていると、衣擦れのような音が聞こえてきた。

 

 ……衣擦れ?


 恐る恐るリオに目を向けると、なにやら背中に手を回してゴソゴソとやっている。

 はて。


 俺の顔を拭くものを用意するのに、どうしてそのような姿勢を取る必要があるのか?


「……お前何してんの?」

「顔拭いてあげるって言ったじゃん」

「……ハンカチとか使うんだよな?」

「取りに行くのめんどいし。どうせなら中元さんの好きなもの使おうかと思って」

「……俺の好きなって……おいよせ止めろ、シャレにならない!」


 リオはニマニマと笑いながら、「じゃーん」とそれを見せつけてくる。

 外したてのブラジャーを。

 一秒前まで直に乳房を包み込んでいた、淡いピンクの下着を。

 ホックの部分を指先でつまみ、プラプラと俺の目の前にかざしてくる。


「……お前、正気か……?」

「カップの内側って汗を吸いやすい素材になってるし、ちょうどいいんじゃないかな」

「……う、内側ってことは、お前の胸に当たってた布だろ? それをまさか、おっさんの顔に擦り付けようっていうのか?」

「一々変な言い方しないでよ。ただのハンカチの代用品じゃん」


 ずい、と裏返したブラジャーを鼻先に近付けられる。

 女の子特有の清潔な香りに、かすかに汗の匂いが混ざっているのを感じる。

 それもそのはず。胸部は比較的、汗腺の多い部位なのだ。ワキガの女性であれば、バストもからも独特の臭気が発せられるほどだ。


 リオは別にワキガではないので、単に無臭の汗がたくさん分泌されるだけに留まっているのだろうが。

 おかげで全然嫌な匂いに感じない、それどころか官能的とすら言っていい香りである。

 これはもう、胸を擦り付けられてるのに等しいのではないか? だって間接キスならぬ、間接乳首だぞ?


「動かないでね。……ってか硬直してるし大丈夫か」


 蝋人形のように固まっている俺の顔に、柔らかな布が押し当てられる。

 額から頬、頬から顎、鼻から口。顔全体が、ブラの胸当てで拭かれていく。

 まるでマーキングでもされるかのように、リオの匂いが塗りたくられていく。


「アンジェリカはこういうことしてくんないでしょ? その点あたしなら毎日でもやったげるんだけどなー」


 してくんないもなにも、こんなふしだらな行為を思いつくの、お前以外にいないんだが。

 全力で突っ込んでやりたいのに、言葉が出ない。

 俺の喉はただひくひくと震えるばかりで、声を出す機能を忘れてしまったようだ。

 

 もう、されるがままである。


 背徳的な汗拭きに身を任せているうちに、時間だけが過ぎていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る