第85話 勇者殿
「覚えてるかフィリア。俺が初めて乗馬した日のことを」
返事はない。
神官長は沈黙を保ったまま、横目で俺を見ている。
そう強くは締めていないので、苦しくて言葉を発せないわけではないだろう。
怯えているのか、それとも単に会話をする気がないのか。
「あの時はあんたが俺の後ろに跨ってたよな。背中から腕を回して、俺の体を支えてくれた」
俺は左手を伸ばし、雷撃魔法で周囲のグリフォンを追い払った。
直撃を受けた一体が、きりもみに回転しながら落下していく。
炭化した羽が舞い散り、俺達を包み込む。
「あの頃の俺は、あんたにぞっこんだった。すっかり年上女の魅力にやられてた、純朴な坊主だった」
「……?」
神官長は眉をしかめている。
こんな時に何を言うのだ、と困惑しているように見えた。
「ところが今じゃ、あんたは俺より年下に見える。錬金術だがなんだか知らないが、時の流れに逆らうバケモンだ」
体を弄れば、心も変わる。
自然と肉体に相応しい内面になってしまう。それは他ならぬ俺自身がよく知っている。
視界がにじむ。
かつて好きだった女性が変わり果てた現実に、深い喪失感がこみ上げてくる。
「あんたはもう人間じゃない。外も中もだ。どうして加齢を止めたりした?」
「……貴方が言えることですか? 全身のほとんどを魔法で作り直している身で、何をおっしゃるのやら」
そうとも。
この女の言う通り、俺は元の中元圭介ではない。
切られたあとに生やした腕、千切れたあとに直した脚、切り落とされたあとに再生させた首。
きっと中元圭介という男はとっくに死んでいて、ここにいるのは勇者ケイスケなのだろう。
国を守る勇者には、強くあって欲しい。
もっとたくさんの敵を殺して欲しい。
丈夫で働き者で何も怖がらなくて、痛みなんか感じなくて。
要は「人間を辞めて欲しい」、という人々の願いに応え続けた結果が、今の俺だ。
言ってしまえば俺は、あそこに転がっているテトラポッドと大差ない存在である。
海岸線が侵食されるのを防ぐために、無造作に打ち捨てられたコンクリートブロック。
押し寄せる魔物の波から人間達を守るべく、無言でその身を盾にし続ける召喚勇者。
違いがあるとすれば、片方は無機物で、もう片方が有機物であるということくらい。
俺に人間の役割なんか求められちゃいなかったし、そうあることは許されなかった。
それでも耐え続けてこれたのは、一体なぜか?
異世界で、大切なものが見つかったからだ。
エルザはその筆頭だし――フィリアもそうだと思っていた。
こいつだって、ちゃんと守る対象に含まれていたのだ。
「俺があんなになってまで戦い続けたのは、あんた達が普通に生きて、普通に死ねるような社会を維持するためだ。人の営みを守るためだ。人間のお前を魔物共から守るためだ! なのにお前は自ら人間を辞めて、死ねない女になりやがった!」
俺が憧れていた神官フィリアは、もうどこにもいない。
ここにいるのは、冷血で不老不死の神官長様なのだ。
俺はうんざりした気分で、手綱を引いた。
天馬は俺の強引な要求に従い、進路を地上へと変える。
リオを巻き込まないよう、あいつがいる場所とは正反対の方角へと走らせる。
神官長からすれば、完全に主導権を握られている形だ。
きっと俺ごとリオを屠るつもりだっただろうに、その計画を台無しにされているのだから。
「悔しそうだな」
神官長は血走った目で俺を睨んでいる。
右手に目を向ければ、再びディバインスフィアを生成し始めていた。
自身を巻き込まないためだろう。サッカーボールほどの大きさに留めて、威力を調整している。
無論、黙って直撃を受ける俺ではない。
即座に右腕を切断し、無力化を試みる。
「……あっ、く……!」
押し殺した悲鳴が漏れ、切り離された腕が落ちていく。
だが瞬時に回復魔法で再生され、新たな前腕が出現する。
俺が神官長の立場だったらどうするだろう?
身体能力で遥かに上回る相手に背後を取られた状態で、魔法を使うたびに妨害される。MPの残量は心もとない。
この状態からの打開策はたった一つ。距離を取ることだ。
そして残存魔力を注ぎ込んだ大技で、逆転を狙うしかない。
選択肢を狭められた人間は、行動を予測するのが簡単だ。
だから俺はあえて、神官長を抑えつける腕を緩めた。
あくまで姿勢を制御しているうちに、自然に力が抜けたかのように見せかけて。
「……!」
神官長は、まんまと誘いにかかった。
「さようならですね」
俺の腕を振りほどき、ペガサスから飛び降りたのだ。
落下の勢いを利用して、俺から距離を取ったつもりなのだろう。
両手には既に巨大な光球が出来上がっている。
あれを空中にいる俺に放つことで、形勢を変えようとしているのだ。
落ちながらの遠距離攻撃。例え外そうとも、極大の閃光は目くらましにもなる。
その隙にさらに距離を取れれば、逃走の準備だって整えられるかもしれない。
一手で、二つのアドバンテージを狙う、安定した手だ。
でも、それこそが命取りとなった。
「……何を!?」
俺は天馬から飛び降り、神官長めがけて突進を試みる。
向こうからすれば、わざわざ射程内に飛び込んできたようにしか見えないだろう。
けれど今の俺は同時に二十一回までの行動を許された、全く別の物理法則で動く存在だ。
例え眼前でディバインスフィアを撃たれようとも――いや、眼前だからこそ――
純白の極光が、俺達を包み込む。
莫大な魔力の本流が三人を飲み込み、何もかもを灼き尽くしていく。
俺と神官長、そしてもう一人の神官長を。
「あああああああああああああああぁ!!」
どちゃっ、と湿った音を立てて叩きつけられる、二つの燃えがら。
少し遅れて、俺も着地する。
神官長が渾身のディバインスフィアを放つ直前、俺はやつを真っ二つに切り分けたのだ。
直後に回復をかけ、増殖させた。
神官長の認識では、ほんの一瞬だけ意識が途切れたに過ぎないだろう。
しかしその間に、最大火力の魔法を構えた神官長がもう一人誕生していたのだ。
あとはそれを落下しながら、もう一人の神官長と対面する位置に動かすだけ。
ニ十一回行動が可能な以上、俺はこれらの処理を一瞬で行える。
仕込みが済んだあとに待っているのは、神官長同士によるディバインスフィアの撃ち合いだ。
同一人物による殺し合いは、自殺とみなされるのではないか予想を立てていた。
そして俺は、その賭けに勝ったのだ。
神官長の片方は、ピクリともしないまま地面に投げ出されている。
近付いて脈を取ってみたが、完全に停止していた。
時間逆行は発動していない。間違いない。自殺扱いされている。
「あ……あ……」
もう片方の神官長は、黒焦げになりながらもかろうじて息がある。
両足は吹き飛び、左腕も喪失し、右手一本でずりずりと這う様は哀れですらある。
ちらり、と顔面を覗き込む。
下顎が吹き飛び、歯も舌も残っていないのが確認出来た。
これでは言葉を発することなど不可能だろう。回復魔法を唱えて、体を再生させる恐れもない。
あとはただ、死を待つだけの燃えカスだ。
言語にならない唸り声を上げ、芋虫のように這うだけの生き物。
「……う、あ、ぁ……」
もう、見ていられなかった。
だけど俺は、とどめを刺してやれない。
そんな真似をすれば、殺したのが俺になってしまうからだ。
それでは時間逆行が発動し、何もかもが台無しになる。
俺はこうして少し離れたところに立ち、神官長が絶命するのを見届けるしかないのだった。
「……ううぁおお、ううぁおお」
神官長が、何か呻き声を上げている。
人間ではない言葉で、必死に意味のある音を紡ぎ出そうとしている。
ううぁおお。
ううぁおお。
俺にはそれが、何を意味するのかわかってしまった。
勇者殿。
勇者殿。
神官長は、そう繰り返しているのだ。
「ううぁおお……」
伸ばした腕は、何もない空間を掴んでいた。
無残な姿だった。
あんなに艷やかだった銀髪は、一本も残っていない。
むき出しになった頭皮は悪臭を放ち、頭蓋骨が一部露出している。
眼球は溶け落ちていて、どろどろに濁った液体が眼窩から流れ落ちていた。
他の部位だって似たようなものだ。もう女にも、人間にも見えない。
しかし奇妙なことに、耳だけは原型を留めている。
そういえば人が絶命する寸前、最後まで残る感覚は聴覚だと聞いたことがある。
何かそれと関係があるのだろうか?
俺はゆっくりと神官長に歩み寄る。
しゃがみ込んで、地べたを這いつくばる死にかけの女に話しかける。
「俺はここだ」
探してるんだろ、と声をかけてやる。
神官長だった肉塊は、気のせいでなければ笑みを浮かべたように見えた。顎もないのにどうやってと言われたら困るが、確かにそう感じたのだ。
ううぁおお、ううぁおお、と繰り返しながら、嬉しそうに腕を伸ばす神官長。
溶けた皮膚の張り付いた、焦げ臭い右手。俺はそっとそれを握り、安心させてやる。
「そういえば、答えを聞きそびれてたな。なんでお前は体を改造したんだ? ずっと若くありたいってのは女の本能なのかもしれないが、それにしたってやりすぎだろう」
「あー。えうあー」
少しずつ息が浅くなっていく神官長。終わりの時は近い。
「あんなことをしなくたって、お前ならきっと綺麗に歳を取っただろうに」
「うあーあー。うっおいっお」
「……すまん。俺には何言ってるのかわからない」
「ううぁおお、うっおいっお」
「……わかった。『勇者殿、ずっと一緒』だな今のは」
満足したのか、神官長の右手が俺の手から滑り落ちた。
弱々しい動きで地面に伏せ、急速に命が失われていく。
人から物へ。死体へと変わっていく神官長。
ああ、終わる。
終わろうとしている。
俺と異世界を縛り付けていた因縁、青春時代の象徴、それらが今、精算されようとしていた。
「……じゃあな」
神官長は最後に一度だけ、頷いたように見えた。
何を肯定されたのかわからないが、その瞬間だけは、出会ったばかりのフィリアに戻っていたような気がした。
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