第82話 堕ちた聖女

 やがて天馬はゆっくりと降下し、窓辺に顔を近付けてきた。


 俺は反射的に光剣を構える。

 セイクリッドサークルの範囲内に入ってこれた時点で、敵意がないのはほぼ確定している。

 しかし万が一ということもある。


 そうして俺が警戒していると、天馬は鼻先でコツコツと窓をノックし始めた。

 とても穏やかな目だった。澄んだ瞳は、よく躾けられた室内犬を連想のようだ。

 口元には羊皮紙を咥えており、文字がびっしりと書き込まれているのが見て取れる。


 なるほど。

 こいつは図体のでかい伝書鳩というわけだ。


「神官長か」


 俺は窓を開けて、天馬から文を受け取った。

 そこには異世界の文字で、


栄原さかえばら港にて待つ。エルザ殿も連れてくるように。この条件が守られないならば、街に無差別攻撃を仕掛けます。私はそう気が長くないので、来るならお早めに。 神官長フィリア』


 と書かれていた。

 栄原港。

 ここからそう離れていない場所にある、寂れた船着き場だ。

 栄えるなんて漢字が使われている癖に、夜になるとほとんど人影が消えることで有名だ。

 

 とはいえこの手紙はアルファベットに似た文字で書き記されているので、漢字の意味など消失してしまうのだが。

 

「……相変わらず綺麗な字だな」

 

 言語理解スキルが働くせいだろう。

 俺は例え外国語だろうと、上手いか下手かがわかる。

 手書きであれば、どんな人が書いたかの雰囲気も感じ取れる。


 日本語に「女の子っぽい字体」や「男っぽい字体」があるように、他の言語にも性差や年齢を感じさせる癖があるのだ。

 当然、異世界の文字にもそれは当てはまる。


 神官長の字は、いかにも教養のある女性が書いたという印象を受けるのだ。

 大変な達筆でありながら、どこか女らしい丸みがある。

 こんな文字を書ける人物が、一般市民への攻撃をチラつかせるほど堕ちぶれてしまった。

 その現実が、ただひたすらに悲しい。


 最初に神官長の――フィリアの文字を見かけたのは、置き手紙でだった。

 まだ俺が十五で、召喚されたばかりの頃だ。

 夜遅くまで剣を振っていると、いつの間にか部屋の前に夜食が置かれていた。

 皿とお盆の間に、一枚の手紙が挟まっていた。『あまり無理をしないように』と書かれていた。

 あの時は年上女の気遣いに、胸を弾ませたのを覚えている。


 俺はあいつを、姉のように慕っていた。

 異世界における母だと思っていた。

 

 それが今では、どうすれば最短の手間で殺せるかを考えている。

 優しい過去を思い返して、胸を痛める自分。淡々と敵を排除しようと動く自分。

 そのどちらも俺で、離れ難いほど結びついているのだ。


 俺は手紙を折りたたむと、ポケットに突っ込んだ。顔を上げて、天馬に声をかける。


「了承した。すぐに向かうとご主人様に伝えろ」


 長い睫毛に覆われた、真っ黒な瞳が俺を見つめている。

 気のせいと言われればそれまでだが、頷いたような気がしないでもない。

 ペガサスは少なくとも犬よりは賢いし、下手をすれば使えない人間よりは知恵が回る。

 そういった情報を知っているからか、ついつい知性があるのを前提に接してしまうのだ。


「もう行け」


 それとも港まで乗せてくれるのか? と話しかけると、今度は大きく首を横に振った。

 どうやら本当に言葉が通じるようだ。


「お前も危ない飼い主にこき使われて、苦労するな」


 俺の発言に何を思ったのか、天馬は一度大きくいななくと、蹄鉄の音を響かせて夜空を駆けて行った。

 どのような原理かは知らないが、ペガサスが空中を蹴る時は足音が鳴るのだ。

 俺は優雅なメッセンジャーが空の彼方へと消えるのを見送ると、部屋の中へと向き直った。


「あー……そういうわけでリオ、出かける準備してくれないか」


 リオとアンジェリカは、身を寄せ合って窓を凝視していた。

 二人とも目に警戒の色が浮かんでいる。


「なんであたしが外に出るわけ?」

「神官長がお前を連れてこないと、無差別テロをやるって言ってる」

「……すっごい迷惑なおばさんだね」


 容赦ないな、と俺は苦笑いする。


「安心しろ。何があってもお前は守り抜く。いつ狙われるかわからないより、明確にお前を狙うって予想出来る状態で側に置いた方がまだ動きやすい」


 神官長の動機を考えると、俺以上にリオに敵意を向けてきそうだ。

 そうなれば攻撃の方向が一箇所に集中するだろうし、かえってやりやすいくらいだ。

 

「どうせ中元さんなら負けないだろうから、いいんだけどさ。また着替えるのはめんどいね」


 髪に手をやりながら、リオは言う。


「急な呼び出しだからな」

「そんなだから中元さんに振られたんでしょ、あの女」

「まあ自分本意なところは昔からあった」


 それでもかつては聖女とさえ呼ばれていたのに、と俺は言葉を詰まらせる。

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