第69話 リオとアンジェ
カララ、と引き戸が横に動く。
「早かったね」
リオは口元に微笑をたたえて、俺を見上げてきた。
都会的で洗練された、いつものスマイル。
相変わらずお澄ましモードの顔をすると見事なまでの完成度で、隙なんて一つもない。
きちんとラッピングされた、包装紙みたいな笑顔だ。
けれど体の方に目を向けると、妙に芋臭くなっていた。
珍しいことに、ジャージ姿なのである。胸元に校章が入っているのを見ると、学校指定の体育着だろうか?
全体的に青い生地で、袖のところだけ白いラインが走っている。
今日はいつもの包装紙が見つからなかったので、新聞紙で包んでみましたって感じ。
まさかこれが部屋着だったりするのか?
午前中に喫茶店で会った時は、めちゃくちゃ気合の入ったコーデだったはずだが。
リオは俺の視線に気付いたのか、ジャージの裾をつまみながら言った。
「……あの怪物達が来るかもって思ったから、動きやすい服装に着替えたんだよね」
ダサいからあんま見ないでよ、と頬を赤らめる。
「いや安心したぞ。お前にもちゃんと普通の高校生っぽいところあったんだな」
「な、なんで笑うの」
「いつ自撮りが送られてきても、バッチリ決めた制服か私服だからさ。お前って家の中でもお洒落なのかと思ってたんだよ」
「いつもは部屋着もちゃんとしてるから! 今日はその、例外だから!」
真っ赤な顔で、バシバシと胸を叩いてくる。
おお……あのリオが、普通に照れている。どうやら身だしなみに関しては、ごく普通の感性を持っているようだ。
俺はリオにまとわりつかれながら、靴脱場に足を進める。
「ひとまずお邪魔するよ。いいじゃないかジャージ。もさくて可愛いと思うぞ」
「うっさいうっさいうっさ……なんか中元さん、臭わない?」
リオの動きがぴたっと止まる。
「この辺、ゴミ屋敷あるだろ。あそこでゴブリン狩りしてたんだ。そのせいだな」
「……そ、そう」
「あんまり酷いようなら、遠慮なく消臭スプレーぶっかけてくれ」
口元をひくつかせているリオの横に、ツカツカとアンジェリカが歩み寄る。
「お邪魔しますね」
「……ふうん。あんたもいたんだ」
「当然ですよ。私はお父さんの娘ですもの」
なぜかアンジェリカの顔は誇らしげだった。どこか勝ち誇っているようにも見える。
「それにしても……見損ないましたよリオさん。貴方は正しいファザコンの道から大きくそれているようですね」
「はあ?」
意味分かんないんだけど、とリオは片眉をあげる。
こういう表情をすると、一気に田舎ヤンキーといった雰囲気になるから不思議である。
「お父さんに臭いと言うなんて……これは大幅な減点でしょうね」
「しょうがなくない? だってこれ、尋常じゃないよ。中元さんだって気にしてなさそうだし、本人の体臭でもないんだから別にいいじゃん」
「わかってませんねえ」
アンジェリカはガイジンやれやれポーズで、肩をすくめる。
「例えどのような事情で悪臭を振りまこうと、男親の臭いならなんでも受け入れるのが娘という生き様。貴方、お父さんがゴミ掃除のお仕事してたら、毎日臭い臭いって喚くつもりですか? 私なら、汚くなってまで家族を養ってくれてありがとうございます、と喜んで体を嗅ぎにいきますね」
「……あんたどっかおかしいんじゃないの?」
「いいえ、おかしいのはリオさんですよ! 私はお父さんの体臭も愛してますから! 一週間以上枕カバーを洗わないでいると独特な臭いを放つようになりますけど、むしろこれくらいの方がそそりますから! 毎日すんすん嗅いでますから! いずれもっと歳を取ったら噂に名高い加齢臭も出てくるかと思うと、ワクワクしますね!」
「……なにそれ……普通父親が臭ってたら、一緒にお風呂入って洗ったげるのが娘ってもんじゃないの?」
「父親の臭いを洗い落とす……? せっかく臭ってるのに、なんと罰当たりな! そもそも日本人って体臭弱すぎて、物足りなくないですか? ただでさえそんななのに神経質に消臭するなんて、やり過ぎだと思いますけどね。お父さんってば男の人なのに、私の故郷の女性より体臭薄いんですから。なんなんですかねこれ? ぶっちゃけお父さん、忙しくてお風呂入れなかった翌日の朝で、やっと丁度いい香りになりますもん」
「そりゃ欧米人と東洋人じゃあ体質違うっしょ」
「正直なところを申し上げますと、毎日の入浴なんて辞めて頂きたいですね。三日に一度でお願いしますって感じです。……んっと話がそれましたが、とにかく私は薄情なリオさんと違って、どんなに臭いお父さんだろうと大好物なんです。今だってその気になればこうやって顔を埋めてくんくんすることも出来ちゃいますし、なんなら」
おかしいのはお前だろ、と腰にしがみつくアンジェリカを引っぺがす。
「え……何? っていうか気になるんだけど、俺の枕っておじさん臭くなってきてるの?」
「お父さん本体は臭わないんだから、セーフですよう。それに洗濯する前の枕カバー、私は好きですから」
「……ショックだ」
今年で三十三になる男の頭皮は、七日もあれば布を汚染してしまうらしい。
ほんのちょっと前まで、世間から「お兄さん」として扱われていた身なのである。
まだ心の大部分が、二十代なのだ。
加齢を自覚するたび、ちょびちょび傷つくのがアラサー男子の繊細さだろう。
「あんたフォローのつもりで、一番中元さんにダメージ与えてんじゃないの」
きょとんとした顔のアンジェリカを尻目に、リオは髪をかき上げている。
「いいからさっさと入んなよもう。鍵かけたいんだから」
せかされたアンジェリカは、いそいそと玄関に上がり込む。
リオが施錠するのを横目で眺めながら、俺達は靴を脱いだ。
「狭苦しいだろうけど、適当に休んでで。入ってすぐの部屋が居間だから」
お言葉に甘えて、先に上がらせて頂く。
歩くたびにギシギシときしむ廊下を、アンジェリカと並んで進む。
まず目についのは、黄ばんだ障子だった。
その次がカサついた畳だ。
古い家である。
なんというか、昭和中期で時間が止まっているような感じだ。
生活感もむき出しで、脱ぎ捨てられた衣類がそこら中に散らばってたりする。男物なので、キングレオの服だろう。
壁に至ってはシールが貼られたあと、力づくで剥がされたような痕跡がいくつも見つかった。
リオかキングレオが、子供の頃に行ったイタズラの名残だろうか?
……そう、だよな。
リオにだって幼少期があったのだ。兄と一緒になってシールを集め、ベタベタと貼って遊んだ時期があったかもしれないのだ。
それを思うと、とてつもないサイズの罪悪感がのしかかってくる。
誰かの腹から生まれ、育てられたお子さんと俺は、公衆トイレでイチャイチャと……。
「うっ、うう」
「お父さん……?」
もしかして枕の臭いのこと気にしてるんですか、とアンジェリカは完全に見当ハズレな気遣いをしてくる。
「ご、ごめんなさいお父さん? いくら私個人が好きでも、あの臭いは口にすること自体がアウトだったんですね? 私ってばお父さんのナイーブなおじさん心を、全力で蹴り飛ばしちゃったんですね?」
おろおろと背中をさすってくるアンジェリカに、「そういうんじゃない」と声をかける。
「ただなんとなく、自分が嫌になっただけだ」
居間に入ると、木製の食卓を取り囲むようにして座布団が四つ並んでいた。
キングレオ。リオ。母親。そして母親の交際相手用に、四つあるのだろう。
どれが誰の席なんだろうと考えながら、俺は右端の座布団に腰を下ろした。
隣には顔面を蒼白にしたアンジェリカが座る。
リオはといえば、俺達の前を素通りして台所へと向かった。
やかんに火をかけているので、おそらくお茶を淹れてくれるのだろう。
案外気が利くんだな、と細い背中を眺めていると、リオは首だけでこちらに振り向いた。
「あのさ中元さん」
提案なんだけどね、とそっけない調子で言う。
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