第三章 思い出たち

第57話 人を駄目にするアンジェリカ

 早いもので、既に二月の三日。

 

 ついこの間まで正月ムードだった覚えがあるのに、もう節分の時期である。

 年を取ると時間の流れが早くなるなあ、と伸びをする。

 

 俺もまったりしているが、アンジェリカも中々のものだ。

 自慢の金髪を枕に押し付け、ベッドの上でべろーんと伸びている。全身全霊で、それはもう見事なまでにくつろいでいた。

 そんな俺達とは対照的に、せわしなく皿洗いをする綾子ちゃん。

 実に平和な、オフの朝だった。土曜日なので、世間の休日とも重なっている。


 俺が人間の尊厳などブン投げた方法でカナをやり込めてから、今日で一週間になる。


 あの一件が俺達にどんな影響をもたらしたかというと、同居人が一人増えたのが大きいだろう。

 しかも貴重なデバフ持ちなので、ありがたいことである。

 

 その次に重要なのは、アンジェリカが極端な心配性になってしまったことだと思われる。

 何を心配するかといえば、俺の身を案じるのだ。

 あいつに言わせると俺は、「危なっかしさ」を擬人化したような存在らしい。


 そのせいか、家にいる間は常に後をついてくるようになった。

 隙あらば背後から抱きつき、腰に手を回してきたりする。

 絶対に離すものか、と全身で主張しているのかのようだった。


 夜になると、一緒に寝るのを強要してくる。

 最初のうちは、いい。


「お父さん、どっか行っちゃやだ」


 と甘えてくるだけなのだから。

 俺は勝手に消えたりしないよ、と頭をポンポンしてやると、嬉しそうに目を細める。

 まだまだ幼さの残る年齢なのだ、と俺を安心させてくれる。


 だが綾子ちゃんが寝落ちすると、すぐさま「子供」から「女」に切り替わる。


「お父さんの赤ちゃん欲しいです……」


 と、濡れた瞳を向けてくるのだ。

 隣で綾子ちゃんが寝息を立てているというのに、とんでもないクソ度胸だった。


 この子作りに対する執念は、ちょっといき過ぎではないだろうか?


 大体お前、子供が欲しいってそればっかり言ってるけど、母親になった後の明確なヴィジョンとかあるのか? どういう子育てをするつもりだよ? とたずねてみれば、


「甘やかすに決まってるじゃないですか」

 

 と断言された。

 ……優しいママを目指しているのだろうか。


「もちろん、お父さんだって甘やかしますよ。わかってるんですか? もし赤ちゃんが出来たら、お父さんはお兄ちゃんになるんですからね。ちゃんと今のうちに私に甘える練習しておかないと、間に合わないと思うんですけど」

「いや、意味がわからない。子供の兄になるってなんだよ」

「たまーに聞くでしょう? 『結婚後に夫を甘やかしすぎちゃ駄目。図体の大きな長男になっちゃうから』とかって」

「……女性誌の特集記事なんかで見かける、男心が痛むフレーズだな。異世界の女の子もそういうの気にするのか」

「私にとってはそれが理想の関係性なんです。お父さんはパパと夫と長男、一人三役をこなさきゃいけないんですよ。その自覚はあるんですか?」

「あるわけないだろ……?」

「お父さんに足りないのは、自己肯定感ですからね。安心して下さい。私が乳児から育て直して、健全なおじさんに矯正してあげますから」


 義理の娘を孕ませた上に、義理の娘に育てられる。

 そいつ確実にやべー奴じゃん。どこにも健全な要素がないじゃん。

 もしかしたら俺の周りにいる女の子の中で、アンジェリカが一番危ないものかもしれない。


 昨晩なんて俺に膝枕して、よしよししてきたし。

 はっきり言って、異世界時代に食らったどの精神干渉より破壊力がある。

 ほんの数秒とはいえ、精神年齢を二十才近く下げられてしまった。

 このままでは父権が失墜すると危機感を覚え、急いで「こう見えて収入、上がりっぱなしなんだぜ」と大人の男をアピールしたほどだ。

 

 金のある男。どうだ? どこにも子供扱いする要素がないだろ? 


 そうやって威張り散らしていたら、アンジェリカは「お給料増えたら、お父さんが遠くに行っちゃう気がしてやだ」と言ってのけた。

 駄目なお父さんなら他の女の子が寄ってこないしだろうし、出来れば私が養ってあげたいんですけど、とのこと。

 しまいには、


「私がお仕事始めたら、お父さんはちゃんと無職になって下さいね」


 なんて、とんでもない発言まで飛び出す始末であった。


 ……危険だ。


 やはりアンジェリカには、男を堕落させる素質がある。

 油断するとすぐヒモになってしまう気がする。

 今はこいつの生活力が皆無だからなんとかなっているけれど、収入が逆だったらとっくにお小遣いを貰っているところだ。

 アンジェリカママァ、僕ソシャゲに課金したいよぉ! と駄々をこねていたことだろう。

 そしてアンジェリカは「しょうがないなあ」と言いながら、俺に万札を渡して来ただろう。


 プリペイドカードを買いに、コンビニへ走る姿が浮かんだくらいだ。

 きっと最後の方は、アンジェリカが代わりに買いに行ったりするのだろう。

 

 そんなのは嫌だ。想像するだに恐ろしい。

 なのに、明確にイメージ出来てしまった自分が嫌になる。


 俺は大丈夫なんだろうか……?


 既に精神を溶かされていやしないかと、心配になってくる。

 これからやらなきゃいけないことがあるってのに。

 

 そう。

 今日は冴木カナに、異世界の成り立ちについて詳しく聞くつもりなのだ。

 あいつは俺よりも難易度の低い次元にいたせいか、色々と詳しく知っていそうな節がある。

 地球人と異世界人の関係。

 召喚勇者とはなんなのか?

 またあの世界に行けたりするのか?

 二度と異世界から刺客が送られてこないようには出来るのか?


 あれこれと聞き出さなければならないというのに、顔が緩んでいては迫力が出ない。

 鏡を覗き込み、なるべく迫力のある表情をしてみる。

 

「……よし」


 いけそうだ。

 いかにもゴブリンを絶滅させたり、ドラゴンを踊り食いしそうな面構えをしている。

 俺はコートを羽織ると、玄関に向かった。

 するとさも当然のように、アンジェリカがついてきた。

 足を止め、くるりと振り返って言う。

 

「悪いが留守番しててくれ。万が一ということもある」

「……カナさんと会うんですよね? スマホで連絡取ればいいじゃないですか」

「俺もそう思ったんだけど、どうも渡したいものがあるとかで」

「……郵送で届けさせればいいじゃないですか」

「順調に現代知識を蓄えてるようだな」


 何も警戒することないだろ? と念押しする。


「カナじゃ俺に勝てない。変なことにはならないって」

「……でもカナさん、髪の毛黒いじゃないですか」

「……あ? そっち方面の心配してんのか?」


 ありえないって、と腕を広げて弁明する。


「あいつの性格なら知ってるだろ? 勇者様をこじらせてすっかりおかしくなってる、危ないガキじゃないか。顔だって別に可愛くない。ただの情報源としか思ってないって」

「……お父さんがそう思ってても、向こうがどう思うかはわかんないですし」


 言って、アンジェリカは俺のコートをべろりとめくった。


「アンジェ?」

「アヤコに感謝ですね。デバフで弱ってるお父さんの肌なら、通用するでしょうし」

「……おい何を……おいおいおい! くすぐったいって! アンジェ!」


 あろうことかアンジェリカは俺の服をまくり上げ、直に胸板に吸い付いてきたのである。

 皮膚が歯に挟まれる感触、生ぬるい他人の体温。

 

「あー……なんてことを……」


 吸引性皮下出血。いわゆるキスマークを仕込まれているのだった。

 時間にして数十秒ほどだが、罪悪感とむず痒さは頂点を超えている。

 

「ん」

 

 ちゅぴっ、と水っぽい音を立てて、アンジェリカは顔を離した。

 それで満足したのか、にっこりといい笑顔になっている。


「もーおっけーですよ」

「……虫除けのつもりなのか」


 そりゃこんな有様なら、他の女の子の前で脱いだり出来ないけどさ。

 いくらなんでも警戒しすぎじゃないか?


「お前なあ。……っていうか俺と綾子ちゃんが話すのはあんま気にしないのに、他の子は嫌がるんだな」

「アヤコはまあ、同志みたいなものですし」


 そういうものなのか。

 いつの間にか、呼び捨てになってるしな。

 この二人に何があったのかは知らないが、アンジェリカはやたらと綾子ちゃんに恩を感じているらしいのである。

 デバフの件だけではなく、もっと切実なものについて感謝している雰囲気がある。

 俺が仕事に行ってる間、友情が深まるイベントでも発生したのだろうか?


「アヤコはまだ我慢出来ますけど、他の女の子がお父さんと仲良くするのは嫌です」

「しないって」

「特にリオさんが嫌です」

「は、はあ? 何言ってんのお前?」

「あの人、エルザさんそっくりですし」


 お父さんがのめり込むとしたら、あの子だと思うんですよね、と半目で見つめられる。

 じとーっとした視線である。


「リオとは最近会ってないし、なんの心配もないって。いいか? 今日会う相手はカナなんだぞ? 俺はもう行くからな」

「……いってらっしゃい」


 アンジェリカはブンブンと両手を振って、名残惜しそうに見送ってくる。

 俺はそれを横目で見ながら、外に出た。

 ドアを閉め、施錠をする。

 鍵をポケットにしまいながら、ため息をつく。


「……鋭すぎだろ」


 実は。

 カナとの話し合いに、リオも同席することになっている。

 俺とカナの共通の知り合いであり、俺が特別な力を持っているのを知っている人物となると、この半ヤンキー娘しかいないのである。


 二人では間が持たないとか、なにげに有名人同士で会うので一般人の見張り役が欲しいとか、そういった便利要員としての人選だった。


 ……会いたい会いたいとしつこくメッセージを送ってきたので、ついに俺が折れたというのもある。

 

「なんも過ちなんか起きないって」


 アンジェリカに吸われた箇所をさすりながら、俺は歩き始めた。

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