第39話 湿気

 それならまだいいんだけどな、と俺は答える。


「最悪、もう一人の俺なんて線もあるぞ」


 己の鏡像と斬り合う様を想像すると、ぞっとしない。

 だが、ありうることだ。

 俺の知らないうちに、切り落とされた首からもう一人の俺が培養されていたら?

 平行世界から来た、別の俺なんて可能性もある。


「俺はクズだからな。何をやったっておかしくない。今ここにいる俺はたまたまアンジェのおかげで立ち直っただけで、本来なら自暴自棄に陥っていた燃えカスだ」

「……」

「もしアンジェと出会えていない別の俺がいるとしたら、人をぶった切って増殖させるくらい、やるかもしれん。動機はちょっと想像出来ないけどな」


 何を思ったのか、アンジェリカはますます強く抱きついてくる。


「……お父さんすぐ自虐する」

「自虐じゃない、冷静な自己分析だ」

「私、犯人はもう一人のお父さんなんかじゃないと思います。絶対に別の召喚勇者です。どんなお父さんがいたとしても、意味もなく人を斬ったりしません」


 お父さんはそういう人です、とアンジェリカは言い切る。


「俺のこと買いかぶりすぎじゃない?」

「買いかぶりじゃないもん」

「……よくもまあそこまで信頼してくれるもんだ」


 嬉しさ半分、照れくささ半分でアンジェリカの頭を撫でる。


「だって私、何年も前からお父さんのこと知ってますし」

「ええ? ……ああ、噂話でも聞いてたのか」

「本も読んでましたよ。『勇者ケイスケの冒険譚』」

「そういやそんなの出てたっけな」


 異世界に召喚されて、十年ほど経った頃だろうか。

 王室が自分達の見出した勇者の正当性を宣伝しようと、国費を使って本を出版したのだ。

 俺についての記述より、王族の偉大さについて記した箇所の方が多いという代物だったが。

 

「神聖巫女の神殿にも流れ着いてたのか、あの本」

「愛読書だったんですからね」

「あれの挿絵だと、俺はやたら美男子に描かれてた記憶があるんだが……」

「笑っちゃいますよね。お父さんって全然美形じゃないですし」


 そこは気を使えよ、と頬をつまむ。

 むにー、と意外なほどに伸びた。

 痩せ型なのに、柔らかいところはきちんと柔らかい。

 若い少女の肉体は、神秘に満ちている。


「でも、挿絵より実物のお父さんの方が好きですよ。優しいんですもん」


 アンジェリカは俺の手に、己の手を重ねた。

 どこかうっとりとしているようにも見える。


 十六の娘を膝の上に乗せて、向かい合う形で抱き合い、頬を撫で回している俺。


 言い逃れ出来ない構図だ。

 これ、誰かに見られたら不味いんじゃないか?

 しかも今、第三者を家に上げてるんじゃなかったか?


 そして、噂をすれば影なのである。


「着替えまで用意して頂いて、すみません」


 ひたひたと湿った足音を鳴らしながら、綾子ちゃんがリビングにやってきたのだ。

 俺は「おおっとぉ!」と、華麗なモーションでアンジェリカをベッドに放り投げる。


 さすが勇者だ、なんともないぜ。

 すげえ怪しいけど、なんともないったらなんともないんだぜ。


 アンジェリカは寝具の上で尻もちをつき、唇を尖らせている。 


「お、お前もシャワー浴びてこいよ」

「お父さんのヘタレっ」


 さっきまでの甘ったるい空気は、どこへ行ったやら。

 ふん、と鼻を鳴らして、アンジェリカは浴室にダッシュしていった。


 後には俺と、風呂上がりの綾子ちゃんが残される。

 二人きりである。

 綾子ちゃんはタオルで、ワシワシと頭を拭いていた。

 シャンプーとリンスの香りが漂ってくる。

 ぽつぽつと床に水滴が落ちているのだが、その一滴一滴から匂い立っているような気がしてならない。


「……アンジェリカさんと喧嘩したんですか?」

「いや」

「……そうですか」


 それっきり、会話が途切れた。

 なにせ俺と綾子ちゃんは、たまに本屋で顔を合わせるだけの関係だったのである。

 年齢も離れてるし、アンジェリカと違って異世界という共通の話題もない。


 何話せばいいんだよ?


 間が持たないので、とりあえず必要事項だけでも伝えておくことにする。

 

「ドライヤーそこにあるのわかる? ほらポットの横。使いなよ」

「あ……はい」


 お借りしますね、と言って綾子ちゃんは後ろを向くと、かがみ込んで足元を漁り始めた。

 どうやらコンセントを探しているようだ。

 尻を突き上げているので、下着のラインが浮いている。

 目の毒なので、テレビに視線を向けた。


「その辺にゴミ箱ないかな? コンセントはそれの脇だよ」

「……ありました」


 ゴトッ、とプラグを挿入する音がする。

 数秒ほど遅れて、ゴオオオオーと風を吹かす音が鳴り始めた。


 もう大丈夫だろ、と再び綾子ちゃんに目を向ける。

 ずっと目をそらしてるのも不審かな? と思ったのだ。

 気にしてないふりをしたい年頃なのだ。


 綾子ちゃんは髪を一房手に取り、丁寧な手つきでドライヤーを当てている。

 慈しむような指使いだ。

 女の命というくらいだし、手入れには気を使っているのだろう。

 事実、綾子ちゃんの頭髪は見事なキューティクルを誇っている。

 しっとりと湿った毛は、まさしくカラスの濡れ羽色だ。

 

 なんなんだろうな、この感情は。

 女の子が髪を弄り回していると、目で追ってしまうというか。無意味に胸騒ぎを覚えるというか。

 これは男の本能ではなかろうか。

 別にいやらしい部位ではないはずなのに。


 俺が一人でドキマギしていると、綾子ちゃんは俯いて、頭頂部を乾かす作業に入った。

 真っ白なうなじが、ありありと見える。

 アンジェリカほどではないが、かなりの色白だ。東洋人の極限をいく白さだろう。


 肩と首の中間に、小さなほくろがあるのを見つけた。

 なぜだ、なぜたかがメラニン色素の斑点が、こんなにもいけない空気を放ってるんだ。


 おいおい。

 まさか艶めかしさなんか感じてるのか俺は? 相手は女子高生だぞ?


 これ以上首元を見ていると、よくない気分になる気がする。

 なので視線を下げた。ちょうど背中のあたりに目がいった。

 おかげでもっと恐ろしいことに気付く。

 

 綾子ちゃん、パジャマの下はノーブラだ。


 薄手の布だってのに、背中に何も線が浮き出てない。

 下着も切られちゃってたし、当たり前といえば当たり前なのだが。

 アンジェリカのはサイズが合わなさそうだし。

 寝る前は着けない人も多いとかいうし。

 

 いかんでしょ。

 

 俺はもしかして、とんでもない娘を泊めてしまったのではないか?

 綾子ちゃんの身長は、目測で百六十センチ台前半といったところ。平均よりやや高いくらいだ。

 そんな子が小柄なアンジェリカの寝間着を借りているわけだが、それって色々パツパツってことじゃないか?


 綾子ちゃんが振り向いたら、視線は首から上に固定しよう。そうしよう。

 固く誓う俺であった。

 

「中元さんって、アンジェリカさんと付き合ってるんですか?」


 誓った側から、綾子ちゃんは体ごと振り返ってくる。

 ボディラインが強調されるようなポーズを取らないで頂きたい。


「そんなんじゃないよ。俺とアンジェは親子みたいなもんだから。第一あいつ、まだ十六だよ?」


 ドライヤーの騒音に負けじと、互いに声を張り上げての会話である。

 綾子ちゃんがこんなに大きな声を出すのは、珍しいことだ。


「親子にしては、距離感近くないですか」

「あいつ外人だし。挨拶感覚でキスしたり抱きついたりする国の生まれなんだ。日本人とはボディタッチに対する意識が違うの。それだけだから」

「……そういうものですか」

「そういうものなんだ」


 ドライヤーの音が止まる。

 未だ綾子ちゃんの髪は湿ったままだろうに、途中で切り上げたのだ。

 

「……でもアンジェリカさんって、絶対中元さんのこと好きですよね」

「日本のパパとでも思ってるんじゃないかな? 親子愛だろ」

「親子愛ってことは、恋愛感情じゃないですか。普通、娘の初恋相手は父親なんですから」

「……普通なのかそれ? たまにそんな感じの話を聞くけど、そうなの?」

「ええ。男性の保護者が出来たら、まずその人を好きになるに決まってます。……女の子って、そういう生き物なんです。もし外国にホームステイしたら、その家のパパに片思いするんです。長男なんて子供だから、見向きもしません。どんなイケメンジョックでも、三十歳未満な時点でノーサンキューです。だからアンジェリカさんは、日本のパパである中元さんに欲望を抱いているに違いないんです」


 いやその理屈はおかしい。

 それじゃ海外留学は、国際不倫を生むだけの邪悪な習慣になっちまう。


「気をつけて下さいね。アンジェリカさんの中元さんを見る目は、完全に女のそれです。いいえ、雌と表現した方が正確かもしれません」


 そこは否定しないが、他の全ては否定したい。

 俺は今の綾子ちゃんのほとんど全てを否定したい。

 目がブラックホールみたいで怖いし。ハイライトどこにしまったんだよ。体内にか?


「警戒は怠らないで下さい……あの子、寝てる間に襲うくらいするかもしれません」

「無理だろ。女が男をどうやって襲うんだよ。体格も腕力も全然違うだろ」

「薬を盛るとか、寝てる中元さんの隣で裸になって自撮りして、それを警察に送りつけてやるって脅したりとか。色々やりようはあると思います。……十八歳未満っていうのは、見えない法の力で武装された存在なんです。無敵なんです」


 それ普段、綾子ちゃんが考えてることだよね? と言いたくなる。


「もし私がアンジェリカさんの立場だったら、そうやって中元さんを脅迫して、縛り上げます。もちろん、そのまま身動きの取れない中元さんと関係を持ちます。一年後、産みます。それを干支が一周するまで続けます。子供が一ダース揃います。……その人数なら、サッカーチームだって組めちゃうんですよ。既成事実の完成ですよね。恐ろしいですよね」


 恐ろしいのは君だろ。

 俺は今まで遭遇したどのモンスターよりも邪悪な波動を放つ少女に、戦慄を隠せないでいた。

 

「……でも安心して下さい」

「な、何を? 今のどこに安心する材料があるの?」

「……私が……中元さんを、守ります」

「……は?」


 綾子ちゃんは四つん這いになって、こちらに近付いてくる。

 鎖骨も谷間も丸見えの体勢だ。なのにちっとも嬉しくない。

 本来なら色っぽいはずなのに、今は恐怖の一言に尽きる。

 髪型も相まって、呪いのビデオを再生すると画面から飛び出してくる、ホラー女にしか見えない。


「……大丈夫です……アンジェリカさんが卑劣な罠をしかけても、ちゃんと私が警察に証言して差し上げます。中元さんは無罪だって」

「あ、ありがとう……」

「中元さんは筋金入りの同性愛者だって、証言します……だから女の子に手をつけるはずがないって」

「それはそれで嫌なんだが」


 俺が硬直していると、指先に綾子ちゃんが触れた。

 静かに、俺の手が持ち上げられる。

 どういうつもりか知らないが、綾子ちゃんは俺の右手を握ると、自身の口元に持っていったのである。


 噛みちぎるつもりかな? 

 と失礼極まりないことを考えていると、手の甲に柔らかな感触を感じた。

 

 接吻である。


【パーティーメンバー・大槻綾子の好感度が99999上昇しました】


 綾子ちゃんは俺の手に、唇を重ねたのだ。

 青白い顔が、一瞬にして赤く染まり上がる。


「……死のうと思ってたところを、助けて貰いました、から」


【パーティーメンバー・大槻綾子の好感度が9999999上昇しました】


「……お礼に。んっ。どんな非合法な手段を用いてでも、中元さんのこと、助けます」


【パーティーメンバー・大槻綾子の好感度が99999999上昇しました。測定不能。危険水域。これ以上は精神に悪影響を及ぼします】


「……だから、ずっと側に置いて下さい……恋人扱いじゃなくても、いいです。ペットでも、なんでもいいです。置いて下さい」


 どうしてだろう。

 女の子から健気な告白を受けているのに、アンデッドに懐かれたみたいな気分なのは。

 俺はガクガクと首を縦に振っていた。もはや自分の意志ではなかった。

 身体能力の差など、恐怖の前には無意味だと悟った。


「嬉しい……」


 綾子ちゃんはついにちゅっちゅっと音を立てて、指から指へと吸い付き出した。

 熱く、湿った息が手のひらにかかる。


「……あむっ……」


 人差し指が、ぬめっとした感触に包まれた。口に含まれたのだ。

 爪の先が、コツコツと歯に当たっている。

 俺が無抵抗なのをいいことに、やりたい放題である。

 

「……中元さんの指、美味しいです……」


 アンジェリカにバレませんように。

 どうかバレませんように。

 どっかもげてもいいから、これだけはバレませんように……。

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