アイを唄う人魚と鏡の魔法 ⅩⅤ
「何時から気がついていたんですか?」
魔女が言葉を発すると鏡面上に波紋が立ちました。
鏡の中の魔女は目を閉じたまま微動だにせず、まるで眠っているかのようです。緩やかにカールした髪は腰まで長く伸び、色の失ったマーメイドドレスを纏う身体に少女の面影はありません。
「うーん、違和感に気がついたのは片理さんからお話を伺っていたときからですかね。香凜さんと楽屋でお話したときには、ある程度の確信は持っていました」
「だから、楽屋の鏡をここまで持ってくることができたんですね。実際に運んだのは、白亜さんですか? おかしいなあ。確かに泡にして消したはずなのに」
「彼女は白猫座の“本当の主”なのですよ。どんな魔女も彼女の“許可”なく魔法を行使することは本来できないはずなのです。ええ、その意味においてもあなたはとんでもない力をお持ちですよ」
「白亜さんは今、どこに?」
「もうすぐ来るのでご心配なく。彼女には私の忘れ物を取ってきてもらっています」
あの偽りの“開演”のときと違い、私の身体に泡は見受けられません。あのときはあくまで演出。やろうと思えば、先ほどの香凜さんのように一瞬で消せるのです。風前の灯とはよく言ったものです。
「どうして」
たった一節の刻音が今の彼女にとって唯一の
「どうして」
魔力が滲んだ声が時空を揺らし、世界を書き換えていく。
―――人魚はどうして人間なんかに恋をしたんだろう?
「透火さんは人魚の姫が可哀想だと思いますか?」
「―――」
答えるまでもない、ということでしょうか。
存在が曖昧になっていくにつれ、彼女との境界を明確でなくなっていきます。
大好きな歌とどこまでも泳げる尾びれを捨てたのに、
□□にとっては特別でもない透明の人間。
誰の記憶にも残らず、誰にも気がつかれず、泡になって朝の光のなかで消えていく―――。
「それは違います」
「―――」
魔女の魔法に対抗するには自らの音で逆に世界を染め返すことのみ。
言葉を紡げ、物語を語れ、観客の心を動かせ。
「人魚の姫はバッドエンドではない。むしろハッピーエンドで終わったのですよ」
「―――」
「納得できませんか? そうでしょう。なぜならそれがあなたがこの事件の犯人であることを気がつかせた一番のヒントなのですから。透火さん、あなたは『人魚姫』の物語は知っていても"Den lille Havfrue(人魚の姫)"の物語は知らないのです」
"The Little Mermaid"こと"Den lille Havfrue(人魚の姫)"は1837年にハンス・クリスチャン・アンデルセンによって発表されました。そして、現代に至るまで数多くの舞台や映画、アニメ作品が作られ、音楽や文学のモチーフとして多大な影響を与え続けています。
世界中の図書館や本屋さんには「人魚姫」の絵本が並び、今日もきれいで可愛らしい表紙に惹かれて手に取った世界中の子供たちにトラウマを刻んていることでしょう。
ところで、この「人魚姫」という作品はとても不思議な作品です。
現代の価値観に照らして残酷な描写や救いのない結末が改変されることは珍しくありませんが、アンデルセンの書いた原作は決して救いのない結末ではないのです。もっとも「王子さまと一緒にお城でいつまでも幸せに暮らしました」のようなわかりやすいハッピーエンドでもありませんし、胸焼けするような宗教的なクドさが敬遠されたのかもしれません。
とにかく改変された結果、ヒロインが泡になって消えるという、あのどうしようもないバッドエンドが世間に広まることになったのです。
「―――人魚の姫は朝日が昇る頃、泡になって消えました。ここまではよくある絵本の通りです。でも、ここからまだ続きがあるのです、ですよ。人魚の姫は泡になって消えたのではなく、『空気の娘』、あるいは『風の精』に変わったのです」
風になった人魚はたくさんの友達と一緒に世界中を駆け巡ります。暑さに苦しむ人間に清涼を与える度に永遠の存在へ一歩近づくことができるのです。そして、風になった少女が最初にキッスを与えた人間は、あの王子さまの横に立つ花嫁でした。
その結末は
どちらを解釈するかは読み手次第です。
ちなみに私はハッピーエンドだと思います。物語の文章では300年かかるとアンデルセンは書いていますが、風になった時点でお姫様は“永遠”になったのですよ。風になって世界の中で循環し続けるのです。
もしかしたら、風になったお姫様はときには雨や雪になって地上に舞い降りてきたのかもしれませんね。ポール・ギャリコの「雪のひとひら」の前世が人魚のお姫さまだったら素敵なコラボレーションだと思いませんか?
「あなたは『人魚姫』を悲劇だと思った。けれど、片理さんと香凜さんたちはそうじゃなかった。片理さんは物語をベースにした楽曲を数多く制作されていますし、香凜さんたちの衣装は緻密な設定考証の上に作られています。どちらもある意味で物語のプロのような方たちです。あなたは『魔女の劇場』を再設計するにあたってIFと『人魚姫』に重ね合わせましたが、その違いがIFという共通点があっても決定的な違いになったのです。片理さんと香凜さんの“お友達”は死んでもいなければ消えてもいません。むしろ永遠の存在になったのです!」
「―――っ!?」
「そして、それは私や白亜も同じことです。魔女初心者のあなたは知らなかったでしょうが、魔女の舞台は魔法の効果を最大限に高めるために、観客の多くが知っているであろう物語を作品のモチーフにすることがほとんどなのです。作品の構造が無意識レベルまで作用したほうが魔法の効果も高まりますからね。だから、私たち魔女は物語についてはある程度知っておかなければなりませんし、原作である"Den lille Havfrue(人魚の姫)"の結末も知っていたのです」
決定打となったのは白亜が香凜さんに残したメッセージです。あのメッセージが本当に意味することが何かについてはこの後わかるので説明は省きますが、とにかく魔法が解けた私と白亜は白猫座を支配している魔女に対して策を講じました。その一つが白亜に頼んで舞台にこっそり移動してもらったスタンドミラーというわけです。
「―――私はまんまと出し抜かれたというわけですね」
「そうでもありませんよ。私にできたのはあなたの物語に横やりを入れることがせいぜい精いっぱい。その時点では香凜さんのことを推測レベルでしたし、現に今もあなたがどうしてこのようなことをされているのかはサッパリです」
肩をすくめてそう言うと鏡の中の魔女の姿がゆらりゆらりと揺れました。その姿は彼女自身の迷いの現れなのでしょう。
舞台の時間は有限です。どんなに長い脚本であろうと、何回休憩時間を挟もうとも、そして、どんなに消化不良の結末であっても必ず幕は閉じます。
なんとも情けない話ですが、私にできたのは横やりを入れて透火さんの望む結末から逸らし、魔力切れというあっけない幕切れを待つことだけでした。
しかし、それもどうやらあともう一押しのようです。
「透火さんのお考えは私にはわかりません。でも、これだけは言える。あなたはまだ若いし、人生という舞台をまだまだ知らないことのほうが多い。そして、こんな方法をとらなくても必ず碧海しんじゅさんのことをもっと理解できる日が来ますよ」
だから、あなたのお姉さんの話をもっと聴かせてほしい。
そう、結びかけたときでした。
「―――私は」
ミシリと音がすると鏡面を半分に分けるように一筋のヒビが入りました。それを見た瞬間、私は透火さんの心の壁が崩れかけた音だと思ったのです。
「―――一つだけ教えてください」
感情の失われた、意味を伝えるだけの言葉。まるで白いスクリーンに文字が焼きつくようなイメージが脳裏に横切ります。
ヒビの隙間から覗く鏡の向こう側は何も見えません。黒よりも更に深い“闇”がぽっかりとあるばかり。心臓の内側に氷の粒が入ったかのような悪寒が駆け抜けると同時に自分が大失敗したことに気がつきました。
「どうして“鏡”なんですか?」
鏡が映し出すものは自分です。
IFというキーワードに気がついたとき、私はこの事件を解く鍵は他者に由来するものではなく、自分自身の内側にあるものだと思いました。
だから、鏡を使いました。
そして、香凜さんは自分の姿と向き合うことで“本当の自分”に気がつきました。
しかし、透火さんは―――。
―――魔女はぞっとするような声で言いました。
―――一度、人間の姿になってしまえば、もう二度と、人魚の娘にもどれないよ。
―――たとえ人間になっても王子から愛されなければ、おまえは泡となって消えるんだよ。
それは魂が浮かび上がる空と海の境界線上の記憶。
幼い少女はかつて其処にいたはずの“誰か”に「どうして」と問いかけます。
―――それはね、とうか。
それが自分たちを“こちら側”と“向こう側”を別つ問いであることを知らずに。
「―――彼方さん、世界のことを知らないのはあなたのほうです。あなたは鏡の“向こう側”のことを知らない」
鏡面にはヒビが無数に入り、もう魔女の姿を見ることができません。
古来より鏡というものは“こちら側”と“向こう側”を分ける境界であると考えられてきました。“向こう側”に何があるのか? 行くことのできない人間には知りようもありません。それが異世界であろうと、あるいは冥界や異次元であろうと全ては人の想像に過ぎないのです。
「…………透火さん、あなたは“向こう側”がわかるんですね?」
粉々になって砕けようとする鏡の向こう側で魔女は笑う声が聞こえました。嘲笑うのではなく、私がくだらない勘違いをしていたことを可笑しそうにするように。
ああ、私はなんて馬鹿な思い違いをしていたのでしょうか!?
透火さんは、現実と心象風景の境を曖昧にする『境界』の魔女ではなく、心象風景を現実に映し出す『鏡』の魔女だと私はてっきり思い込んでいました。
しかし、『鏡』は『鏡』でも“こちら側”と“向こう側”の『境界』を映し出す『鏡』を持つ魔女だったのです。
自分の心の中に世界を認識するのと、既に“そこ”にある世界を観測するのでは天と地ほどの差があります。そして、それはもちろん世界への影響度も―――。
「“お姉ちゃん”はこの世界にいる。もう誰にも否定はさせない。ねえ、やっと会えるよ。“お姉ちゃん”」
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