アイを唄う人魚と鏡の魔法 ⅩⅣ


 

「片理さんのIFが生まれ持ったものなのか、それとも孤独を埋め合わせるために創造したものなのかはわかりません。でも、彼はその“誰か”のために愛の歌を歌い続けた。そして、その愛は最初から本物なのです」


 この世界の歌の全てが偽りではないとは私も思いません。でも、“想い”が本物だったからこそ仙洞せんどう片理へんりさんの歌があれだけ多くの人に支持されたのだと私は思いたい。

 モニターの奥にいるまだ見ぬ恋人を想って歌い続けた少年はいつしか隣にいる誰かを愛するようになりました。そして、“誰か”をいつの間にか忘れてしまった喪失感と肉体を持つ者を愛することへの戸惑いはいつしか溶け合い、少年から青年となった片理さんの心に罪悪感という影を作ったのです。


「そんなときです、『魔女の劇場』のチケットが届いたのは。もし今回の事件がなければ、片理さんは『追憶』の魔法によって決して会えなかったはずの“誰か”に初めて出会うことができたでしょう」


 ―――そして、彼はきっとその想いを昇華したのだと私は思います。


「違う」


 香凜さんは両手で耳を塞ぐと床に座り込んでしまいました。


「違う、違う、違う、違う、違う!」

「香凜さん!?」

「他のヤツのことなんか知らない! でも、“あの子”は絶対に妄想なんかじゃない! “あの子”が妄想だとしたらじゃあ“アレ”は何だっていうの…………!?」


 独りごちるようにそう呟くと香凜さんは突然私の手に掴みかかりました。痛みに思わず顔を顰めると同時に床にゴロリと何かが落ちる音がしました。そして、香凜さんはおもむろに取り上げるとナイフの切っ先を私に向けたのです。


「じゃあ、この血まみれのナイフは何? あの血の生温さや吐き気がするような臭いもアンタは嘘だと言うの!?」

「それは…………」

「……そうよ。“アレ”は空想なんかじゃない。現実だった。だって、さっきだって“あの子”はそこに―――っ!?」


 グラスアイ人形のような虚ろな目。

 腰まで真っ直ぐ伸びた美しい黒髪。


「あ、あ、あああ…………っ!?」


 陶器のような透き通った、けれど生命感を感じさせない白い肌。

 どこまでも人形めいた女性が鏡には映っていました。


「やっぱり、“あの子”は、そこにいるじゃない…………」

「いいえ、違います。それは香凜さん、あなたです」

「えっ…………」

「そして、IFはあなたなのですね。今まで罪を犯したその人のために、あなたは“村上香凜”という女性を演じ続けてきたのですね」


 ひび割れた鏡の中で喪服を着た娘が膝から崩れるのを私は見ました。



「―――“凜香”には目に見えない“友達”がいた。それが、私」


 凜香さんと香凜さんは決して裕福とはいえない環境で幼少期を過ごされていました。

 物心ついたときから母親は家を不在にしがちで腫れものに触るように接する祖母と保育所の往復の毎日だったそうです。


「保育園は嫌いだったけど、保育園が休みの日はもっと嫌だった。露骨に面倒臭がる母親と人形みたいにとっかえひっかえ変わる母親の彼氏。あの女はさ、私が気に入らないことをすると安全ピンでブスリブスリ私を刺すの。それも髪の上とか眉毛と見えない場所を」


 母親からの身体的虐待は巧妙に偽装されていたためなのか、それとも周囲の大人たちに余裕がなかったためなのか、結局一度も見つかることはありませんでした。

 今でこそ100万人のフォロワーを持つインフルエンサーですが、幼い彼女たちのコミュニケーション能力は貧弱でした。それに家庭環境の問題に加わり、2人だけの内世界を選んだのは当然の帰結だったといえるでしょう。

 転機となったのは第二次性徴期になってからでした。

 クラスメイトの姉からもらいうけた、とあるアニメキャラクターの衣装に何気なく袖を通したとき、彼女たちは超新星爆発級の衝撃を受けました。

 ―――鏡の前には“この世界にはいない誰か”が立っていたのです。


「非現実の登場人物と現実の自分の肉体の境界が消え、重なる瞬間の鳥肌がたつ感じ。お腹の深いところがキュッと何とも言えない気持ちいいもので満たされる感じ。あのゾクゾクする感じは絶対に忘れられない」


 初めは2人だけでやっていたごっこ遊び。

 何時までも何処までも果てしなく続いた、幼い2つの精神が紡ぐ終わりなき人形なき人形劇。

 そして、同年代の子たちが着せ替え人形を玩具箱に仕舞った頃、彼女たちはついに彼女たちだけの人形を手に入れたのです。

 他に類を見ない最も美しい「着せ替え人形」を―――。


「―――あとは最初に話した通りよ。物語の恋にずっと憧れていた“凜香”はいつしか現実でも恋をするようになった。それで相手はことごとく中身のない“王子さま”というのも言ったわよね。そこの中学生女子も気をつけなさいよ。現実の人間は物語と違って『実は○○だった』ということは滅多にないんだから。クズはどこまでいってもクズよ」

「はあ……」


 突然の流れ矢が当たって透火さんは目を白黒しています。犯人扱いされているのに相手のお話をちゃんと聴けるなんて出来た子なのでしょう。ちゃんとQEDしますから、もうちょっとだけ待っててくださいね。


「香凜さんの主張には異論はありますが、“凜香”さんが最後に交際なさっていたお相手はかなり問題のある相手だったんですね?」

「…………」


 饒舌にお話されていた香凜さんの口がぱたりと動きを止めてしまいます。時間が止まったように、あるいはまるで人形のように、感情そのものすらも無くしてしまったかのように。


「…………恋人から虐待されていたんですね?」

「―――っ!?」

「あなたが楽屋でパニック症状で苦しまれているとき、呼吸を楽にするために、失礼ながら服を少し緩くさせてもらいました。そのとき……」

「……見ちゃったか」

「はい、見ちゃいました。あなたが喪服を着ているのは」

「そうよ。醜い傷を隠すため。それと……“凜香”を弔うため、よ」


 その言葉を聞いた途端、透火さんは今にも泣きそうな顔になりました。


「凜香さんは亡くなった?」


 静かにかぶりを振ると香凜さんは肘まである手袋を黙って脱ぎました。そこには目を背けたくなるような凜香さんの現実があったのです。


「最後の一ヶ月は配信部屋に実質監禁されていたかな。暴力もどんどんエスカレードしていって殺人も仄めかすようになっていった。さすがに馬鹿な“凜香”も命の危機を感じたみたい。でも、助けを求めようにも家族も友達もいない。だから、用済みになったはずの“私”に“凜香”は助けを求めたの」


 再び始まった凜香さんと香凜さんの日々。

 2人は何度も何度も話し合いました。

 繰り返される暴力の僅かな合間に、あるいは暴力を受けている間であっても、2人は話し合いを続けました。

 それでも男を愛し続けたいと思う心と大切な□□を必死で助けようとする心。

 感情と理性、非論理と論理、本能と思考、意識と無意識、全てがない交ぜになってボウルの中でかき混ぜられるような■■は独りの少女の魂を擦り減らすには充分だったのです。

 そして―――。


「私は男のマンションで目を覚ました。目が覚めたとき、自分が凜香ではなく香凜だということがわかった。そして、“凜香”はもうどこにもいなかった」


 いつまでも消えない自分が自分でない感覚。けれども、凜香さんが最後に行ったことは記録映画のように鮮明に残っていたそうです。


「“自分”のことのはずなのに、何もかもはっきりと覚えているのに、感情だけはあの部屋に置き忘れてしまっているの。恐いのはわかる。男へのそれでも消えない思慕の気持ちもわかる。頭が真っ白になってぐちゃぐちゃになっているのもわかる。でも、それは“凜香”の気持ちではないの。私が外から見た感想なのよ。まるで映画かドラマを観てるみたいに」


 自分が自分でない感覚、離人感は長期間慢性的にあるいは短期間のうちに強烈なストレスを抱えることで生じると聞いたことがあります。おそらく生命活動を維持するための安全装置セーフティーの一つなのでしょう。大怪我をしたとき神経伝達物質アドレナリンが大量に分泌されることで意外と痛くなかったりするのと似ているかもしれません。

 確かなのは、香凜/凜香さん自身が生きることを選択したということ。


「それから取り上げられていた自分の通帳や免許を探しているときに、あの碧の封筒とチケットを見つけたのよ…………ちょうどこのナイフが横に落ちていたから凜香がそこにいると思い込んじゃった」


 香凜さんは最後に弱々しく微笑むとこう言いました。


「やっぱり…………どんな姿でもいいからあの子に会いたかったんだ。魔法とかどういう理屈かはわからないけど、あんたたちには今は感謝しているよ」


「…………そんな、私は、」


 透火さんは深々と下げられた小さな頭を呆然と見つめていました。


「ありがとう」


 泡になって空に旅立ってしまった凜香さんと、一歩歩く度に刃物に刺されるような痛みを覚える足を残された香凜さん。奇しくも「人魚の姫」の結末の一部を体現した彼女自身の結末はもちろん誰も知り得ません。


「香凜さん、いや、凜香さん? ええと、」

「どっちでもいいわよ」

「明日、雨が止んだら警察に行きましょう。その鮮明な記憶とお身体の傷を見せれば、きっと正当防衛だと認められるはずです。あなたは絶対に何も悪くない」

「馬鹿ね。私がそんなあやふやなものに頼るわけないでしょう。あの男の所業は全部動画で記録しているわ。検証するのに気が遠くなるぐらい時間の、ね。まあ最悪でも執行猶予はつくんじゃないかしらー」


 …………まったく、この人は。


「本当にしぶとい人ですね」

「そんなことないわ。ただのしがない頭のおかしい共依存のボッチ女、よ」

「私と友達になりましょう」

「…………魔女なんか」


 言葉とは裏腹にその顔は満更でもなさそうでした。


「ねえ、館長代理さん。あのさ、私は―――」


 照明に照らされた香凜さんの顔が一瞬透き通ったように見えた後、そのまま光の粒の中に溶けてゆきました。

 ……………………。

 沈黙がどれだけ続いたでしょうか。ひどく長かったようにも、一瞬にも満たなかったように思えます。悲しさが身体の細胞の隅々まで届くのを感じた後、私はポツリと独りごちるように呟きました。


「…………もう止めませんか?」


 まるで台詞のような作り物めいた響きを感じるのは、この言葉が決して相手に届くことがないことがわかっているからなのか。


「…………片理さんも、香凜さんあるいは凜香さんも、誰も“あなた”を否定なんてしていない。それどころかとても大事な存在として感謝しています。たとえ他の誰にもその姿が見えないとしても」

「…………あの2人にとって“お姉ちゃん”は友達じゃなかった。口でなんと言おうと最後は道具として“消費”した。仙洞せんどう片理へんりはモラトリアムの排出口として、村上凜香に至っては自分の罪の身代わりにした。それは忘れることよりも許せないこと」

「透火さん、あなたが何に怒っているのかは私にはわかりません。だから、お話を聞かせてくれませんか?」


 気がつけば、舞台の上は白い霧のなかに呑み込まれていました。まるで雲の上に立っているかのよう。透火さんの姿は既に消えてしまっていましたが、舞台中央の鏡は変わらず立ち続けています。ただし、ごくありふれたスタンドミラーではなく、つる草の装飾が施されたゴシックめいたものに変わり果てていました。

 そして、鏡の中に魔女は立っていたのです。

 

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