アイを唄う人魚と鏡の魔法 Ⅺ


 ―――あの子は怪物なのよ。


 先ほど言いかけて決して言えなかった言葉。透火さんを慮ったからか、自分がやはり信じたくなかったからか、真相は本人にしかわかりません。

 でも、私はそこに今回の事件の本質を見たような気がするのです。

 突然、帰ってきた『境界』の魔女。

 彼女をかつて知る者はみな似たような後ろめたさを抱えています。

 ―――どうして自分は彼女のことを忘れてしまったのだろう、と。

 そして、その後ろめたさが魔女の悪魔のような歌を正当化させるのです。


「あーもう! 消えないじゃない 建物はこんなボロっちいのになんで鏡だけはこんなに澄み切っているのよ!?」


 でも、後ろめたさは感謝の裏返しでもあるのです。

 

―――僕らの関係性はもっと魂すらも超越した根源的なものだった。


 そう言った後の仙洞せんどう片理へんりさんの微笑み。

 この事件にはそんな切なくなるような優しさが滲んでいる気がするのです。こんなことを思うのはおかしいとは自分でも思います。既に三百人以上のお客様と数十人のスタッフが泡となって消えているのです。無差別大量殺人以外の何物でもありません。

 でも―――。


「…………そうだ、逃げましょう」


 透火さんは床を見つめたまま、ポツリと呟きました。


「どこへ?」


いかにもつまらなそうな香凜さんの声。


「搬入口なら外に繋がっているかもしれない……そう、ですよね? 彼方さん?」

「無理よ」

「でも、試しもしないで」

「だから、試したわよ。出られそうなところは全部閉まってた」

「…………えっ?」

「あのさ、私が開演してからずっとこの場所でガタガタ震えていたと思うワケ? そんなワケないでしょ。楽屋のモニターで客が泡になって消えるのは見えたからね、すぐに搬入口に行ったわよ。魔女の魔法なんかで死んでたまるもんですか」


 しかし、搬入口も楽屋口も白い霧のなかで固く閉ざされていたそうです。周囲を見渡してもスタッフや共演者の姿も一人としてありません。


「―――唯一行けそうなのは舞台袖だけだったわ。さすがにあの子と舞台で共演する気はないから一度ここに戻って正面入り口の方に行こうと思っていたら、あんたたちが飛び込んできたというワケ。これでおわかり?」


 状況はますますもって絶望的。他に外部に出る方法があるとすれば、キャットウォークから屋根の上に抜けるルートが唯一残っています。しかし、この荒天のなか屋根の上に出るなど自殺行為でしかありません。そして、何よりキャットウォークに向かうには舞台袖を通る必要があるのです。


「…………どちらにせよ、あの子のいる舞台に行く必要があるというわけ、ね。なーんだ、話はやっぱり単純じゃない」

「…………しかし」

「しかしもクソもないわよ。あの魔女と対決しなければ私たちは生き残ることはできない。そして、私は行くわ。あの子は私を待っている。あの子が本当は何を思っているかはわからない。けれど、」

「“ここに来たら、あなたは私に会える”」

「―――えっ?」


 呆気に取られて後ろを振り向くと透火さんが舞台を映すモニターをじっと見つめていました。その手には碧海しんじゅさんの書いたあの手紙が握られています。


「私もお姉ちゃんに会いたい。そのために私はこの劇場に来たんです」

「そんな、透火さんまで!?」

「ごめんなさい、彼方さん。でも、もう自分の気持ちに嘘はつけません。私にはどうしてもお姉ちゃんが魔法で人を泡にしたり、人を殺したりするようには思えないんです! きっと何か理由があるはずなんです! 私は……それを知りたいんです!」

「そんな余裕あるわけないじゃない。相手はバケモノなのよ。殺られる前に殺るしかないのよ」「そんなことをしようとしたら私が先にあなたを殺します」

「…………へえ、あんたにできるの?」

「…………必要があれば」


 バチバチと楽屋の中に火花が飛び散り、今にも引火しかねません。人間関係のもつれは魔女に限らず舞台関係者にままあることですが、もちろん今はそんなことをしている場合ではありません。私は大きく息を吸い込むと高らかにこう言ったのです。


「―――はい、これから10分間の休憩なのですよーっ!」

  

 ジンジンと鼓膜を震わす声に驚きながら二人は私のことを見つめました。私はすまし顔でそれらを無視して戸棚から電気ケトルを引っ張り出します。紅茶は……ティーバックのものしかないのでお茶の缶と急須と3人分のお茶碗を用意しました。


「…………ちょっと、あんた何をやっているのよ?」

「お茶を入れているのですよ♪」


 ケトルからお湯を注ぐと緑茶の香りが部屋を包みます。はあー、紅茶もコーヒーもいいですが、緑茶の香りを嗅ぐとホッと落ち着くのはやはりここが日本だからでしょうか。


「いや、そうじゃなくて! これから魔女と殺しあおうといるときになんで呑気にお茶なんて入れているのよ!?」

「へっ? 休憩時間だからに決まっているじゃないですか? さっき私がそう言ったのが聞こえなかったんですか?」

「だ・か・ら!」


 香凜さんの顔がみるみる電気ストーブのように真っ赤になっていきます。もうこれから夏だというのに季節外れですねえー。


「彼方さん、ホワイです。ふざけている場合じゃないですよ」


 透火さんまで真顔になってそう言いました。私は注いだばかりのお茶碗を2人に押しつけるように渡すと天井に近い壁を指さしたのです。


「幕間の時間なのです」


 時計の長針はちょうど一周していました。舞台は一旦幕間に入り、10分間の休憩に入ります。本来であれば係員の私たちにとって最も腕が鳴る時間なのですが、お客様が消えてしまっているので休憩をするしかありません。


「そんな馬鹿な…………」


 なおも納得できない2人に今度は場内のモニターを示しました。真っ白な霧に包まれていた場内は幕が下り、場内灯が無人の最前列を照らしています。


「そんな馬鹿な!」


 馬鹿なも何も舞台というものはそういうものです。どれだけ展開にモヤモヤしようと、続きが今すぐ見たいと思わせるような引き方であっても、舞台は必ず休憩を挟むものなのです。息を一旦整える以外にも演者は着替えや化粧直しがありますし、制作も次の舞台準備をする時間が必要です。そして、何よりお客様にとっても長時間同じ椅子に座るのは苦痛です。エコノミー症候群の回避や特に女性のお客様にはトイレは死活問題といえます。


「つまり、休憩時間は後半戦を最大限楽しむために絶対必要な時間なのです、ですよ! それともお二人はお花を摘みに行っているかもしれないところで対決をするんですか?」

「「…………」」


 ちょっと間抜けな場面を想像したのでしょう。黙ってしまうとそれから各々のタイミングでお茶碗に口をつけました。

 ホッとした時間が流れます…………。


「そうだ。私、いつもバッグの中にチョコを持ち歩いているんだけど、食べる?」

「あっ、ありがとうございます」

「もぐもぐ、これ美味しいです、のですよ!」

「でしょー? この辺だとローソンにしか売ってないのよー」


 すっかり観念したのか、香凜さんは椅子に踏ん反りかえってチョコをバクバク食べています。だらしなく崩した足の間からはパンツが見えていますが、ときめきの欠片もありません。しかし、何度も何度もお茶を口にする姿からはかなり緊張している様子が見て取れました。

 そして、もう一方の透火さんも時計の針をちらちら眺めて落ち着かないようでした。私はちよっと気になったことを尋ねてみることにしました。


「透火さん、碧海しんじゅさんは『人魚姫』の話がお好きだったのですか?」

「えっ? うーん、どうでしょう? 印象には残っていますが、お姉ちゃんが好きだったかどうかまではわかりません。でも、どうしてそんなことを?」

「いえ、碧海しんじゅさんはどうして魔女の舞台に『人魚姫』を選んだのかなと思いまして」

「そんなの決まっているじゃない。『人魚の姫』の話が自分と重なるからでしょ。歌を失った自分も、泡となって消えるのも復讐の手段としてピッタリよ」


 香凜さんはモニターを睨みつけたまま、吐き捨てるように言いました。透火さんは鏡に映った香凜さんの横顔を何か言いたそうな表情で見つめています。


「透火さんもそう思いますか?」

「そう、じゃないんですか?」

「私は透火さん自身の意見が聞きたいんですよ」


 透火さんはお茶碗を握りしめたまま少なくなった中身をじっと見つめました。何かを言いかけようとする度に緑色の水面に小さな波紋が波立ちます。


「―――私にはやっぱりわかりません。ただ……」

「ただ?」

「正直に言うと私は『人魚姫』の話は好きじゃありません。むしろ嫌いです。この童話を初めて知ったとき、なんでこんな哀しいお話があるんだろうと思いました。人魚姫があまりに可哀想なので布団の中で泣いたことも覚えています」


 そのとき香凜さんが何かを言いかけましたが、私はジェスチャーでそれを止めました。


「だから、私にはお姉ちゃんがどうしてこの作品を選んだのかやっぱりわかりません…………ううん、本当はちょっとわかるかも。人間の無意識な悪意というか、善意と悪意が裏表というのが最近なんとなくわかってきたから…………そういうことを私に伝えたいの、かな…………」

「無意識な悪意、ですか?」


 私がそう問い返すと少女の瞳が少しだけ大人びた光を帯びます。香凜さんもあえてそれには触れようとしません。少女の乾いた吐息が諦めの感情とともに言葉に変わっていくのを私たちは聞きました。


「―――別に当たり前のことです。中学生になると急に面倒臭くなるじゃないですか。好きなものを好きだと言えない。ちょっとした違いが相手を攻撃していい理由になる。まるで水槽の中にいるみたいで息が詰まりそう」

「そんなもん放っておけばいい。自分の好きなことをすればいいの。好きなことを極めていけば自然と自分が面白いと思う連中が周囲にいるもんよ」


 相変わらず香凜さんはそっぽを向いたままでしたが、チョコを口に放り込みながら独りごちるようにそう言ったのです。もしかしたらこのときの香凜さんの顔を見ていれば透火さんのこの後の展開は少しだけ変わったのかもしれません。


「…………それは香凜さんだからそうなるんですよ。私は違います。私は……」

「……そう」

「…………人魚はどうして人間なんかに恋をしたんだろう?」

 

 ―――お日さまが海からのぼっていきます。

 ―――お姫様の体は光の中で透き通っています。

 ―――泡はふわりふわりと空に浮かび、やがて消えてしまいました。


「―――ああ、お姉ちゃんにもう一度だけ会いたいなあ」


 時計の針は楽しい時間も苦しい時間も等しく過去にしていきます。

 こうして幕間の時間は終わりました。

 

 そして、最後の幕は開いたのです。



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